縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第285号
秋草鶴次さんの講演
17歳の硫黄島
∞「秋山鶴次さんの
講演会成功しました」∞
2009年3月28日
金沢の済度場で、オフィスアキライベントホールで行われた
硫黄島玉砕戦 生還者秋草鶴次さんの講演会
俺は、大阪から予告通り、参加してきました
また、この講演会、大成功でした
講演会に参加して頂いた人も
200名以上はいたと思いますし
話の内容もよかったです
俺は、それを、広島から駆けつけてくれた
河内正臣先生や、そのご縁の方と聞かせて頂きましたが
今まで、知らなかった、戦争の悲惨さ
硫黄島の戦場の戦いの辛さを
少しは、知ることができて嬉しかったのです
しかも、この講演会には、JRの青春18切符を使って
わざわざTOさんも、死国から駆けつけてくれました
俺は、その事も、とても嬉しかったのです
というのも、TOさんの苗字は、太平洋戦争を最終的に決断した
東條英機元首相と同じ、東条です
なので、俺は、TOさんは、大東亜戦争のご縁があるような気がしていました
そのTOさんが、わざわざ、四国から、金沢まで
一日をかけて、来てくれたのです
きっと、TOさんの背景にいる多くの英霊、御霊達も
とても喜んでいたと思います
俺は、そう考えると、幸せだったのです
また、今回の秋草鶴次さんの講演会
金沢の済度場で行われるのですから
ただの講演会ではないです
天、霊界から見たら、とても意味のある講演会です
硫黄島や大東亜戦争の英霊にとっては
64年間、待ちに待った講演会で
魂の約束の講演会ですと
秋草鶴次さんの講演会を
皆さんに、ご紹介する時に言いましたが
本当に、そうなった講演会でした
というのも、秋草鶴次さんが来るという事で
大きく霊界も動きましたし
前倒しで、英霊達も、たくさん来て頂いた感じだったのです
それで、済度としては、戦争という事で
戦いの波動もあった感じです
講演会の始まる、2、3日前から
済度の仲間達で、争った、夫婦喧嘩して
しまったという話も聞きましたし
俺自身も、前日、河内正臣先生を金沢駅に迎えに行く時に
運転してくれた人が、自転車とぶつかるという事も体験しました
幸い、怪我はなく、自転車を修理する事で
解決したのですが
その日、もう一つ、自動車の事故があったそうなのです
きっと、英霊達は、そういった事で
何かを表現したい、何かを訴えてくれたのだと思いますが
形として、現わしてくれたのです
だから、秋草鶴次さんの講演会でも
何か起きるのではないかと
俺は、少し心配していましたが
それはありませんでした
講演会自体は、スムーズに流れ
済度の先生も、最後に、花束を
秋草鶴次さんに、お渡しする事ができました
本当に、良かったです
また、俺は、その後は、参加していないので
何とも言えませんが
秋草鶴次さんや、済度の先生や
今回の講演会を企画した済度の仲間達で
関東から、81歳の高齢にもかかわらず
自らの運転で、一度も休憩もせずに
車で来てくれて秋草鶴次さん
お疲れの秋草鶴次さんを
心から、もてなす会が行われたと思いますが
それも大成功だったみたいです
というのも、秋草鶴次さんには
魂の家族になって頂いた感じです
今後、どんなご縁になるかは分りませんが
しっかり、願わせて頂ける感じなのです
なので、俺も、日本の為に
あんなに苦しい戦争をしていたのに
戦後、すっかり英霊の事は忘れている日本人に対して
報われない、報われないと思っている英霊達を
しっかり願っていきたいと思っています
秋草鶴次さんを、心から、硫黄島の戦場で戦ってくれた英霊の代表
いえ、大東亜戦争で戦ってくれた多くの英霊の代表として
その秋草鶴次さんだけでなく、その背景にいる
目には見えない多くの英霊達を意識して
できるだけ願わせて頂きたいと思っています
是非、皆さんも、そんな秋草鶴次さんの今後の活動
一緒に、応援して頂けたら幸せです
よろしくお願いします
∞「秋草鶴次さんの
講演 硫黄島の紹介」∞
秋草鶴次さんの講演会は
今回の講演会を企画した
21世紀を明るくする会の代表が
厳粛に挨拶してくれた後
司会を担当した人が
秋草鶴次さんを紹介してくれました
その紹介文は、大切なので
全文を紹介しますと
「1927年(昭和2年)群馬県に生れる
現在81歳、昭和19年、17歳の時に硫黄島に
海軍通信兵として派遣
玉砕戦後も3ヶ月生存し、意識不明のところを
米軍に救出される。昭和21年1月に復員
「耐久試験だ、これは。人間の・・・・
でも頑張るんだ、このことを誰かに言うんだ
だから、俺は、生きなくちゃなんない・・・・」
壮絶な戦場からの奇跡的帰還の61年後
やっと真実を明るみに。
2006にNHKスペシャル「硫黄島玉砕戦・
生還者61年目の証言」に出演
また同年、体験を精密に書きとめた
「17歳の硫黄島」を出版。
現在高齢にも関わらず自ら、車を
運転し全国で、講演活動を続けている」
とあります
秋草鶴次さんの講演会は、その後
いよいよ始まったのです
また、その講演会の第一声は
硫黄島の紹介から始まりました
東京都小笠原村硫黄島と言いまして
元々、日本の島ですから始まって
硫黄島のある距離
日本と、マリアナ諸島、サイパン島、グアムの間
中間の距離があるとか
硫黄島の大きさ、
を教えてくれました
また、その後も、硫黄島のことを
本当に詳しく教えてくれました
例えば、米国の星条旗が掲げられた事で有名な擂鉢山だけでなく
硫黄島には、阿蘇台、大阪山、玉名山
東山、天山という山があるという事や
その山は、標高は何十メートルで高くなく
岩石山で、木などはないことから始まって
島の住民は、硫黄島から硫黄がとれるので
その発掘に関係する人が島に住み着いたことなど
俺は、知らないことばかりでした
そんな硫黄島には、疎開するまでに千人の住民がいて
硫黄の発掘と平坦な土地と地熱を利用した農業で
栄えていたそうなのです
しかし、俺は、そんな秋草鶴次の話を聞いて
本当に、驚いてしまいました
その一つは、秋草鶴次さんは、硫黄島玉砕戦に関して
いろんな思いがあるのに
本当に、たんたんと真実だけを話そうとしていることです
感情は、まったく入れずに、情報を
本当に正確に、誠実に話そうとしているのです
しかも、64年前のことを
こんなに覚えているものかと思うぐらい
詳しく硫黄島のことを話してくれました
俺は、その記憶力というか
まるで、硫黄島は、こんな島だと
秋草鶴次さんの講演を聞いている自分が
今、硫黄島を見ているような感じがして
感動してしまったのです
また、硫黄島のことを知らない俺が
そう思うのだから
硫黄島の島で、実際に戦った
硫黄島の戦友、英霊達は
秋草鶴次さんの話を聞いて
まだ、米軍が上陸する前の
硫黄島のことを思い出して
地下壕を必死で掘っていた
頃のことを思い出して
心から、感動すると思いました
その時に、64年という年月を
一気に越えて
過去と未来が繋がる
きっと、硫黄島の英霊達は
秋草鶴次さんの話を聞きながら
目には、見えませんが
「うんうん」
「そうそう」と
頷いていると思ったのです
∞「秋草鶴次さんの
講演 本出版まで」
秋草鶴次さんの話は、硫黄島の紹介が終わると
今度は、たんたんと自らが体験した
硫黄島の戦いの体験を話してくれました
しかも、それを秋草鶴次さんは、ちゃんと時期
何月何日に、何があったと
本当に、正確に話してくれました
俺は、その事にも驚いてしまいました
よく覚えているなあと感心したのです
また、このことは、講演会では話されませんでしたが
講演会で、買わせて頂いた「17歳の硫黄島」の本を見て
納得しました
いえ、戦後も、ずっと戦争で体験したことを
忘れたいはずなのに、忘れられない秋草鶴次さんの人生に
深く考えさせられたのです
だから、このことは、本当に大切なことなので
講演会の内容とは、離れますが
是非、皆さんにご紹介させて下さい
秋草鶴次さんが、戦後、どんな思いで、人生を生きて
何故、2006年になってから
硫黄島のことを話すようになったのか
戦争の体験を書かせて頂く前に
知って欲しいと思うのです
というのも、秋草鶴次さんは、自己紹介で書いたように
「耐久試験だ。これは。人間の・・・・・
でも頑張るんだ、このことを、誰かに言うんだ
だから俺は、いきなくちゃなんない・・・・。」
という思いで、硫黄島の戦争から生き残ったように
自分が体験したことを記録に残すことに
大きな使命を感じていたみたいです
しかも、その思いは、帰国した後
ますます強くなりました
それは「戦いは、3月26日の総攻撃で終わったわけではない・
なかったことにされてきた過酷な実態を
このまま葬ってしまっていいのか」という思いでした
硫黄島の英霊達が、どんどん、日本人に
忘れられて、無視されるのが
きっと耐えられなかった
何かをせずにはいられなかったのだと思います
それで、日本に帰国した時からも
ずっと戦争で経験していたことを
右手の指が不自由な中、ノートに書きとめていたのです
だから、それは膨大な資料になりますが
長い間、日の目を見ることはありませんでした
備忘録として、人知れず、押入れに積み重なっていたのです
何故なら、秋草鶴次さんは、その日記を
両親が、見たら、どれだけ悲しむかと思うと
とても、世に出せなかったというのです
それで、両親が、この世を去った時
ノートに書いたメモを
原稿用紙に書きとめる決心をすると
昭和49年の初頭から初めて
原稿用紙、千枚を軽く超えているそうです
しかし、それが、本として
「17歳の硫黄島」という一冊の本になるには
2006年12月10日まで待たないといけませんでした
35年という年月が、必要だったのです
というのも、映画「硫黄島の手紙」で、完全に忘れられようとした
硫黄島の真実が、くい止められ
いえ、日本人が、忘れようとしていた
何か大切なことを思い出されはじめ
続いて、NHKのスペシャル「硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言」に
秋草鶴次さんが、登場したことで
マスコミの取材に、初めて、協力した事で、何かが、大きく動いたからです
というのも、秋草鶴次さんの部屋にある
膨大な資料を見た
取材ディレクターの人の
「玉砕の一語では、あの島で死んだ仲間たちの思いが
誰にも知られることなく、消えてしまう
それに耐えられるのか」という問いに
「耐えられないですね」と、秋草鶴次さんが
凄みを持って、返答した時に
たぶん、何かのスイッチが入ったからです
いえ、俺の推測では、取材ディレクターの背景にいた
多くの英霊達の叫び、思いが
秋草鶴次さんの魂に、完全に届いて
81歳の高齢だとか
今更、話しても無駄だ
右翼の人達の妨害が受ける
といった肉体意識の壁
邪魔するのを全部はねのけたのだと思います
しかも、俺は、その時に
きっと、硫黄島の英霊や、
秋草鶴次さんが、硫黄島で戦った戦友の御霊
本に出て来る人達も、本格的に、背景にツイタのではないか
必死で、英霊達が、応援していると想像していますが
もちろんそれを証明できる訳もありませんし
秋草鶴次さんが、そんなことを言った訳でもありません
でも、その後、2006年12月10日
わずかな日数で、「17歳の硫黄島」の本を出版し
81歳の高齢にもかかわらず
講演会を依頼されたら
全国を、自らの運転で
走っている姿を見ていたら
そうとしか思えないのですが
皆さんは、どう思いますか
是非、秋草鶴次さんの講演会のご縁があったら
皆さんの目で、直接、確かめて頂きたいと思います
第285号 「秋草鶴次さんの講演 17歳の硫黄島」
第286号 「秋草鶴次さんの講演 戦争体験」
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すべての読者の皆様に緊急連絡
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緊急連絡です
2010年、12月23日〜26日
金沢済度の旅をした事で
俺は、2011年〜2012年12月23日
俺の50歳の誕生日で
フォトンベルトに突入するとか
マヤ歴の予言でも
人類が滅亡するかもしれないと言う日まで
俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました
と言うのも、俺は、1993年10月1日
18年前に、何故縁の花を書き始めたのか
この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
目には、見えない存在を救い切る覚悟です
是非、キクの命がけのお願いです
「2011年、縁の花の読者の皆様へ
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をお読み頂きたいと思います』
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