縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第311号
本能寺の変は武田勝頼が
仕掛け人だった説
∞「武田勝頼本能寺の変 仕掛け人説1」∞
織田信長が、本能寺の変で
明智光秀に討たれた事は
日本でも最大の暗殺事件として
いろんなミステリー、謎があると言われて
昔からいろんな説が述べられていました
明智光秀が、何故、織田信長を討ったのか
動機は一体何だったのか
それは、単なる恨みなのか
何か、鬱病などの病気だったのか
主君である織田信長対する恐怖か
それとも大きな目的
足利将軍や天皇家を守る為だったのか
また反逆は、明智光秀による単独犯だったのか
それとも後ろに誰か黒幕がいたのではないか
いたとしたら、それは誰なのか
信長に京から追い出された最後の将軍足利義満か
徳川家康だったのではないか
いや、意外と最も得をした羽柴秀吉ではないか
もっと大物、天皇家ではなかったか
信長の海外侵入を恐れていた外国人
南蛮人のバテレンではなかったか
今でも、いろんな説があるのです
しかし今まで、一度も武田勝頼が
係わっていたという説はありませんでした
武田勝頼は、本能寺の変が起きる
わすが3カ月少し前に甲斐の天目山で討たれて
武田家は滅亡したと思われていました
生きていたら、最大の容疑者だったはずなのに
死んでいたので、この説に加わる事はなかったのです
だけど、今回、2009年10月10日
武田勝頼が、実は生きていたと言う土佐の大崎に
前世武田家の仲間と行って
武田勝頼没400年記念イベントに参加した事で
武田家の御霊達に、歴史の隠れていた真実として
武田勝頼が、実は仕掛けていたのではないかと言う事を
教えて頂きました
なので俺は、あれから3週間、この問題をいろいろ考えましたが
皆さんとも最後に、一度考えたいと思います
というのも俺は、天正10年に
織田信長の家臣の誰かに寝返りさせて
織田信長を討つ事を、一番考えた人物がいたとしたら
それは、武田勝頼がもっとも可能性があったと思うからです
何故なら、天正9年から天正10年に
武田勝頼自身が、この方法で
武田家を滅亡させられそうになっていたからです
というのも戦国時代最強と言われていた武田家が滅亡したのは
織田信長が、武田家の家臣団に
本領を安堵するという偽りの書状
偽手形を信じてさせて、次々と武田家の家臣を裏切らせたからです
でも今までは、その事に、まったく武田勝頼は
気が付いていなかったという事になっていましたが
そんな事は考えられないと思います
だって、信玄公の時から
武田家には、「三ツ者」と称する諜報・謀略・監察に
任ずる者たちがいました
国元に入る忍者や使者に対する用心は
監察にも力を入れていましたし
謀略の怖さも、信玄公が得意だったので
よく分かっていました
そんな武田家が、織田信長の動きに
気が付かない訳がありません
武田勝頼は、そんな織田信長の動きは
分かっていたと考える方が自然です
でないと武田勝頼は、余程の愚かものと言う事になるのです
だから、武田勝頼は、その事はとっくに
気が付いていたと確信しているのです
しかし、その事に気が付いていても
長篠の戦で多くの家臣を亡くし
御館の乱で、上杉景勝と景虎の調停にも失敗して
上杉家という味方を得た代わりに
北条家との同盟関係が壊れて
新たに北条家も敵に回してしまい
織田、徳川、北条に囲まれてしまった
落ち目の武田家では、なかなかそれを防ぐ事ができませんでした
家臣に、織田信長の恐ろしさ
今までの残虐な行為を話しても
山に囲まれていて、情報に疎い武田家の家臣団には
武田勝頼の話は、なかなか理解されなかったのです
しかも、武田家の重要な拠点だった
高天神城も、徳川軍によって落ちて
守備を任されていた武田家臣は全滅しました
武田勝頼は、北条軍とも戦っていて
高天神城の城兵に、いざとなったら
降伏するように伝えていたのですが
徳川家康は、それを認めず城兵は全滅しました
武田勝頼は、その事で
武田家臣の信頼を失っていたのです
なので、武田勝頼は、どうする事もできませんでした
織田信長の動きは分かっていましたが
あえて無視する事にしたのかもしれません
武田勝頼が、家臣の裏切りを警戒して
あえて監察の目を強めたら
かえって家臣の裏切りを招く事を
恐れたかもしれないのです
でも、武田勝頼が無能でなかったら
何も手を打たないはずはありません
たたかいの常識ですが
眼には眼を
謀略には、謀略をです
武田勝頼は、そんな織田信長に対抗して
織田家の家臣に、裏切りさせる事を
考える方が自然だと思うのです
だけど、この時期に
織田、徳川に押されていた武田家の勧めで
織田信長の家臣が、裏切る可能性があったかと言えば
ものすごく難しいと思います
信玄公なら別ですが
落ち目になった武田家の勝頼から
領地を安堵するとか、裏切ったら
新たな領地を与えると言った誘いで動く
織田家の家臣は、まずいないからです
でも、十分に可能性はありました
織田信長の同盟者や家臣は
浅井長政、三木城の別所長治、摂津の荒木村重などの
有力な家臣が次々と裏切っていますし
天正8年(1580年)8月には
父、信秀の頃から仕えていた
譜代の老臣佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝を
本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放
同じく古参の林秀貞と安藤守就を
かつてあった謀反の企てや一族が
敵と内通したことなどを蒸し返して
追放処分とした事で
織田家の家臣が、動揺している事は
調べたら分かるからです
まったく隙がない事はない
武田勝頼が、そう判断した可能性は
高いと思うのです
だからあの当時、どこの誰よりも
織田家の家臣を裏切らせて
織田信長を討つ事を考える事ができたのは
他の誰でもありません
武田勝頼だと、俺は断言できます
武田勝頼が、その立場に一番立っていたと思いますが
皆さんのご意見は、どうですか
是非、聞かせて頂きたいと思います
∞「武田勝頼と明智光秀の義」∞
天正9年から天正10年に
武田勝頼が、織田信長の家臣の誰かを寝返りさせて
第六魔王と恐れられていた織田信長を討つ事を考えた
最初の仕掛け人ではなかったか
俺は今、そう思っています
だって武田家自身が、織田信長によって
織田家の家臣の滝川一益や徳川家康に
木曽氏や穴山信君に代表する多くの武田家家臣に対して
寝返りの工作をされていました
対抗上、武田勝頼も考えたというのが
一番、自然だと思うのです
しかし、それは簡単な事ではありませんでした
織田家のように、領地を安堵するとか
褒美に新しい領地を与えると言った偽手形で
長篠の戦で敗れた後、落ち目になった武田家の誘いに乗る
織田家の家臣は、まずいなかったからです
でも、そんな武田勝頼に知恵を与えたのは
塩山恵林寺の快川 紹喜和尚だと思っています
何故なら快川紹喜和尚は、
風林火山の旗を書いたり、信玄公の葬式を任されたりした
高僧で有名ですが
武田勝頼は、信玄公が用いた重臣には
なかなか素直に、その言葉を聞く事ができなかったという中で
本当に、素直に聞く事ができた人物だと言われています
勝頼夫人と共に、心から尊敬していたのです
だから、大恩のある信玄公の武田家を何とかしようと
必死になっていた快川紹喜和尚が
武田勝頼に対して、織田家の家臣には真で接しなさい
領地などの褒美を与えると言った
偽りの言葉でなく
正しい義で説得しなさいと言えば
俺は、勝頼は素直に従ったと思います
今の武田家では、領地などをちらつかせても
誰も乗り気にはならない事は
勝頼自身も分かっていたと思うのです
そしてそんな武田勝頼が
織田家の家臣に訴えたのは
領地といった恩賞の話ではなく
このまま織田信長が、天下を取ったらどうなるか
日本の仏教は、根絶やしになるのではないか
天皇家は、なくなるのではないか
足利義満将軍は、殺されるのではないか
日本の古き良きシステムも、全部壊されるのではないか
このまま日本だけでなく、海外にも侵攻して
戦は終わる事はないのではないか
どんなに手柄をたてていても
役に立たなくなったら、使い捨てにされるのではないか
そう言った事ではないかと思います
武田勝頼は、織田信長という人物を徹底的に調べて
本当に、そんな心配をしていて
それを、誠意を持って伝えられる織田家の人物を
必死で、内密に探していたと思うのです
また、そんな武田勝頼の為に
快川紹喜が、紹介した人物が明智光秀ではなかったか
俺は、そう思っています
だって、快川紹喜和尚と明智光秀は
同じ美濃国の土岐氏出身で、同族であったと見られています
たぶん直接、お互いの事を知っていて
会ったこともあると思うのです
しかも明智光秀は、浪人の身分から
織田家の重臣になっていて
織田信長から天皇の事や足利将軍の事も
任された事があって
織田信長が、これから何をやろうとしていたのか
その事を一番理解している人物でした
なので、快川紹喜の密かな仲介で
武田勝頼と明智光秀は、縁ができると
急速に親しくなったと思います
お互いに、直接会う事はなくても
武田家や明智家の事ではなく
天皇制度や足利将軍を守る為に
日本にある古くても良い制度を守る為に
織田信長を討つ事を真剣に考え
その事を相談していたと思います
それで、明智光秀は、織田信長が隙を見せたら
謀反を起こしてでも、織田信長を討つ
武田勝頼は、その時には甲斐、信濃の武田軍を率いて
一気に美濃に入って、明智光秀を助ける
二人で、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益などの軍を破って
日本の天皇家を守る
そんな密約ができていたと思います
いえ、例え、織田信長を討った後
織田家臣との戦いに敗れても
日本の為に、信長は殺さないといけない
二人は、固く誓っていたそんな気がするのです
また、これは俺自身とても偶然とは思えませんが
以前、縁の花第232号「武田勝頼の復活」第一章から第十章で
武田勝頼が、本能寺の変が起きる前まで
何とか武田家を守っていて
明智光秀と組んで、羽柴秀吉と戦い
勝って天下を取ると言う物語
シミュレーション小説を書いた事がありましたが
あのような事が起きた可能性があったと思うのです
「武田勝頼の復活」第一章「武田家の苦悩」
http://www.geocities.jp/ennohana/ennohana/232ennohana-1.htm
しかし、そんな武田勝頼と明智光秀の密約は実行できませんでした
天正10年3月、武田家は1カ月で、木曽氏から始まった
家臣の裏切り、逃亡で、呆気なく滅亡したからです
時が、待ってくれなかったのです
でも武田勝頼は、その時に武人として死ぬ事よりも
生き延びて織田信長を討つ事を考えました
武田家の総大将としては、敵わないまでも
新しく作った新府城に籠るか
甲斐を捨てて、信濃か西上野で
戦う事も考えたと思いますが
それでは間違いなく自分は死にます
自分は、武田家の大将として死ぬ事は構いませんが
それでは、織田信長を討つ事はできません
自分の盟友、明智光秀を励まし
躊躇するかもしれない明智光秀を支えて
何としても織田信長を討たなければならない
日本の天皇家の為にも
日本の国の為にも絶対に信長は
今の内にこの世に残してはいけない
武田勝頼は、その事に執念を持っていて
歴史として信じられているように
甲斐の天目山に追い詰められて死んだと思わせて
武田家の家臣に、影武者やおとりになって貰って
夫人や子供や、快川紹喜和尚や
一部の武田家の家臣と逃れると
西上野で別れて
勝頼や快川紹喜和尚は、密かに明智光秀と会い
明智光秀の陰の軍師になったのではないか
俺は今、そう思っています
武田家の御霊達が、そう教えて気がするのです
しかし、そんな武田勝頼生存説が
皆さんには、とても信じられなかったら
武田勝頼が、本能寺の変を起こした
最初の仕掛け人だと言う事だけは
一度、考えて欲しいと思います
何故なら、明智光秀と武田勝頼の密約があの当時あったから
明智光秀は、武田家が滅亡した後も
織田信長を討って、天皇家を守る
古来日本のある良いものを守ると言う義を
捨てる事がなかったという事は
十分考えられるからです
だから、そういった意味でも
武田勝頼が、本能寺の変を起こした
最初の仕掛け人だと言う説は
大きな可能性を持っていると考えています
ただし真相は、もちろん俺には分かりません
でも武田家の御霊や明智家の御霊達は知っていると思います
いつか、その事が判明する事を期待して終わりたいと思います
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2011年 縁の花お手紙
すべての読者の皆様に緊急連絡
『この縁の花を読んで頂いている皆様へ
緊急連絡です
2010年、12月23日〜26日
金沢済度の旅をした事で
俺は、2011年〜2012年12月23日
俺の50歳の誕生日で
フォトンベルトに突入するとか
マヤ歴の予言でも
人類が滅亡するかもしれないと言う日まで
俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました
と言うのも、俺は、1993年10月1日
18年前に、何故縁の花を書き始めたのか
この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
目には、見えない存在を救い切る覚悟です
是非、キクの命がけのお願いです
「2011年、縁の花の読者の皆様へ
キクの命がけのお願いの手紙」
をお読み頂きたいと思います』
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