いのちの風 bS82 

月20日(水)発信 石黒大圓(だいえん

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「いのちの風」縁の花・支縁サイト bS77までのバックナンバー掲載)

      http://www.geocities.jp/ennohana/en20isiguroyosihiko.htm 

今回のテーマ 

沖縄集団自決は冤罪/十字架を背負った軍人/サヨクが捏造する歴史

 

いつもありがとうございます。 明日の「いのちと出会う会」の予約が現在ゼロです。 ゼロでも当日数人は来られるのですが、お時間がありましたら、よろしくお願いします。 

9月21日 『今を生き抜いて』 在日コリアンとして壮絶な人生を歩まれた山本苑加さん 

18時半〜20時半 千円 應典院(應典院・ホームページ  http://www.outenin.com

書き換えた歴史を学び自己否定

 

  皆さんはご存知ですか、サヨク勢力が作り出した冤罪、軍命令で沖縄住民が集団自決をしたという事件。 教科書にも取り上げられているこの事件は冤罪であるとして、当時の日本軍守備隊長や遺族たちが裁判で訴えています。そして最近、元琉球政府職員が軍命令は創作だったと証言しました。 この証言により沖縄自決冤罪訴訟でサヨクに勝てます 

 

 

これでまず一つ、戦後教育の中で日本国民洗脳の材料とされてきたウソの日本歴史がくつがえります。 これからこの裁判で訴えられている大江健三郎や岩波など、サヨクの牙城がまた一つまた一つと陥落していきます。 自虐史観がこの日本から消え去っていく第一歩です。 さらに同じような自虐史観をくつがえす靖国裁判、百人斬り裁判での勝利を祈ります。

 

 


  なおこの裁判に一身を奉じておられる松本藤一弁護士は私の「いのちの風」を受け取っていただいている先生です。 先日の私の通信の中の言葉「座して死を待つより名誉選びたし」に感動したと書き送っていただいた愛国者です。 また前回の提灯行列に参加されていた徳永信二弁護士、そして参議院議員の稲田朋美弁護士は、日本人の誇りを取り戻すために、この裁判に全身全霊を込めて関わっていただいています。 

 

サヨクとの闘争の現場を知らない者は、今は左右対立などないはずだ、「和」の精神で仲良くしましょうと言う。 しかしそれでは日本はサヨクによって崩壊させられつつある運命を横目で見ないふりをしている傍観者となるだけです。 この今の一瞬一瞬に日本の将来の運命がかかっているのです。

 

 

昭和20年の沖縄戦のさなかで起きた沖縄・座間味島と渡嘉敷島での住民の集団自決について、軍が自決を命令したとする書物の誤った記述で名誉を傷つけられたとして、沖縄集団自決冤罪訴訟が行なわれています。 沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、最近になって元琉球政府職員の照屋昇雄さん(82歳)が「遺族たちに『戦傷病者戦没者遺族等援護法』を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。 

 

当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」と証言した。  名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断された。 琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になるのです。

 

 


  
渡嘉敷島の集団自決とは沖縄戦開始直後、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴弾のほか、鎌、鍬などを使い自決した。 武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。 渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人


原告の梅澤裕・元少佐は当時、座間味島の守備隊長、故・赤松嘉次・元大尉は渡嘉敷島の守備隊

長を務めていた。 両島の集団自決は米軍の攻撃により昭和20年3月25日から28日にかけて起

きました。 

 

 

照屋さん証言

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/  
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/24/

 

十字架を背負いて地獄の民救う

 

照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。 それによると敗戦後、疲弊していた渡嘉敷島の島民達に、この「援護法」の適用を受けさせ、遺族年金や弔慰金を国から支給されるためには、軍人や軍属ではない一般住民では適用されず、準軍属扱いにならないと無理であった。 

 

しかし日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっていた。 集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるとされたのです。 

 

そのため集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法として軍命令で行動していたということにして「準軍属」扱いとすることを検討したという。 村長らが、当時島にいた赤松元大尉に連絡し「命令を出したことにしてほしい」と依頼、了解してもらった。 戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れられたのです

 

 


  照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省に提出。 これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになった。照屋さんは「ウソをつき通してきたがもう真実を話さなければならないと思った。 赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだったと話している。 このウソのために名前を使われた赤松元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきました。 

 

 

昭和45年、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、那覇空港に降り立たれた際、サヨクの人々による憑かれたような抗議デモと、翌日の県教組の「即時退去要求」デモ騒ぎや抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。 

 

 

中学の教科書ではいまだに「『集団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されています。 渡嘉敷島の集団自決は、現在もこのように多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑性が薄いとする説が有力となっていました。 

 

そして平成五年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。 渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。

 

村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られています。同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。 島民としては、『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話されました。

 

作られた神話を信ず盲目の民

 

米軍の攻撃があった際、座間味村の幹部5人が梅澤少佐を訪ね「集団自決させて欲しい、駄目なら手榴弾が欲しい。小銃があるから実弾を下さい」と懇願したが、梅澤少佐に「生き延びてくれ、弾薬は渡せない」と拒絶された。 しかし、村民らは梅澤少佐の説得にもかかわらず、次々と集団自決を決行し、凄惨な最期を遂げた。 このように玉砕を叫ぶ住民をなだめたのが軍人という話は実に多くあるのです。 


  この幹部5人のうちで生き残った女子青年団長はウソの証言をしていたが、その後梅澤氏に対し部隊長の自決命令はなかったと謝罪しています。 また、自決した助役の弟もウソの証言をしていたが、62年に座間味島を訪ねた梅澤元少佐に「勝手に隊長命令による自決とした事はすみませんでした」と謝罪しています。

 

 


  集団自決を軍の命令によるものと決めつけたのは昭和25年に沖縄タイムス社から出版された「鉄の暴風」という書籍である。 その後なんの具体的検証をされないまま「軍命令による集団自決」が一人歩きを始めたのです。 

 

ノーベル賞作家の大江健三郎氏の「沖縄ノート」(岩波書店)と故・中野好夫氏らの『沖縄問題20年』では、赤松元大尉の命令によるものだったと記載されている。 また『沖縄ノート』と故・家永三郎氏の『太平洋戦争』、『太平洋戦争』では座間味島の集団自決が梅元少佐の命令によるものだったと記載されました。 

 


  これに初めて疑問を呈したのが昭和48年に出版された曾野綾子氏の「ある神話の背景」
昨年ワックKKから「『集団自決』の真相」として復刊)です。 同書では曾野氏が渡嘉敷島の住民や元部隊関係者に聞き取り調査を行い、軍命令説への疑問を徹底的に検証された。 

 

平成17年には梅元少佐(89歳)と、故・赤松元大尉の弟、赤松秀一さん(73歳)が、岩波書店と大江健三郎氏を相手取り、計2000万円の損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求めている訴訟を起こして現在係争中。 大江氏は、天皇陛下から親授される文化勲章を拒みながら、ノーベル賞は受けとり、岩波書店は朴政権時代「韓国からの通信」(T・K生)を編集者と在日韓国人で捏造し続けた前歴があるのです。


死を前に誠こころを示し君

 

照屋氏は証言される。 

 

「今まで隠し通してきたが、もう私は年。 いつ死ぬかわからない。 真実をはっきりさせようと思った」 渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたがその中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった これは断言する。 女も男も集めて調査した


  「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。 隊長が自決用の手榴弾を住民に渡したというのもウソ。 座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。 さらに、軍国主義の打ちてしやまん、一人殺して死のう、という雰囲気がある中、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかという時、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」


  「何とか援護金を取らせようと調査し、厚生省の援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。 南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。 でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん自決した人がいる』と突っぱねた。 『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」

 

「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。 喜んだ当時の玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。 そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。 赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

 

「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。 しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。 私と、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても真相は絶対言わなかった

  真実でない史実を利用して歴史をねじ曲げ続けるサヨクによる洗脳とは恐ろしいものです。 ウソの歴史を教えられた日本人から崇高な、高貴な精神が失われて行っています。 歴史は民族の感動です。 学校や社会のなかで偉大な先人達の姿、凛々しい日本人の魂を教え、感動を我がものとすべきなのです。

 

                                 (完)

 

リンクのホームページ

 

@ 「いのちの風」通信 (大阪駅前炊き出しや清掃の写真、そして踊りの動画など掲載)

http://www.geocities.jp/ishiguro_yoshihiko/index.html

 

A 知人の野瀬泰良さんの霊園会社のホームページに、私の体験談を載せていただいています。 

美原ロイヤル・ニュース (平成16年冬季号 VOL.8の3ページ目) 「【シリーズ】別離の哀しみを乗り越えて 人と人との魂の絆に気づいて 野宿者救済運動を始める」 釜が崎での炊き出しの写真とともに私の体験と考えが掲載されています。

http://www.noseh.com/

 

B 應典院HP「いのちと出会う会」

http://www.outenin.com/inochi/index.html

 

C 大阪メチャハピー祭

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/mecha/

 

D せんば花金夜市(よさこいソーラン踊りを私が踊っています。虎のぬいぐるみも私です)

http://www.home-smile.com/hanakin/index.html

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