縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第294号
あたたかいになった武田勝頼
∞「やっと、武田勝頼土佐説の
わだかまりがなくなりました」∞
正直に言えば、武田家を滅亡させた
張本人である武田勝頼の為に
天目山でおとりになった武田家の御霊のことを
考えたら、申し訳ない気持ちで一杯ですが
前世、武田家の仲間と
8月22日、武田勝頼没400年記念イベントに
参加して、済度させて頂きますと
岡林さんに、メールすると
すぐに、返信頂けました
岡林さんは、すぐに、返事くれるので
とても助かります
しかも、その内容は
俺自身、驚くべきことでした
一部を引用させて頂きますと
『縁の花 岩谷正さま
おはようございます。岡林です。
丁寧なメールのご返信を頂きまして、ありがとうございます(^^)
そうですね、勝頼と夫人たち一行は、土佐へ無事に落ち延びる事ができた時
武田に仕えた者達、犠牲になった者達に申し訳ないという気持ちがあったものと思われます。
「玄蕃おどり」という踊りは勝頼と夫人が広めたもので、御霊供養の踊りでもあり、豊年おどりの踊りでもありました。
豊年おどりというのは、今の自分たちが無事でいられた事、豊作だった事を御霊に感謝する踊りです。
古い系図には、「源破おどり」とも言う、と書かれております。これも先祖祀りを意味しております。
勝頼と夫人、信勝等はこの先祖供養の踊りを土佐全土に広めております。
甲斐の川(現在は貝の川と呼ばれる)では、古くは武田氏ゆかりの者達が集まり川渡しの儀(灯籠ながし)が
行われていたと言われております。現在は河川環境の保護の名目で残念ながら行われなくなってしまいました。
これらの祀りが、地域の人々に受け入れられた背景には、
四国が古くより、武田の親戚筋が多く入ってきていた事から、
武田氏が事実上滅びた事を嘆いた者が多かったからだと言われております。
甲斐の武田の血族は特別な扱いを受けて現在まで養護されて来ました。
山内氏が入って来て、長宗我部氏は破られましたが、
長宗我部に近い関係にあり、武田の末裔である香宗我部氏は、長宗我部元親が香宗我部氏は助けてくれと言って
香宗我部氏は滅びずに、現在に至ります。(勝頼たちは香宗我部氏に養護されておりました)
また山内一豊も、武田の血族は自ら進んで雇い、紙漉や治水の技術を手に入れて行きました。
その技術は現在も、武田の残したものとして語り継がれ、伝統が残っております。
8月22日、10月10日に、誘い合わせて来て頂けること、誠に感謝いたします!
お会いできる事を、心待ちに、楽しみにしております。
とありましたが
俺が、嬉しかったのは
武田勝頼と若い北条婦人が
御霊供養の踊りでもあり、豊年おどりの踊りでもある
「玄蕃おどり」というものを
土佐全土に広めたということです
しかも、その「玄蕃おどり」とは
高知県では、二番目の知られている踊りだそうです
ただ、前世武田勝頼としての記憶がない俺には
「玄蕃おどり」と言うのが
どんな踊りかは分かりません
でも、大変興味があります
当日は教わって踊ってみたいと思います
それが、本当に、楽しみになったのです
だけど、それよりも、俺が、嬉しかったのは
武田勝頼や北条夫人、信勝が
そういった踊りを広めた気持ちには
自分達を逃がす為に
おとりとして、天目山で亡くなった、殆どの家臣は逃亡して
数は、50人程度と言われているのですが、それだけに
最後まで、自分にツイテ来てくれた
千人切りの活躍をした土屋昌恒や
小宮山友晴、安倍勝宝といった真の武田家臣や
北条婦人に最後まで仕えて
天目山で自害した付き人の女性に対して
心から、懺悔する気持ちがあったからだと思うからです
だって、勝頼親子が、土佐で、武田一族の人に守られて
平穏に生きていけるようになったのも
あの時に、おとりになってくれた人達のおかげです
感謝しないはずがありません
それで、その人達を、供養する願いで
「玄蕃おどり」を始めたと思います
そんな土佐の武田勝頼の生き方を知って
俺は、土佐で、生きていた武田勝頼親子
を認める気になれたのです
しかも、そんな武田勝頼と
400年後の俺とは
御霊を供養するという思いで共通します
きっと、俺が、ずっと武田家済度を
させて頂いているのも
400年前の思い
甲斐、信濃の武田家、諏訪家の御霊を
供養したいという思いがあったからではないか
そんな気持ちがします
俺の、済度の原点の気持ち
分かったようで、嬉しかったのです
ですから、俺は、そんな武田勝頼の
土佐での生き方を知って
やっと、多くの武田家をおとりにして
勝頼親子が、土佐で
武将で、名門武田家の総大将だったのに
何よりも、武士なのに
おめおめと生き残ったことに対して
心境的に、わだかまりを取ることができました
もし、それが、本当だったら
その当時の武田勝頼自身、本当に悩んで決断した事で
何よりも、天の意志、魂の計画だったと
納得することができたのです
∞「武田勝頼土佐生存説について」∞
武田勝頼、親子が、土佐で
どんな生活をしていたか
ずっと、武田家や諏訪家の御霊のことを思って
成仏を願って、しっかりと武田家の跡継ぎとして
恥ずかしくない生き方をしていることを知って
やっと、武田勝頼が、土佐で生きていたことに
対するわだかまりがなくなりました
と前号で、書かせて頂きました
しかし、まだ、問題があります
甲斐、信濃から、織田軍の目から逃れて
全く、武田家臣団や
世間の誰にも気付かれないで
土佐まで、落ちることが
本当に可能だったのかという問題です
だけど、俺は、歴史の専門家ではありませんし
前世、武田勝頼としての記憶がないので
何とも、言えないというのが
正直な意見です
だけど、この問題は、俺は、俺なりに
考えたいと思います
でないと、前に進めません
是非、皆さんも、一緒に、考えて下さい
というのも、天正10年2月1日、木曽氏の裏切りから始まり
天正10年3月11日
武田家は、わずか、1カ月でちょっとで滅亡しました
でも、そんな呆気ない武田軍団の崩壊は、
あの当時、誰も予想できなかった
天才だった、信長でも、不可能だったと思います
それを、武田勝頼が、どこまで、予測していたかということです
俺は、それが知りたいです
だって、土佐に落ちるにしても
織田家にまったく気付かれないように
ここまで、内秘にできるということは
ある程度、準備が必要だと思います
それを、武田勝頼が、どこまでしたのか
俺は、関心あるのです
しかも、3月9日、小山田信茂の裏切りが、判明するまでは
討たれる二日前までは、戦国時代には東国の城郭の中でも
屈指の堅固さを持っていたことで知られた岩殿城に
行くつもりだったといいますが
どこで、影武者をおとりにする事にしたのか
一体、誰が、それを考えたのか、疑問はあります
あまりにも、時間がなさすぎる気がするのです
だけど、それでも、俺は、まったく、否定はできないと思います
何故なら、武田勝頼は、真剣に、織田信長と戦っていましたので
一番、武田家の現象を分かっていたと思いますし
小山田信茂の裏切りを知った後でも
二日間ぐらいは、余裕がありました
小山田信茂が、すぐに、攻めてきたということはないのです
それに、武田家は、宗家である甲斐武田が有名ですが
全国に、その一族は、広がっていました
戦国時代、歴史として残っているだけでも
現在の広島県、安芸国の守護は、武田家で、
武田元繁は、大軍だったのに
兵の数は少なかった、初陣の毛利元就と、戦をして
討たれたことは有名ですし
安芸武田家の一族は、若狭の守護も任されていました
若狭の国も支配することで、分かれることになったのです
でも、それだけでなく
俺自身、知らなかったのですが
他にも、上総武田氏、因幡の武田氏、常陸の武田氏
相模武田氏、真里谷武田氏、河窪武田家がありますし
名前は違いますが、岡林さんの言う通り
武田勝頼を引き受けてくれた、土佐の香宗我部も
武田一族でした
インターネットで調べたら
甲斐源氏武田氏の一族一条次郎忠頼に発すると書いていて
家紋は、武田家の家紋、四菱なのです
ですから、その当時
これだけ全国に広がった一族はないという武田家の
宗家だった、甲斐武田家は、その血筋を使って
外交もしていたと考えられるので
土佐の香宗我部とも、親交はあったと思います
なので、いざという時は
武田勝頼自身、甲斐から落ちてでも
戦国武将の常識として
お家再興を考えていた可能性はありますし
比較的に、苦労せずに
土佐の香宗我部氏とも、内秘で
連絡を取れたかもしれません
その当時の武田家の力、縁から考えたら
武田勝頼親子、土佐生存説も
頭から、否定することはできないと思うのです
また、もっとも肝心なことですが
この時代は、死体を特定するのは不可能です
生首は、何日も経過したら、本人なのか
どうか、例え、身内でも分かりません
保存する技術はないので、すぐに腐ってしまいますし
指紋で、判断する技術もありません
なので、信玄公の時から、影武者を、何人も
使っていた武田家ですから
武田勝頼の影武者も用意していたとしたら
天目山で自害したのは、影武者の首だとしても
それを、判断することは不可能です
しかも、北条婦人や信勝の影武者も
用意していたのかは分かりませんが
武田勝頼に、武田家の滅亡の自覚があれば
その用意していたと思いますし
家臣の中で、志願する人がいれば
いたとしたら
すぐにできる事です
不可能ではないと思います
だから、天目山の武田勝親子は
影武者だったと言えば
科学的に、それを偽りだと証明することは不可能です
一部の側近の家臣だけ知っていたら
その家臣が、武田勝頼親子の為に
死ぬ気で、おとり役を実行してくれたら
俺は、天目山影武者おとり作戦は可能だと
思うのです
しかし、そうは言っても
織田軍は、もう甲斐に入っていて
信長の命令で
武田家の武将を、皆殺しにする
武田狩りを、激しくしていたので
その中で、逃げおおせるのは
大変のような気もします
でも、武士としての姿でなかったら
百姓の姿で、逃げていたら
武田家の忍者や
武田家の民の協力があれば
可能かもしれません
ここのところは俺にも
正直、分からないのです
是非、皆さんの考えを
聞かせて頂きたいと思います
∞「たたかいからあたたかいに
なった武田勝頼公」∞
前号、武田勝頼土佐生存説に関して
天目山で、亡くなった武田勝頼親子が、
実は、影武者だったというのが
果たして、可能だったのか
密かに、土佐の香宗我部に、
連絡を取ることが可能だったのか
俺なりに、皆さんと考えてみました
でも、俺自身、結論は
出せませんでした
たぶん、前世、武田勝頼として
記憶を思い出さないかぎり
結論は、でないと思います
また、この問題も、同じように
結論はでないと思いますが
もう一つ、俺は、皆さんと
考えたい疑問があります
それは、小山田信茂の裏切りを知った後
天目山に向かった、武田家臣団に
おとり役をして貰いながら
織田家の武田狩りから逃れて
密かに、甲斐、信濃を出て
まずは、今の群馬県、
その当時は、武田家の領土があった
西上野まで、行くことができたそうですが
だとしたら、何故、
武田勝頼を、武田家を守る為に
自分の城、上野吾妻の岩櫃城に
迎えようとしてくれた真田昌幸に
連絡を取らなかったということです
これが、俺には、一つの疑問なのです
ただ、これも、勝頼が
天目山で、自分が、死んだことになった後も
武田家の崩壊の勢いは、止まらず
いえ、武田家が、滅亡しただけでなく
武田家が、滅亡した事で
上杉家も、織田軍に、三方向から攻められて
大きな危機を迎えている今
真田昌幸が、自分を迎えたら
かえって、真田昌幸に迷惑をかけるので
あえて、連絡を取らなかったか
連絡はして、自分は健在だということは伝えても
真田昌幸に、自分が、健在だということは
絶対に内密にするように伝えて
静かに、西上野から去ったということは
十分に考えられます
何故なら、天目山で、死んだのは影武者で
武田勝頼親子は、岩櫃城で
生きているということが分かったら
騙されたことに怒った織田信長の命令で
間違いなく、織田軍が、迫ってくるのは確実です
しかも、その時には、いくら真田昌幸が、戦上手でも
岩櫃城が、堅固な城でも
織田軍に、大軍で囲まれたら
どうすることもできません
なので、勝頼は、自分に最後まで
忠誠してくれた真田昌幸に迷惑をかけたくなかった
真田家を、滅亡させたくないと考えて
岩櫃城に行こうとしなかった可能性は大ですし
真田昌幸は、自分の健在を知ったら
何とか、自分を、岩櫃城に迎えようとしても
真田家の家臣達が、小山田信茂のように
反対して、岩殿城に入れない可能性もあります
その時には、自分が、生きていることも
織田軍に知られてしまいます
だから、生き残った武田勝頼が
真田昌幸に頼ろうとしなかったのは
十分に考えられることです
むしろ、武田勝頼が、賢明なら
真田昌幸の城、岩櫃城にはいかないと思うのです
なので、俺自身、このことについては
自分自身で、納得できるのです
しかし、分からないのは
武田勝頼公の影武者が、天目山で亡くなった後
2か月ちょっとで、6月2日、本能寺の変が起きて
甲斐、信濃の情勢は一気に、激変しました
織田信長の暗殺を知った
武田狩りされていた旧、武田家臣団は
立ち上がると、一揆をおこし
織田軍を甲斐、信濃から追い出しました
織田家の武将を殺すか、追い出したのです
甲斐、信濃は、一時的に政治的
軍事的空白状態となったのです
ですから、この時に
武田勝頼が、西上野か
北条氏の関東、上杉家の越後
もっと遠い東北にいたとしても
武田家を再興する大きなチャンスでした
武田勝頼親子が、甲斐、信濃に入るだけで
主がいない武田家臣団は
勝頼の元に、結束する可能性が
高かったからです
その時は、駿河は難しくても
甲斐、信濃を奪回できる可能性は大でした
いえ、唯一、武田家が
戦国大名として、復活するチャンスだったのです
だけど、武田勝頼土佐生存説が本当だったら
生きていた武田勝頼は、そのチャンスに対して
まったく、行動を起こさなかったという事になります
俺は、それが、正直、疑問です
信長が、本能寺の変で
亡くなったことを知った時は
もう遠く、京都などの畿内にいたとか
四国に渡っていたら別ですが
他には、まったく考えられなかったのです
しかも、もし、そうだったとしても
いえ、そのこと自体も、なかなか
考えられません
何故なら、天目山で、武田家が滅亡した後も
甲斐、信濃は、武田狩りで危険でしたし
同盟の上杉家にも、織田軍が迫っていました
その上に、駿河も、徳川家に抑えられました
この当時、西に行くルートは
簡単にはなかったのです
ですから、隠密に行動していた武田勝頼親子が
そんな中で、2ヶ月後には
もう甲斐、信濃から遠い西国
本能寺の変を知った時には
もう、手遅れぐらい、遠い所にいた
と考えるのは無理があるのです
では、もし、武田勝頼が
信濃、甲斐に戻れる所にいたのに
本能寺の変を知っても
甲斐、信濃に入って
すぐに、武田家の旗を何故、上げなかったかということですが
俺には、全然分かりません
正直、皆さんに言えば
前世の記憶がないので、何ともいえませんが
やはり、いくら考えても理解不可能です
いえ、今の俺で考えても
織田信長の死を天意と考えて
命がけで、武田家の再興を考え
立ち上がったと思うのです
でも、武田勝頼公は
それをしませんでした
本当に不思議です
ただ、その理由は、俺に分かりませんが
一つだけ言えるのは
武田勝頼公は、武田家が滅亡した事で
戦が、嫌になったのか
何かを悟ることができたのか
たたかいからあたたかいになれた
たたかいに天のエネルギーの「あ」
かるいに「あ」をつけてあかるい、明るい
いじょうに「あ」をつけてあいじょう、愛情
の「あ」をつけた、人物になれた
人間的に、大きく、魂が成長で
きたのではないかと思うのです
是非、そんな新しい武田勝頼公の
あたたかい生き方
皆さんと一緒に学びたいと思います
∞「一人の武士として生きる
決心をした武田勝頼公」∞
前号で、武田勝頼土佐生存説が、本当なら
武田家滅亡も生き残っていた武田勝頼公は
武田家滅亡で、何かを悟って
武将としてのたたかいから
「あ」をつけたあたたかい
平和を望む温かい人物になったのではないか
俺は、そう書きました
何故なら、土佐で、武田家一族に
匿われて幸せに暮らしたという
武田勝頼公の生き方は
武田勝頼土佐の会のホームページや
岡林誠さんのメールを読む限り
全く、別人と言っていいからです
少なくても、俺に、そう思うのです
また、そう考えたら
本能寺の変で、織田信長が
主君の明智光秀に暗殺された後
起死回生の武田家、再興のビックチャンスにも
あえて、何もしなかったことも頷くことができます
いえ、他には、俺は、考えられないのです
というのも、甲斐、信濃から
旧武田家臣団の一揆で
織田軍が、一掃されたからと言って
それで、武田家が、復活できる訳ではありません
歴史が、証明しているように
一時的に政治的
、軍事的空白状態となった
甲斐、信濃を支配する為に
大国、上杉、北条、徳川が
すぐに、入って戦いが始まったからです
だから、武田勝頼が、甲斐、信濃で
武田家の旗を立ち上げても
やはり、徳川家、北条家とは
戦になったと思います
武田勝頼は、その戦に勝たないといけなかったのです
しかし、俺は、その戦いに
武田勝頼は、勝てたと思います
だって、武田勝頼が、生きていたと
いうことが分かったら
武田勝頼が、上杉に、応援を求めたら
義に熱い、上杉家は、武田家を
必ず応援してくれたはずです
その上で、勝頼を身捨てた家臣団を
武田勝頼が、心から許したら
武田家臣団は、武田家に
続々と結集したと思います
だって、北条家、徳川家についても
新しい家臣として、組み込まれるだけです
それよりも、武田勝頼の新しい家臣として
やっていく方が、遥かに得だからです
その上に、武田勝頼には
先祖の土地を取り返すという大義名分があります
武田家の武将も、織田信長によって
酷い目にあって、武田家の良さが分かりましたし
人脈もあります
ここに、真田昌幸が、軍師としてついたら
武田家臣団が、すぐに結束できたと思います
また、そうしたら
徳川家にしろ、北条家にしろ
野戦での武田家の強さは分かっているので
しばらくは戦っても、勝てないので
武田家と戦うことは諦めて
和睦した可能性は高いです
上杉家には、川中島
徳川家には、駿河
北条家には、西上野の一部を与えて
武田家は、甲斐、信濃の大部分を
取り戻すことができる可能性大なのです
しかし、仮にそれが
うまくいかなかったとしても
武田勝頼が、信濃、甲斐に入るのが
遅かったり、人望がなかったりして
武田家臣団が、思った以上
集まらなくても
ある程度の影響力は発揮できました
だって、上杉家にしろ、北条家にしろ、徳川家にしろ
甲斐、信濃を治める為にも
武田家の支持が必要なはずです
なので、武田勝頼を、好条件で
重要な家臣として登用したはずです
例え、勝頼が、もうすでに
四国に渡っていたとしても
武田勝頼を、重要な家臣として
迎えいれたと思うのです
でも、武田勝頼は、どれも
しなかったことになります
名門、武田家再興にまったく関心が
なかったとしか考えられないのです
正直、そのことは、俺には
今でも、とても信じられないのです
ただし、それは、たたかいの武将としての
武田勝頼としては、考えられませんが
平和を望む、あたたかいになった
魂の成長した武田勝頼なら
考えられます
何故なら、武田勝頼が
甲斐、信濃で、すぐに
武田家の旗をあげたとしても
必ず、北条家、徳川家と戦になって
なかなか決着がつかない戦で
武田家の時から、疲弊している領民を
苦しめることになることは明白だからです
しかも甲斐、信濃を、何とか取り返したとしても
織田信長の跡を継いだ人物
豊臣秀吉の強大な勢力に
対抗することはできません
武田家は、どちらにしても
中央の勢力の家臣になることしか
道はなかったのです
だったら、武田家の武将として
これからも戦いに生きるよりも
武田家の今までのしがらみや
武田家を再興するというプライドも捨て
何よりもたたかいの心をあっさり捨て
愛する妻や子供と幸せに暮らす
一人の武士として
どこかで、ひっそりと生きることを
選ぶのも、一つの道です
いえ、この時には、武田勝頼は
そんな生き方で、生きる固い決心を
もうすでにしていたことになります
そうでないと、俺には
何故、勝頼が、この時に
自分の健在を名乗らなかったのか
その説明ができないのです
でも、もちろん、真相は、分かりません
それは、これから、武田勝頼土佐の会の資料を
見せて頂いて、歴史の専門家が
判断すると思うのです
ただ、俺としては
武田勝頼公が、その当時の常識
お家再興という思いを捨てて
武田家再興の望みがあったのに
一人の武士として
ひっそりと生きる決心をしていたことに
その決心を覆さなかったことに
驚愕してしまいますし
武田勝頼土佐生存説が、本当なら
そんな武田勝頼公を、心から尊敬したいと思います
ただし、400年の前世、武田勝頼の俺が
そんなにすごい人物だったのか、とても疑問ですが
これから、皆さんと、どんどんと
そんな武田勝頼公の新しい生き方
隠されていた真実を
学びたいと思います
武田勝頼土佐の会と武田勝頼没400年記念イベント夏の陣コーナー
第293号 「武田勝頼土佐の会のご縁」
第294号 「あたたかいになった武田勝頼」
第295号 「武田勝頼土佐生存説は本当です」
第296号 「武田家岩戸開き」
第297号 「奇跡の武田八幡饅頭の同志と宇宙全体の因縁を済度します」
第298号 「武田勝頼没400年記念イベント夏の陣」に参加してきました」
第299号 「武田勝頼没400年記念イベントでしっかり武田家済度しました」
縁の花 全号紹介コーナー
縁の花 トップページに戻る
キクとバーチャルの仲間のブログサイト
2011年 縁の花お手紙
すべての読者の皆様に緊急連絡
『この縁の花を読んで頂いている皆様へ
緊急連絡です
2010年、12月23日〜26日
金沢済度の旅をした事で
俺は、2011年〜2012年12月23日
俺の50歳の誕生日で
フォトンベルトに突入するとか
マヤ歴の予言でも
人類が滅亡するかもしれないと言う日まで
俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました
と言うのも、俺は、1993年10月1日
18年前に、何故縁の花を書き始めたのか
この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
目には、見えない存在を救い切る覚悟です
是非、キクの命がけのお願いです
「2011年、縁の花の読者の皆様へ
キクの命がけのお願いの手紙」
をお読み頂きたいと思います』
2011年 縁の花のお手紙サイト
http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html