無意識の習慣
岩生 百子
いつものように、車で、次男をサッカーの練習に送っていく日のことだった。母が、所用があるので、その前にある場所に送ってもらえないかという。私は二つ返事で、母の家に立ち寄った。
母が行きたいというところは、息子の練習場所とは全く違う方向だったが、私は母を降ろしてからでも十分時間に間に合うと思い、車をスタートさせた。
母を送ってからサッカーの練習場所に行くということは、頭の中にインプットされているはずだった。それなのに、私は無意識に、そのまま練習場所への道を走ろうとしていた。
はっと気づいて、「お母さんは、本当にいつもドジだねえ」などと、三人で笑い飛ばしながらユーターンしたが、内心、この無意識の行動というものに恐れを抱いた。
息子がこのチームの練習に通うようになって二年半。最初のうちは、道順を覚え、どのくらい時間がかかるのか考え、いろいろと意識して考えていた私だが、毎回、同じ道を往復しているいちに、もう無意識の行動となってしまったのだ。だから、いつもと違う行動、「母を送ってから」ということを頭ではわかっているはずなのに、つい練習場所に向かおうとした。
そういえば、同じサッカーで、遠征に行き、帰って来た息子を迎えに行くのに、練習場所ではないところに到着するということがわかっていながら、つい、練習場所に向かっていたこともあった。そんなことをふと思い出し、些細なことかもしれないが、この無意識の習慣ということを深く考えた。
頭では理解しているつもりでいても、つい、やってしまう行動や、あるいは、自分自身でそれに気づくことなく過ごしていることが、たくさんあるように思える。
知り合いの女性で、悪い人ではないのだが、何かあったらすぐに人を疑い、「もしかしたら…」「きっと、あの人が…」というようなことばかり話す人がいる。
私は、根拠もないのにそういうことを言うのはよくないというようなことを、さりげなく何度も注意したことがあった。
人のことばかり気になる彼女とは、快くお付き合いできず、私は、ある程度距離を置いてきたつもりだった。
ある時、ちょっとした事件が起こった。気にしなければやり過ごせるくらいのことだった。が、なぜか、かっとして感情的になってしまった。そして、その原因を、日頃の問題処理のしかたからいって、「あの人たちに違いない」と断定して関係づけてしまった。
後になって、ことの成り行きを冷聞いた時に、実は、その事件には「あの人たち」は何の関係もないということを知らされた。
このことから何を言いたいかというと、私はすぐに人を疑い、それを口にする彼女のことを快く思ってはいなかった。が、そんなに深いお付き合いをしているつもりもなかったにも関わらず、私は彼女に注意を促しながらも、もしかしたら、私自身がそういう考え方に向かっていたのかもしれないということだ。
なぜ、このような考えになったかと言われても、私自身、説明がつかないのだ。私の意識していない部分で、何かが起きていたのかもしれない。
「無意識」の世界というものは、善悪の判断ができない。良きにつけ悪しきにつけ、何度も繰り返される経験から、その考え方や行動がインプットされていくだけなのだ。それを強く感じたできごとだった。
私は、自分の言動を反省したと同時に、今後、どのように自分の「無意識」と付き合っていかなければならないのかということも考えた。というと、これも理屈ではわかっている。できるだけ良いものを取り入れていけるような、環境を作ればよいのだ。
しかし、人間生きている以上、そう都合のよい環境ばかりは期待できない。現に、私の周りには、幸いなことに、前向きでプラス志向の方が多いはずで、たくさん勉強させていただいている。それなのに、こういうことが起こる。
まだまだ、修行が足らぬということなのだろうが。
ダイエットや禁煙に成功した人の話を聞くと、最初は意識して、自分の弱い心と戦わなければならない。本当につらい。しかし、それが、いつしか「習慣」となればだんだん平気になる。そして、今では全く変わりましたよと。しかし、そういう「習慣」を変える時ばかりではなく、常に「意識」の部分で「無意識」の見張りしていなければならないのではないだろうか? 同じ繰り返しを二度としないように、自分で自分を見張るしかない。
知らないうちに隙間から入り込んだ、汚れた水をバケツで掻き出し、無意識下に溜め込まない努力。溢れ出てしまうまで、自分の心を放っておかないことだ。
自分の心で思い描いたことが、現実化するのだと、自己啓発のどの書物を読んでも書いてある。「心で思い描いたこと」というのは、意識下のことではなく、無意識下のことなのだろう。思ってもいないことが起きたと、よく口にするけれど、それは、本当はずっと水面下で思っていたことが起きたのに、自分が意識していなかっただけのことなのだ。
無意識の世界。それは、外の世界、身の回りの世界と同じくらい、広いのかもしれない。細心の注意を払って、意識して見張っているつもりでいても、まだまだ、陰の部分はわからないことが多い。いや、まだ、わからない未知なる自分の方がたくさんあるということに気づく。
それを探す。確かめることが、自分探しの旅なのだろう。
意識して、自分の言動に注意を払ってみると、「へえ〜、私ってそうなの」と思うことが多い。
朝、起きた時の自分の行動。歯の磨き方。子どもたちに話する話し方。部屋を掃除する時の行動…無意識の習慣が見えてくる。
いつ、どのようにしてこの習慣は習慣化されたのだろうなどと、首をかしげてみたり。
自分自身、滑稽に思えることや、また、あまり歓迎したくない習慣も目につく。これは、改めなければならない。
私は、これまで、「自分の内面を見つめよう」とか、「自分を向上させるためにはどのようにすればようのか?」などと、理屈で考えたり、言ったりしていたことが、初めて実行に移せたような気がする。
生きるとは、こういうことなんだなと。
最近、昔の文豪と呼ばれる方々の小説を読んでいる私は、彼らの心の描写というものが、とても哲学的で、自己への追求が断崖絶壁に立たされているかのように、壮絶だと思う。
その中には、現代人にはないような深いものを感じる。それは、現代人が軽薄であるとかそういうことではない。その時代を生きるためには、そういう自己の確立がとても重要な世の中だったのかもしれないとも思うが、現代社会はスピーディーに流れすぎて、油断したら、自分を見失ってしまう危険性があるのかもしれないと思う。
「人生とは? いかに生きるべきか?」ということは、いつの時代も人間のテーマなのだ。ただ、現代は何事も便利になりすぎて、ある程度考えなくても前に進んでいける。幸せかもしれないが、反面、不幸なことであるかもしれない。
一日のうちで、ほんの少しでもいいから、自分の内面…無意識の世界と交信する時間の余裕が持てたなら、私は、世の中が変わるのではないかとまで考えてしまった。
そのものが正しいとか、正しくないとか、意識下での評価以前に、ありのままの自分を映し出し、観察してみることを、少しでも多くの方にお勧めしたい。
今、こうしている間も、私の無意識は働いている、そして、あなたの無意識も働いている。
「人間は、本能の動物でも感情の動物でもない。習慣の動物である」
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