縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第310号

武田家済度成就しました

∞「最後の前世武田家の軍議」∞

武田勝頼の史跡である流光山成福寺を出て

O宮司とお別れした後は、解散となって

いよいよ前世武田家の武田勝頼没400年記念イベントは

終わるはずでした

 

でもNさんの申し出で、喫茶店に入って

最後の軍議が開催されることになりました

ただ、TOさんは、帰る方向が違うと言う事で

ここでお別れしたのは残念でしたが

他の五名で、昼食を共にした時に

最後の前世武田家の軍議が行われたのです

 

またその軍議の内容は

すべて武田勝頼が明智光秀と密かに組んでいて

本能寺の変を仕掛けたのではないかと言う事につきました

熱心に、その事が話されたのです

 

しかも、その仮説が本当だとすれば

いろんな謎が解けるのも事実です

武田征伐の際に、信濃で明智光秀が信長に

「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所

「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し

小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥を

かいたという話がありますが

これも、本当は、明智光秀が、武田家と繋がっていて

少し武田家のことを庇うような事を思わず言ってしまったので

織田信長が激怒したと考えたら納得できます

 

その上に、明智光秀には、武田家が滅亡した後

もう一つの話として

武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため

安土城にて行われた京料理での接待を任され

献立から考えて苦労して用意した料理を

「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた

という話も残っていますが

これも明智光秀が、味方だった武田家が滅亡した事による

焦りが起こしたかもしれません

 

とにかく明智光秀は、確かに武田家が

滅亡してからおかしくなっていますし

織田信長との関係も急速に悪くなっているのです

 

その上に、武田勝頼が、武田家が滅亡した後

土佐の長宗我部氏の家臣だった

武田一族の香宗我部氏を頼って

土佐に行ったというのも

明智光秀と長宗我部氏の関係を考えたら

納得する事ができます

 

だって、この当時明智光秀は、四国を治めようとしていた

長宗我部氏との外交を一手に任されていました

家臣の斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係まで

結んでいたのです

 

でも、その長宗我部氏が、織田信長の方針が変わって

四国平定という事になったので

面目は丸つぶれにされ、

武士の意地として、長宗我部氏を守る為に

本能寺の変を企てたという説があるぐらいです

明智光秀と長宗我部元親の縁は

それほど緊密だったのです

 

だから明智光秀が、もし自分の味方だった武田勝頼を

逃がすとしたら、長宗我部家しか考えられませんし

長宗我部元親も、長宗我部家の為に

織田信長を討った武田勝頼を

心から喜んで迎えてくれたと思います

 

しかもその後も、長宗我部家が

武田勝頼の生存を知りながらも

その事を決して口外しようとはせず

武田勝頼を密かに厚く遇して

武田勝頼一族をずっと守り通してくれたのも納得できます

 

その上に長宗我部家は、関ヶ原の戦いで敗れた後

土佐24万石は改易になって

山内家が、新しく入りましたが

その時にも、長宗我部元親の跡を継いだ長宗我部盛親が

香宗我部氏は助けてくれと言って香宗我部氏は滅びずに

現在に至っているそうです

 

でもこれも、本当は香宗我部家ではなくて

香宗我部家に養護されていた武田勝頼一族を守る為ではなかったか

そう考えると納得する事ができるのです

 

また武田勝頼の嫡男信勝が

本能寺の変で織田信長が死んだという事を知ると

上野国、今の群馬県で武田の御旗を挙げたと言う事ですが

それが歴史に残らないまま、あっさり終わったという事も

武田勝頼、信勝親子が、明智光秀と組んでいたのであれば

納得することができます

 

何故なら、武田勝頼、信勝親子が明智光秀と組んでいたら

中国大返しをした羽柴秀吉に

山崎の戦いであっさり明智光秀に負けて

討たれたと言う情報が入った時点で

武田家再興の望みは絶たれることになるからです

 

しかも武田信勝は、武田家の御旗を

挙げたという事実さえ必死で隠さないといけません

武田勝頼、信勝親子が、実は生きていて

主君である織田信長を討った明智光秀と組んでいた事を

羽柴秀吉が知ったら、武田勝頼、信勝親子を許すはずがないからです

武田勝頼、信勝親子は、真実を跡形も無くす必要があったのです

 

だから、俺の推測では、武田信勝は

京都にいる武田勝頼によって

本能寺の変の情報も、関東ではいち早く得る事ができて

早速、準備して、いざ武田家再興の為に動きました

 

でも、それは二、三日も続きませんでした

続けて、明智光秀の側にいて、

天王山と言われる天下を賭けた

山崎の戦いに一緒に戦い

負けた武田勝頼は、何とか生き残ると

上野にいる武田信勝に敗戦の知らせを

どこにも早く届け

武田信勝は、その情報を得ると

仰天して、すぐに武田家の旗を挙げる活動を

中止したのだと思います

何とか、間に合ったのです

 

そうでないと、武田信勝が

本能寺の変で、織田信長を死んだ時に

武田家の旗を挙げたのに

何故、歴史にその事が残らなかったのか

その説明がつかないのです

 

だって、これは上野から本当に遠い

京都などの近畿の情報が

一番早く手に入れる立場でないと不可能だからです

 

そしてその武田信勝が

上野で武田家の旗を挙げたという情報は

岩櫃城にいた真田昌幸の協力で

何とか歴史上から隠す事ができると

武田勝頼、信勝親子は

武田家再興の夢を

それ以後、一切残念しないといけなくなりました

豊臣政権、徳川政権では

織田信長を討った明智光秀と組んでいた

武田家の再興を絶対に認めるはずがなかったからです

 

ですから武田勝頼、信勝親子は

武田家再興の望みを捨てると

四国の長宗我部盛親の元に行くと

その後は、武田家再興は考えませんでした

大崎家の発展を考えて生きることになったのです

 

これが五人で、最後の軍議で話し合われた主な内容の話です

五人は、熱心に意見を交わし

ますますこの説に惹かれました

考えれば、考えるほど

この説の信憑性が出てきたのです

 

 

∞「武田家済度が見事成就しました」∞

最後の前世武田家の仲間達の軍議で

いろんな意見が出ましたが

結局軍議の結論はでませんでした

武田勝頼が、本能寺の変を仕掛けたと言う

明確な確信は持てなかったのです

 

でも、今までも武田家の御霊達は

武田家の歴史で隠されていた真実を

世に出してきました

 

というのも、古くは

川中島の戦において武田家の味方についた市川家に対して

武田信玄から出したいわば「御礼状」

この中に「お礼の詳細は使者である山本菅助が口頭で伝えるから云々」

という文章

市川文章と呼ばれているものを世に出して

実在の疑いを持たれていた山本勘助が

ちゃんと存在していた事を明確に証明しています

 

また近年では、400年以上愚将だと思われていた武田勝頼が

いろんな資料が発見された事で

武田勝頼が、信玄公もしなかった

「武士にしか許されなかった年貢の徴収や

財政の運用を、都とのネットワークを持つ有力商人にまかせる」

という方法をとる事で

疲弊していた経済を立ち直らせようとした事や

織田信長が、天正2年6月29日付けで、上杉謙信に宛てた文章によると

「勝頼は表裏をわきまえた武将だ。油断ならぬ敵である」

「勝頼、信玄にもまして油断ならず」と言って

武田勝頼を恐れていたことも分かっています

 

 

それで織田信長は、その当時の常識だった

高天神城を守っていた城将の降伏を

徳川家康に命じて、認めさせず

「武田勝頼は信長様の武威を恐れ

援軍を送らず、天下の面目を失った」

という謀略を行ったことも分かっています

 

その謀略で、高天神城を守っていた城将は

武田家臣の中でも駿河や信濃の身分の高い者たちで

そうした重臣たちさえ見殺しにされた以上

武田家に未来はないという気分が

武田軍団の間に蔓延させることに

成功したのではないか

それで武田家は、簡単に武田征伐で

滅んだのではないかと言われています

織田信長は、最後まで武田勝頼に対して気を緩めず

そんな禁じ手を使っていたのです

 

だから武田勝頼は、本当は愚将ではなく

むしろ勇将というよりも結構知将ではなかったか

近年の研究ではそう考えられています

武田勝頼は、戦国武将としては一流だったのです

 

そして俺は、それらの研究の陰には

武田家の御霊達の意思

後押しがあったと確信しています

武田家の御霊は、今も

武田家の名誉の為に活動しているのです

 

ですから俺は、武田勝頼が

本能寺の変に関わっていたら

きっと武田家の御霊達が明確な証拠を

世に出してくれると確信しています

それを待つと言うことで

軍議は一応終わったのです

 

その後、俺は、Dさんが運転する車に

Nさんと一緒に乗せて貰い

YOさんとYさんには、ここで別れて

帰途についたのです

本当に、参加してくれた

前世武田家の仲間には感謝しています

この場をお借りして

お礼を言いたいと思います

ありがとうございます

 

 

また、この説が分かった事は

前世武田家の済度としては

大きな衝撃を与えました

 

何故ならNさんは

後日のメールで

「勝頼公が京で本能寺の変に関わっていたとすれば

本当にすごいことです。

●●の知らぬ壮大な戦略があったのだろうと。

そう思うと、もはや●●が口を挟むことではありません」

というメールを頂いたからです

 

Nさんは、武田家の家臣でも

重臣と活躍したある人の前世だった人かもしれない人で

武田勝頼にも、いろんな諫言をしてくれていましたが

武田家が滅亡する前には亡くなっていて

この事は知らなかったと思います

 

でも武田勝頼が、武田家を守る為に

必死で最後まで努力していた事には

感動してくれたみたいです

やっと、450年経過しましたが

武田勝頼の存在を

武田家の統領として認めてくれたのです

素直に嬉しかったです

 

しかも、この事はNさんの背景にいる

多くの武田家の御霊達や

武田家全体の御霊達にも

大きな衝撃を与えたと思います

 

何故なら、もし、この事が真実なら

武田家は、もう少し頑張っていたら

本能寺の変のような事が起きて

明智光秀の謀反で、織田信長が死んで

武田家は滅亡する事はなかったかもしれないからです

 

それが、武田勝頼に運がなくて

天の意思で、武田家は滅亡しましたが

もう少し、自分達が勝頼を信じていたら

我らの大将、御屋形様を信頼して

結束していたら

武田家は滅亡しなかったかもしれない

自分達にも少しは、責任があると言う事になるのです

 

その上に、武田家の滅亡に対して

武田勝頼が殆ど戦わずに

武田家を滅亡させたのも

必死で戦って、自分が討ち死にするよりも

今は、苦渋に耐えて生き残って

後日織田信長に、呆気なく武田家は

滅亡したと油断させて討つ為で

武田勝頼は、見事に

本能寺の変で、敵を打った事になります

武田家は、織田家に対して

見事逆襲して、江戸の敵を長崎で討ったのです

 

だから武田家の御霊達にとっては

この事で、織田家に対して

大きな恨みを消すことになります

お互い様という事になるのです

 

その上に、武田家が殆ど抵抗せずに

呆気なく滅亡したのも

武田家が滅んだので

これで、もうすぐ天下を取れると

あの織田信長を油断させる為だった

と思う事で、武田家が滅亡した事に

意味を見出す事ができたのです

 

 

そしてそれを見事に成し遂げた武田勝頼

武田家の20代当主だった武田勝頼は

織田信長、徳川家康によって

天命で武田家を滅亡させてしまいましたが

信玄公と比較したら劣っても

武田家の当主として

結構相応しい大将だったのではなかったか

そう武田家の御霊達に

見直される事にもなったと思います

 

だって何しろ、あの織田信長を討っていたのです

まさしく武田家の岩戸の一つ

本能寺の変の秘密が明かされたのです

 

ですから俺は、この事を知った武田家の御霊達は

今まで持っていた武田勝頼に対する拘り

怒りや不満を少しは和らげて

霊界に戻る気になったと思います

 

しかも、すでに救われている多くの武田家の御霊の力

説得と応援もあるはずなので

この事で多くの武田家の御霊達は救われたと思います

武田家済度されたのです

 

なので、俺はその事を考えると

涙が出るぐらい、本当に嬉しいです

まさか、第1回武田勝頼没400年記念イベント

本陣、秋の陣で

400年以上も苦しんでいる武田家の御霊を救う為に

天、霊界にいる武田家の御霊達は

そんな隠し玉、とてつもない奇襲を

用意していたとは夢にも思いませんでしたが

本当に脱帽しました

武田勝頼没400年記念イベントによる

武田家済度は、見事に成就したという事で

終わりたいと思います

武田勝頼没400年記念イベント秋の陣、本陣

縁の花第305号 武田勝頼没400年記念イベント夏の陣のその後

縁の花第306号 前世武田家の素晴らしい仲間達 

縁の花第307号 武田勝頼没400年記念イベント秋の陣

縁の花第308号 武田勝頼宇宙に行く

縁の花第309号 武田勝頼と明智光秀

縁の花第310号 武田済度成就しました


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html