いのちの風 bS59
3月8日(水)発信 石黒大圓(だいえん)
【Eメール・アドレス】 gytkm947@ybb.ne.jp
今回のテーマ 朝に紅顔/生と死の教育/叔父の遺志を継ぐ/伊藤博文/日出ずる処の天子
いつもありがとうございます。 最近は雨が多いですね。 季節の変わり目の雨。 だんだん春の足音が聞こえて来そうですが、最近はまるで梅雨みたい。 梅の花の咲く頃の今の雨を、なぜ梅雨といわずに六月を梅雨というのか。 どうも梅の実ができる頃、そして毎日の「毎」と「梅」をかけたという事もあるらしいです。 今回は真面目に生と死について書きます。
死を見つめ生が輝く教えの如し
先月は商店街の総会や他の会で人前で話したり体験談をしたりすることが四つも続きました。 また今年に入ってから葬式や法事が続き、死について考えをめぐらすことが多かったです。 新年早々いつもながら年賀状を書いていたら突然に電話で訃報。
前に住んでいた四天王寺で妻や子供たちが親しくさせてもらっていた女性が年末に亡くなっていました。 お嬢さんからの電話で知り慟哭しました。 年末年始のきらびやかな装いのなかで、今苦しみの真っ只中に突き落とされている人々がいた。
ガンだと告知されてから「覚悟はしています」と何年か前に気丈夫に言っておられた笑顔が忘れられません。 毎晩の勤行のときに多くの方々の健康と幸せとともに祈っていたのに。 あの世で妻と次男がしっかり抱きしめてくれていることでしょう。
「これからどんどんそちらに行く人が増えるから、不安ないように、がっちり道案内してあげてや。 頼むで!」と心の中で叫んでいます 彼女のご冥福とご家族が一日も早く心安らかになられんことを祈ります。
先週には近所の会社の番頭さんが腹膜炎で昨夏に急死されていたと聞き、また親しくしてもらっていた会社の会長も亡くなった。 「おい、石黒、儲かってるか」と気軽に声をかけてもらっていた、あの赤ら顔の人はもうこの世にはいない。 この会社はすでにビルを売って廃業されていましたが、世話になった元従業員がその人柄を慕って涙の参列をされていた。
人は死んでも死後も慕われる人生を過ごして、なんぼです。 ああ、こんな人生をこの先していきたい。
人のいのちとははかないもの。 世の中何が起こるか分からない。 そばにいた人が明日にはこの世の人でなくなっている。 浄土真宗の蓮如上人が言われて有名になった白骨文「朝に紅顔ありて夕べには白骨となれり」(和漢朗詠集)。 老いも若きもいのちが永遠に続くと考えてはいけない。 いつかはかなく野辺の草の露となる。
そのはかない命をお互いに慈しむときに、哀しみの底にいる人を見て「ほっとけない」という感情がわきあがってくる。 それが人の死から学ぶことではないか。 そして今まで無事に生かさせていただいた神仏のご縁に感謝すべきなのです。 (私はこれに日本への感謝を入れるから、私に背を向ける人が出る。 それが玉にキズですか?)
我が家は日蓮宗ですが、読経用経本には日蓮上人の御妙判(遺訓)が毎日載っています。 その二日のものは『臨終を習う 妙法尼御前御返事にいわく』
「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。 出づる気は入る気を待つ事なし。 風の前の露、なお譬えにあらず。 かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習いなり。 さすれば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」
日蓮上人も七百年前に、死を見つめることがいかに人の人生にとって大切かと諭されているのです。
喪失の峠乗り越え今があり
「兵庫生と死を考える会」にて各地で活躍されている多くの教師による「いのちの教育実践事例研究」発表会がありました。 そのうちのある中学校の先生の資料「生と死の教育にいたるまで」からの要約。
『学校で性教育をしましょうということになって、やってはいけないと言われていた性器教育をまともにやってしまった。 しかし性教育は「生教育」だといわれたが「生き方に迫る」ことはできなかった。 ならば発想の転換で「死の教育」から迫ろうと思った。
私が生徒に伝えたかったことは、自分自身がいつかは必ず死ぬということ。 自分の身内も・母親さえもいつか必ず死ぬということ。(生徒の多くは自分の親は死なないと思っている) その「死」は、いつか来るとか、長く生きた人生の最後に来るのではなく、今ここにいる自分の背後に「常にいる」ということ。 だからこそ今を大切に充実して生きることが大切だ。 「生と死の教育」に生徒たちは最初戸惑いながらも非常に興味をもって意欲的に参加してきた。
「死」という切り口から「今生きている命」を見つめなおすことによって「生」をより輝く新鮮なものとして改めて認識させることができた。 自他の命の大切さを認識させ、生かされている自分の命への気づきと、それをこれまで支えてくれたものへの感謝の念を育てることができた。 また生きている今の自分を肯定的にうけとめ、今の自分の状態から前向きに生きようという気持ちを育むこともできた。
人生は喪失の連続といわれる。 友達の喪失、信頼関係、自尊心、お金、若さ、健康な身体の喪失など。そのような喪失は「小さな死」といわれます。その喪失のなかで最大のものは身内の死、自分の死でしょう。その死とそれに伴う悲嘆をいかに迎え、受け止めるかは大きな課題です。 ホスピスの創設者シシリー・ソンダースは「穏やかな死を迎えるには小さな死をしっかり乗り越えることです」という。
生徒に大きな喪失を乗り越えている体験の例を新聞などから学ばせる。 普通の人なら絶望して自殺してしまっている絶体絶命のピンチ。 起こってしまった事実は変えられないが、それを試練として受け止めプラス思考で考える。 それを乗り越えてピンチを、逆の自己成長のチャンスに変えている人。 苦境を乗り越え、ひと回りもふた回りも大きな人間になる機会にした人。 その人々から将来ある若者が学ぶことは多いはずです』
(これは昔、修身として教えられていたのに、今では人間教育としては無視されている。私の「いのちと出会う会」はまさにこの生と死の教育として「修身」の学習をしているのだと気づきました)
反共の砦となりし人に続かん
日曜日に叔父・石黒英一の一周忌に行ってきました。 叔父は産経新聞の編集局長時代に「正論」欄をつくり、当時言論界を支配していた共産党との対決に乗り出しました。 産経や正論がなかったならば、この日本はどうなっていたことだろうか。 私は叔父の遺志を継いで反共産主義の論陣をこれからも張っていきます、と昨年の葬儀の時に心に誓いました。
この法事の場で憂国・愛国的発言をしていたら多くの人の賛同がありました。 声を出さなくても今の日本を憂いている人はいるのです。 その人々と語り合い日本を護っていかなくてはいけないと思いました。
叔父の父上は台湾に一時いて、帰国して弁護士の資格をとって裁判官として朝鮮へ行き、妻を亡くす私と同じ経験をされている。 そして男手ひとりで三人の子供を育て、戦後の混乱の朝鮮から逃げて帰ってくる時に、私と同じように子供を一人、女の子を亡くされている。
反共、遺族、台湾、朝鮮、と私が関心ある多くのものと縁があります。 朝鮮での生活を体験された方は「朝鮮で日本がひどいことをした」なんて真っ赤なウソだ、と法事のときに言っておられました。 私のめざす方向は間違ってないと確信しました。
日出ずる国を築きし伊藤公
毎月希望者が内外の偉人についての研究発表をしている会合「先人に学ぶ人間学塾」という学習会があります。 一年前にここでは私は「東郷平八郎」について発表しました。 左巻きもいる会合で私はかなりアマノジャクで、左巻きの嫌いな軍人や明治の政治家を選びました。 東郷さんを学んでみてその後の考え方に非常に参考になりました。 そして今年の十月には「伊藤博文」について発表する予定なのです。
伊藤公については賛否両論があり、また幕末・明治に活躍した偉人のなかでも特別大きな業績を上げておられます。 大日本帝国憲法、教育勅語、最初の政党内閣など、今に至る日本の基礎を作られたにもかかわらず、ほとんど注目されることがありませんでした。 しかしどのような国でも伊藤公のような初代首相や初代大統領は後世まで語り継がれる存在です。
しかし伊藤公について書かれた伝記や評論は少なく、批判的なものが左巻きや韓国・北朝鮮側から出ているのみです。 彼は日韓併合に大反対していたにもかかわらず、日韓併合の黒幕として彼の存在を抹殺しようとしているのが日本の歴史学会です。
伊藤公という日本第一級の偉人が外国の悪評に乗って無視されていることに、日本国民の一人として我慢できません。 伊藤博文を知らずして明治日本とそれ以降の大日本帝国は理解できないでしょう。 伊藤公については台湾・朝鮮・植民地統治問題から大東亜戦争まで行きますので幅は広くなります。
彼は今も議論される歴史・政治問題の元に関係した人物として、今の時代に再びよみがえらせ、検討すべき政治家としてその意義をとらえています。 私人としてのゴシップなどはあるでしょうが、明治日本の基礎を築いた偉大な先人の一人として、彼の功績を発掘して顕彰していきたいのです。 また「戦後の宿題」を伊藤博文を通して解明できればと、思っています。
伊藤公は現在までの記録では日本で一番若い首相経験者です。 四十四歳。 明治元年の五年前に英国へ密留学して、語学の才能がありました。 英語力と、広く西洋世界を知っている知識、とが伊藤公のその後の人生にプラスになったと思います。 彼は決して民族主義的尊皇攘夷にはなっていません。 平和友好を望んで日清・日露戦争には反対でした。 日露戦争へと導かせてしまう日英同盟には反対で、日露協商を望んでいた。 日露戦争反対の彼を海外外遊させている間に、政府が日英同盟を締結してしまった。
彼は幕末から明治維新へと導いてくれた吉田松陰や高杉晋作など先人の恩に対して責任を感じていました。 戦争によってこの明治国家を瓦解させてはいけない、と痛感していた。 日清・日露戦争に勝利して、本当に薄氷を踏むように明治国家は生き残ったのです。
伊藤博文についての伝記で現在簡単に入手できるものはほとんどPHP文庫「伊藤博文」だけです。 この表紙カバーの裏に彼の人柄の本質が書かれています。
「かって吉田松陰は、伊藤は斡旋家であると見抜いた。 これに答えるように伊藤は生涯を通して外交政策を貫いた。 彼の人間性を称えるならば、清廉潔白な政治家であったことである。 多くの政治家が貪婪(非常に欲深い)の病にかかっても、彼は金に淡白で、政治を金儲けの道具にしなかった。 同時に、晩節を汚すことがなかったのである」。
一八七一(明治四)年十一月、岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を巡歴。 そして十二月、サンフランシスコ市長歓迎のパーティーで伊藤は、日本側を代表して英語で、
「現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。 だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。 これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念をもって世界に人々から見られるようになるだろう」
と日の丸を指しながら演説をし、喝采を浴びた。若々しく昇る青雲のこころざし。 新生国家日本の意気軒昂たる思いを吐露する演説である。
まるで千年前の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」との書を中国の隋に送った新生日本国。 その若き指導者・聖徳太子のこころざしを彷彿とさせる演説である。
百年前、そして千年前に掲げられた、そのような明確な独立国家としての独立自尊のビジョンがないがために、現在の自民党政府の体たらくを呼んでいる。先週聞きました櫻井よし子さんの講演でも同じ思いを語っておられました。 彼女の対中共観が中心だったお話は次回に書かせていただきます。