いのちの風 bS63
4月5日(水)発信 石黒大圓(だいえん)
【Eメール・アドレス】 gytkm947@ybb.ne.jp
今回のテーマ 妻子のこと/竜助さんの死/割れ窓理論/天理教の聖者/暗殺者・伊藤博文
いつもありがとうございます。 だんだん春めいて暖かくなって来て、もうお花見だと思っていたら花冷えの雨。 今年はどうもうっとうしい雨の多い春ですね。 皆様いかがおすごしですか。
私は桜の時期には特別の感慨があります。 入院中の次男が一時退院して、長男の小学校入学式へ行ったときの思い出。 桜の下で式に参列している妻と長男を待っていました。 治療の後遺症で坊主頭になってしまっていた次男のそのときの寂しそうな姿。 そして2度と小学校の門をくぐることはなかった。長男はこの時に帰ってきた次男と、ベッドの上で遊んだ思い出は残っている、と言っていました。
ある人のメールの中に「亡くなった子供の分まで、代わりにこの人生を体験していくのだ」といった文章がありました。 次の世界で待っている家族にいつか再会する。 その時には、その体験を面白おかしく話してあげる義務が、私たち生き残った者にはあるのです。
その時まで高杉晋作の如く「面白きこともなき世をおもしろく」そんな波乱万丈な人生を送りたい。 自慢話の報告が終わったら、思いっきり2人を抱きしめたい。 そしてそれは私たち遺族だけでなくどんな人にもその義務はあるのです。 このかけがえのない「いのち」を天からいただいた限りは。
桜咲き散りにし後も香を残し
松本竜助さんが亡くなりました。 紳助さんとコンビを作って一世を風靡した時代もあったのに、脳出血で急死された。 平成9年に妻の実家へ彼が来てびっくり。 小学校同級生の笑顔教室・野坂礼子さんからの紹介で、気功師の1人として来られた。 「難病を90%は治せると言っている人がいるよ」と彼女に教えてもらったのです。 その鈴木悠天さんに連絡して末期ガンで実家の自宅で闘病していた妻の元に、悠天さんの弟子の1人として来てくれました。
鈴木悠天さん http://www.cosmon.jp/profile.html
治れば石黒さんの年収の3分の1をいただきます、という契約でした。 そしてそれから毎日10人ほどのメンバーが2〜3人交代で、奈良の自宅へ車や電車を乗り継いで無料で来てくれました。 彼らは物部神道の「とほかみえひため」という呪文を心のなかで唱えながら忘我状態で、この言霊を患部に届けるという行法をされていました。 皆仕事を持っている方ばかりなのに、妻を救おうと毎日来てくれたのです。
また鈴木悠天さんは妻にイメージコントロールを施していただいて、元気になって楽しく過ごしている未来の姿を思い浮かべるように、と指導していただきました。 妻も気合だけは元気を取り戻し、私たちも治していただけると信じて、末期の絶望的な思いから逃れられ心救われました。
結局は末期すぎて治らないかもしれない、とは野坂さんには言っておられたようです。 そして1ヶ月後の平成9年5月1日に治療中に亡くなりました。 亡くなる当日も食事はしていましたし、痛みもなくあっという間に亡くなりました。 「帰って来い!」と当日治療していただいていた方の泣き叫んでいた声が、まだ耳の奥に残っています。
私は天井の方に浮かんで行っている妻の魂をイメージして「また会おうな」と心のなかで静かに語っていました。 妻の母と私とで昼夜2交代で完璧なターミナルケアをさせてもらいました。 悔いもなく逝かせることができた。 それが心の支えでした。 後に終末期医療の学習会をされている妻の親戚の南吉一先生のところに通い始めたのも、妻の導きであったと信じています。 先生の「在宅ホスピスあおぞら」が後の「いのちと出会う会」の母体となったのです。
その南吉一先生が6月の「いのちと出会う会」に話題提供者として来られます。 第1回と第23回でお話があって以来の4年ぶりの登場です。 先生も昨年のその学習会で私たちの眼の前で脳溢血で倒れられ、命を失う一歩手前を体験されました。 リハビリでなんとか復帰されましたが、まだ足は少し不自由です。 それでも恒例の夏のアメリカ在宅ホスピス研修旅行に阪大の医学生中心に旅行団を結成される予定です。 一度は死んだ命をまた人々のために捧げようとされている姿は光り輝いています。
光さす心の荒み掃き清め
先月は久しぶりに第100回目ということで釜が崎のカレーの炊き出しへ参加しました。 カレーは別のところで炊いて持ってくるので、それまでの間、数人の人とあいりんセンターの内外を掃除していました。 あちこちにゴミが散乱していました。
割れ窓理論というのがあります。 昔ニューヨークの地下鉄には落書きが一杯で有名でした。 市当局はその落書きと闘った。 書かれても消し、書かれても消していった。 その努力が実って落書きが書かれなくなった。 それとともに地下鉄内での犯罪も減ったのです。
また黒人居住区のハーレムは空き家になったアパートが多く、住民のいない部屋の窓ガラスがあちこちで割られていた。 その窓も少しずつ住民と協力して直していった。 そして今恐ろしい街といわれたハーレムは安全な街になりつつあります。少しの汚れも乱れも見逃さずに、やられたら、やり直す。 その根気のいる仕事をやり続けて、今ニューヨークは犯罪が激減した安全な街になりつつあります。
割れ窓理論
すこしのゴミも人の心をすさませるのです。 せめて町のゴミを拾い続ける。 人の心にきれいな街の姿を見せ続ける。 その毎日の努力が人の心を浄化して美しくしていくのです。 それを「日本を美しくする会」や「掃除に学ぶ会」は日々全国で行なっています。 学校や公園の公衆便所の清掃や町のゴミ掃除。 人に知られずとも行なわれている下座の奉仕行が、いつの日かこの日本を心清らかな美しい国にすることを祈ってつづけて。
カレーの炊き出しに集結するメンバーもその気持ちで掃除をしています。 また炊き出しによってせめて野宿の人々の心に明るい光を灯せればと願っています。 決してかわいそうという同情だけでやっているのではないことは、彼らがもうすでに猛暑の夏も酷寒の冬でも毎月やり続けて100回。 8年も続いていることからもわかります。
人の心の荒みを清らかにすることは、自分の心の荒みを清らかにするという使命感が、長い年月継続できた原動力です。 私は5年ほど前に関わってから、年に2,3回参加するだけの落第生。 しかしカレーの炊き出しとご縁ができたことによって、後に参加した今の大阪駅前の炊き出しにどれだけ役立っているか知れません。 ほんとうに感謝しても、し尽くせないほどのおかげをいただいています。
人の苦をわが身に負いて今日も座す
行くたびに見ていたのですが、この日もあいりんセンターの床に布団を敷いて野宿者のために無料でマッサージをされている方がおられました。 その方がマッサージをされる前に「はしきをはろうて、たーすけたーまえ、てんりんおーうのみーこーと」と唱えながら手首をくるくると回す天理教の行法をされるのを初めて見ました。 びっくり。 ああーこの人は天理教の信仰を持っておられる方なのだ、と。 私の母の実家が奈良の
知人の小野元宏さんは日本ウクライナ友好協会会長、文化創造倶楽部代表。 彼は天理大学のロシア語学科出身で、昨年1年間ウクライナへ行かれて天理教の教えの講義もして来られたとのこと。 また「ことばは命」の本を出されている30年前からの知人の辻慶樹さんも天理のご出身。 そして「サムシンググレート」を唱えられている村上和雄先生はお父上が天理教支部の教会長であった。 その信仰があったからこそ最先端の遺伝子研究の科学者でありながら、目に見えない世界の重要性を人々に伝えておられる。
村上和雄先生
その整体マッサージ師の方は昨年11月頃から釜が崎に来られて、寒風吹きすさぶなかで野宿者への無料の奉仕行をされている。 それだけでなく大きなカンパをいただいてお礼に行ったことがあります。
クリスマスの頃にこの方からカンパがあり、1000個のショートケーキをクリスマスプレゼン
トとして釜が崎の人々に配りました。 私たちのメンバーも一緒にクリスマスのお菓子や果物を配りました。 この日は皆が炊き出しの列へぐるぐる回りながら何度も入って喜んで色々もらっていました。 1000個など数十万円かかるはず。 マネできないと思いました。 よっぽど執着をとらないとできない行です。
最初見たときは日曜日だけやっておられると思ったのですが、炊き出し仲間に聞くと昨年から毎日、朝から夕方までやっておられるとのこと。 定年退職されて自由になり、この奉仕行に専念されています。 朝日新聞にも取り上げらたらしいです。 凍えるコンクリートの床の上でじっと正座して、酷寒を耐え忍んで、黙々とお客さんが来るのを待っておられる姿。 神々しいかったです。 胸が熱くなりました。
現代の聖者の一人といっては言いすぎでしょうか。釜が崎という、世間ではどうしようもないと見下されているスラム地域へこそ、聖者は訪れるのです。 インドのカルカッタで働いておられたマザーテレサも現代の聖者でした。 地獄のなかにこそ天国を作ろうとする人々がいるからこそ、この世は救われているのです。
地獄を見るな、地獄を語るな、地獄のイメージが乗り移ると、苦の問題を考えないプラス思考の人がいます。 しかしお釈迦さまは「苦」を見つづけられた。 そしてイエスは、未亡人、孤児、さげすまされている人々、売春婦、貧しい者、病んだ者、老いたる者のそばに来られて、彼らをイエスの仲間、そして弟子とされた。 彼ら、この世の地獄で苦しんでいる人々こそ、天国に一番近い道を歩んでいると思われたのではないか。
その人々のそばに寄りそって生きることこそ、宗教者の務めではないか。 「苦しみを取り除け」と叫ぶことは政治家に任せて、宗教者はその苦しみをわが苦しみとして共に苦しむ。 それこそが与えられた任務ではないか、と思うのです。 どうも政治活動する現代日本の宗教者には疑問を感じます。
人の死の哀しみを知る明治元老
10月に発表する「伊藤博文」についてmixi(ミクシィ)のなかに時々書きこんでいます。 私はアマノジャクですので定説的な伝記にはあまり興味がなく、逸話や伝え聞きから、その人や歴史の本質を知りたい人間です。 イエスも釈迦もたとえ話や逸話によって真理を説かれたことに興味があったのです。
それで見つけた本、「明治の人物誌」星新一氏著 新潮文庫の内容を少しご紹介します。 SF作家の星新一の父上は明治時代に活躍して一代で星製薬を築いた立志伝中の人物です。 彼の周辺にいた明治の政治家や有名人などとの関わりから明治の姿を活写されてしています。 そのなかに「伊藤博文」がいました。
伊藤公は長州藩の農民の子供でしたが、「あの子は将来きっと大物になる」と見込まれて武士の家、伊藤家の養子となった。 しかしいくら才能があっても下級武士で元・百姓ではうだつが上がらなかった。 星新一氏が取材で池波正太郎氏に会った時に言われた言葉。 「彼は幕末のころに、かなり人を殺しているようですよ」。 勤皇・佐幕の双方が殺し合いをして時代に、名を上げるためには相手をこちらに引き入れるか、殺すしかなかった。
彼は人斬りが唯一出世の手段だった頃には人を殺して生きていた哀しい暗殺者だった。 彼は何度も血みどろの修羅場を切り抜けて生き延びてきた人間だった。 「切腹というものは、維新の時にたびたび見て、だいぶなれたけれど、決していい気分のものではない」と語ったとか。彼がさまざまな変名を使っていたのは、取り締まる幕府側の捕捉の対象であったためだ。 藩の上級武士たちに認められるためには、命がけの仕事に参加しなくてはいけなかったのです。
幸運にも何度も暗殺の危険をくぐり抜けてきて生き延び、彼は明治の世に花開いた。 本当に幸運の人だった。 こんなエピソードが残っている。 中年になってからのこと、銀座を歩いていると、スリが彼のポケットに手を入れた。 その瞬間、その手をつかんで投げ飛ばし、露天商から縄を借りてしばりあげた。 驚くほどの早さだったという。 反射的に、そんなことをやってのけるほどの腕前の持ち主であった。
百姓から暗殺者となり、命を張って明治の世を作り上げ、初代首相にまでなった伊藤という男は並々ならぬ力量をもっていた人物だった。 この人を無視して日本歴史は語れない、と感動しました。 百姓でも社会のリーダーになれる日本は世界でもまれな平等社会ではないか。 戦国の世を生き抜いた元・百姓の太閤秀吉もそうだ。 階級社会ではなく実力主義の日本社会の先進性を、もっと日本国民は知らなくてはいけないと思う。 もっと祖国日本を誇ってほしい。
(終)
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