要領がよいということ?
岩生 百子
私は、中学生の頃から「文法」という教科が嫌いである。これは動詞である、これは助詞であるというところまでは何とかなるのだが、それが、サ行変格とか未然形とか言われると、頭の中で拒否反応を起こすのだ。はっきり言って、寒気がするくらい大嫌い!
現在、大学の授業でもその道は避けて通ることができず、今も私を悩ませていることのひとつである。
さて、先日のスクーリングは、日本語学の授業だった。室町期の舞台芸能である狂言を読み物風にしてある、「狂言記」が教科書となっており、ひとつひとつの滑稽な物語は、今のユーモア小説にも相通じるところがあり、読んでいてとても楽しかった。
授業は、一人ずつ自分が割り当てられたページを音読してから、内容を通釈する。しかし、「日本語学」という授業である。語句に関する説明というのがメインなのである。話の内容が楽しかっただけでは済まされない。
室町期の日本語は、言ってみれば変革の時代であったと言える。たとえば、それまでの「振りて」という古語表現が「振って」という現代でも使うような言葉として表記されているのも、この時代からであろうと思われる。
現在、方言として残っているような表現もあり、それを追究することは興味深いことでもある。が、やはり、出てきた。
「この動詞の文法的説明をしてください」
きゃー。その瞬間、私の頭の思考回路はここで凍結してしまった。
一緒に授業を受けているTさん。その方は、定年退職後、文学部通信生として学んでおられる大変まじめなおじさんで、文法については右に出るものがいないと思われるほど詳しい。私はただただ、尊敬の眼差しで見つめるだけ。
Tさんが発表しておられる間、私は、文法的な説明に関して、必死でノートに取り続けた。内容を考えている暇などない。というよりは、自慢じゃないけど中学、高校時代にきちんと把握していなかったため、考えてもわかるわけがない。とにかく、「これはこうなんだ」と無理やり頭に叩き込む。早口であるけれど、みごとに説明される事がらを、一字一句漏らすまいと、速記のような速さで書きまくる。
そしてそれを、私は休み時間のうちに清書し、自分の担当ページに同じような箇所を見つけると、とっとと説明に付け加える。
なんて、ずるい女なんでしょう。
少しの後ろめたさと、それでも、ここで生き残るためには仕方がないのだと自分自身に言い聞かせる。
一般的に、文法的な事がらを的確に把握できてこそ、通釈もできるのではないかと思うのだが、私の場合、通釈の方は、意外とさらさら先にできてしまうのだ。つまり、裏づけを取ってから証明するか、証明する事がらを提示してから、裏づけを取るかの違いなのである。と変な理屈を言ったりしてみる。
ともあれ、私は、何助詞であるとか、何段活用であるとか、そんなことが全くわからなくとも、何となく古語のルールのようなものさえ把握していれば、通釈は簡単にできると思っている。
そして、いよいよ、私の発表の時がやって来た。
狂言記の文章は、とてもリズミカルな漫才の掛け合いのようで、音読もいと楽し。声に出して読むと、情景が頭の中に広がって、思わず笑いそうになる。
文法の説明は、何がなんだかわからないが、とにかく口にして説明してみる。…教授から何のクレームも来ないということは、パスしたということかしらん。
次、通釈。「これはお手のもの」と言いたい。感情を込めて言うと、これもなかなか笑える。吉本興業の芸人に身振り手振りで読ませたら、もっといけるかもしれない。
私がそんなことを考えながら発表しているとも知らない教授から、最後にいただいた評価は、
「あなたは、文法を的確に理解していらっしゃるから、通釈も正確にできていましたね。大変よかったですよ」
と。え? それでおしまい?
Tさんの時は、その通釈は文法的に見ておかしいとか、いろいろおっしゃっていたじゃないですか。私も、鋭いご指摘を覚悟の上で臨んだのに。少し、気が抜けてしまった。
とにかく、教授に、もう席についてよいと言われ着席すると、斜め前に座っていたTさんが私の方をふり返り、
「すばらしい発表だったね。さすがだねえ」
と言ってくださった。まさか、あなたのおかげでと言うこともできず、私は恐縮するばかり。
つらつら考えると、これを「要領がいい」と世間では言うのかもしれないが。このできごとも、私の人生を象徴しているように思えて、一人で苦笑い。
ただ、私の場合は、このようにして要領よく単位を取ってやろうとか、計算した上でやったつもりはさらさらない。わからないことを、素直にわかりませんといって、教えを請うことからはじめるには、中学時代から戻らなければならない。それには、あまりにも時間がなさすぎた。この上は、詳しい方の説明を聞いて、書き取るしかないと思ったのだ。
そして、万が一、発表の時にぼろが出て恥をかくことになったとしても、そのことでちゃんと理解できるようになるなら、それもよしだと。いわゆる開き直りに近い感情。
崖っぷちに立たされて、あがいた結果が、もしかしたら、「要領がいい」と言われるだけかもしれないのだ。
思えば、短大時代にも似たようなことがあった。
何の教科だったかは忘れてしまったけれど、いい加減に出席を取る先生がいて、それをいいことに、私は授業をよくサボっていた。授業のノートも全く取っておらず、一番真面目に授業に出て、こと細かにノートを取っていたクラスメイトに、試験の三日ほど前になってからノートを借り、それを全部コピーした。
しかし、その内容の多さに漠然として、ずっと授業をサボっていたことを後悔すると同時に、これを全部把握するには、時間が足りない。ざっと目を通して、ここが重要かもしれないと思うところだけを暗記して行った。それが、全くはずれていれば0点、当たっていればそこそこの点数は取れるであろう。自らを崖っぷちに追い込んだ罰のようなものであり、掛けでもあった。
結果は、吉と出た。それも、ノートを貸してくれたやさしいクラスメイトよりいい点数を取れたのだ。
要領のよさか、運のよさか、私は、それだけで生きて来たわけでもないけれど、そんな自分を少し楽しんでいるようなところはあるかもしれない。
しかし、私は、コツコツ努力することが悪いといっているわけではない。一生懸命努力する方を、尊敬もしているし、これまで私は、その方たちのおかげさまで生きてきたとも思っている。
ただ、人生の方向を決めるものは、それ以外の何かコツのようなものがあるような気がしてならない。車のハンドルで言えば、遊びのような部分。どんな状況下にあっても、楽しむ心の余裕というか…うまく説明できないけれど。
私は崖っぷちに立たされ、それもすべて、これまでの自分の行いがなした結果であると認めているが…決して、あきらめはしなかった。崖の下に落ちるわけにはいかない。ここから、何とかやれるところまでやろうと、方法を考え、必死でもがいた。その結果、運良く吉と出ただけだかもしれないが、最初からだめだとあきらめるよりは、スリルがあり、楽しかったのは事実である。
しかし、いつまでもこのような生き方ばかりしていてはいけないということも、少しは考えてはいるのだが。
よい子のみなさんには、それぞれの目標に向かって、日々、努力を怠らないようにしていただきたいと思うし、それでも、私のように「崖っぷち」に立った時ではなく、もっと違った場所で「楽しむ」ということをして欲しいと願っている。
どうか、百子の真似だけは決してなさらないように。
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