言霊

 

               岩尾 百子

 

 先日から、大学の課題リポートで、学校教育において「国語を教える」ということはどのような意味を持つのかという内容について書いていた。その中で、私は「ことば」について深く考えさせられた。

 ことばの乱れということについて、ずいぶん前から指摘されてきた。

 現代の若者の「ら抜きことば」や「流行ことば」を憂える声も多い。ただ、私はそれよりももっと考えなければならないのは、例えば、何か話しかけたときに、「うるせぇ」とか「むかつく」とか、粗暴な短いことばでコミュニケーションを断絶してしまう若者が増えているということだと思う。

 たとえ、ら抜きことばであっても、語彙が少なく適切なことばがなかなか見つからないとしても、自分の思いを何とか相手に伝えようとする間は、まだ救われるような気がする。

 問題は、自分の思いをことばにすることすら諦めて、伝達する意欲をも無くしてしまっているということではないだろうか。

 これは、めまぐるしく発達する情報社会の中で、単に「国語」の問題として解決しようとすることは不可能であるかもしれない。

 ことばは「言霊」とも言うけれど、知識として知っているだけのことばは生きてはいない。

 人間が使うことによって初めて、ことばは生きたことばとなると思う。生きたことばとして、他者とかかわった時、そこからコミュニケーションが生まれる。

 若者のことばの問題を憂えるのであれば、そのことばがどんな感情を生むのか? どんな役割を果たすのか? 情緒的に感ずることのできる感性を養うことができる言語教育を目指さなければならないと思う。

 我が家の高校生いわく、

「古文なんて何の意味があるが? ただ読んで口語訳して、将来、何に役立つのかわからない」

「え? 古文の授業って、それだけしかしかしとらんが?」

 私がそう尋ねると、

「試験前には、全文覚えなさいって言われた。その覚えたものを書くだけの試験やし」

 これには、少しショックを受けた。

 現代、指導要領などにも、「生きる力」や「ゆとりの教育」などと提言されている。心重視の授業であれば、このようなやり方はおかしいのではないだろうか。

 少し前の、高度成長期の高学歴が成功者のように扱われた時代には、「ことば」もただ知識として点数を取るための道具だったのかもしれない。しかし、今、それは通用しない時代になってきている。

 私は、古文は情緒を育てるために、または、日本の伝統・文化を継承する意味においても、大切な授業であると考えている。古代や中世に生きた人々の愛情の形、単純で滑稽だけど、人間味溢れる物語が好きだ。それは、もしかしたら、現代人が無くしてしまった、最も尊いものかもしれないと思う。

 そのほのぼのとした、「心」を読むためには、ただ、口語訳しておしまいでは、何もわからないではないか。そのことばが、その時代背景の中で、言霊としてどう作用しているのか、そういうことを今の若者には、わかって欲しい。

 また、数々の文学作品の中で、その物語を自分ごとに置き換えることができないということも、不登校やひきこもりの形で現れる心の病気を引き起こしていると言っている方もいる。本当にそのとおりだと思う。

 正しい、正しくない言葉遣いというより、そのことばが人にどのような感情を与えるのか。快なのか不愉快なのか、そちらに視点を置くことの方が大切だと思う。

 以前にも書いたかもしれないが、情報化社会の中で、なにもかもがスピーディーに進んでいる。パソコンやインターネットのおかげで、人間は楽して多くのことを得ることができるようになった。豊かな時代だ。しかし、その分、心の中は貧弱になってしまったのかもしれない。

 相手が快か愉快か、そんなことを気にしている暇もない。とにかく、どんどん突っ走らないと間に合わない。そんな時代の中で、いつか、みんな息切れして、人との関係を絶ってしまう。それが、現代日本人みんなが抱えている病気なのである。

 歌を詠み、託した恋文が相手に届いただろうか。読んでくれただろうか。返事は来るのであろうか…そんな心の置き場所を、古代の人々は持っていた。それをゆっくり暖めながら、ゆったりとした時間の流れの中で生きていた。本当の豊かさとは、そういうものなのではないだろうか。

 あるいは、夏目漱石や芥川龍之介は、時代背景の中で人間の誰もが持っているエゴな部分やもろい部分を小説として書いた。ある意味自虐的とも言えるそれらの作品に、自分の生きている意味を深く問い続けていた。それは、日本人の内面の進化や歴史とも言える。

 その中から、日本という国を理解し、個人を理解することが、本当の生きる力となるのではないのだろうか?

 先日、小学生の娘が持ち帰った、冬休み前に配布される学校からの推薦・斡旋図書の注文表の中には、文豪と言われた作家の日本文学作品が全くないと言うことにも、私はショックを覚えている。イラストがたくさん入った、ミステリーやオカルト物語がたくさんあるのは、なぜだろう。

 別に、そのジャンルのものが悪いといっているわけではない。時には、そういう書物を読むことも必要であるかもしれない。ただ、 授業自体、ことばの意味や漢字を覚えることが中心となっているとしたら、その上、このような読み物だけを推薦図書としていては、意味のある教育にはなり得ないのではないだろうか。

 私が小学生の頃は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や夏目漱石の「坊ちゃん」など、もう読破していた。確かに難しかった、時間がかかったが、それでも、「何か」が残った。

 数年前に映画化された「ビルマの竪琴」も、切なくて、ぽろぽろ涙を流しながら何度も読んだ。何度読んでも、泣けてきた。

 あんなに泣きながら読んだのは、「ビルマの竪琴」以外にはなかった。

映画を観たときは、話の筋を知っていたからかもしれないが、不思議と涙までは出なかった。それは理屈抜きで、私の魂が小説を書いた竹山道雄のその言霊に感動し、震えたのかもしれないとも思う。

その体験が、もっともっといろんな小説を読んでみたいと言う欲望を持つこととなったし、他者の「心」を理解しようとする原点にもなったような気がする。       

 教育法規で、国はいろいろ理論理屈をならべてすばらしい教育を目指すとうたっているが、もう、そんな理論理屈はたくさんだと思う。実際、大人や教師も心が病んでいる者がたくさんいるのだから。その大人自身が、情報化社会に振り回されて、自分を見失う生活に、ピリオドを打つべきである。

「ゆとり教育」とは、週休五日制にすることでも、あえて親子活動を増やすことでもない。本当のゆとりは、心のゆとりを持つことである。

 目に見えるものを変えることで得られるものではない。目に見えない心の世界が豊かになれば、おのずと本当の「ゆとり」はできるものだと思う。

 そのために、美しい日本の国に残されたたくさんの文学作品の中から、生きたことば=言霊を感じ取り、そしてそれを、自分の豊かな財産とし、発して欲しい。決してうまくなくてもいいから、息吹を吹き込んだ暖かい言霊を。

 学校の授業で「知識」を詰め込まれてきた我が家の子どもたちは、益々、読書離れの現象が起こっている。夏目漱石の「坊ちゃん」の話題を出せば、「坊ちゃんって、何? 坊ちゃんがぼっちゃんと落ちたって話け?」などとくだらないギャグを連発し、ちっとも興味を示してくれない。

しかし、ギャグであろうと何であろうと、「全く興味がない」という気持ちを、コミュニケーションによって伝えてくれるのだから、まだ脈はある。私も、何とかして文学作品に親しんで欲しいという、この熱い気持ちを、「言霊」にして伝え続ければよいのだから。

 

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