原因と結果

 

               岩生 百子

 

 先日、ある方から、「中学生の息子がいじめにあっていて悩んでいる」という相談の電話を受けた。今のところ学校へは行っているが、持ち物を隠されたりと、結構つらい仕打ちを受けているという。

 「担任教師に相談しましたか?」と尋ねると「学校はあてにならないから何も言っていない」と、かなり憤慨した様子。

「とにかく、物事には原因があって結果が生じているはずだから、まずは、相手がなぜそのような行動に出るのか、息子さんの性格や行動、あるいは内面についてとか、いろいろ考えてみたら、その原因がわかるかもしれません」

 というようなことを私が言ったとたん、彼女は、

「いじめられているのはうちの息子の方なのに、うちの子が悪いと言うんですか? 相手の子が勝手にいじめてくるのに、なぜ、息子のことをいろいろ考えなければならないんですか? 今、考えなければならないのは、いじめてくる相手についてでしょう」

 と怒って電話を切ってしまった。

 私のことば足らずのところもあったかもしれないが、しかし、私は、「良い悪い」の話をしているのではなく、「原因と結果」について冷静に考えることを勧めたかっただけである。

 私も過去に経験したことであるが、「いじめ」は確かに深刻で辛い問題である。だだ、ひとつ間違えると、被害者意識だけが強くなり、その本質が見えなくなる危険性がある。

本質が見えないと、本当は子どもを守ろうと必死になっていることが、逆にいじめを増長することにもなりかねないのだ。

 この方も、毎日息子さんの様子を見ていて、かわいそうでしかたがなく、とても辛い気持ちなのだと思う。学校も信頼できない、何とかいじめることをやめさせたい。その気持ちはよくわかるけれど、しかし、本当に解決したいのであれば、決して建設的な考え方ではないと私は感じるのだ。

 確かに、教師の人間性も様々で、「あてにならない」と思うことも過去にあったのかもしれない。でも、今回のことを一度相談することもしないで、「あてにならない」と言っていることも問題解決の道を閉ざしている。

 そして、一番考えなければならないことは、息子さんがなぜいじめられるのか、その原因である。

 私はその息子さんとは面識がないため、性格等はわからないが、例えば、気が弱くて、人前でハキハキ話すことができないという性格であったとすれば、そのはっきりしない部分に苛立ちを覚え、それがいじめに発展していくというパターンもある。しかし、相手に、弱々しいから何をしても黙っていると受け取られ、面白半分でいじめられる場合と、弱々しいその裏側に本当は強情な一面が見受けられて、それがどうも許せない、あるいは憎らしいという感情が高まっていじめるという場合など、いろいろ。

 そういう見えない部分が見えてくれば、相手に「やめて欲しい」と訴えるだけではなく、自分自身もいじめられないための「努力」あるいは「工夫」をすることができる。また、学校側や教師に相談するにしても、いじめる相手も悪いかもしれないが、自分の息子のこういうところも原因のひとつかもしれないということを告げることもできる。そうすれば、教師の方も、学校での対応や対策を考えやすくなるのだ。

 「原因」は本人自身のことだけではないかもしれない。その家庭環境。恵まれてしあわせそうに見えたとしたら、本人がそんなに意識していないことでも妬ましく思われているかもしれない。では、そう思われていることに対して、どう対処できるかを考えることもできる。いじめる子から逃げることばかり考えないで、そこから本人同士が「話し合う」勇気も出てくるかもしれない。

 とにかく、物事には必ず「原因」があって「結果」がある。それに基づき冷静に考え、行動を起こすことだ。

 と、私がこんなことを言うと、「そんなこと言うのは簡単だけど、そんなにうまく解決できるくらいなら苦労はしない」などと思う方もおられるかもしれないが、実際私は、自分の息子のいじめをこの方法で解決してきたのだ。決して、「簡単」ではなかったし、年月もかかったけれど、でも、解決してきたのである。

 はっきり言って、いじめの問題はそんなに簡単に解決するものではない。何か手を尽くせばいじめはパッとなくなると思っている人がけっこういるけれど。例えば、誰かが注意して、表面上一時は静まったとしても、しばらくしたら、もっと陰湿な形で繰り返されることもある。それは「解決した」とは言えないであろう。本当に解決するには、相当な時間が要するということは理解して欲しい。

 私は、息子に被害者意識を持って欲しくなかった。一番よくないのは、いじめられている子に「被害者意識」を植え付けることであると私は思っている。被害者が存在すれば、当然、加害者がいるわけで、それは、もしかしたら、人を憎むという感情を生み出すようにもなる。

 人間の感情の中で、一番破壊力があるのは「憎む」という感情ではないかと、私は考えている。

 息子がいじめられていることが発覚した時、私は、自分自身の内面を見つめるということだけをさせた。自分のどの部分がいじめられる要素なのか、それを親子でずっと考えた。

 その間、いじめがなくなったわけではないし、学校に行きたくないというので、家にずっといた期間もある。でも、無理に学校へ行かせることもしなかった。何事も、息子の気の済むようにさせることにした。それがもしかしたら、彼にとっては「逃げ道」だったかもしれないが、でも、そんな行動を取る自分というものについても、他でもない彼自身が受け入れ、考えなければならないのだから。人ではない。すべて自分自身なのだ。自分の人生は自分で決めるしかないということも、わかって欲しかった。

 二ヶ月くらいは学校へ行かない日が続き、その間、私とふたり、ドライブしたり美術館へ行ったりもした。私自身も、彼と一緒に、親としての自分を見つめる時間を持つことができた。あせることなく、ゆっくり時間をかけようと思った。そして、そんな日々の中で、息子は少しずつだが、自分自身を変えたい、変わりたいと思うようになっていった。

実際、目を見張るほどの変化で、たくましく強く前向きに生きようとする生命力のようなものが感じられ、親としても、その成長をうれしく思った。 

 そして、本当にある日突然、息子は、「学校へ行く」と言い出し、その後、全くいじめられることもなくなった。

 「うちの息子は悪くない」と、電話してきた彼女は言ったけれど、私は、どちらか一方だけが「悪い」という物事は存在しないと思っている。原因はこちら側にも必ずあるはずだ。他人を変えることはできないが、自分の中の原因を見出すことができれば、自分は変えることができる。そして、自分が変われば、周りも変わってくるものなのだ。

 人をいじめるという行為は、表面上は確かに許されない行為である。しかし、あえて、被害者、加害者と区分する中で言うのであれば、もしかしたら、いじめる側も誰かのあるいは何かの、被害者である可能性もある。

 いじめる側もいじめられる側も、同じ人間であり、その立場も逆転しうるかもしれないということである。

 自分の子どもはかわいい。かけがえのない存在である。誰もがみんな思っていることだろう。しかし、だからこそ、自分の存在というもの、あるいは「生きる」ということを自らが考え、自分の足で歩いていけるようにするのが親としての役目ではないかと思う。そして、親の方も、自分を磨きながら、日々成長していかなければならない。

 自分が今ここに、この場に存在しているという「結果」には必ず「原因」があり、その「原因」も自分自身の中に存在するということではないだろうか。

 自分自身を見つめることによって、自らの「命」を慈しみ、愛する気持ちが湧いてくる。自分自身を愛せたなら、他人にも同じような愛を抱くことができるのだ。

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