学ぶということ
岩生 百子
最近は、いろんな自己啓発本が出版されたり、セミナーが開催されたりと、「心のあり方」の勉強が盛んになってきたように思う。
―自分の人生はどうあるべきか?―
多くの方がそれを考えるようになったことは、とてもよいことだと思う。
ただ、最近、気になっていることは、いろいろな知識だけを吸収してはいるものの、実際、それが行動に反映されていない方も見受けられる。往々にして日本人は、理論理屈が好きなのかもしれないと時々思うのだが、知識を得て、その理論を知っているというだけで、そのまま、自分は変わったと錯覚している人も意外と多い。
そして、なまじその知識があるばかりに、他人のあり方を批評、批判する「評論家」になってしまう方もいる。
「評論家」という言葉を広辞苑でひいてみると、「評論する職業の人。転じて、自分で実行しないで人のことをあれこれ言う人」とあった。うーん、まさにそのとおり。
適切な例かわからないけれど、うちの長男の通う高校は仏教系で、毎朝、「礼拝」の時間がある。長男が言うには、朝、生徒が挨拶しても挨拶も返さない先生がたくさんいるそうだ。
「礼拝の時は、お前の祈り方がどうだとかいろいろ言って、心から仏様に感謝して拝めというのに、生徒には挨拶もしない。それは、おかしい。偽善だ」
長男は、決して神仏を信じていないわけではないが、礼拝の時間が一番嫌いだと言っていた。
教育者になるくらいの方々だから、人間関係の中で挨拶は基本であるということは、当然わかっているだろうし、生徒にも教えているであろう。だが、実際には、挨拶もできない、行動で示すことができないという方が多いのが現実なのだ。
普通に考えて、ご飯の食べ方は…掃除の仕方は…そんなことを、理論理屈だけで教えてもらった方は、まず、いないだろう。みんな、親や大人たちがやっていることを見て、あんなふうにすればいいんだと自分もやってみて、はじめてできるようになる。「人生をいかに生きるか」だなんて、何かすごいことのように思って、理論理屈をつけてみるけど、本当は、それと同じような単純なことなのではないだろうか?
私は、いろいろ意見してくださる方には、いつもありがたいと思っている。何か言おうと思ってくださるということは、私という存在がその方の中にあるということだから、うれしくも思っている。
ただ、申し訳ないが、その意見は大半が知識の押し売り。ご自分が実践していないことなのに、私の批評だけしているかのように感じることが多い。そして、その視線をたどれば、上から見下ろされているように思える。
「どんな子どもであろうと、どんなに貧弱に見える人であろうと、決して人を侮ってはいけません」と、私は、母からよく言われた。どんな人からでも学ぶことがあるから、上から見下すようなことをしてはいけないということなのだが、私は、「評論家」となっている方に出くわすと、その言葉を思い出し、また、見下ろされていると感じても、それも学び。感謝の気持ちは忘れないようにしなければと、自分自身に言い聞かせるようにはしている。ただ、私も人間がまだまだできていないので、これも理屈だけで終わらないようにしなければと思っている。
知識だけで頭がいっぱいになっている人は、実際の状況ということを考えない。知識は、行動によってはじめて生かされるものであり、同じ知識でも、その場その場の状況で、生かされ方も変わってくる。その状況、今ある位置は、そこに存在する本人にしかわからないことだ。一般的な知識が、そのままそこで生かされるかどうかも疑問だ。
私は、多少知識に乏しくても、常に直感的に行動し、身をもって体験しておられる方を信頼する。
たとえ、周りから見て「失敗」のように見えることでも、それが本当に失敗であるかどうかは、本人にしかわからない。その人にとっては、そのプロセスを踏まないと次にステップアップできない、ひとつの出来事に過ぎないかもしれないし。他人があれこれ判断することではないとも思う。
自分はどうあるべきか、常に行動し、歩き続けている方は、たぶん、人のことをあれこれ言っている暇はないのだ。そういう方は、多くは語らないし、理屈を言う前に、もう行動している。私はその方の行動から多くのことを学び、では、自分はどうか?という自問自答の中でたくさんのことを得させていただいている。
私は、現在、大学の通信生として教職課程も勉強しているところだが、以前、息子の学校のあり方がおかしいと中学校に抗議した時、ある教師から言われたことば。
「それは、保護者の立場でしか考えておられないからです。教師の立場では…」
その時、「教師の立場」ってどんなんだろう? とふと思ったことから、その「立場」というものを知りたいばっかりに、教職課程を申し込んでみたのだが…。周りから、今から学校の教師になるのかとか、いろいろ、質問攻めにあった。そのために、何か理由をつけなければならなくなったので、特に「評論家」の方々には、「今の教師の人間性」から始まって、私の理想論…いろいろ納得できるような理論理屈を言ってみたが、本当は、教師の立場というものが知りたいという好奇心以外、そんなに深い考えはなかったのだ。(すみません。)
そして、その「教師の立場」も、知識だけ、理論理屈だけで、実践されていることが少ないのだということがわかったのは、大きな収穫だった。
文部科学省の学習指導要領、「生きる力をはぐくむ」ということが力強く書かれている。教科ごとの指導についても細かく書かれている。道徳教育の必要性も書かれている。読んでいて、すばらしいと感じた。
しかし、現段階において、このことがどこまで学校教育に生かされているのだろうか?
今、教育界は変わらなければならないと誰もが感じ、誰もが知っている。知識もたくさん持っている。でも、現実、挨拶もしない教師が存在するのは、なぜだろう?
私の探究心は、いよいよ来週から始まる教育実習の場で、解明されることもあると思われ、今からわくわくしているところであるが、
教科の授業は、全く自信がない。もしかしたら、生徒の方が知識は豊富かもしれない。
でも、生徒たちには、何も飾ることなく、私のそのまんまの姿でぶつかりたいと思っている。理屈抜きの、今、生きている姿を見てほしいと思う。
大学生になった私に、
「何で、その年になってからそんなことをするの」
と言った人もいた。
「働きもしないで、好き勝手して」
と罵った人もいた。
でも、今、実際に行動に移し、やっている自分がここにいる。
「若いときに、もっとやっておけばよかった」とか「この年になっては、もう無理…」とか、確かに、そんなことを理由に、自分の可能性に蓋をし続けてきた頃もあった。
でも、人間は、今、やろうと思ったその時がスタートだ。早すぎるとか遅すぎるとかいうこともないし、ましてや、人に言われることでもないと思う。
行動を起こしたことによって、無駄なことも、一切ない。その中で得たものは、必ず私の人生において貴重な宝物になると確信している。
結局は、自分自身どうするか、それしかないのだ。自分自身が考え、感じたことを、とにかく行動してみないことには、何も始まらない。そして、その結果を、成功だった、失敗だったと決定付けるのも、他ならぬ自分自身でしかない。それが、人生における「学び」だと私は思っている。
人生は、長いようで短い。
二の足を踏んで、「評論家」になっている暇があったら、せっかく得た貴重な知識なのだから、自分自身の行動によって実践しようではありませんか? そういう方が増えれば、日本の国も飛躍的に変わると、私は思う。
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