縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第293号

武田勝頼土佐の会の縁

∞「高遠(高遠城)饅頭食事済度」∞

縁の花第290号「黒鳥山公園食事済度」

縁の花第291号「黒鳥山公園食事済度体験談」で

俺が、職場の帰りに、黒鳥山公園に寄って

2009年5月26日から、ずっと御霊達と

一緒に、食事をする食事済度を始めたことを

皆さんにお知らせしました

 

3年前から、黒鳥山公園にある三慰霊碑の前で

済度の先生の光や願いを届ける

黒鳥山公園済度をずっと密かに

たった一人でしていましたが

それに、ご飯を炊いて、弁当箱に詰めて

おかずを買ったり、作ったりして

御霊達と食べる、食事済度を追加したのです

 

また、それについては

新たに黒鳥山公園食事済度を始めたことで

新しいブログ、黒鳥山公園食事済度ブログを

誕生させています

そこで、黒鳥山公園や自転車でしている

いろんな俺の済度、済度人「キク」の済度を

紹介しています

是非、見て頂きたいと思います

黒鳥山公園食事済度ブログ

http://saido1331.seesaa.net/

 

 

しかも、黒鳥山公園食事済度を始めた時に

閃いて、きっかけにして

黒鳥山公園は遠いので、参加できなくても

意識だけは参加してくれる

メル友の仲間や

ソフトバンクのただ友の仲間が

わずかですか、集まりましたと言うか

自然にできました

 

今は、黒鳥山公園食事済度が終わった後

黒鳥山公園で、1分間の済度の発表をするのを

楽しみにしながら、

黒鳥山公園食事済度を続けているのです

 

また、そんな黒鳥山公園食事済度を

行っていることで

俺には、不思議なことがいろいろ起きています

食事済度が終わった時に

嬉しい済度のメールを頂いたり

新たなご縁ができているのです

 

そして、その一つが、7月8日と7月9日

高遠饅頭済度をさせて頂いた時に起きました

というのも、黒鳥山公園食事済度ブログを

見てくれている済度の善友

もしかしたら、前世武田家の仲間の女性が

黒鳥山公園食事済度に対して

始めて、食べ物のプレゼントをしてくれたのが

長野県の伊那、高遠の名物高遠饅頭でした

ご主人からのおみやげですが

俺に、食べてと送ってくれたのです

 

それで、俺は、本当に喜んで

黒鳥山公園食事済度で

食事の後、高遠城饅頭を食べることにしました

黒鳥山公園の御霊達や

神々と食べることにしたのです

 

しかも、それだけではなく

高遠饅頭は、俺とは、前世のご縁がある

不思議な饅頭でした

送ってくれた善友は

女性だったので、どこまで歴史を詳しく理解して

送ってくれたのかは分かりませんが

いえ後で、分かった事ですが

そんなに意識せずに、無意識に送ってくれたみたいですが

俺にとっては、ただの饅頭ではなかったのです

 

何故なら、縁の花で、何回か、紹介していますが

俺の前世の一つは、戦国時代に登場した武田勝頼です

俺自身は、まったく、その前世の記憶はないのですが

不思議なご縁で、俺は、前世武田勝頼として

武田家の御霊の済度、武田家済度させて

頂いているのです

 

そして、そんな俺にとっては

450年前で言えば、信濃の諏訪高遠

少し前で言えば長野県上伊那郡、高遠町

今は、平成の合併で、伊那市高遠町は

本当に、懐かしい土地です

 

何故なら、武田勝頼は

幼い時期から、青年になるまで

この高遠の土地を治めていました

武田家にとっては、信濃四大支城の一つ

名城高遠城の城主でした

諏訪勝頼として

先祖代々、諏訪家が収めていた土地を

守っていたのです

 

しかも、その高遠城は

武田家の嫡男、武田義信公が

父、信玄公と対立して

自刀して亡くなって

勝頼が、武田家を継ぐことになった後

信玄の弟信廉が城主となりましたが

天正9年、武田家が滅亡する一年前に

勝頼の弟の仁科盛信が高遠城主となっています

武田勝頼は、一番信頼している弟に

重要な城、高遠城を任せて

織田家の侵攻を防ごうとしたのです

 

しかし、結局、武田家は

親族の木曾家の裏切りから始まった

織田家、徳川家の侵攻を防ぐことができませんでした

親族、一族、家臣は、次々と逃亡したのです

 

でも、高遠城の城主、仁科盛信と

諏訪家の兵達だけは違いました

織田信忠率いる5万の大軍に囲まれても

降伏勧告を受けても

3千の高遠城の兵は

一歩も引きませんでした

武田家の為

諏訪勝頼の為に、最後まで戦ってくれて

全滅しているのです

 

だから、そんな高遠城の兵達を思って

高遠城の名物、高遠饅頭を食べることは

武田家済度としてとても意味のあることでした

俺は、450年ぐらい前に

前世、武田勝頼として関わった

高遠城にいた、武田家、諏訪家の御霊のことを

思いながら、成仏を願いながら

高遠饅頭、高遠城饅頭を

7月8日と9日、二日間かけて

一緒に、一緒に食べたからです

 

しかも、その時に

少しだけ不思議なことがありました

7月9日、木曜日、黒鳥山公園の上のベンチで

食べていたら、突然、風が吹いてきたからです

これは、偶然と言えば、偶然ですが

俺にとっては、風林火山の風

御霊さんが、喜んでくれた気がしたのです

 

でも、そんな俺も

その日の晩、まさしく風林火山の風が

430年以上前の武田家、諏訪家の風

武田家、諏訪家の御霊の願い、訴えが

吹いてくるとは、夢にも思いませんでした

しかも、その風は、武田家からは

本当に遠い南国、土佐から吹いてきました

 

俺が、最も尊敬する志士

坂本竜馬が誕生した土地

来年の大河ドラマ「龍馬伝」の主人公

後に、三菱を起こした岩崎弥太郎を育てた土地

幕末に多くの志士を誕生させた

日本を救った藩の一つ土佐藩

NHKの2006年大河ドラマ「功名が辻」の主人公

山内一豊と千代、山内家から吹いて来たのです

 

∞「武田勝頼土佐の会の縁」∞

前号、高遠(高遠城)饅頭済度で

7月8日、9日、黒鳥山公園食事済度として

長野県(信濃)伊那市(伊那郡)の高遠饅頭を

武田家、諏訪家の御霊を思って

一緒に食べたこと、ご紹介しました

 

そうしたら、7月9日の夜

23時48分、南国高知県から

志士を多く誕生させた土佐藩、山内家から

長宗我部元親が活躍していた400年前から

風林火山の風、武田家の風が吹いてきたと

皆さんに言いましたが

その風とは、武田勝頼土佐の会の風でした

 

というのも、その日の晩

2009年7月9日 23時48分

岡林誠さんからメール頂いたのです

それは、最初は、本当に簡単なメールでした

一部を引用させて頂きますと

 

「私、岡林と申します。

たまたま、ホームページを検索していて

タイトル「武田勝頼の復活」

http://www.geocities.jp/ennohana/ennohana/232ennohana-9.htm

http://www.geocities.jp/ennohana/ennohana/232ennohana-10.htm

のサイトを発見しました。

この記事を書かれた方とコンタクトを

取りたいのですが可能でしょうか?

記事に書かれた内容に関する資料を当方は持っているのですが

貴殿のサイトには、こと細かに書かれており、驚いております

知りたい情報がいくつかございます。

どうか宜しくお願い致します。

岡林

 

というものでした

それで、俺は、早速、翌日の7月10日

6時47分に返事をしました

「岡林様、メールありがとうございます

「武田勝頼の復活」

見て頂いてありがとうございます

 

記事は、縁の花を書いている私

菊こと岩谷正が書いたものです

なので、遠慮せず

聞きたいことがあったら

聞いて下さい

私で、お答えできることは

お答えしたいと思います

 

岡林さんとご縁が持てて

いつも、ますますツイテル岩谷正より」

 

また、同時に、俺は、嬉しかったです

何故なら、武田家のことで

メールを頂ける人は、そんなにいませんが

いえ、殆ど、いませんが

結構、ご縁が繋がります

 

きっと前世、武田家の縁で

つながっているからなのか

末永く、ずっと縁が持てて

前世武田勝頼の母とはもう10年くらいになりますし

他にも、黄桜さんとも5年以上

勝頼の姪とも3年以上

ご縁を頂いています

武田家のことで、連絡したら

ご返事を頂けるのです

 

だから、俺は、岡林誠さんとのご縁も

いい、御縁になることを願いました

心の中で、武田家の御霊に、ご報告して

岡林さんの縁が、繋がることを願ったのです

 

また、岡林誠さんからも

7月10日 8時47分に

ご返事頂きましたが

それは、驚く内容でした

今まで、俺が、前世、武田勝頼として

活動していたことが

180度、変わってしまう

仰天の重要情報だったのです

 

引用させて頂きますと

「縁の花御中

岩谷正さま

 

メールの返信をありがとうございます!岡林でございます。

私も縁が持てました事を感謝致します。

 

武田勝頼が土佐で没して今年で400年という節目にあたり、

四国の武田家の子孫達、同族会で400年記念イベントを行う予定です。

 

貴殿の書かれておりました、記事には長宗我部氏との関わりも書かれておりましたとおり

土佐には、甲斐武田と、信濃の血筋の者が早くから広く活躍しており、

勝頼が天目山では自刀せずに、群馬〜今治(愛媛県)に行き、そして土佐に落ち延び

良い半生を送りました。

ですが、勝頼は己が武田勝頼である事は口外してはならないと決めて、

以降、大崎八幡宮の神官だけが25代目、昨年まで隠して参り、

昨年公開をする事に至りました。系図と史跡、宝物、奉納物や年代などの整合性など博物館の館長様も驚かれる程のものが残っております。

また、夫人と共に広めた玄蕃まつり、玄蕃おどりが残っております。玄蕃太鼓もございます。

関ヶ原にも参戦した様なのですが、そこの辺りの資料は不明で、インターネットで検索しておりましたら

貴殿のサイトに辿りついた次第でございます。

 

これは何かの良いご縁だと思い連絡をさせて頂きました。

 

今年は8月22日に武田勝頼400年祭【夏の陣】

10月10日武田勝頼400年祭【秋の陣】(こっちが本番)

 

諏訪の勝頼の母君を祀られている観音院からも住職様が法要に来られます。

諏訪の観音院には3つでセットの三観音の一つ、3つでセットの手鏡の1つが昔から欠けておるのですが

その内の1つづつが全て、土佐の大崎八幡宮と観音堂には400年以上前より祀られており。

400年の時を越えて謎とされてきたパズルが急速に揃いつつあります。

 

また今後とも宜しくお願い申し上げます。

 

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武田勝頼土佐の会メールマガジン

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というものでした

武田勝頼は、1582311日、

織田軍によって、天目山で妻や子供の信勝と自殺

これにより信玄公依頼、戦国最強

と言われていた武田氏は滅亡したと

俺自身、前世、武田勝頼としての記憶は

まったくありませんが

そのことは、一度も疑ったことはなかったので

本当に驚いてしまったのです

 

ただ、俺自身、岡林さんから

武田勝頼土佐の会のホームページ

ご紹介して頂いたので思い出しましたが

武田勝頼土佐の会のホームページは

つい最近、一度か、二度、インターネットで

武田勝頼で検索した時に

たどりついて、見たことがありました

 

確か、2年ぐらい前までは、検索した時には

武田勝頼土佐の会のリンク

ありませんでしたが

去年から、武田勝頼で、検索したら

上位の2番に出てくるのです

なんだろうと思って、見た記憶はあるのです

 

しかし、その時は少し見て

武田勝頼は、実は、土佐で生きていたという説に

驚きましたが、とても信じられなかったので

深く見ようとはしませんでした

前世武田勝頼だと、信じている俺にとっては

武田勝頼が土佐で、生きていたというのは

明智光秀は、実は、家康に仕えた天海だったとか

豊臣秀頼は、島津家で、生きていた

上杉謙信公は、実は、女性だったというような

歴史のミステリーとして

いろいろ紹介されている面白い説で

すませられる問題ではなかったのです

 

しかも、正直に言えば

武田家を滅亡させた張本人の武田勝頼が

天目山で亡くなった多くの家臣を

犠牲にして、土佐でおめおめと

生きていたという話です

心情的にも、受け入れることはできませんでした

 

いえ、何よりも

俺は、皆さんに、お伝えしたように

天目山で亡くなった武田勝頼は

御霊、霊になって

上杉景勝公の正室、菊姫の背景にツイテ

戦国の世が終わるのを見届けたと

今でも、本気で信じているので

とても、武田勝頼土佐生存説は

信じられなかったのです

 

 

でも、それは、きっと

それだけの理由ではなく

今から思えば、武田家の御霊達の配慮

願いだったと思います

何故なら、俺が、その時に

関心を持って

武田勝頼土佐の会にメールして

ご縁を持っても

素直に、その情報を

天からのメッセージだと、素直に

受け入れることはできなかったと思います

 

 

だから、武田家の御霊達は

武田勝頼土佐の会の皆さんから

岡林誠さんから

一番適切な時期に

ご縁を頂けるようにしていたと思います

それまでは、俺からは

武田勝頼土佐の会の

ホームページの存在は知らせても

詳しく見ないようにして頂いた

関心は持たないように

仕向けられていた

そんな気がするのです

 

なので、俺は

武田勝頼土佐の会のご縁を

素直に受け入れることにしました

その説を頭から、否定するのではなく

検証は、専門家の人々に任せて

俺自身は、そうかもしれないと

まずは、認めることにしたのです

 

だって、今までも、前世の記憶が、まったく無い俺が

前世、武田勝頼として、いろんな活動を

することができたのも

武田家済度をさせて頂けたのも

すべて、武田家のご縁を

素直に受け入れたからです

 

それは、必要な御縁

武田家の御霊のメッセージ

天からの願いだと

感謝して

何よりも、武田家、諏訪家の御霊の

成仏、供養、済度されることを

願ったからです

 

ですから、俺は

岡林誠さんに

失礼のないように

武田勝頼土佐生存説を

否定しないように

これからも前世、武田勝頼として

ご縁を持たせて下さい

というような内容のメールを

送信したのです

 

『岡林様、メールありがとうございます

御縁に感謝です

 

また、岡林さんに紹介して頂いた

武田勝頼土佐の会

インターネットを通して

知りました

 

武田勝頼が、土佐で生きていたということ驚きました

北条婦人と一緒に、生きることができた

なんて素晴らしいことだと思います

 

ただ、俺自身、前世、覚えていないので

何とも言えませんが

いろんな証拠があった上で

信念を持ってしていること

それは、よく分かります

 

一度、ご縁があれば

土佐で、お会いしたいと思いますが

大阪から、土佐は遠いです

 

でも、これを御縁に

是非、親しくさせて下さい

よろしくお願いします

 

メルマガの会員にも登録して

読ませて頂きたいと思います

 

勝頼が、土佐で生きていたことを知って

いつも、ますますツイテル岩谷正より』

 

 

∞「武田勝頼400年記念

イベントに参加します」∞

武田勝頼土佐の会の岡林誠さんとの

メールのやり取りは、本当に楽しいものでした

7月11日に、俺が、前世、武田勝頼として

ご縁を持たせて頂きますと、送信した簡単メールにも

ご丁寧なご返事頂けました

 

引用させて頂きますと

『縁の花 岩谷正様

おはようございます。岡林です。

ホームページを拝見させて頂き、素晴らしい内容に感銘を受けました。

また武田勝頼公の記事は子孫の方達や、不遇な運命で散って行った武田家の御霊も喜ぶ内容です。

私も貴殿にお会いする機会があれば幸いであると思います。

遠い場所ではありますが、つながりを感じます。

不思議な縁の広がりで、前世で縁のあった者同士を呼び合っている様な気がします

 

8月22日や10月10日には、400年記念イベントで、滅びたとされている武田家の子孫一族が集まります。

岩谷正様はその場所に集まるのに相応しいお人だと思います。

また復興を願った諏訪氏の一族も長野県から集まります

 

この土佐の地で勝頼の夫人や子供達は、香宗我部(長宗我部)、小笠原家、片岡家などの親戚筋に護られ災難に遭う事なく、玄蕃まつりを民衆に広めたり、治水工事技術を教えたりして健気に楽しく過ごしました。

武田家の親戚筋は、武田の正当な血を受け継ぐ者達を養護する事で、更に自分たちの家を栄えさせたそうです。

 

この玄蕃おどり等は土佐では「よさこい」踊りに次いで広く知られておる踊りです。

戸次川の合戦にも参戦して無事戻って来ております。

 そして勝頼は、戦いや、武田一族のしがらみの中で、天下よりも戦国時代の終結を願った様です。

記録では残っていませんが、1600年以降の関ヶ原の戦いに参戦する時に、夫人に全部の戦いを終わらせて帰って来ると言われたようです。

勝頼は名前を「大崎玄蕃」と変えておりました

 

その戦いより数年間もお家の復興に力を注ぎ1609年に夫人に看取られ亡くなりました。

人生の後半は、親族に養護され、民衆に楽しみを教えたりして、良い人生を送ったと考えられます。

嫡男の信勝、孫の信房達も広く活躍しており、大阪夏の陣への参戦、津野氏の頭首の代役を務めたりしております。

山内氏が長宗我部を破って土佐に入って来てからも、土豪たちは、勝頼達を安全な場所へ移し、現在まで滅びる事なく発展して来ました。

地元の民にとても慕われていた事が伺われます。

今後とも宜しくお願い致します

岡林誠」

 

というものでした

それで、俺は、本当に嬉しかったです

岡林誠さんが、縁の花を、ちゃんと読んでくれたこと

縁の花の記事を、武田家の御霊が

喜ぶ内容だと評価してくれたこと

前世、武田家のご縁を、肯定的に考えてくれたこと

そして何よりも、武田勝頼公400年記念イベントに

「岩谷正様はその場所に集まるのに相応しいお人だと思います」

ということで、正式にご招待してくれたことです

俺は、これは、行かない訳にはいかないなと

覚悟したのです

 

また、気になっていた

武田勝頼が、土佐で生きていた生活も

悪くはありませんでした

土佐で、ぬくぬくと生きていたら

武田家の御霊に、申し訳ないと思っていましたが

武士としての気持ちは捨てることなく

長宗我部家が、四国の大名達と連合して

豊臣の軍として、島津氏と戦って、大敗した

嫡男の長宗我部信親が討たれると言う

戸次川の合戦に参加して

何とか生き残ったそうですし

関ヶ原の戦いに参戦したというのも

そこで、どんな活躍したのかは分かりませんが

戦国時代の完全な終わりを

見届けたという意味でも

よかったと思いました

 

その当時の前世の記憶がまったくない

俺が、言う資格はありませんが

やはり、武田勝頼には、武将として

生きていて欲しかったのです

 

しかも、俺が、最も嬉しかったのは

武田勝頼や妻の北条婦人、嫡男の信勝は

土佐の武田家の一族の人達に

大切にされながらも

調和して、暮らしたということです

武田勝頼と言ったら

どうしても、親族、家臣とはうまくやれない

わがままなイメージがあったので

それを覆す話に、少し、ホッとしました

それが、真実だとしたら

400年以上も、その秘密を守り抜いてくれた

土佐の武田家の一族人達には

本当に、感謝で、一杯になったのです

 

だから、俺は、今までのご縁で繋がった

武田家の前世の仲間達や

新しくできた、前世武田家の済度の仲間に

武田勝頼土佐の会の

驚くべき情報を、簡単に説明した後

岡林さんのメールを載せたものを

伝えると

400年の記念イベントに

一緒に、参加しないかというお誘いをしました

 

武田勝頼土佐の会の人達には

武田家好きな人達ということで

400年記念イベントに

参加させて頂いて

心の中では、武田家の済度

430年前に武田家が滅亡した御霊や

天目山で、武田勝頼を逃がす為に亡くなった御霊を

供養、成仏、済度したいので

皆さんも一緒にいきませんか

とお誘いしたのです

 

 

そうしたら、早速、前世武田家の仲間や

前世、武田家の済度の仲間は

全員、返事をくれましたし

心配した、否定する意見もありませんでした

皆さん、武田勝頼が、土佐で

生きていたという情報に

驚きながらも

そういったこともあるかもしれないとか

鳥肌がたったということで

肯定に受け入れてくれました

是非、参加したいとか

土佐は遠いけど、いけないけど

全員が頑張って欲しいという意見だったのです

 

だから、俺は、そういった皆の意見に

自信を持つと

何人かの仲間と

8月22日の記念イベントに

参加する意志を、岡林さんに述べました

 

武田勝頼としての記憶がまったくない

前世武田勝頼なので

勝頼が、土佐で、生きていたことに関しては

何とも言えませんし

勝頼親子を逃がす為に

天目山で、おとりになって死んだ

影武者や家臣や、婦人のお付きの女中のことを思うと

本当に、申し訳ない気持ちで、一杯ですが

430年前に、亡くなった武田家

諏訪家の御霊を供養させて頂く為に

参加させて頂きますと

ご返事したのです

 

 

武田勝頼土佐の会と武田勝頼没400年記念イベント夏の陣コーナー


第293号 「武田勝頼土佐の会のご縁」 

第294号 「あたたかいになった武田勝頼」 

第295号 「武田勝頼土佐生存説は本当です」

第296号 「武田家岩戸開き」

第297号 「奇跡の武田八幡饅頭の同志と宇宙全体の因縁を済度します」 

第298号 「武田勝頼没400年記念イベント夏の陣」に参加してきました」

第299号 「武田勝頼没400年記念イベントでしっかり武田家済度しました」



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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html