縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

286

秋草鶴次さんの

講演 戦争体験

 

∞「秋草鶴次さんの講演 

戦争体験 奮闘記」∞

秋草鶴次さんの講演で、最初に話してくれた

体験談は、米国の空襲の話から始まりました

米軍は、硫黄島に上陸する前に

空襲を何か月間も仕掛けていました

それに対抗して、日本の戦闘機も戦いましたが

善戦はしても、数量で米軍にとても勝てません

日本は、すぐに制空権をなくして

一方的に、米軍の空襲を受けることになったのです

 

しかし、俺は、そういった戦史の話は

皆さんに、伝えるのは止めようと思います

秋草鶴次さんの講演会を、聞いている英霊達なら

戦争を体験しているので、秋草鶴次さんの話も

そうだったと実感で理解できると思いますが

戦争を体験したことがない人には

いくら聞いても、実感する事は無理だと思います

 

戦艦の砲撃は、凄まじかった

爆撃機B−24の空襲は、長く続いたとか

聞いても、やはり、あの場にいなかった人には

分からないと思うのです

 

しかし、俺は、秋草鶴次さんの話を聞いて

皆さんにお伝えしたい事もあります

その一つは、「17歳の硫黄島」の本で書いていましたが

硫黄島の地下壕の生活です

 

というのも地下壕の暑さに関しては

何度も皆さんにご紹介していますが

秋草鶴次さんの本でも

「昼も夜も変わらぬ暑さだ。

まるでオンドルが全開しているようだ。

暑いと思うとなおさら暑い。

汗が糊となって身体中の布を吸いつける

頭から煙が上るように湯気が立ち

レシーバの押さえる耳の感覚が薄れ

腎部が痺れてくる」

 

「通信科の隅にはバケツの水が用意されていた

常時、水番が見張っている

一度に小さな茶碗に一杯だけ飲めることになっている

水を飲むと汗が倍加するので控えたいが

やはりなによりも水が飲みたい

一度でいいから思い切り飲みたい

バケツの水は、水と言っても名ばかりで

しょせん雨水だし、硫黄ガスの独特な臭気と

室温を溶かしこんでいる

ゴミや微生物も見え隠れしていた

食事も握り飯がひとつきりだった」

 

まさしく、想像を絶する地下壕の世界で

硫黄島の兵士達は、戦ってくれたのだと思います

しかも、秋草鶴次さんは、通信兵なので

壕掘りをしなくてよかったですが

これも過酷な作業ですし

通信兵も、暑さと悪臭の漂う地下壕で

受信機の前の椅子に腰かけて六時間

片時もレシーバを放さないのは

想像以上に辛い作業だったそうですし

夜勤も当然あったのです

 

俺は、そんな硫黄島の地下壕の生活

当然、経験しないと分りませんが

それでも少しは理解できます

皆さんにも、知って欲しいと思うのです

 

また、硫黄島の兵士は、そんな過酷な条件の中で

必死で、米軍と戦ってくれた事も忘れてはいけません

秋草鶴次さんの講演では

有名な擂鉢山の戦いの話もありました

擂鉢山が、よく見える地下壕にいたのです

 

しかも、擂鉢山の頂上に星条旗が

掲げられた話は、感動しました

それで、ついに米軍に擂鉢山を取られたと思ったら

翌日の日章旗があげられていたそうです

擂鉢山を守っている兵士も

必死で、がんばってくれていたのです

 

また、それを見た米国が、再び、砲火の集中で

擂鉢山に星条旗を立てても

夜、日本の反撃で

日章旗が、翌日の朝には、日章旗が見えたそうです

 

その上、秋草鶴次さんの話で

俺が少し涙したのは、その日章旗は

普通の旗ではないという事でした

急拠作成した血染めの日章旗では

なかったかという事で

俺は、そこまでして戦ってくれた

硫黄島の兵士達に

心から手を合わせるしかなかったのです

 

そして、そんな硫黄島の兵達は

本当に、奮闘して、米軍に予想を

遙かに超える損害を与えました

兵器の質、物量では、圧倒的に勝るのに

日本軍2万1千名に対して、

米軍は7万と優勢だったのに

米軍は、日本軍よりも多くの死傷者を出しています

 

何故なら、日本軍の戦死者 20129名に対して

米軍は戦死者 6821名、戦傷 21865名だったからです

しかも、この損害の大きさにショックを受けた米軍は

次の沖縄戦でも、被害が大きかったことから

本土上陸を諦めた事は知られています

硫黄島の兵士達は、秋草鶴次さんのような17歳の若者や

40歳や50歳の年寄りの兵隊さんは

日本を救ってくれたのです

心から感謝したいですし

済度、成仏されることを皆さんと一緒に願いたいと思います

 

 

∞「秋草鶴次さんの講演 

戦争の悲惨さ体験記」∞

 

秋草鶴次さんは、講演の中で

硫黄島の兵士達が、どんな苛酷な環境に耐えたか

どんなに奮闘したかを話してくれました

でも、それだけでなく、戦争の悲惨さ

悲しさも同じぐらい話してくれました

 

しかもそれは、俺のまったく知らない話でした

硫黄島の兵士と言えば、日本軍と言えば

勇敢で、最後まで戦った兵士達

世界でも一番勇敢で

米国や世界を驚嘆させたと思っていましたが

それだけでなく、日本人も人間です

戦争は、本当に悲しいということを

痛感したのです

 

というのも秋草鶴次さんは

米軍の火炎放射で、送信所壊滅されたことを

本部に報告する為に、夜、伝令として走った時に

砲弾が至近距離で破裂して、右手の人指し指

中指、薬指を失い

左足にも、玉が貫通して

動けなくなったので

ドラム缶を横にした寝台の

お粗末な病院のような所に運ばれたのですが

そこでは、邪魔もの扱いだったそうです

 

 

殆どの兵士が、動けない

戦えない、秋草鶴次さんに対して

優しくする余裕はなかったというのです

 

その上に、秋草鶴次さんがいた玉名山地区隊は

通信科の残存兵は、負傷して動けないものを残して

3月8日に突撃したのですが

そこの陣地に、まったく顔の知らない硫黄島の兵士達が

居座るようになったというのです

 

しかも、その兵士達は、他の所から

移り住んだ兵士達ですが

そこでの世界は、弱肉強食の世界だったそうです

 

何故なら、陣地に新しく入り込んだ兵士は

武器を持っているので強いですし

軍人として、米軍と戦う意志もありませんでした

自分達の命を守ることしか考えていなかったのです

 

だから、負傷していて、満足に動けなかった

秋草鶴次さんのような人は、邪魔もの扱いだったそうです

食料とか、水を、渡そうとはしなかったのです

 

その上に、米軍が、迫った時は

同じ日本人同士で戦ったそうです

米軍は、水攻め、火攻めで攻撃してきましたが

日本軍は、反撃することはできません

陣地の中の壕で、じっと耐えることしかできなかったのですが

その時に、前線に置いておかれた負傷した兵は

水攻めや、火攻めで、苦しめられて

どうしても、うめき声を出してしまいます

でも、その声がしていたら、米軍の攻撃は続けます

 

なので、後方の安全な所にいる日本軍は

「うるさい」静かにしろと命令をしますが

命令されても、耐えられるものではありません

「熱いのに、静かにできる訳がない」

と返答したら、最後には、同じ日本人同士で

銃撃戦になったというのです

本当に、悲しい事だと思います

 

 

しかも、俺に、衝撃を与えたのは

「17歳の硫黄島」の本の最後

謝辞の中で

死を覚悟して敵前に身をさらし

爆弾や鉄砲弾による直撃弾などで

戦死する者の多くは「天皇陛下万歳」と

一声を上げて果てた

 

重傷を負った後、自決

あるいは他決で死んでいくものは

「おっかさん」と絶叫した

負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者からは

「バカヤロー」という叫びをよく聞いた

「こんな戦争、だれが始めた」と怒鳴る者もいた

壕内では、たいがい「おっかさん」と「バカヤロー」であった

という記述です

 

俺は、この秋草鶴次さんの記述に

戦争の悲惨さが溢れていると思いました

何故なら、負傷したり、病で苦しんだりしながら

亡くなった兵士達は、「痛いとか、苦しい」

という思いを持ったまま御霊になる

成仏できずに、この世に留まっていると思っていましたが

「バカヤロー」という憎しみを持ったまま

この世に残ってしまうとは思っていませんでした

それに、ショックを受けたのです

 

というのも「痛いとか、苦しい」であれば

誰も憎んでいないのでいいですが

霊界、あの世に帰れる可能性が高いですが

「バカヤロー」と誰かを憎んでしまったら

なかなか霊界に帰れません

 

しかも、そのバカヤローが

天皇陛下に向けているのか

太平洋戦争の時に首相だった、東条英機だったのか

それとももっと別な人物だったのか

はっきりしませんが

たぶん、亡くなった兵士達の御霊も

誰を憎んでいいのか、分からないまま

特定の人物を憎んでしまっていると思います

これでは、なかなか、成仏できないと思うのです

 

その上に、講演の後

一人の人が、秋草鶴次さんに

敵であった米軍に、助けられたことは

どんな思いですかと尋ねた時

秋草鶴次さんは、米軍は恩人ですと答えました

負傷した自分を、日本軍は、誰も助けてくれなかった中で

米軍だけが、助けてくれたというのです

これでは、敵であった米軍でさえ

御霊達は、憎むことはできません

米軍が、どんな姿勢で、どんな思いで

戦っていたのは、波動で、瞬時に

御霊達には分かるからです

 

 

だから、俺は、本当に、戦争は

悲しい、悲惨なことだと思いました

戦争で、例え勝ったとしても

多くの恨みや、憎しみを持った

御霊を作りだしてしまいますし

その御霊を成仏させることは

簡単なことではないからです

 

だって、同じ、謝辞の中で

秋草鶴次さんは、地下壕の中での生活は

人間界の極限に挑戦しており、いかなる文字を

並べても、その実情に迫ることは

不可能であると書いているからです

 

ですから、結局、戦争を経験していない人には

特に、硫黄島という想像を絶する戦場で

戦った英霊達、御霊の思いは

どんなに想像しても、分かってあげる事はできません

 

なので、なかなか済度、成仏してあげられません

それは、秋草鶴次さんのような

実際に、その場で、体験した人でないと

済度、成仏させてあげられないと俺は思ったのです

 

 

∞「秋草鶴次さんの

講演 戦争の意味」

 

秋草鶴次さんの講演は

最後に、この戦争の意味を

話してくれることで終わります

 

「あの戦争から60年以上

日本は、戦争をしないですんでいます

300万人もの犠牲者のもと今の平和な日本があります。

その亡くなられた方々の供養として、どうか皆さん

命を大切にし、少しでも長生きをされ、

この平和な時代を堪能してください」

ということで終わっているのです

 

また、俺は、そのとおりだと思います

これは、一緒に、この講演を聞いた

天皇の真実の河内正臣先生が

言っていることですが

日本は、あの戦争をすることで

日本の軍国主義を崩壊させて

民主的な自由な国になりましたし

アジア諸国を、植民地から解放する事で

戦後、日本は、世界から資源を得ることができて

豊かになることができました

しかも、戦後、世界は、人種差別を廃止することになって

黄色人種は、白人から差別されることもなくなりました

まだまだ、個人間の間では、人種差別はありますが

国家間ではなくなって、単一民族の日本は

平和な世の中になったのです

その上に、それからの日本は

昭和天皇の願いだった終戦

一度も戦争を経験しないですんだのです

 

でも、天皇の真実の河内正臣先生の話だと

それはすべて、あの戦争を戦って英霊達の

おかげだという事になります

何故なら、あの当時戦った日本の兵士達は

魂では、日本が、戦争に負けることも

本当に、苦しい戦いをすることも

全部分っていましたが

日本の軍国主義を壊し

何よりもアジア、アフリカ諸国を

植民地から解放して

人種差別のない世界にする為には

日本一国で、米国やイギリスなどの

連合国と戦わないといけないことを覚悟して

この世に生れ、見事、その崇高な使命を

果たした偉大な魂、英霊だという事になるからです

 

また、だから、天皇の真実の河内正臣先生は

日本の為に戦った英霊達を

戦後、何もしらない人達が

連合国のGHQに情報操作されて

侵略戦争をした人達という事で

英霊達の誇り、名誉を傷つけて

まったく感謝も、恩も感じていない

生き方を、本当に嘆いています

 

そんな日本人になったから

英霊達が、浮かばれないので

戦後の日本は、心の面でもおかしくなった

親が、子供を殺したり、子供が、親を殺したりする

世の中も、今の日本人の心が、まねいているというのです

 

 

そして、秋草鶴次さんの講演では

そこまでは言いませんでしたが

同じ思いではないか、俺はそう思っています

 

いえ、戦後、英霊達の存在は

60年以上も経過して

自分のような経験者がまったくいなくなることで

完全に、忘れられようとしている現実に

「死んでね・・・・意味があるのでしょうかね。

どうでしょうねえ。だけど無意味にしたのじゃ

かわいそうですねえ。それはできないでしょう

おめえ、死んで、意味はなかったなあ・・・・

ていうのでは、酷いですよね・家族に対しても

そして、どんな意味があったかというと

これは難しいんじゃないですか」

 

「まあ、(死んだ戦友にたちに対しては)

俺はこういう生き方しかできなかったんだ

勘弁してくれって言うだけです

これで許してくれ、これで精一杯なんだ、と」

という言葉しか、出ていないのではないかと思います

その答えは、まだ、秋草鶴次さん自身

出ていないと思うのです

 

しかし、俺には、その答えは分りませんが

一つだけ、はっきり言えることはあります

それは、60年以上経過した2006年に

秋草鶴次さんが、「17歳の硫黄島」の本を書き

今、こうして講演活動を、80歳でしていること自体

大きな、意味があるという事です

 

何故なら、硫黄島の英霊達は

秋草鶴次さんに、何かを伝えたいから

何かをして欲しいから

そういった願いがあるから

80歳になった秋草鶴次さんに

講演活動をさせていると思いますし

その必要性が、まったくなかったら

秋草鶴次さんが、この歳になってから

講演をするなんていう奇跡がおきるはずがないと思うのです

 

 

また、その必要性が考えたら

今回、金沢の済度場に、秋草鶴次さんに来て頂いて

済度の先生や、済度の人達や、多くの一般の人達の前で

講演して頂いたことも、大きな意味があると

俺は、確信しています

 

というのも、俺は、大東亜戦争、太平洋戦争を経験した英霊や

その犠牲で亡くなった御霊達は

まだまだ供養、成仏していないと思います

成仏していたら、靖国神社の問題一つとっても

こんなに、中国、韓国を巻き込んで

大騒ぎになる事はないからです

 

でも、それは言いかえるなら

大東亜戦争や太平洋戦争で亡くなった英霊達は

何の為に、戦ったと言えば

あんな過酷な、人間界とは思えない戦争を経験したかと言えば

供養、成仏、済度されるからだと思います

 

だって、済度されたら

供養され、成仏されて、あの世に帰ることができたら

今までのすべての辛いこと、悲しかったこと

恨み、憎しみ、怒りも

すべて感謝、ありがとうございますに

変えることができるからです

今まで、それがあったから

あの人に、こんなことをされたから

今、私は、成仏できたという事になるのです

そんな180度の大逆転が起きて

すべての因縁が消えるのです

 

だから、俺は、これからの秋草鶴次さんの

活動の意味は、とても大きいと思います

今後、秋草鶴次さんが、再び、金沢の済度場で

講演して頂けるのか

どこで、講演されるのかは分りませんが

硫黄島から生還した秋草鶴次さんには

硫黄島だけでなく、多くの英霊が

供養されたい、成仏されたいと願って

秋草鶴次さんの背景にツクと思うからです

 

 

そして、金沢の済度場で

今回、秋草鶴次さんと、講演会やその後の会や

翌日の真朝、4時半の済度に参加して頂いて

会った済度の先生や済度の仲間は、

今後、ずっと秋草鶴次さんのことを願います

秋草鶴次さんの背景にいる英霊、御霊達が

成仏、済度されることをずっと祈り続けると

俺は、確信しています

 

だって、それが、済度だからです

魂の約束で、秋草鶴次さんとは

魂の仲間になったからです

是非、そんな秋草鶴次さんの活動が

ますます、発展していくことを

皆さんと一緒に願いたいと思います

 

 

∞「秋草鶴次さんの

講演 済度のご縁」∞

 

秋草鶴次さんの講演の事で

いろいろ書かせて頂きました

最後に、俺が、皆さんにご紹介したいのは

秋草鶴次さんと、済度の不思議なご縁です

 

と言って、秋草鶴次さんが

たった1回の金沢の済度場で

講演してくれた事や

その後、済度の先生や済度の仲間と会って

真朝の早朝済度に参加してくれた

1泊してくれたご縁だけなので

済度に関して、どのくらい理解しているかは

俺は分りません

なので、秋草鶴次さんが、済度の仲間に

なったというような誤解はしないで下さい

秋草鶴次さんは、済度とは関係ないのです

 

だから、これは、あくまでも

俺が、「17歳の硫黄島」の本を読んで

感じた感想というか、思いなのですが

俺は、済度とご縁をある気がしたのです

 

というのも、俺が、そう思ったのは

秋草鶴次さんも、「17歳の硫黄島」の中で

自分のことを、俺と書いていることです

 

でも、この俺ですが

自分のことを俺と書く人はそんなにいません

マンガなどでは、サラリーマン金太郎で

矢島金太郎が、俺といっていますが

俺と言ったら、やんちゃとか

不良といったイメージがあって

なかなか普通の人は使わないのです

 

しかし、済度人にとっては

俺というのは、当たり前の言葉になっています

何故なら、済度の先生は、講演会なので

必ず、俺という言葉の意味を必ず話してくれます

 

それは、俺という字を分解すると

人という字と大きいと申すになりますが

この申すも、田を通しています

即ち、田は、宇宙という意味があって

それを、大きく申す、人というのが

俺の意味だそうです

大きく、宇宙を語る人物だというのです

 

しかも、この俺は、折れるということで

謙虚な人物、慈しみ深いという人物という意味もあるそうです

なので、きさまは、貴様

貴方、様で分るように

本当は、俺にしろ、貴様にしろ

素晴らしい言葉なのに

誤解されて伝わっているという事になるのです

 

だから、俺は、済度の先生も

講演会で、俺という言葉を使うことを勧めていることもあって

意識して、今がますます幸せだと気がツクには

シリーズのメルマガや

普段の会話では、俺という言葉を使っていますが

秋草鶴次さんも、俺という言葉を使うので

何か、済度人のご縁を

17歳の硫黄島」の本を読んでから

ずっと感じていたのです

 

また、俺が、もう一つ、済度のご縁を感じたのは

秋草鶴次さんは、硫黄島の地下壕の中で

意識混濁に陥ったところを

奇跡的に、米軍に救われていますが

その時に、臨死体験のようなものをしています

 

それを少しご紹介すると

「故郷の大勢の人々が、こっちを向いて

遠くで、手を振っている・・・・・

足を水につけた。気持ちがいい

思わず両手に救って飲んだ

続けて三杯も飲み干した

甘茶のような味がした・・・」

 

「目の前に現れた風景に

俺は、驚いて自分の目を疑った

太平洋の広さにも似た広大な花畑だ

一望の楽園である・・・・」

 

少し奥に入ると文殊菩薩と名乗る人に出会った

その人は「ここまで来たら、もうお帰りなさい」と言う

「ここに来ると食べ物はいらない。水もいらなくなる

でも、あなたはお腹が空いていて、水も飲みたいと思っている

だから、腹一杯食べて、水をたくさん飲んでから来なさい」

と言ったとあります

秋草鶴次さんの本「17歳の硫黄島」の終わりには

そんなエピソードを紹介されているのです

 

ただし、残念ながら、秋草鶴次さんは

それを、夢、幻、幻想を見たと感じていて

真実とは捉えていません

講演会の時、質問の時間に

済度の仲間が、この臨死体験の事で質問したら

はっきりと、幻を見ましたと答えていたからです

 

しかし、俺は、済度人として

この秋草鶴次さんが、体験した臨死体験のようなものは

幻想などではなく、本当の事ではなかったと思っています

 

というのも、文殊菩薩が

「ここに来ると食べ物はいらない。水もいらなくなる

でも、あなたはお腹が空いていて、水も飲みたいと思っている

だから、腹一杯食べて、水をたくさん飲んでから来なさい」

と言ったという事ですが

このこと自体、まさしく済度そのものの考えだからです

 

何故なら、済度の先生は

御霊になったら、水も飲む必要ないですし

お腹も空かないですが

死ぬ時に、水が飲みたかった

お腹一杯、食べたかったという思いがあったら

それは、執着として

思いとして、ずっと残ると教えてくれています

一つの波動として、思いとして

消えることがないのです

 

しかも、その思いは、御霊になってしまうと

なかなか消すことはできません

御霊になったら、何かを食べようとしても

掴むことさえできないからです

映画などで、よく出てくるシーンですが

掴もうとしても、この世のものとは

波動が合わないので、掴むことができないのです

 

だから、御霊になってしまうと

一切、食べることはできません

いくら仏壇に、食べ物や果実を

お供えしても、御霊は食べられません

なので、水を飲みたかった

お腹一杯、食べたかったという思いは

いつまでも消えることはなくて

この世に、留まってしまうというのです

 

でも、そんな御霊さんを

救ってあげる方法はあります

それは、そんな御霊達に

生きている人が

心のチャンネルを合わせて

「一緒に、一緒に」という心で

常に、食べ物を食べたり、水を飲んだり

してあげることですが

秋草鶴次さんが見た文殊菩薩は

そんな済度のことを、言っているような気が

俺は、しているのです

 

しかも、そんなことをしてあげられる人達

済度人こそ、仏の言う末法の世に出てくる

弥勒菩薩、菩薩だと俺は信じていますが

そんな菩薩が、17歳という若い年齢の秋草鶴次さん

に出てきたこと、単なる幻想と片付けられないことだと

俺は、思っているのです

 

 

だから、俺は、秋草鶴次さんは

同じ、済度の仲間として

この世に生まれてきた一人として

今後も、注目していますし

縁の花を通して、応援したいと思っています

 

秋草鶴次さんを通して、硫黄島の英霊達

数少ない戦場からの生還者として

大東亜戦争の英霊を

多くの済度人の仲間と一緒に

供養、成仏、済度させて頂きたいのです

 

是非、そんな活動を

皆さんも共鳴して頂けたら

同志になって頂きたいと思います

是非、どんな御感想でもいいので

よろしくお願いします

  第285号 「秋草鶴次さんの講演 17歳の硫黄島」

  第286号 「秋草鶴次さんの講演 戦争体験」

  

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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html