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縁の花

      (魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)

             第162号

笑顔共和国第16回七夕祈念IN「ありがとう村」

(ありがとうおじさんとの初合縁レポート)                                                  

§    「笑顔共和国は紫陽花のソウルメイトさんの集りです」§

 紫陽花は詳しくは知らなかったので、福田純子大統領に教えて頂いたのですが、7月7日の七夕は、旧暦でみれば、8月15日にあたります。

 一ヶ月近く遅れているようですが、ちょうど、新暦と旧暦の間で行われたようです。

 この旧暦の少し前ですが、8月3日と4日に、紫陽花が、人生の中で、一番の笑顔で、本当にワクワク・ドキドキしながら、「私は幸せ」を感じる事ができる、楽しくて楽しくて仕方のないイベントがありました。

 いわずとは知れず、笑顔共和国の七夕祭りです。

 この笑顔共和国は、縁の花で何度も紹介しているので、多くの人はご存じだと想います、

 紫陽花の自称綺麗なお姉さん、福田純子さんが大統領をしている、世界でも、珍しい国境のないすてきな国です。

人々の心の中に咲く国で、笑顔というパスポートがあれば、どんな民族でも、何語を話す人でも参加可能です。

縁の花に取っては、本当に大切な笑顔の花、笑顔との縁なのです。

 また、この笑顔共和国は、21世紀になってもどんどん進化しています。

 以前は、縁の花と同じように、笑顔通信というものを、国民に、年に2千円の笑得税で送っていたのですが、21世紀から、ホームページに切り替えて、1回の登録で、永久に国民になれるようにしました。

 しかも、ホームページは、国民だろうが、国民でなくても、誰でも無料で見られます。

 組織という垣根を、笑顔共和国は、ホームページを創る事によって壊して、笑顔意識の集合体へと、本来の理念を明確にうち出す事ができたのです。

 だから以前のように、笑顔通信を送ってこないので、笑顔共和国のホームページを自分からみないかぎり、笑顔情報を手に入れる事はできませんが、その分、お金もかかりませんし、笑顔通信を発送すると言う作業をする必要もありません。

 お金や組織にも縛られない、何ものにも影響されない、無理もしない、本当にますますすてきな笑顔な国に成長しているのです。

 また、そんな笑顔共和国の顔晴り(ガンバリ)は、縁の花にとって、大きな肥料になっています。

 笑顔共和国のホームページをみて、紫陽花も縁の花のホームページ創ろうと想いました。

 皆さんから、お金を取らず、ホームページを覗いたら、情報をみて貰える縁の持ち方に憧れたのです。

 だから、紫陽花は、笑顔共和国のホームページには、注目しています。

 特に笑顔共和国の二大イベント、211日の笑顔建国式と、旧暦の七夕祭りがちかづいてくると、紫陽花は必ず、笑顔共和国のホームページにある笑顔情報のイベント情報を覗きます。

 今回は、どこの土地に、笑顔の種を蒔くのだろう、近畿圏でしたらいいのにと必ず見ているのです。

 するとどうでしょう。

 第16回の七夕祭りは、何と「ありがとう村」ですると載っているじゃないですか。

 紫陽花は、本当にびっくりしましたし、何か、運命を感じて嬉しかったです。

 というのも前号の160号「ありがとうございます」で書いたように、紫陽花は、いろんな縁ある人が紹介してくれた「ありがとうございます」の縁に目覚めました。

 新しく生まれ変わったのです。

 しかしまだ、紫陽花は、「ありがとう村」にも、「ありがとうおじさん」にも会った事がありません。

 だから滋賀の山奥にある「ありがとう村」には、ちかいうちに必ず行こうと想っていたのです。

 そんな紫陽花にとって、純子お姉さんや、多くの笑顔の仲間と、始めて「ありがとう村」に行けるなんて最高です。

 これは、きっと、天の計らい、プレゼントの縁だと想ったのです。

 しかも紫陽花は、その日は、「えがお」と「ありがとうございます」という二大言葉の出逢いの七夕だと直感しました。
 「えがお」と「ありがとうございます」を、天に届けるなんて、何て最高の日だろう。

 いろんな願い事を、毎回、笑顔共和国では、紙に書いて、笹にくくりつけ、燃やす事で、天に上げていますが、今回はダブル効果だなあという下心を持って、即座に参加する事に決めました。

前から笑顔共和国に憧れている辻久文さんをお誘いして、行く事になったのです。

 と同時に、紫陽花は、今回の不思議な縁で、ある事を確信しました。

 それは紫陽花の節目、節目に、笑顔共和国とは何か不思議な縁があるという事です。

 というのも福田純子大統領が紫陽花の地元の泉州で講演してくれたのが、平成7年6月4日、共和国の国民になって、すぐに平成77月に7日の、姫路の笑顔七夕祭りに参加しました。

 その後、伊勢や岡山にも七夕祭りに参加しています。

 平成11年4月12日には、大阪で会った笑顔建国式にも参加しています。

 紫陽花は、お金がないので、笑顔共和国が、近畿圏にきてくれた時だけですが、参加できるときは、幸せで一杯でした。

 本当は純子お姉さんのように、つねに日常生活笑顔で暮らさないといけないのですが、その日だけは何もかも忘れて、笑顔で幸せ一杯になれたからです。

 また全部、その内容は、縁の花で詳しく書いて、天に波動で送っています。

 みたい人は、縁の花のホームページで、見る事が可能です。

 紫陽花には、その事も、何か大きな意味がある気がしています。

他にも長くなるのでいいませんが、福田純子大統領や、笑顔共和国の人達は、紫陽花と確かに強く繋がっています。

もしかしたら、紫陽花にとっての一番のソウルメイトさん達は、たまにイベントで会う、笑顔共和国の人達でないか。

全国のいろんな所で、笑顔共和国が、年に2回する建国式と七夕祭りのイベントで、たまに会って、縁を持てた事を、喜び合う事で、魂同志で交流している。

紫陽花は、そう確信持ちました。

笑顔のソウルメイトさんと、今回は新しく「ありがとうございます」のソウルメイトさんに会える、そんなすてきな縁ができる予感がしたのです。

 

         §「ありがとう村」§

 「ありがとう村」は滋賀の山奥にあります。

 ここに、行くのは、車で行く場合は、名神高速道路で、八日市ICか、彦根ICで降りないといけません。

 八日市ICからは、約16キロ、彦根ICからは、約22キロの距離があります。

 また電車で行く場合は、JRの米原駅からになります。

 米原駅は、新大阪駅から新幹線でいけば、約50分、新快速でいえば、約1時間20分になります。

 でも電車で行くには問題があります。

「ありがとう村」は、山奥にあります。

 バスはとても入れないし、タクシーも難しいと思います。(料金はかかるけど可能です)

 まず、乗り物には期待しないで下さい。

 自分の車がないといけないのです。

 だから笑顔共和国の場合は、電車組みは、米原駅の東口に、1210分に待ち合わせをしました。

 ここから「ありがとうボランティア」の人達が、車で「ありがとう村」まで連れってくれました。

 どうやら今回は、笑顔共和国のツアーという事で、事前に申し込んで置いたら、「ありがとう村」の人達が、車を手配してくれたみたいです

 だけど、他の場合は分かりません。

 聞くところによると、毎日、多くの人が押しかけると「ありがとうおじさん」も「ありがとうございます」のお祈りができないので、自粛して「ありがとうツアー」の時だけに、行くようにしているみたいです。

 皆さんにいきたい人は、紫陽花に連絡してくれたら、「ありがとうツアー」の日程は教えられると想います。

 とにかく笑顔共和国の場合は、「ありがとう村」に行こうとしている人達と、米原駅の東口で集まって、ここで何人かに別れて、車に乗って、行ったのです。

 また、紫陽花は、ここで、いくつかの、嬉しい出会いをしました。

 福岡から来た福田純子お姉さんや、純子お姉さんの秘書をしている秦一族の秦まゆみさんに、会って再会を喜びあいました。

 不思議な写真を撮る森田聰男さんとも会えましたし、福島から来た波多野明俊さんとも会えました。

 岡山の七夕祭りでお世話になった平田俊三さんもいました。

 本当に懐かしかったです。

 でも、従来の知っている国民よりも、新しい国民の方が多かったです。

 21世紀になってから、笑顔共和国のメンバーも、だいぶ、パワーアップしていると想うと、嬉しかったのです。

 だけど、紫陽花が一番嬉しかったのは、「ありがとうボランティア」のリーダー的な存在をしている、實村徹さんが、縁の花の読者だった事です。

 紫陽花自身、實村徹さんに声をかけて貰うまで、気が付かなかったのですが、何回か、縁の花を送らせて頂いた事があります。

 そんな實村さんが、今回の笑顔共和国七夕祈念「ありがとう村」の連絡までも、担当してくれていました。

 紫陽花は、何か、ものすごく嬉しかったのです。

 そしてそんな気持ちの中で、車で「ありがとう村」にむかったのです。

 ですが、ここで紫陽花が、びっくりしたのは「ありがとう村」のあまりにも、山奥さというか、何と言うか、とにかくすごいところです。

 滋賀の山奥といっても、道路は、ちゃんとあると思っていた紫陽花は、山道の細い1本道しかないのに、びっくりしました。

「ありがとうおじさん」は、すごい所に住んでいるのだなあと改めて感心したのです。

 と同時に最初、車で行く人は、迷いながら行く事になるので、運転には注意して欲しいし、あまりいい車で行く事は避けた方がいいと思います。

 車の底をこする可能性もあります。

「ありがとう村」に外車で来る人は、まず、いないそうなのです。

 しかも、「ありがとう村」のちかくには、人は、殆ど住んでいないので、人に聞く事も、まず不可能です。

 その事にも、びっくりしましたが、周りに家は、一軒も建っていません。

 人里はないというか、「ありがとう村」にかかわっている人しかいないのではないかと想ってしまうような所なのです。
 でも、紫陽花は、もちろん、そんな「ありがとう村」気に入ってしまいました。

 山の自然が本当にあります。

 こんな環境のすばらしい所で、「ありがとうございます」の波動を、発信しているのかと感心したのです。

 そして、紫陽花が、何よりも感動したのは、そんな山奥に、「ありがとう村」が立派に存在している事です。

 何十人もの人が話を聞ける場所もあれば、ちゃんと「ありがとうおじさん」達が生活できる場所もあります。
 木造の家というより、倉庫のようなものが何軒も建っています。

 紫陽花は、それをみて、感動しました。

 世の中にいい話をする人が、たくさんいますが、実践できる人はなかなかいません。

 特にお金の面は大変です。

 たくさんの人が集まる建物などを維持していくのは大変で、紫陽花の縁ある人達の中で、苦労している人達は多いです。

とてもこれだけの建物を持つ事はできません。

宗教組織で、信者さんにお金を取っている所は、別ですが、本当の人達は、結構苦労しています。

それだけに「ありがとう村」の場合、山奥なので、土地代はたぶんめちゃくちゃ安いし、建物も、「ありがとうボランティア」の人達が手作りで造ったといいますが、それでも大したものです。

 電気や水道も、引いているのは、ここが最後だそうです。

「ありがとう村」の人達は、本当に「ありがとうございます」と唱えている事で、こんな建物も天から与えられているのだな。

 紫陽花は、肌でそれを感じ、やはりこれはすごいところだなと痛感したのです。

 

 

       §「ありがとうおじさん」§

 1時頃に着いた後、さっそく荷物を置くと、車で姫路から来た小川さんなども合流した笑顔共和国の参加者27名程度と、「ありがとう村」に来た人達、全員を入れたら、54名程度になる人達は、「ありがとうおじさん」のいる一番大きな建物に入りました。

 ここで、瞑想を、何人かの人としている「ありがとうおじさん」に始めて会えました。

「ありがとうおじさん」はここで、一番正面に坐って、瞑想していたのです。

 また、その「ありがとうおじさん」の姿は、紫陽花のイメージどおりでした。

 カセットテープで、声は聞いていたけど、実際の姿はまだです。

 少し太って、まるまるとしたダルマさんのような顔をしていますが、いつもニコニコしています。

 紫陽花が知っている知花先生さんとも、瞑想をしている時の感じは違います。

知花先生の「我は神なり」という何か宣言を発する波動とは違って、何事も「ありがとうございます」と受け入れる波動で、受身的な気がしました。

 紫陽花は、外見的には何事も飾ろうとせず、自分から自己主張もしない「ありがとうおじさん」に今迄の本当の先生とは、何か違うものを感じたのです。

 しかし、そんな「ありがとうおじさん」は、何をしているかといったら、瞑想をしているだけです。

 紫陽花は、「ありがとうおじさん」は、どんな瞑想をしているのかなと想って、自分の瞑想をしようとしたのですが、すぐに自分のばかさかげんに気が付きました。

「ありがとうおじさん」は、心の中で「ありがとうございます」と唱えているだけだと気が付いたのです。

 でも、紫陽花には、それは新鮮な発見でした。

 本なんかで「ありがとうおじさん」は、24時間「ありがとうございます」と唱えている事は知っていましたが、「ありがとう瞑想」をしているとは想いませんでした。

 今迄瞑想も、知花先生の時に習った、何も思わず、ただ神に意識を合わせる瞑想や、潜在意識に、いろんなイメージをするものなど習いましたが、「ありがとうございます」という波動を天に発信する瞑想もあるのかと素直に納得しました。

 その瞑想は、究極かもしれないという予感もしたのです。

 しかも大勢の人と、一日に、4回も、1回に1時間くらいかけて「ありがとう瞑想」をしているこの場は、本当にすごいところだし、目にみえないところで、世界平和などに大きく貢献していると想いました。

 ますます、「ありがとうおじさん」が好きになったのです。

 そしてその瞑想が終わった後で、「ありがとうおじさん」の時間として、いろんな質問に答えて貰いました。

 紫陽花は、質問はしませんでしたが、是非、参加するのなら、二、三、質問をする事も勧めます。

 と同時に、その質問に、見事に、「ありがとうおじさん」は的確に答えてくれる事も保証します。

 というのも、紫陽花が参加した時も、いろんな人が質問しました。

 子供さんが引きこもるのを、ケアする仕事をしている年配の男性が、子供さんに対する接し方を聞いたり、「ありがとうございます」を実践していますが、マイナスの心がどんどん出てきたりして、妄想ばかりするという若者もいました。

 中には、一度だけ、26才の子供さんが、交通事故で3日間意識が回復せずに亡くなって、どうしても「ありがとうございます」とは、この事だけは今でも、神様にいえませんという年配の女性もいました。

「ありがとうおじさん」はそんな質問に、的確に答えました。

 紫陽花なら、うーと考える事がありますが、「ありがとうおじさん」は、きっと「ありがとうございます」の神様が、肉体の中に入っているのか、答えが瞬時に出ます。

例えば、引きこもりの子供さんをケアする人には、子供さんをかかえている両親に、「あまり心配しないで信じてあげること」、「両親が持っている自分の夢は捨てた方がいい」というアドバイスをしました。

子供をケアするのではなく、子供で悩んでいる両親をケアするといいような事を、ケアする年配の人にいいましたし、それを「ありがとうございます」でできるような事もいいました。

紫陽花は、「ありがとうおじさん」の答えをそう解釈したのです。

またマイナスの心がどんどん出てくるという人には、「ありがとうございます」の神様は、いろんなパタンで、心を整理するので、心配する必要はない。

どちらにしても悪い事には絶対にならない。

青天の青空が待っていると励ましました。

神様に今でも、この事だけは感謝できないという年配の女性には、「ありがとうおじさん」は、亡くなった子供さんは、この世の番組は卒業して、今は、神様が創っている「無限の無限の」番組のどれかを楽しんでいるのだから、それを感謝したらいいと言い、その女性に、過去の思い、執着をとらないといけない。

神様は、無限の無限の感謝、喜びをあげたいと思っているのに、そんな思いが、あるかぎりは、送れないよと、早く捨てるようにアドバイスしたのです。

紫陽花は、そんな「ありがとうおじさん」の話を聞いて、説得力があるなあと感心しました。

答えは、質問している人が分かっているのかもしれませんが、「ありがとうおじさん」が言うと、聞いている人は皆、納得してしまいます。

やはり、「ありがとうおじさん」は、ただものではないと想ったのです。

しかも質問者の中には、孝子や孟子などの、紫陽花では良く分からない質問をする人もいました。

「ありがとうおじさん」は、そういった質問にも、ニコニコしながら、平然と答え、いろんな事を勉強している事も感じさせました。

 本当に「ありがとうございます」の言葉で、何でも解決ができる事を、強く、紫陽花に印象付けたのです。

 と同時に、福田純子大統領は、『「ありがとうございます」の想いと「ありがとう」そのものの間に温度差のある事は分かりますが、どう違うのですか』といったさすがは純子お姉さんと尊敬する質問だけでなく、「おじさんは泣いた事がありますか」といったほのぼのとした質問もして、おじさんの「しょちゅうです」という笑いの言葉を引き出して、皆の笑いを誘い出しました。

 笑いにつつまれて、楽しい、「ありがとうおじさん」の時間は、あっという間に終わったのです。

           

 §「福田純子大統領の話」§ 

「ありがとうおじさん」の時間が終わった後は、福田純子大統領と山岸道弘さんのお話の時間になりました。

 最初に、山岸さんが簡単に、発明家の政木先生と福田純子さんは、前世で繋がっているらしいと福田純子大統領を紹介した後、純子大統領は、「ありがとうございます」の道(縁)に出会うまでというテーマで1時間10分程度話してくれました。

 まずは、いつものように、笑顔共和国を、知らない人も、30人ちかくいるのでピーアールしました。

 この地球上の地図のどこにも載っていない、小さな国だけど、本当は、この地球も包む大きな国、それが笑顔共和国です。

 純子大統領は、そういうと、笑顔共和国は、大きくも小さくもなる、ころころと変わる、人の心にある国で、いつか、国境がなくなって、誰もが笑顔で暮らせる地上天国や、竜宮城を創る事を夢みている、組織ではない、意識の集合体だといいました。

 そうか、笑顔共和国の国民は、21世紀からは意識の集合体なのか、うまくいうなあと、紫陽花を感心させたのです。

 しかも、次に純子大統領は、83日は、はちみつの日だというと、今回参加した笑顔共和国の国民をミツバチに例えました。

 ミツバチは、花の蜜を求めて、いろんな花を訪れて、大好きな蜂を貰っているけど、自然界では交配するという天の役目を果たしている。

 そんな大変な役をしているという意識は、ミツバチになくても、ちゃんと天の利に適った生き方をしており、笑顔共和国の国民も、年に何回か集まって、何も考えずに、地位や名誉があっても、心はいつも幼稚圏を合言葉に、笑顔の種蒔きをしているといいました。

 ひょっとしたら、紫陽花に、「えがお」と「ありがとうございます」の交配をして、すばらしい感謝の花を咲かせるのではないかと、ふっと想わせたのです。

 そしてその後に、いよいよ福田純子大統領は、「ありがとうございます」に導かれる事になった、つい最近、起こった二つの出来事を話してくれました。

 その一つが、「ありがとう」という言葉を、全国に広めた、小林正観さんが、純子大統領にいった「人間の力で成る事は、99、9パーセントないのだよ。本当はね、という人の事を傲慢と言う」という言葉です。

 福田純子さんは、その言葉に驚き、「どうして」と思った時「99,9パーセントじゃない。100パーセントだ」と小林正観はいい、福田純子大統領は、それを聞いた時、ハラホロヒレと力が思わず抜けてしまったそうです。

 福田純子大統領の魂は、その事を知っており、紫陽花の推測では、人は何事も、00、1パーセントの思いでさえ、出してやれる事はない、100パーセント、天がしてくれるのだから、ただただ天に生かされている事を感謝するしかない」と福田純子大統領は、小林正観の一言で悟ったのです。

 また、もう一つは、ありがとうボランティアの實村さんから頂いた、「ありがとうおじさん」のテープの中で、ありがとうおじさんがいった言葉「「ありがとうで生きる事ができなかったら、人は想いで生きるしか方法がない」という言葉だったそうです。

 福田純子大統領は、その言葉に、衝撃を受けたというのです。

 何故なら、福田純子さんの笑顔人生は、「人生は自分の想ったとおりにしかならない」という想いからスタートしているからです。

 というのも、最初、今からはとても信じられませんが、福田純子さんは暗かったそうです。

 職場のアナウンサーの仕事をしている時でも、暗い人と想われていたのです。

 でも純子さんは、ある時に、あなたの声は、お葬式の声といわれたのをきっかけに、笑顔人生を始めました。

人は、明るく想えば、明るく生きられるという言葉を支えに、「貴方、大変でしょう。作り笑いは」とか「八方美人」などといわれたり、出る釘は打たれるようなことがあったりしたそうですが、福田純子さんは、そんな人にも感謝して、「笑顔があれば自分が変わる、笑顔があれば相手が変わる、笑顔があれば運命がかわる」と笑顔人生を進んで、笑顔の福田純子さんといわれるようになったのです。

ですから、純子大統領にとって、笑顔の想いというものは、大切でした。

「いい事があるから笑うのではなく、笑顔だからいい事がある」という考えだったのです。ある意味では終着点まで来たのです。

しかし「ありがとうおじさん」は、想いよりも、もっとすばらしい生き方、「ありがとうございます」という感謝の生き方があるといっています。

純子大統領は、それを素直に受け入れて、「無限の無限のありがとうございます」を、笑顔で受けとめる、新しい、笑顔人生を、「ありがとうおじさん」のテープを聞いた事をきっかけに始め出したのです。

紫陽花は、それを、話を聞いて、さすがは純子お姉さんと改めて、尊敬したのです。

しかも、純子大統領は、まだ「ありがとうおじさん」に会ってもいないのに、もう「ありがとうございます」という事を唱え出しており、いろんな体験をしています。

今回、純子大統領は、そんなすばらしい「ありがとうございます」体験談を話してくれました。

その中の一つが、今回参加したある国民の体験談です。

というのも、紫陽花も知っているある笑顔のソウルメイトさんは、経営者として顔晴れ(ガンバッテ)いたのですが、IT不況の波に、もろに乗り込まれて、会社が倒産の危機を迎えたそうです。

でも、その笑顔のソウルメイトさんは、その事を相談した純子大統領が、いった「仲間だろう。どんな事があってもかわらんや」という励ましと、純子大統領が送った「ありがとうおじさん」の本とテープで目覚めたそうです。

「そうだ。今迄お世話になった人達に、笑顔とありがとうございます」を、会社の最後の締めくくりとして、言っていこうと思って、必死で、「ありがとうございます」詣でをしたというのです。

 すると、得意先やスポンサーの人達が、「あんたを潰すわけにはいかない」といって、どんどん仕事を頂き、超低空飛行をしている会社が、いっきに上昇したそうです。

 今、その笑顔のソウルメイトさんは、倒れた後、リハビリもちゃんとできないという老人の人達の為に、国家試験を受かっている針の先生を、介護保険を使って、安く提供できるお仕事をはじめているそうです。

 それを全国展開しようとしていると、純子大統領は、嬉しいそうに話してくれたのです。

 また、ある個性のある女性は、炊き出しのボランティアをしている時に、浮浪者として生活している人が、黙って手を出した為「ありがとうございますといわないと食べさせない」といったら、その人は、食べたい為に「ありがとうございます」といったそうです。

そうすると、その人は「ありがとうございます」という言葉を、口から出した事をきっかけに、立ち直ったのか、2週間もしないうちに、普通の人に戻り、仕事をするようになったそうです。

「ありがとうございます」は、それぐらい人を、瞬時に変える力があるというのです。

 でも、やはり、紫陽花が、すごいと思ったのは、次の純子大統領の体験でした。

 それは純子大統領のお母さんが、危篤だった時です。

 純子大統領は、茨木市の水戸から羽田にまで行って、そこから福岡に飛行で帰ろうとしたのですが、電車を乗り継いでいこうとしたのを、今回も参加していた山六公三さんという人のご好意で、車で送って貰う事になったのです。

 ところが、高速道路で事故があって、車は動かなくなって、とても羽田空港まで、間に合わないという事になったそうです。

 それで純子大統領は、困ってしまいました。

 母親を死に間に合わないかもしれないという気持ちもそうですが、自分を送ってくれた山六さんに、もし間に合わないまま、母親が亡くなったら、「ごめんなさい」とずっと後悔させると想ったのです。

 ですから、何とか間に合わせたかったと言うのです。

 だけど、間に合うと二人がイメージして、間に合わなかったら、二人ともがっかりします。

 純子大統領は、どうしたらいいか、考えていたのです。

 そしてこれは、「ありがとうございます」しかないと想うと、いっさいの想いを捨てて、ずっと「ありがとうございます」と唱えたそうです。

 すると心がスット落ち着いて、この先、どうなろうとも「ありがとうございます」といえる心境になっていったそうです。

 そうすると、何と奇跡が起きて、間に合ったそうです。

 距離的にいったら、1時間の所を30分程で走ったのですから、絶対に考えられない事だそうですが、神様は、今回は、間に合わせてくれた、純子大統領は、そう謙虚にいうと、「ありがとうございます」の言葉には、本当に不思議なエネルギーがある事を教えてくれたのです。

 

       §『純子お姉さんのご両親「ありがとうございます」』§

その後も、純子大統領の「ありがとうございます」体験談は、まだまだ続きました。

紫陽花が、やっぱり純子大統領は、紫陽花とは違うと想ったのは、ストローの体験談を聞いたときです。

純子大統領は、つい最近何も考えずにただ、コップに入っていたジュースをストローで飲んでいた時に、コップの下から、「ありがとうございます」という感情が、同時に、わき上がってきたというのです。

人からみたら、何だというばからしい体験談かもしれませが、紫陽花は、純子大統領のすごさを感じました。

そう想えるという事は、いかに純子大統領が、「ありがとうございます」を意識しているかという事が分かります。

正直言って、なかなか日常の生活の中で、紫陽花自身「ありがとうございます」と唱えられませんが、きっと純子さんは、素直に、それができる宇宙人なのでしょう。

もうすぐ「ありがとうございます」のシャワーが、天から降ってくるかもしれないなんていっていましたが、純子大統領だったら、天が、降らせるかもしれないと想ったのです。

と同時に、紫陽花は、そんな純子さんを育てた、ご両親にも、前から興味を持ったのですが、純子大統領は、今回、母親と父親の話を始めて、紫陽花に詳しく聞かせてくれたのです。

というのも、紫陽花は、全然知らなかったのですが、この2、3年の間に、純子大統領のご両親は亡くなっています。

二人とも91歳で、天寿をまっとうしましたが、本当にご冥福を祈りたいと想います。

また純子大統領は、今回、そんなご両親の事、特に母親の事を、話してくれました。

たぶん普段の講演では話さない事を、今回は「ありがとうございます」がテーマなので、話してくれたのだと想いますが、純子大統領は、母親に対しての「ありがとうございます」体験談を話してくれたのです。

というのも、純子大統領のお母さんは、十何年以上もなかなか子供が生まれない中で、41歳と言う高齢で、純子さんを産んだそうです。

紫陽花はまったく知らなかったのですが、2つ上のお姉さんがあり、純子大統領は、妹になるのです。

だけど、そんなお母さんは、高齢で純子さんを産んだのと引き換えに、高血圧や脳溢血などのいろんな病気を貰う事になりました。

そんな時代だったのです。

健康は、あまりよくなかったみたいです、

しかも、そんな純子大統領の小さい頃は、大変だったみたいです。

福岡の石炭鉱の近くで生まれましたが、生活は貧しかったそうです。

その上に4回ぐらい引越しをして、小学校の時には、九九をいえない少女という事で、恥ずかしい想いをしています。

純子大統領は、気の弱い、おどおどする女の子だったのです。

でも、そんな純子さんに対して、お母さんは、「純子ちゃん、気の強い子になりなさい。これからの時代は、気が強くないと生きていけない。でも、お母さんは声を大にしていいたい。我が強い子にはなってはいけません。気の強い子は、根っこがあるから、辛抱も、我慢もできるけど、我が強い子は、根っこがないから、我慢ができない。本当に悪いと思ったら、まっすぐに頭の下げられる素直さを持ちなさい」というような事をいっています。

明治生まれの気丈な母親だったのです。

だけど、そんなお母さんは、純子大統領が、小学校六年の時に、突然、脳溢血で倒れて、血を流し、もう駄目だという事になったそうです。

医者は、親戚の人を呼んで下さいといったのです。

しかし、純子さんのお母さんは、「子供達か小さいからまだ死なれん」と無意識で唱えて、奇跡的に命を助かったそうです。

生きる意志があれば、生きられると言う事を教えてくれたのです。

ですが、その後も治ったと思ったら、今度は、両目が白内障で失明したり、かろうじて見えるようになった目が緑内障になったりと、散々だったみたいです。

それで目が満足に見えずに、コップを洗ったり、部屋の掃除ができなかったりするだけでなく、道路も、斜めに歩いて、とても危なかったそうです。

けれど、それも純子さんのお母さんは、今度はお父さんより先に死ねんといって乗り越えたそうです。

純子さんのお母さんは、そんな大きな試練を、天から貰いながらも、しっかりと二人の娘を育てていったのです。

紫陽花は、それを聞いて、純子さんもすごいけど、純子さんのお母さんは、もっとすごいと心から想いました。

たぶん、若い頃は、純子大統領のような、周りの人を引き付ける美貌を持っていたと想いますし、健康には恵まれず、貧しい生活の中で、苦労しても、しっかり根っこを張って生きた心といい、純子大統領のお母さんは、すばらしいものを純子大統領に、目に見えない財産をたくさん残しています。

今日の純子大統領があるのは、誰よりもお母さんの力が大きいといっても、おかしくないと想ったのです。

だけど、それだけでなく、純子さんのお母さんは、純子大統領のよきアドバイスもしてくれています。

ある時純子大統領の笑顔人生が、軌道に乗って、本当に仕事が忙しくなった時に、こんなに忙しかったら、何の為に働いているか分からんとよ」という福岡弁で愚痴をいったら、「純子ちゃん、あんたが好きでやった仕事でしょう。そんなに嫌なら止めなさい。止められないのならどんなに辛くても、どうやったら、明るく、楽しくできるか、考え工夫して生きるのが人生。あんた甘えているよ」

とえらく怒ってくれたそうです。

父親は、一度も純子さんを怒った事もなく、「ガンバレ、お父さんは、純子を応援するよ」というのが、口癖で、叱咤激励をするのが、お母さんの役だったそうなのです。

純子さんは、そんな両親の元で、何故か、19歳から24歳の頃、両親に対して非常に遅い反抗期を経験しながらも、静かに見守って貰って、育てられたのです。

しかも、その中で、純子さんのお母さんの魂は、純子さんの21世紀に果たす大きな役目が分かっていたのか、最後まで、純子さんの教育係をしたみたいです。

というのも、純子大統領が、笑顔共和国を始めても、最後まで「ありがとうございます」と心からいえない最後の存在に、お母さんはなってくれたというのです。

正直言って、この話を聞いた時に、紫陽花は、天が、最愛のお母さんを通しても、純子大統領を育てている試練のすごさを感じて、紫陽花とのギャップに考えてしまいました。

何故なら、純子大統領が、本当の笑顔になるまでに、いろんな事を経験しています。

小さい頃は、人前でおどおどする自信のない女の子でした。

19歳の頃から24歳の頃までは、表面はかわいいけど、性格はブッス子だったそうです。

たばこやいろんな悪い事も楽しんでいます。

職場のアナウンサーの世界で、戦い、人の蹴落としあいもしています。

そんな人生があったから、笑顔人生を始められましたし、その中で、純子大統領は、人に「ありがとうございます」を無意識にいう事を身につける事で、どんどん仕事が入ってきたそうです。

出る釘を打たれた時も、あなたに比べて、私は光っているでしょうという傲慢な気持ちから、皆様、こんな私を、出させて頂いて「本当に、ありがとうございます」と純子大統領は、そう想える事で、大成功したのです。

純子大統領は、自然に、「ありがとうございます」も身につけていたのです。

ですから、どんないじわるの人や、自分を批判する人にも、純子大統領は、「ありがとうございます」といえると想います。

ましてや、苦労しながらも、自分を育ててくれたお母さんにいえない訳がありません。

だけど、天は、もっともっと深い「ありがとうございます」の心を、21世紀に、純子大統領に活躍する為に、求めたのかもしれません。

それが、お母さんのぼけ症状なのです。

というのもボケと言うのは、本人が、その自覚ができていないのが、ボケ症状だというように、純子大統領でもお世話するのは大変だったみたいです。

純子さんのお母さんは、70歳の頃に、倒れて、3度目の死の危機を経験した時に「自分の人生に負けられん」といって、見事に蘇ったのですが、それ以来、家の外に出られないので、ボケ症状は、家の中に限定されますが、それでも酷かったみたいです。

純子大統領は、その具体例として、水量を間違えて、ご飯を炊く為、炊き直しても食べられない、そんなご飯を、泣きながら畑に埋めたこととか、洗濯機に何も入れないまま、動かすという事で、話してくれました。

さすがの純子大統領も、これには参ってしまって、何回も、お母さんに「どうしてそんな事するの」と注意したそうです。

でも、お母さんは、まったく聞く気がないというか、受け入れようとしないというか、相手にしてくれなかったそうです。

でもある時、純子大統領が、お土産を買って、「お母さん、一緒に食べよう」といった時には、お母さんに、それがちゃんと通じていたのか「ありがとう」といってくれ、そのギャップに驚いた純子大統領は、お母さんは、ボケてまで、自分を教育している事に気が付いたそうです。

「変わらないといけないのは、自分だった」純子大統領は、その事を悟り、もうそんな些細な事は、平気になったそうです。

食べられないご飯は、大地も、いつもごみとか、そんな汚いものばかり埋められて疲れているだろうから、たまにはご飯を食べたいだろうと思って、シャーマンである母に、巫女としてお供えする儀式のつもりで埋めましたそうですし、洗濯機も、お母さんの健康の道具、ゲームセンターの機械で遊んでいると想ったら、別に気にならなくなったそうです。

そんなお母さんを認める心が生まれたのです。

しかも当時、お母さんのおしめを、夜中に2回ほど、かえていたそうですが、その時に想ったそうです。

生まれた時に、誰もがして貰っていますが、その恩を、大人になってから、お返しできる娘が何人いるだろう。

「私は幸せ」と想ったのです。

 と同時に、純子大統領は、お母さんが、魂で伝えたい事も分かりました。

 自分は昔、暗くて、そのおかげで、明るい人生を送られるようになって、それを人に伝えたくて、笑顔の種蒔きをしているけど、「純子お前が伝えたい事は、本当にその事だけなのかい。日本一の講師になりたい、立派な先生になりたい為に、話をしているではないだろうね。本当に伝えたい愛が、お前にあるのかい」

 お母さんは、その事を自分に教えてくれている純子大統領は、そう気がついたのです。

 しかも驚くべき事に、お母さん、「ありがとうございます」の気持ちになったその時、お母さんの口から「ありがとう」と声にしていってきたそうです。

 これには、紫陽花も想わず唸ってしまいました。

 純子お姉さんとお母さんの心、人と人の心は、やはり繋がっているのです。

 しかし、純子大統領が、お母さん「ありがとうございます」と決定的にいえるようになったのは、お母さんをお風呂に入れた時だったそうです。

 お母さんを一人でお風呂に入れるのは、大変です。

 特に、講演活動などで、全国を走り回っている純子大統領にとっては、時間はあまりありません。

 どうしても今日は、お母さんをお風呂に入れておかなければと、ついせっかちになってしまいます。

 愚図愚図しているお母さんの顔に、「早くしてよ」と、手でお湯をかけたのです。

 すると、お母さんは、「親にむかって、何をするか」といい、純子さんも、「何よ」と再びお湯をかけたのです。

 その時、自分自身の思いもしなかった荒々しい行為をきっかけに、純子大統領は小さな悟りを開いたといいます。

 こうして、自分が母親にしている事は、自分が人を愛せない以前に、自分自身を愛していない事を、人にすりむけているにすぎない。

 深く、自分を拒否している為に、起きている事で、すべてはひとつの命の中で、訪れていた事に気づき、後は、涙、涙で、母親を抱きしめて、心から詫びたそうです。

また、それからの純子大統領は、お母さんが、何をしても、例え、おもらしをしようが、何をしようが、母親の事が、いとおしくて、かわいくて、「ありがとうございます」と想えるようになったそうです。

 純子大統領は、「ありがとう」おじさんに出会う前から、無意識に母親との体験を通して、ものすごい「ありがとうございます」を身につけるようになっていたのです。

 紫陽花は、その話を聞いて、天のやる事は、本当にすごいと改めて想いました。

 純子大統領は、母親のおかげで、誰に対しても、どんな事があっても「ありがとうございます」といえる存在、弥勒菩薩になっているのかと想ったのです。

 ですから、紫陽花は、そんな純子大統領の21世紀の活躍が、楽しみになってきました。

 というのも、笑顔共和国には、最後に純子大統領が、紹介したように、「私は幸せ」という言葉があります。

 紫陽花は、この言葉も、「ありがとうございます」に匹敵するぐらい、すばらしい言葉だと想っています。

 今迄、その言葉を、大切にしていましたが、ずっと唱えていませんでした。

 これからは、「私は幸せ」と「ありがとうございます」を笑顔で唱えようと思いましたし、笑顔共和国の皆もそうするだろうと想います。

 21世紀、ますます、笑顔共和国の皆もパワーアップすると確信できた中で、純子大統領の話は終わったのです。

 

 

              §「山岸道弘さんの話」§

純子大統領の話が終わった後は、山岸さんの話でした。

山岸さんも、すばらしい話を聞かせてくれました。

でも、ここで詳しく紹介するのは、申し訳ないですが、勘弁して欲しいと思います。

山岸さんの話も、詳しく書いていたら、ページ数が大変で、162号が、本当に長くなるからです。

ご理解して欲しいと想います。

 ただ、それでも、山岸さんの事や、「ありがとうボランティア」の人達の事で、紫陽花は、皆さんにどうしてもお伝えしたい事があります。

 それは「ありがとうおじさん」を世に出した、大きなきっかけを与えたのは、山岸さんと實村さんの縁だという事です。

 お二人が、「ありがとう村」で「ありがとうおじさん」に会って、その教えに感激し、「ありがとう」を唱える事を勧めている、小林正観さんに、「ありがとうございます」をずっと何十年も前から唱えている、面白いおじさんがいると紹介した事が大きかったのです。

 その話に感動した、小林正観さんが、実際に、「ありがとうおじさん」に会い、感激して、講演会に来ている人に、紹介したからです。

 それで、「ありがとうおじさん」は有名になりました。

 たくさんの人が「ありがとう村」に来るようになったのです。

 紫陽花は、山岸さんや實村さんが、そんなすばらしい縁のお仕事をしたという事は絶対に忘れてはいけないと想います。

 紫陽花自身、ものすごく羨ましいし、天が喜ぶ、すばらしい事をされて「よい事をしてくれました」と喜んでいるのです。

 と同時に、それは、山岸さんが書いた「ありがとうおじさんのどう生きたらいいの?」という本も同じです。

 ありがとうおじさんの対談が中心だし、テープを掘り起こした二人の女性を含めて、たくさんの人の協力で、この本はできましたが、やはり本を創ろうと想った、山岸さんの功績は大きいです。

 この本を読んで、全国でたくさんの人が、「ありがとうおじさん」の事を知ったからです。しかも本の中身も、すばらしいです。

 特に、最初に出てくる詩などは最高です

 この事も、紫陽花は改めて皆さんに知って欲しいと思いますし、實村さんも、毎週「ありがとう通信」を送ってくれて、いろんな情報をくれています。

 お二人は、それぞれ大きな役目があって、天から選ばれて、「ありがとうおじさん」の縁を作ったと確信したのです。

 しかも、お二人は、紫陽花の恩師である原裕一郎先生がやっているDDNさんとも縁があります。

 インターネットを使った、智閥作りをしています。

 縁ある人に、いろんな情報を送っていくのです。

 紫陽花は、原先生の作っている「なんでんかんでん村」の村人の一人ですが、この事にも注目しています。

「ありがとうおじさん」やハガキ道の坂田道信先生なども参加しており、21世紀、大きく活躍する予感がします。

 その上に山岸さんも、自分の村を持っています。

 その話も、山岸さんは詳しくしてくれましたが、是非、皆さんにもお伝えしたかったのです。

 そして、山岸さんの話が終わった後は、野外で、食事をしました。

 今回は特別に玄米食から白米まで、「ありがとう村」では料理も用意してくれていました。

 料金は、自由価格という事ですが、宿泊する人もしない人も、一人5千円から7千円程度、お願いしたいということでした。

 紫陽花は、何でもボランティアという訳にはいかないので、それでいいと想います。

 料理も、おかずを含めて結構おいしかったです。

 特に純子大統領が「ありがとう村」にくると言う事で、笑顔共和国の国民から、おいしい差し入れもあり、おいしく食べれて「よかったよかった」です。

 本当に得をしたという感じでした。

 また、ありがとう村に来た先生達の講演テープや「ありがとうおじさん」のテープ、「ありがとうございます」のシールなども、たくさんおいています。

 全部、自由価格です。

 何個か、買っていったらいいと想います。

 そして、食事が終わると、「ありがとうおじさん」と一緒に再び、「ありがとうございます」瞑想を1時間しました。

 この時に、紫陽花は気がついたのですが、瞑想する時に、五井昌久先生の祈りのテープを使かっています。

 紫陽花は、参加していた人から教わったのですが、瞑想する部屋に飾っている「ありがとうおじさん」の後ろにある掛け軸も、五井先生の直筆で、「ありがとうおじさん」は若い頃に五井先生とは直接お会いしているそうです。

 ある意味では、五井先生の祈りの継承だといえると想います。

 また瞑想が終わった後、再び、「ありがとうおじさん」の時間として、1時間質問に答えて頂きました。

 ちゃんとスケジュールが決まっており、退屈しないですむのです。

 こうして、今日の「ありがとうおじさん」との楽しい出会いは、あっという間に終わったのです。

 

 

              §「寺小屋・5日の行事」§

でも、「ありがとう村」での楽しい出来事は、まだまだ終わりませでした。

 今度は、何十人も泊まれる宿舎が、何軒か建っている「ありがとう宿舎」に、車で5分ぐらいで移動して、ここで泊まる人は、一つの宿舎に集まって寺子屋というものをしました。

 これは、皆が、千円か、一品の料理と五百円を払って、皆で、「ありがとうございます」の縁をワイワイ・ガヤガヤと語り合うものです。

 自己紹介の場所です。

 紫陽花は、こんな縁が創れる場が大好きですが、きっと「ありがとうございます」の神様も喜んでいると想います。

 ここに50名以上の人が集まって、楽しい寺子屋が始まったのです。

 また紫陽花自身も、いろんな人のご縁を頂きました。

 笑顔共和国の人でも、知らない人は多かったです。

 名刺のやりとりも、何人かの人としたのです。

 と同時に、紫陽花が作った「ありがとうございますサイクル」も完売しました。

 自己紹介の時に、少しピーアールさせて貰いましたが、皆さん、興味を示して、まわしてくれたのです。

 紫陽花は、それだけでも「私は幸せ」で嬉しかったです。

 だけど、紫陽花の喜びは、まだまだ無限の無限ありました。

まず、マゴコロネットサービスカンパニーの谷本光章さんと偶然会ったと言う事です。

 谷本光章さんとは、広島の根幹志塾が縁で以前に会った事があります。

 まさか、広島から、谷本光章さんが、友人と3人で来ているとは夢にも想わなかったので、想わず「縁の神様」に「ありがとうございます」をしました。

 何か、大きな意味がある予感がしましたし、今、メールでたまにやりとりをしているのです。

 と同時に、紫陽花が、感じた事は、「ありがとう村」に参加する人達は、やはり意識が高いと言う事です。

 紫陽花が、参加した時は、小林正観さんの縁の人や、大阪で野坂礼子さんがやっている笑顔教室の人が主に参加していましたが、それぞれしっかりした話を聞かせて貰いました。

 紫陽花は、やはり「ありがとう村」に行く人は、ある程度天、「ありがとうございます」の神様に選ばれて、全国から来ていると想ったのです。

 いろんな人の出会いが欲しいので、また来たいと想ったのです。

 しかもここで、本当に不思議な事もありました。

 實村さんに言われてびっくりしたのですが、寺子屋で集まった所にはエアコンはないので、窓は全部開けていました。

 なのに、蚊などの虫が、入ってきません。

 夏ですし、周りは山で、ちかくに川が流れています。

 この事は、常識では絶対に考えられません。

 紫陽花も、変だなあと想っていましたが、實村さんが皆さんに教えてくれて、驚きました。

 天、「ありがとうございます」の神様が、この場を、守っているとしか考えられません。

 改めて、この「ありがとう村」に行けた事を感謝したのです。

 そして、そんな「ありがとうございます」の神様に、「えがお」と「ありがとうございます」を届ける事もできました。

 紫陽花は、その機会は絶対にあると思っていましたが、天は、その機会を与えてくれました。

 寺子屋にいる人達が、みたいという事で、最後に純子大統領や笑顔共和国の人達、何人かで「景気快復音頭」と「私は幸せ」を披露したのです。

 ようするに楽しく踊ったのです。

 紫陽花は、この踊りの楽しい波動は、間違いなく、天に届いたと思うと嬉しかったです。

 今回の七夕祭りは、初めて、皆の願い事を天にあげませんでしたが、これで満足できたのです。

 というのも、紫陽花自身、本当に勉強したのですが、ありがとう村では、年、2回護摩を焚くそうですが、その時も、無限の無限の「ありがとうございます」しかあげないそうです。

 木に「ありがとうございます」という文字と名前だけを書いて、後は、何もしないのです。

 何故なら、他の願い事は、全部想いです。

 想いをあげると言う事は、天の想いと、あげた人の想いが一致しているのならいいですが、一致していない場合は、その想いは実現しない事になります。

 その人が、叶えたいと想っている事でも、その事がその人にとって、いい事だとはかぎらないからです。

 だから天に感謝の波動だけ届けて、願いは、天にすべてお任せする。

「ありがとう村」は、そういった考えで、護摩を焚いており、紫陽花は、感動しました。

 どうりで、今迄、姫路や伊勢神宮、岡山で、願った想いが実現しなかったはずだ。

 紫陽花は、その時は、それがどうしても叶えたい願いでも、今から考えたら、それが天の願いと違う事に、何となく、やっとこの頃気が付いていました

 しょせん人の想いとはそんな程度のなんです。

 だったら、ただ、感謝の言葉「ありがとうございます」を、天に送って、後は、すべて任せた方がいいです。

 紫陽花は、そう想いました。

 今回、純子大統領や、笑顔共和国が願いを、天にあげなかった訳も分かったのです。

 ですから、今回の笑顔共和国七夕祭りでは、恒例の笹に願い事を書くのはなしで、笑顔の波動だけを「ありがとうございます」に送ったと言う事になったという訳なのです。

 でも、それでも紫陽花は、この意味は非常に大きいと想います。

 きっと「ありがとうございます」が、たくさん帰ってくるような予感がするのです。

 こうして、楽しい寺子屋も終わり、12時頃いよいよ寝るだけになったのです。

 ですが、ここで、すごいと想ったのは、翌日、朝の4時頃には、もう「ありがとうおじさん」は「ありがとうございます」瞑想をしているという事です。

 紫陽花は、とても起きられませんでした。

 やっと5時頃の「ありがとうございます」瞑想に参加したのです。

 またその後、いろんな質問に答えて貰い、朝食を食べて、いよいよ笑顔共和国の七夕祭りは終わりにむかいました。

朝食を食べた後、「ありがとうおじさん」に笑顔共和国の「笑顔のチャチャチャ」「星の子スマイル」「景気快復音頭」の3つも踊りを披露しました。

「ありがとうおじさん」も、にこにこ顔で、見てくれました。

 紫陽花は、この笑顔の踊りの波動も、天に届いたと想います。

 「えがお」と「ありがとうございます」の縁結びは、大成功したと想ったのです。

 本当に「よかった」「よかった」です。

 そして、ここで、「ありがとう村」を離れて、山岸さんの案内で、多くの人は、すぐちかくの惟喬親王(文徳天皇第一皇子八四四〜八九七年)がお祀りしている御陵の所に行ってきました。

 この惟喬親王は、紫陽花は、全然知らなかったのですが、本来は、天皇になれる人だったそうです。

 それが、権力争いに負け、滋賀の山奥の住み着いたそうです。

 ですが、そんな惟喬親王の教えを求めて、この地にたくさんの人が訪れ、教えを乞い、住み着いたそうです。

 惟喬親王が亡くなった後も、この土地に真理を求めた人が、一つの村を作って、千年ちかく住んでいたというのです。

「ありがとう村」の土地は、そんな聖地だったのです。 紫陽花には、これには参りました。

「ありがとうおじさん」は、古神道系の大きな計画の中に、私も組み込まれていると書いていましたが、惟喬親王の霊や、五井昌久先生の霊や、いろんな聖者の霊が、「ありがとうございます」の縁を支えていると思ったのです。

 だから、純子大統領や、笑顔共和国の皆が、惟喬親王御陵を訪れた事は、物凄い意味があると思います。 正式に挨拶したのです。

 しかも来年、惟喬親王をお参りする7月20日の「惟喬親王祭」に、笑顔共和国は、笑顔の踊りを披露する事に決まりました。

 2003年の7月に、再び純子大統領や、笑顔共和国の皆が、再び、顔を見せるのです。

 紫陽花は、来年も来られると本当に嬉しくなったのです。

 こうして、笑顔七夕祭りは終わったのです。

ですが、不思議な縁は、まだ続きます。

 帰りは、紫陽花の地元である泉州から来ている山ア勝さんに送って貰いました。

 泉大津市と貝塚市は、車で30分ぐらいの距離です。

 まさか泉州から来ている人がいるなんて思わなかったので、紫陽花は本当に不思議な縁に「ありがとうございます」しました。

 山アさんには、堺に住んでいる、笑顔国民の石川さんと辻さんと、紫陽花の3人が、家まで送って貰い、本当に助かりました。

 しかも山崎さんは、クリーニングの仕事をしているのですが、画期的な洗剤を開発したり、ボートの世界で、オリンピックに出る選手のコーチをしたりと、行動的な人で「ありがとうボランティア」でもリーダーにもなっています。

 そんな人とご縁も、頂いた事も紫陽花には本当に心から感謝です。

「ありがとう村」に、どんどん来なさいと、縁の神様が行っているような気がしたのです。

 ですから、また、「ありがとう村」には行きたいと思います。

 では皆さん、162号『笑顔共和国七夕祈念IN「ありがとう村」』を読んで頂いて「ありがとうございます」      
    平成
1498

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