いのちの風 bS73
6月22日(木)発信 石黒大圓(だいえん)
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今回のテーマ アメリカ日系人442部隊/GO FOR BROKE/日系人強制収容所
いつもありがとうございます。 今の時代かって日本とアメリカが戦争をしたことさえ知らない世代が増えてきています。 そのためにもいかに先人のおかげで今の生活があるか。 それへの感謝の気持ちを子孫に残してほしいと、私はこの通信を続けています。 このことを自分の胸の内だけにしまわずに隣の方に伝えてください。 お願いいたします。 そして今回は日系アメリカ人442部隊のことをお伝えします。
442いのち捧げし二つの祖国
雑誌「正論」の講演会情報に載っていました「神州正氣の會」へ2年ほど前から参加しています。 ここは名前からして相当ウヨクかと思って、最初の出席の時は恐る恐るでした。 しかしご老人がほとんどで、日本に熱き思いを持つ方々の集まりでした。この会がご縁で会場近くの福島天満宮の清掃奉仕をしたり、講演要旨をまとめて会報の「温故知新」に載せる役もしたり、またここでの司会も隔月で頼まれています。
先月号のこの「温故知新」に「日系人442部隊」の記事があり、また今月の「生命之光」の番組でもこの部隊が取り上げられていました。 442部隊について色々な資料からまとめて書きました。
これも遺書から見た日本人の姿です。
「第442連隊戦闘団は第2次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍において日系アメリカ人のみで編成された部隊です。 ヨーロッパ戦線で勇猛果敢に目ざましく戦ったことは有名です。 そしてアメリカ合衆国の歴史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊としても有名でした。
『御母様、此のまえの御手紙を有がとう御座います。 僕は達者で日々をくらして居ますから、御安心下さい。(中略)御父母様、此の手紙がよめますか。 僕は長いあいだ日本語をつかわないので、今では頭をしぼりながら此の手紙を書いて居ます。 僕もまださいさい日本語で御父母様に御手紙を書きとうはございましたが、なんと言ってもへたな僕ですから、どうぞかんにんしてください。・・・』 これは1944年10月27日(金)442連隊のノボル・フジナカ軍曹がハワイの両親にあてて書き送った手紙の一部である。 フランスの暗い森の中で、彼は翌日死ぬ。 23歳だった。
敵の包囲の中で孤立し、全滅しかけた味方の軍隊を助け出すという大作戦が、フランスのブリュエールの森の中で行なわれた。 この戦闘はアメリカ軍史上最も大きな犠牲を生んだ闘いの場として有名です。 テキサス出身の兵隊からなる図体のでかい大男ばかりが集まった部隊を助け出すため、投入されたのが小柄な日系2世たちで編成された442連隊だった。
4日間かかって、彼らはこの部隊を救出したが、全くひどい闘いだった。 211人のテキサス兵を救うために、日系兵は200名が戦死。 2000人以上が負傷した。 傷つき、多くの仲間を失いながら、テキサス部隊が隠れている壕の中にようやく442連隊が踏み込んだとき、南部の大柄な白人兵たちは涙を流し、彼らにすがりついて言ったという。 「ジャップが助けに来てくれた!」と。 一方「なんだジャップか」という侮蔑の声もあったという。
第2次世界大戦中、主に太平洋上で情報活動をしていたMIS(次回書きます)とともに、「ヤンキー・サムライ」とも称される彼らの戦績は、日系人を敵視するアメリカ市民の目を大きく見開かせた。1941年12月日本の真珠湾攻撃に始まった日米戦争により、日系人11万人は敵性外国人として10ヶ所の強制収容所へ輸送された。
大統領命令により強制収容された日系人たちは、アメリカ政府のあまりの仕打ちに怒り、傷ついていました。 アメリカ人であるにもかかわらず敵性外国人のレッテルを貼られ、人里はなれた荒野の砂漠に隔離された。 同じ敵国からの移民のドイツ人やイタリア人は隔離などされていなかったのに。 完全に人種差別政策だった。 そのうえ息子たちを兵隊にとるなど、大半の日系人の親にとって理解できるわけがなかった。
愛あらば死をも恐れぬ人の道f
1942年に収容所から自ら志願した西本トムは「お母さん、この収容所にいる妹たちや子供たちが、やがてアメリカ国民として再び胸を張って生きられる時が来るために、戦場に出て行きます。 僕たちが流す血によってそれはなると信じています」。 そう彼は言い残し、2度と戦場から戻っては来なかった。
彼が愛用していた聖書の扉には「人、その友のために自らの命を捨てる。 これより大いなる愛はない」と書き記してあった。
彼は皆を収容所から出したかった。 アメリカ国籍があるのだから、ここに居るべきではない。 一人息子であっても行くべきだ。 日系アメリカ人のために勝利を持ち帰りたかった。 それが最大の目的だったのだ。 良きアメリカ人であることを証明したかった。 正義と自由は万人のものだ、と学校で習ったが、日系人は例外だった。 強制収容によって彼らはすべてを失ってしまった。 しかし代わりに彼らがしたことは、自ら立ち上がって祖国アメリカのために戦うことだった。
日系人の若者1万6千人がアメリカ軍に志願した。 この強制収容という屈辱を打ち破るために、自らの命を代償に国家への忠誠を証明したかった。 他国と同じように異民族への扱いの常として、日系人部隊は欧州戦線の最も激しい最前線に送られた。 イタリア、フランス、ドイツにおいて、彼らは戦い続けた。 激戦に次ぐ激戦の末、両親から学んだ大和魂で死をも恐れず突撃を繰り返した。 目の前の敵はドイツ兵だったが、真実の相手は誰だったのだろうか?
もともと1300人程度であったハワイ日系2世第100大隊は、900名以上もの死傷者を出して、米本土の日系人第442連隊に編入。 その後442部隊は680名が戦死、67名不明、9486名が戦傷。 彼らは任務以上に戦い、最も名誉ある勲章を次々と授かった。 獲得した勲章の数は兵士個々人のものを含めると優に3万個を越えた。
こうしていわれなき人種差別から名誉を回復してきた。
彼らはまさにサムライだった。 「GO FOR BROKE」(当たって砕けろ) 敗れるために進め。 死をもいとわないその勇敢さはアメリカ軍の中で恐れにも似た評判を呼び、100と442の名は文字どおりアメリカ全土を揺さぶった。 彼ら日系兵士の勲功を称える記念碑がロサンゼルスにある。 多くの若く尊い命を犠牲にしてまで、彼らがもぎ取らなければならなかったのは、日系アメリカ人に対する視線の変革であった。 何を言っても信じてくれない「自分の国」に、流れる血でもって証明した忠誠心であった。
「御父母様、僕達のことは心配して下さるな。 何事にも気をつけますから、どうぞ御安心下さいませ。かならず犬じにはしません。 御母様の言ったとおりしぬる事はだれでも出来ます。 ほんとうのてがらはよく国のためにつくし、その上、いきてかえるのがてがらです。(中略)えんがあれば又僕達兄弟は御父母様のこいしきあいをうける事が出来ますでしょう。 ではめでたい日まで。 さようなら。 こいしき登より」
日系移民の歴史
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
442部隊
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/442.html
苦難の地を楽園とする偉大なる使命
日系人が強制収容された収容所の代表的な所は、ロスアンゼルから北四時間にあるマンザナ収容所である。 日系人は途中で殺されるのではないか、との絶望的な気持ちのなか輸送され、鉄条網で仕切られた収容所に罪人のように投げ込まれた。 周りは砂漠で夏は猛暑、冬は酷寒のなかで生活する1万の人々。 ここには強制収容を記念する展示ミュージアムが建てられている。
「JAPS KEEP MOVING。(日本人は近寄るな!)ここは白人地域」と反日感情を煽り立てる、昔の看板などが展示されている。 記録映画も上映され、訪れるアメリカ人は祖国アメリカの知られざる歴史に目を見張っている。
ある日系老婦人は「別に不自由ではなかった」と語る。 その言葉の底には逆境のなかでも日系人として誇りを失わなかった生きざまが見える。 日系人はこのような荒野のなかでも生きる情熱をもって開拓にはげみ、広大な畑を作り出していった。 周りの大山脈から流れ出る雪解け水を集めて池を作り、灌漑用水とした。 彼らは勤勉な農園移民労働者であったので、それは得意だった。 そして1年後には1万人もの収容所の食料をまかなえただけでなく、近隣にも出荷するほどの収穫にまでになった。
彼らは苦しみ中にくじけるのではなく、住んでいる環境を少しづつ良くしていった。 1世の人は「日本人として恥さらしにならないように。 日本人であることを忘れてはいけない。 それは日本人の恥だ」と2世の人に大和魂を語り継いでいった。 そして彼らはこの砂漠を楽園に変えていこうとした。
最初はバラック小屋と荒れた地に呆然としていた。 美しいものは何一つなかった。 ある人々は山のふもとから大石を運び、滝をつくり、芝生を植えていった。 半年もすぎた頃には立派な日本庭園とバラ園が完成した。 自由がなくプライバシーもない収容所で、ここは人々が心癒される場所となった。
彼らは病院も作った。 優秀な日系人の医者たちが働き、バラック建ての病院がこの地域で1番優れた病院といわれ、近くのアメリカ人もここへ来て治療を受けた。 日本人として誇りをもって生きてほしい。日系人として恥ずかしくない生き方をしてほしい。 彼ら日系人の苦難のなかにも喜びと生きがいを見出す生きざまは、現代日本人に大きな示唆を与えてくれます。
3年半の収容所生活で亡くなった人も多かった。 いまマンザナの荒野には慰霊塔が建ち、先人たちの苦難の歴史をしのぶ人々が集っている。 1988年、レーガン大統領は「戦時中にアメリカ政府が日系人を強制収容した政策は、間違いであった」と正式に認め謝罪した。
しかし442部隊。 この数字の名前のつけ方のひどいこと、「死、死に」部隊。 日本人をジャップと呼ぶアメリカ人のやりそうなことです。
以下「温故知新」より要約して転載します。(生長の家の谷口雅春先生の著書からの要約引用)
「戦後日本人が食料飢餓で3分の1が餓死に直面していた時に、トルーマン大統領は『日本に食料を補給すべし』と命令を発した。 日系人部隊がイタリア上陸作戦やヒットラーを追い詰める戦闘で、連戦連勝し勇猛果敢に自らを省みない犠牲的精神で戦ってくれた功績に感謝する。 彼らがいなかったら欧州戦線で白人兵士はなお100万人の犠牲を強いられたであろう。 彼ら100万人の命を救ってくれたのが日本人だった、という思いが『日本人を救え』という感情にアメリカ人を突き動かせたのです」
日本国民が知らない442部隊の犠牲もあったらこそ、今日の大国日本の姿がある。 祖国日本の名誉を背中に負い、日本人としての汚名をぬぐうために彼らは命を捧げてくれた。 祖国などいらない、と叫ぶ人間には理解できない心情でしょう。 過去を語るな、未来を見よ、という人々がいる。
彼らには過去の人々からいかに我々が恩恵をこうむっているかということ。 過去に血を流してくれた人々のおかげで、今があるという感謝の気持ちがないのだ。我々国を憂う者は彼らの後を追って祖国の名誉を回復するために働きたい。 涙がとめどなく流れました。
(終)