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      縁の花

      (魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)

              第163号

          武田勝頼天下取り物語

     武田勝頼さん「ありがとうございます」

 紫陽花の前世が、ある霊媒師の女性によって、戦国時代に戦っていた、武田信玄の息子、武田勝頼だといわれた事は、皆さんに何回も紹介しています。

 この霊媒師の話自体、紫陽花自身、完全に信じている訳ではありませんが、否定もするつもりもありません。

 紫陽花自身、戦国時代に活躍していた武田信玄や、戦国時代最強だと言われていた、武田軍団は、何故か大好きですし、勝頼に対しても、昔は、ばかな二代目だと想っていましたが、今は親しみを感じています。

 前世、武田勝頼だったと想う事も、悪くはないなあと想っていたのです。

 いえ、むしろ、戦国時代に敗れたといっても、歴史に名前が残る人物なので、何か、自分自身が偉い人物のような気がして嬉しかったのです。

 しかも、紫陽花の周りには、武田という名字や、武田家に縁ある人が、何人もいるので、不思議な感じがしています。

前世、武田勝頼の母だったという人や、祖先が武田勝頼の子供を匿った人や、武田家の家臣だったという人もいます。

武田という名字の人も、広島と関東にいます。

気が付いたら、紫陽花の周りは、武田家の縁ある人だらけになっているのです。

 だから、紫陽花は、縁の花でも、何回か、武田家の事を書いています。

 戦国時代に亡くなった、多くの武田家の人達を想って、第54号「武田家の天下取り」と第130号「戦国時代済度」を書きました。

 第54号では、武田信玄と供に天下取りを夢みた武田の家臣団と、シュミレーション小説で、見事に天下取りを実現しましたし、第130号では、武田家の供養、因縁が取れる事を願って、現在に分かっている、歴史の事実を詳しく書きました。

 第151号「いつも一緒にしようね」では、現在風の物語にさえしました。

 これを書く事によって、戦国時代に生きた人達の、想いを分かってあげたかったのです。

 しかし、紫陽花は、21世紀「ありがとうおじさん」と縁を持つ事で、想いをもう止める事にしました。

 想いは、重いです。(笑)

 いくら、戦国時代に生きた人達の想いを分かってあげようとしても、それだけでは、供養してあげられないのではないか、そう感じ始めたのです。

 それよりも、想いを感謝「ありがとうございます」に変えてあげるべきではないか。

 紫陽花は、そう考え始めているのです。

 ですから、今から、どこまで書けるか、分かりませんが、できるだけ、戦国時代に亡くなった人達の想いを感謝に変えてあげたいと想います。

 そんな気持ちで、長年の夢だった、武田勝頼の天下取りに挑戦したいと想うのです。

 と同時に、紫陽花は、これを書くに当たって、武田勝頼さんに、心から感謝したいです。

 というのも今迄、前世、武田勝頼だった事に、やっぱり何か罪の意識を感じていました。

 信玄が戦国時代最強に育てた武田家を滅ぼしたのは、やはり後を継いだ武田勝頼の責任が大きいです。

 武田家を継ぐ器でなかったといわれたら、反論できません。

 しかも、信玄が育てた家臣や、一族のものを、信玄のように、うまくまとめる事ができず、最後まで一族や家臣達と団結する事ができませんでした。

 最後には、一族の穴山氏や木曽氏に裏切られ、小山田信茂に見捨てられて、天目山で、妻である北条氏の娘や世継ぎの信勝と供に自刃しています。

 その事に対して、勝頼自身、今でも、怨みや、怒りや、自分自身に対する不甲斐なさなどのいろんな想いを感じていない訳がないと想うのです。

 また、その上に、勝頼は、父親である信玄に対しても、複雑な想いがあったといわれています。

 というのも、信玄は、勝頼の母になる諏訪氏の娘の父親、諏訪頼重を騙して、甲斐の国に連れてくると自刃させています。

 その上で、諏訪氏の娘を、美貌に惚れて、家臣が反対する中で、強引に側室にしています。

二人の仲は、それでも、激しく愛し合い、諏訪の姫は、信玄が一番愛した女性だと言いますが、やはり、悲しいものがあるのです。

その上に諏訪の姫は、勝頼を産むと、若くして亡くなっています。

勝頼は、幼い時に母を亡くし、側室の敵方の娘から生まれた四男という複雑な環境で、家臣達に育てられたのです。

しかも、勝頼は、信濃の諏訪を継ぐ事になっており、武田家を継ぐ予定はありませんでした。

武田家は、長男の義信が、継ぐはずでした

それが、駿河の国を取る為に、三国同盟を結んでいた、今川氏を攻める事で、今川の姫を嫁に貰っている義信と、信玄は対立し、謀反を企てた罪で、監禁しています。

 義信は、自ら、自刃したといわれているのです。

 だから、その後、武田家は、四男の勝頼が継ぐ事になりました。

 二男の信親は目が見えないので坊主になっており、三男は、信之は早くして死んでいます。

 甲斐の国出でない、敵方の諏訪氏の血をひいている勝頼が、跡を継ぐ事に対して、家臣の中から反対もあったというのです。

 その上に、信玄自身、勝頼に対して、不安を持っていたといいます。

 勝頼は、戦自体は強かった勇者なのですが、思慮にかける所があり、跡を任せるが、心配している面があったのです。

 ですから、信玄は、武田家の跡を、勝頼の息子、信勝にして、勝頼は、信勝が、十六歳を迎えるまで、後見するようにいっています。

 信玄は、跡目を信勝にして、勝頼を正式に世継ぎとして認めなかったのです。

 そうする事で、戦好きの、思慮にかける勝頼を押えようとしたのかもしれないのです。

 でも、その事は、信玄の最大の失策だといわれています。

 信玄が、勝頼を、世継ぎとして認めなかった事で、一族や家臣の中で、勝頼を侮るものがいましたし、勝頼自身にも、自分を認めさせたいという焦りを産みました。

 勝頼は、家臣達に自分の実力を認めさせたいという気持ちから、戦を仕掛け、長篠の戦で、墓穴を掘って、信玄を支えた多くの重臣を戦死させています。

 そしてその事が、武田家にとって、命取りになりました。

死んだ兵は、何年もすれは゛補充できても、役に立つ重臣はそうはいきません。

最後まで、有能な家臣の補充はできないまま、武田家は、人材不足の中で、勝頼が継いで、10年後、ろくな抵抗もせずに、織田信長、徳川家康に滅ぼされています。

もしかしたら、父である信玄が、自分にちゃんと、引継ぎをしていてくれたらという想いを持ったまま、勝頼は、越えられない信玄の偉大さを感じつつ、空しく死んだかもしれないのです。

だから、正直言って、この2年ぐらいは、紫陽花にとって、武田勝頼は、重かったです。

カルマ、すごい因縁を背負っていると、とても喜べる心境になれなかったのです。

でも紫陽花は、その因縁を、今から感謝に変えてあげたいと思います。

その為に、勝頼の人生を、物語の中でやり直します。

勝頼さん「ありがとうございます」武田信玄さん「ありがとうございます」武田家の縁ある人達「ありがとうございます」

すべての武田の霊達に「ありがとうございます」という感謝の波動で、今からすばらしい武田勝頼の天下取りの物語を書きたいのです。 

 

 

           ※軍師山本勘助

 戦国時代、甲斐の虎と恐れられた、武田信玄が、見事に徳川家康に、三方が原の戦いで勝った後、病で亡くなったのは、天正一年、1573年の4月12日だといわれています。

 結核による肺病かもしくは胃癌でなくなったといわれているのです。

 しかし、この事は、歴史的にみても、とても惜しかったです。

 というのも信玄は、長年の夢だった、天下取りに向かって驀進していました。

 織田信長を倒して、京都の瀬田に武田の旗を立てるという目的で、家臣も燃えていました。

 その為に、浅井・朝倉連合軍や、伊勢長島や石山本願寺・伊勢の北畠具教や大和の松永久秀と組んで、畿内に信長包囲網をつくって、信長を動けなくしました。

 その上で、三河の徳川家康を打ち負かして、尾張・美濃を占領するつもりでした。

 天下取りまで後一歩、信玄が後、3年から5年長生きしたら、信長を倒して、武田家が、天下を取る可能性は非常に高かったのです。

 でも、信玄は、三河進行中に、亡くなりました。

 この事は、武田家に衝撃を与えました。

 信玄は、天下取りに夢中で、武田家の後の事を考える余裕がありませんでした。

 長男の義信の反抗に懲りて、はっきりと後継ぎを勝頼としませんでした。

 勝頼も、侍大将の一人でしかなかったのです。

 だから、信玄が亡くなった後、武田家の家臣達は、呆然として、中心がなくなった存在になってしまいました。

 勝頼は、侍大将としての力量は認められていても、主として、認められていなかったのです。

 ですから、信玄が亡くなった後、武田家の家臣達は、信玄が死んだ事を嘆き悲しむだけで、何もできないような状態になっていたのです。

 徳川家康を追い込んでいたのに、そのまま、空しく甲斐に引き上げたのです。

 しかし、織田信長や、徳川家康は、そんな武田家に対して待ってくれません。

 武田家の異常を感じると、信玄が亡くなったのではないかと疑い、真相を確かめようと攻勢をかけました。

 包囲網の一角、浅井・朝倉は信長に一気に滅ぼされ、足利義昭は追放されました。

 徳川家康も、長篠城を攻めて、長篠城を奪っています。

 武田家は、信玄が亡くしたショックから、立ち直れずに、動けなかったのです。

 そんな中で、武田勝頼は、一人で焦っていました。

 信玄が亡くなった後、武田家は、自分を中心として、まとまると想っていたのに、そうはなりません。

 一族の穴山信君などは、勝頼を無視して、いろいろ口出ししてきます。

 家臣達の合議を図った上という事で、何も決められず、勝頼は、怒りを覚えていました。

 父親の信玄に、どうして世継ぎとして、正式に決めてくれなかったのかといいたいぐらいだったのです。

 でも、信玄は、そんな勝頼の事が分かっていたのか、この物語では、歴史とは違う一つだけ、大きな手を打っていました。

 それは、信玄が一番信頼している重臣、海津城の城主、高坂弾正を、勝頼の軍師にするという事です。

 信玄は、病に倒れた後でも、比較的、意識ははっきりしており、「瀬田に武田の旗を立てよ」とか「三年の間、わしの喪を秘せ。その間、みだりに兵を動かしてはならん」「儂が死んだ後は上杉謙信を頼れ」とか「跡目は信勝にして、勝頼は信勝が16歳になるまで後見しろ」と同じように、はっきりと、「高坂弾正を、勝頼の軍師にするように」と多くの家臣の前に遺言しているのです。

 ですから、勝頼も、この遺言を無視する事はできませんでした。

 勝頼自身は、信玄が自分を信用していないので、そういうのかと想うと、不服もあったのですが、信玄の遺言だとなると従わないといけません。

 しかも、軍師という言葉は、信玄と供に戦った、重臣達の間では絶対でした。

 武田家の中でも、今は、もう忘れられるようにしていますが、軍師といえば、山本勘助でした。

 山本勘助が、武田信玄の軍師になった事で、武田家は繁栄し、信玄は大きく育ちました。

 信玄は、その軍師の役を、高坂弾正に任せ、第2の山本勘助にしようとしています。

 高坂弾正が、勝頼の軍師になれば、武田家は、安泰かもしれない。

 山県昌景や馬場信春、内藤昌豊などの、高坂弾正と同じ、4重臣と呼ばれていた重臣も期待していたのです。

 だから、勝頼は、そんな家臣の期待も、無視もできず、2ヵ月後、高坂弾正を、自分の館に呼び寄せました。

 勝頼自身、渋っていたのですが、自分自身、今後何を武田家として、やっていいのか分からない事もあって、話を聞きたかったのです。

 また、その話で勝頼は、目が冷める想いがしました。

 信玄が残してくれた思いやりに感謝したのです。

 というのも、勝頼と高坂弾正の話は、最初、山本勘助の話になりました。

 山本勘助は、勝頼が14歳の時まで、第4回川中島の戦いで、上杉との戦いで戦死するまで生きていたのですが、勝頼は、勘助の事をまだまだ知りませんでした。

 自分の事を、とても勘助が可愛がってくれた記憶があったのですが、亡くなった勘助の事を、自分に熱心に話す人はいませんでした。

 だから、高坂弾正が話す、軍師山本勘助の話に、惹かれました。

 高坂弾正は、後に甲陽軍艦という、信玄や武田軍団の活躍を、後世に残す物語を書いた作者です。

 話は、うまく、勝頼も引きずり込まれました。

 高坂弾正は、勘助が、諏訪氏を滅ぼした知恵を信玄に与えた事などは、上手に隠しながらも、山本勘助と勝頼との縁の深さや、軍師の必要性を訴えました。

 勝頼は、山本勘助が、信玄の為に、諏訪の姫を側室にするのを、反対する家臣を説得してくれなかったら、自分が生まれてこなかった事などを知って、感謝しました。

 28歳になった勝頼は、弾正が、自分にとって、まずい話はふせている事は分かっていましたが、諏訪の家臣達は、諏訪を滅ぼした山本勘助の話をしない事もあって、弾正によって、始めて聞かされた事も多く、驚きました。

 幼い自分を可愛がってくれていた勘助が、どんな気持ちでいたのか、知ったのです。

 しかも高坂弾正の話は、一晩で終わりませんでした。

 勝頼は、二晩、三晩と、高坂弾正を招く事になりました。

 信玄が、武将として、あれ程偉大になれたのは、山本勘助のおかげだった。

 軍師である山本勘助が、信玄を影から支えて、諏訪を侵略し、小笠原長時や村上義清を信濃から追い出し、上杉謙信と戦い、武田、今川、北条との三国同盟を結び、第4回目の川中島の激戦で、自らのたてた作戦、キツツキの戦法を、上杉謙信に読まれた責任をとって、八幡原で死んだ話に感動したのです。

 

 

          ※「軍師高坂弾正誕生」※

 高坂弾正の山本勘助の昔話は三晩続きました。

 しかし、高坂弾正は、今、軍師として、勝頼が何をすべきかを決して話そうとしませんでした。

 勝頼も、その事に気がついていましたが、四晩目に、とうとう、我慢できずに、「お前のいう軍師とは昔話をいう事なのか、そうではないだろう」不満をいいました。

 とうとうじれたのです。

 ですが、高坂弾正は、そんな勝頼を待っていました。

自分の話を、勝頼が真剣に聞こうとしているのを待っており、その時にやっと自分の想いを勝頼にいったのです。

 それは、勝頼が、自分を本当に軍師として、扱ってくれる気持ちがあるのかという事です。

 高坂弾正は、軍師と、家臣は違う。

 今までの家臣として扱われるのであれば、軍師を務められない事を、説明しました。

 自分を信じ、一番の側近として扱ってくれないかぎり、軍師の大役は、果たせないというのです。

 高坂弾正は、その事を、山本勘助も偉かったが、その勘助を用いて、家臣の嫉妬や妬みを無視して、存分に活躍させた信玄公も器が大きかったという事で説明しました。

その上で、信玄公の遺言通り、軍師として迎えてくれるか、念を押し、勝頼は、高坂弾正と約束しました。

多くの家臣の前で、明日にも高坂弾正を、自分の軍師としてむかえる事を宣言すると誓ったのです。

 こうして、高坂弾正は、勝頼の軍師になる事ができました。

 歴史の真実としては、高坂弾正は、勝頼に、何度も諌言しています。

 長篠の戦で勝頼が敗れた後、山県や馬場や内藤が戦死して、信玄の四重臣の、最後の一人として、生き残った後も、勝頼を助け、厳しい意見をいっているのです。

 でも、その意見の多くは、勝頼に用いられる事はありませんでした。

 勝頼との仲も、あまりよくなかったのか、勝頼は、高坂弾正の諌言を重んじる事もありませんでした。

 結局、そんな中で、武田家の滅亡を確信していた、高坂弾正は、悲痛の中で、甲陽軍艦を作成し、武田が滅びる前に死んでいるのです。

 だけど、この物語では違います。

 高坂弾正は、信玄の遺言、願いによって、勝頼の軍師として、武田家の戦略を任される事になったのです。

 また、その時に話した高坂弾正の戦略も驚くものでした。

 勝頼が、考えもしなかった事を、高坂弾正は述べたのです。

 というのも、高坂弾正は、まず、武田の御屋形として、これから武田家がどう行くべきか、勝頼の意見を聞きました。

 勝頼の、父信玄の遺言通りに、3年も武田が動かなかったら、織田信長、徳川家康は、ますます大きくなって、武田家は、滅びてしまう。

 今の内に、織田信長や徳川家康と対決した方がいいのではないかという意見を黙って聞いていたのです。

 ですが、そんな勝頼に対して、高坂弾正は、軍師として、遠慮なく、いいました。

 勝頼の考えは、間違ってはいないと認めつつも、今の御屋形様では、決して信長に勝てないといったのです。
 その発言に、勝頼は一瞬むっとしましたが、それを説明した高坂弾正の説明に納得しました
 
 浅井、朝倉連合が滅ぼされ、伊勢の北畠具教や大和の松永久秀も、信長に反抗するのを止めて、信玄公が創った信長包囲網が無くなった以上、勝頼が、徳川・織田信長に戦を仕掛け、例え勝ったとしても、それは局地戦に勝利したにすぎず、

 岐阜にいる織田信長を滅ぼすのは、10年かけても難しいといったのです。

 その上で、徳川家康さえ、今の武田家では、滅ぼす不可能だと弾正はいいきりました。

 織田信長が、後押しをする以上、東美濃の明智城や、遠州の高天神城、三河の長篠城と落としても、徳川家康のいる浜松城に到着するのには4、5年はかかる。

 高坂弾正は、そういった厳しい現実を突きつけました。

 家康が、浜松城を捨てて、三河の岡崎城に本拠を移したら、何年かけても、家康一つ、首を取る事もできない。

 そんな事をしている内に、武田家は、戦に勝ち続けても、武田家の力自体、経済力で疲弊してしまって、最後には勝てないというのです。

 さすがの勝頼も、この高坂弾正の進言を、否定する事はできませんでした。

「では、どうしたらいいのだ」と思わず、怒りを持っていってしまったのです。

 しかし、高坂弾正は、そんな勝頼に対して、具体的な案を持っていました。

 高坂弾正は、まず、第一の案として、これからの十年の武田家の安泰を考えるのなら、織田信長と和睦して、北条家と戦い、関東を切り取る事を提案して、勝頼を驚かせました。

 まだ武田家は、直接、織田軍と戦った訳でもないので、今、和睦を求めたら、武田家の武力を恐れる信長は喜んで応じるだろうというのです。

 その上で、一度破断した信玄公の六女松姫と織田家の嫡男、信忠との婚約を復活させ、年内にも、松姫を信忠のもとに送れば、織田家と武田家は、結ばれ、勝頼が、織田家に忠誠を誓えば、武田家は、十年は生きられるといいます。

 もし、信長が死んで、信忠の時代になれば、武田家は、ずっと安泰だといったのです。

 でもそんな高坂弾正の進言に、勝頼は乗気にはなれませんでした。

 織田信長と組むなどと、勝頼にはとても考えられなかったのです。

 そんな渋る勝頼に対して、高坂弾正は、苦笑いをすると、次にこの案の欠点をいいました。

 それは、十年は安泰でも、信長の手によって、天下統一が実現した後では、武田家は、結局滅ぼされるという事です。

 関東の何カ国も新たに支配国に置いて益々巨大になる武田家を、信長が認めるはずがありませんし、高坂弾正は、信長の性格から考えても、不可能だといいました。

 高坂弾正は、極秘情報として、信長が、浅井親子の頭蓋骨や朝倉義景の頭蓋骨で酒盃を造って家臣達と酒盛りをしたという噂を披露して、信長の性格を分析してみせました。

 信玄に対して、信長は、相当な怨みを持っており、利用できるだけ利用すると、必ず、勝頼と信勝を殺し、武田家を滅ぼすだろうというのです。

下手をしたら、武田の家臣達も、皆殺ししかねない。

高坂弾正は、そう断言したのです。

しかも高坂弾正は、織田家と組んでいる徳川家康の例を出して、信長の苛酷さを訴えました。

同盟者とは思わない仕打ちの数々、家康は辛抱できても、とても、勝頼では耐えられないだろうと、苦笑いをするといいました。

二人は、その時に始めて笑いました。

高坂弾正は、代が変わって、信忠の時代にならない限り、武田家と織田家が、組む事はありえない事を念押ししたのです。

 

   

     読者の皆さんへお願い

武田勝頼の天下取り読んで頂いて「ありがとうございます」

さてここで読者の皆さんにお願いがあります。

ここからが重要なので、少し違和感があるかもしれませんが、弾正と勝頼の会話が終わるまで、あらすじモードから小説モード、会話モードに切り替えたいと想います。

宜しくお願いします。

では、今から始めたいと想います。 

 

          ※「軍師高坂弾正の秘策」※

 

そして次に弾正は、第2の案として、自分が、信玄が死んだ後、ずっと温めていた案をいいました。

それは、武田家と上杉家の同盟です。

弾正は、それを勝頼に、「信長が駄目だったら、組む相手は、後は一つだけ。勝頼様、上杉謙信殿を頼りなさい」と丁寧に話し始めたのです。

でも、その案は、勝頼には意外でした。

勝頼は、北条家だというと想っていたので、「北条家ではないのか」と思わず、聞き返したのです。

 だけど弾正は、そんな勝頼にきっぱりと「北条家との絆、同盟は絶対に守らないといけません。もし、北条家を敵にしたら、武田家は、必ず、はさみ内にあって、織田信長に滅ぼされます。これはお忘れなきように。肝に命じて頂かないといけません。でも上杉謙信を敵にまわしたら、もっとやっかいです。信玄公が亡くなった後、意気消沈している武田家に、北信から、謙信が攻めてきたらと想うと、今もぞっとします」と答えました。

 弾正は、謙信が、信玄が死んで事を知ると、すぐに北信に兵を入れたら、ショックから立ち直れていない武田家はパニックを起して、簡単に滅亡した可能性もあったと判断しており、それを、信玄の事を想って、それをしようとしなかった謙信に感謝していました。

 その謙信の温情を、勝頼に知って欲しかったのです。

 しかし、勝頼はその弾正の言っている事は、まだ、よく分からないのか、

「だが、上杉と組めるはずがないだろう。そんな事をしたら、北条家が敵にまわってしまう」

「そんな事はありません。北条家を敵にしなくても、上杉家と組めます。御屋形様、北条家は敵にしてはなりませんが、氏康殿がいない今、味方としてはとても頼りになりません」

「北条家は頼りにならないか」勝頼の疑問に、弾正は頷くと

「頼りになりません。いくら石高が、二百万石ちかく あろうとも、北条家には、信長と戦う意志はございません。北条家の考えている事は、関東で自分達の家の安泰だけです。天下の事考えておりません。今の当主氏政殿では無理でしょう。北条家には人はおりません。天下が決まれば、おそらく北条家も滅ぼされるでしょう」

「北条家が滅びる」

「滅びます。当主が決断できなければ、家臣だけでは 何事も決められません。天下を取ったものが、関東に、何百万国もの石高を持つ家を、認めるでしょうか。御屋形様なら、どうします」

「わしなら」勝頼は、そう考えると、腕組みをしてしまいました。

 そんな事は予想もできなかったのです。

 けれど弾正は「信長なら、必ず、滅ぼすでしょう。北条家が、早期に80万石程度になると決断しないかぎり生き残れません。信長とはそれ程恐ろしい奴です。信長は、武田家も上杉家も、北条も毛利も、全部滅ぼすつもりなのです」

 というと、弾正は、勝頼に決断するように、

「御屋形様、もはや信長に対しては、武田家だけでは、もう戦う事は不可能です。武田家と上杉家、北条家が、手を結ばないかぎり不可能です」

「上杉家や北条家と手を結ぶ」

勝頼は、その弾正の提案に驚いたようにいいました。

いっている事は分かりますが、そんな事は不可能だと心の中で想ったのです。

しかし弾正は、怯む事無く「手を結べます。信玄様も、おやりになりました。例があります」

「それは、父上が結んだ、我が武田家と今川家と北条家の三国同盟の事をいっているのだな」

「そうです」

「しかし、あの時とは、状況は違うだろう」

「違いません。あの時も、今川家と北条家は争っていました。でも、上杉謙信という強敵が現れ、北条氏康殿は、三国同盟に合意したのです。今、上杉謙信殿にも、恐ろしい敵が現れました」

「それが、織田信長というのか、だが、信長と謙信は、組んでいるはず」

「おそらくそんな同盟なんか、信玄公が亡くなった今、もう存在しないでしょう。謙信殿にとって、信長ともう組む意味はありません」

 弾正は、そう断言すると

「考えてもみなされ、比叡山を焼き討ちにしたり足利義昭様を追放したりした信長を、謙信殿が許せるはずもありません。謙信殿が、越中、能登、加賀と進んでいけば、必ず、信長と対決します。本願寺も、将軍様も、謙信殿を頼るはず」

「この武田家ではなくか」

「残念ながら」弾正はそういうと、しみじみと

「御屋形様、信長に対しては、この3、4年は、謙信公に任せるのが一番。謙信公なら、勝てます。両家を戦わせ、織田家が弱った時、一気に、武田も侵攻なさるのが、上策かと。北陸は上杉家、中山道は武田家、東海道は武田・北条が、同時に進むのです。尾張・美濃2カ国を武田家が、支配するのも夢でなくなります。御屋形様が、先代様を超えるのも、その時かと」

「いってくれるの。しかしはたして、そんなにうまくいくか」

「それは御屋形様しだいでしょう。」

 弾正は、まだ、自分の策に疑っている勝頼に、そういいました。

 勝頼は、そんな弾正の言葉に、考えるように、

「わししだい」

「そうです。御屋形様が、どれだけ、謙信公に頼れるか、すがれるか。その御屋形様の器量しだい」

「謙信に、すがれ」というのか、勝頼は、少し不服そうにいいました。

 弾正は、頷くと「謙信公は、義を重んじる武将です。こちらから誠意を示して、お願いしれば嫌とはいわない信頼できる方です。他人の為に血を流せる武将程、信頼できる武将はいません。必ず、武田家にとって、悪い事をしません。安心です。信玄公も、敵とはいえ、信頼していました。遺言でも、謙信公に頼れと」

 と切り札を出しました。

 信玄は、川中島で、生死をかけて戦った敵であるはずの上杉謙信を、いつの間にか、武将として認めていました。

 自分にない義を持っている謙信を尊敬していたのです。

 だから、自分が、死ぬにあたって、わざわざ勝頼を呼び寄せて、自分が死んだら、上杉謙信を頼るようにと遺言していました。

 謙信なら、勝頼を助けて、信長から、武田家を守ってくれると確信していたのです。

 しかし勝頼は、そんな弾正の言葉に、まるで、信玄に遺言を守る事を迫られているのを感じながら、「それは分かっておる」と静かに答えただけでした。

 自分のプライドが邪魔をして、まだ迷っていたのです。

 勝頼は、そう遺言した父、信玄を見返したかったのです。

 弾正は、そんな勝頼に、すがる想いで、

「御屋形様、そうしなければ、武田は滅びます。武田が、上杉に頭を下げなくても、武田家と上杉家が戦う事はないでしょう。謙信と信長は、いずれぶつかります。でも、上杉家が、単独で勝てるとはかぎりません。おそらく難しいでしょう。謙信公とはいえ、京都に行くまで時間がかかりすぎます。今のままなら、56年はかかります。なれぞ、御屋形様が、本気で力が貸せば、上杉家と織田家は、2、3年で、北陸で対決する事になるでしょう。」

「どうせよというのじゃ」勝頼は、そんな弾正に尋ねました。

 弾正の真剣さは、まるで、戦をしているような迫力があり、勝頼も無視できなかったのです。

 弾正は、そんな勝頼に

「まず、一番目に、足利義昭将軍に、上杉謙信に密書を送るようにお願いなされ。信長を討つ事と、武田家、北条家と、同盟を結ぶ事、何としても将軍命令として、謙信に承知させるようにする事。二番目に、本願寺の顕如殿に、加賀・越中の一向一揆と上杉家との和睦を依頼される事です。御屋形様からも、顕如殿に頼む事です。」

「そうすれば、どうなる」

「上杉家は、越中・能登・加賀を比較的簡単に、治めるでしょう。おそらく、越前も一向一揆が味方になれば、3、4年で、信長と近江で戦う事になりましょう」

「上杉家は、そんなに大きくなるのか」

「関東で、北条家と争わず、武田が、援軍を出して、上杉と供に北陸で戦えば、必ずそうなります。いえ、そうなって頂かないと困ります。武田家も、その時、一気に岐阜城を奪う事ができます。織田家は、そうでもならないかぎり、倒せないでしょう」

 弾正は、自分の考えていた策をいいました。

 苦心して考えに抜いた策です。

 織田家を倒すには、その策しかないと想っていたのです。

 でも、若い勝頼は、まだ弾正の策を採用するという決断はできていない感じでした。

 戦が好きな勝頼は、自分の力で、織田信長を倒したかったのです。

 弾正は、そんな勝頼の気持ちが分かるのか、探るように「ご不満ですか」

 勝頼は、そんな弾正に対して、「そうではないが、謙信をそんなに大きくするのは、面白くない」と率直な意見をいいました。

「謙信公の歳は信玄公と確か、4歳しか違わなかったはず。御屋形様とは、20歳は違います。そんなに長生きはしないでしょう。それまで我慢すればよいだけです。謙信公が亡くなった後の上杉家の下につけとは申しておりません。その後は当家の自由。今、しばらくの辛抱です。謙信公が死んだ後、天下を取るのも夢ではなくなります」

「天下取り」

「そうです、後、十年して、尾張・美濃まで、手にした御屋形様は、信玄公以上。天下人の有力候補として、世間からみられているでしょう」

「分かった。弾正に任せよう」

 勝頼は、そういいました。

 本当にできるか、どうかは分かりませんでしたが、やらせてみようと思ったのです。

 しかし、弾正は、まだ、勝頼の決心ができていない事を見抜くと

「ありがとうございます。では、準備を整え、早速、上杉謙信の所に、私、自ら、使者としていきます。大まかな条件は、私にお任せ頂きますね」

「よかろう」

「その時に、御屋形様の代りに、謙信公に頭を下げますが、よろしいですな。先代の信玄公の遺言通り、謙信公のお力にすがります。対等の同盟ではなく、上杉家6・武田4の同盟になります。武田家の家中の者や、世間の人の中には、武田は、信玄公が亡くなったら、上杉の風下に下ったという悪口をいうものもあらわれましょう。それは、耐えて頂けますな」

「待て。対等の同盟ではいけないのか」

 勝頼は、そんな弾正に慌てていいました。

 やはり、自分になってから、上杉家の下につくのは、耐えられなかったのです。

 弾正は、そんな勝頼の気持ちは、予想としていたのか

「今なら、対等の同盟でやれるでしょう。お互いの領土を攻めないという盟約は可能です。でも、武田が上杉を応援する事はできません。対等の同盟である以上、武田がすれば、上杉にも求めないといけません。武田の家臣達も納得しないでしょう」

「いわしたい者にはいわせておけ」

 勝頼は、武田家中の者の中で、今でも、自分を御屋形様とは認めずに、諏訪殿、勝頼殿と呼ぶものに対して、少し不満げにいいました。

 穴山信君や、木曽氏などは、勝頼を武田家の当主として認めず、武田家を集団体制で動かそうとしていたのです。

 でも弾正は、その事に対しても、憂いっていました。

 武田家は、織田家のように、家臣が、当主の信長のもとで一つになっていません。

 信玄公がいたなら、カリスマ性によって、各地域の領主を従わせられていましたが、勝頼になると、家臣が各自で考えるようになってきている兆候がみられました。

 家臣が一つになれなければ、武田家は崩壊する。

 弾正は、それを怖れていたのです。

 だから高坂弾正は、思い切った事を、しみじみと、言い聞かせるようにいいました

「御屋形様、家臣達に納得させる為にも、謙信公を親と想いなさい」

「謙信を父と想えだと」

「そうです。謙信公はつくす価値がある御仁です。必ず、悪いようにはしないはず。謙信が生きている間は、徳川家康殿が、信長を兄と想って黙って従っているように、つくしなさい。親と想ってつくすのであれば、誰も文句はいいません。しかも、謙信公を御屋形様が取り込んでしまえば、家臣の中で、御屋形様をないがしろにするものはいなくなります。謙信公は怖いですからな。信玄公は、謙信と、意地になって、川中島で戦いました。本当は、上洛の軍を起す時は、謙信公にも協力して欲しかったのです。御屋形様が、それができたら、信玄公でもできなかった事をしたという事です。信玄公も、どれだけ喜ぶか。」

「分かった。考えておこう」

 勝頼は、そういいました。

 ゆっくり考えた上で、高坂弾正の言うとおりに、やってみるか。

 それが父、信玄が喜ぶこと、自分が、父、信玄を超えられることのように想えていたのです。

 

          ※「三年の間、喪を秘せの意味」※

こうして、高坂弾正が考え続けた、武田の外交の話は終わりました。

でも、弾正の策は、まだまだあります。

弾正は、次に、勝頼に「御屋形様、軍師として、外の話はこれぐらいにして、内の話をしてよいでしょうか」と尋ねました。

武田の内政面でも話しておかないといけない事が、弾正にはたくさんあったのです。

いえ、そちらの方が、もっと重要なのです。

勝頼は、そんな弾正に対して、静かに頷きました。

外の話は、勝頼にとっていい話ではないので、話題を変えたかったのです。

弾正は、そんな勝頼の気持ちが、痛いほど分かるのか

「武田家の当主は、御屋形様です。いわせたいものにはいわせるのではなく、罰しなさいませ」と思い切った事をいいました。

「それは誰の事をいっているのだ」

 勝頼は、そんな弾正の言葉に驚くと聞き返しました。

 弾正は、そんな勝頼に対して

「誰とはいっておりません。ただ、武田家の団結を壊すもの。御屋形様の命令に逆らうものは、従わせないといけません」

「それはそうだが」

 勝頼は、そういって止めました。

 自分を世継ぎとせずに、後見人にしたのは父である信玄です。

 これ以上いえば、父親である信玄を非難してしまう事になるので、止めたのです。

 弾正は、そんな勝頼に対して

「信玄様は、三年間、お亡くなりになった事を隠し、その間に、みだりに兵を動かしてはならんといいました。この間、御屋形様の敵は、外でなく、内にいるとお考え下さい」

「内に」

「そうです。この3年間で、御屋形様は、一族や家臣をまとめられる事が、大事です。

信長は、謙信殿に任せ。御屋形様は、家臣をまとめる事に専念して下さい。この弾正も、ご協力します。山県や馬場にも、話します」

「それはありがたい。だが、できるか」

「できます。御屋形様が、外に目を向けるのではなく、内に向けていれば、それは家臣にも分かります。逆らう事などできるものではありません」

「そんなものか」

勝頼の問いに、弾正は頷くと

「外の敵に目を向けていると、どうしても、内が疎かになります。むやみに争いを避けようとしてしまいます。何となく雰囲気で家臣にもそれは分かります。でも御屋形様が、家臣に睨みをきかせていれば、それは自然に分かるもの。3年もすればまとめる事はできます、当主とはそれほど重いものです」

「そうか。ならいいが」

 勝頼は、その言葉に、希望を持ちました。

 家臣達が、先代の信玄と比べて、自分に従おうとしない事が、勝頼の悩みの種でした。

 それが焦りとなって、家臣達に、自分の力を見せつけようという想いがありました。

 特に、穴山氏や木曽氏などの親戚にあたるものもさえ、勝頼に、心から従おうとはせず、本当に、それができればと、勝頼は、心から想ったのです。

 弾正は、そんな勝頼に対して、自信があるのか

「信長を見習いなさいませ。信玄公も、従わないものは、潰しています。勝頼様も、その覚悟は必要です」

「弾正、そちは、儂に、一族のものを殺せというのか。そんな事をしたら、家臣達の怨みを買って大変な事になるぞ」

「そうはいっていません。そうしないですむのであれば、それが一番です。ただ、御屋形様に、その心意気があるか、どうかが大切です。一端、家が傾き始めると、こういった事は不可能になります。今の内に御屋形様の命は、誰であっても、守らせませ」

「覚えておこう」

 勝頼は、そういいました。

 しかし、家臣をまとめる自信は、勝頼にはまだ持てないようでした。

 一族や家臣の中で、勝頼に従おうという雰囲気が生まれていなかったのです。

 でも弾正には、自信がありました。

 信玄が亡くなったと知った家康や信長が、このチャンスを見逃すはずがありません。

 攻勢をかけています。

 現に長篠城は、その為に落ちました。

 今、信長は、東美濃の岩村城を囲み、家康は、二俣城を狙っています。

 そんな織田・徳川軍に対抗する為にも、武田家は、まとまらないといけません。

 勝頼を中心にまとまる以外、道はないのです。

 だから実際に、そんな動きは、水面下で始まっていました。

 弾正は、山県や馬場に頼んで、穴山信君や武田信廉などの武田の有力な親戚の一族にも、勝頼をたてて、まとまるように説得して貰う段取りをしていました。

 山県も馬場も、弾正が、勝頼の軍師につくのならと、協力を約束してくれています。

 弾正は、その事を、勝頼に内緒にすると予言するようにいいました。

「御屋形様、もうすぐ、武田は、御屋形様を中心にまとまります。信長や家康の攻勢を、撥ね退けるには、それ以外に方法はありません。自然にまとまります。ただ、あくまでも、払い退けるだけ、攻勢は取りなさるな。信長・家康を甘くみてはなりません。家臣達にも、緊張間を持たせる意味からも、今は勝ちなさるな」

「勝つなというのか」

「そうです。勝てば、外に外にと目が向きます。今は、苦しくとも守るべきかと。この武田家に、本気で攻めてくる大名などありません」

「分かった」勝頼は、弾正にそう頷きました。

 合戦をしたい気持ちはありましたが、勝頼は、これからの武田家をどうやっていこうかという方針はありませんでした。

 まだまだ、そういった事を考えるゆとりもなかったのです。

 自分にない以上、軍師である弾正に、しばらく任せてもいいと思ったのです。

 それで、勝頼は「すべては弾正に任せる。もし実現したら、褒美も考えよう」といいました。

 勝頼の頭には、まだ、弾正を、武将としてしかとらえていなかったのです。

 しかし、弾正は、そんな勝頼に対して

「褒美はいりません。軍師となった弾正には、もっと大きな望みがあります」といいかえしました。

「望み」「それはなんじゃ」勝頼は興味を持つと尋ねました。

「武田家の功績を残すこと。先代の信玄公と御屋形様や、武田の家臣達の名前を、ずっと後世に残す事です」

 弾正は、そういいきりました。

 でも、勝頼には、弾正のいっている事が、良く理解できないみたいでした。

「それが弾正の望みというのか」

「そうです。このまま、信長が天下を取って、武田が滅びたら、信玄公や御屋形様は、どう語り継がれるでしょう。おそらく、今川義元公のようになるかと」

「今川義元」

「義元公も、なかなかの武将でした。それが信長に桶狭間の合戦で破れて、首をとられたら、世間の評価は、どうなりましたか。ばかな武将と呼ばれています」

「父上もそうなるというのか」

「信玄様は、信長に敗れていません。名声に傷がつく事もありません。しかし信長が天下を取れば、信玄公の名声まで消そうとするでしょう。信玄公が、すぐれた武将で、自分が、ずっと恐れていたという事さえ我慢できないはず。消そうとするでしょう」

「そんな事ができるのか」

「完全には不可能です。でもある程度できます。謙信公や家康殿が、天下を取れば、信玄公を敬うでしょうが、信長なら、貶めるでしょう。自分以外に優れた武将がいる事が、許せないのです」

「だから、信長に天下を取らせないというのだな」

「そうです。武田家に天下を取らせたいですが、それが実現できるかどうかは分かりませんが信長には絶対に取らせません。褒美は結構でございます。先代様から十分頂きました。謙信との同盟ができたら、海津城も、息子の源五郎に継がせて、私は、城主を引退させて頂きたいと思います。軍師は、領地を望んでばいけません。御屋形様の影で、密かに支えさせて頂ければ十分です」

「分かった。その弾正の心意気、しかと承知した。軍師として武田家の為に頼むぞ」

勝頼は、そういいました。

父、信玄が一番信頼した武将である高坂弾正の、父を思う気持ちを知って、感動したのです。

また、弾正も、その勝頼の言葉に「ありがとうござ  います」と感動しました。

というのも、もし、勝頼が自分の諌言を聞こうとも せずに、独自の判断で、行動するようだったら、絶望してしまうところでした。

武将としての勝頼は、けっして悪くはありませんが、 信長や家康と戦うのは、弾正の判断ではまだ無理でした。

苦労を今迄しなかった分、器が違いすぎます。

このままだと武田家は、15年持たないかもしれないと想っていたのです。

だから、弾正は、勝頼が自分を受け入れてくれなかったら、武将としては引退して、甲陽軍艦という本を書くつもりでした。

信玄や勘助や、多くの同僚が戦ってきた事を、後世に残そうとしたのです。

それが、弾正が、信玄や勘助の為に、できる唯一の事だと想ったのです。

ただ、それでも、信長が天下を取れば、弾正は、甲陽軍艦という書物が残せるとは想っていませんでした。

信長が、信玄を軍神として賞賛している書物を、絶対に世の中に出すはずがないからです。

しかし、勝頼は、軍師として、自分を受け入れてくれたら違います。

書物の世界でなく、実際に現場で戦えます。

信玄公の夢だった、天下を取る事も、夢でないかもしれません。

自分が一番尊敬するあの山本勘助と同じような事ができる、武将として、こんなに光栄な事はなく、弾正は、本当に喜びを感じていました。

信玄が、遺言でいってくれなかったら、たぶん、こうならなかっただけに、弾正は、信玄に感謝せずにおられなかったのです。

と同時に、弾正は、勝頼の軍師として、どこまで勝頼を支えられるか、分かりませんが、今迄受けた信玄のご恩に対して、感謝して、軍師として働こうと決心しました。

信玄様「ありがとうございます」弾正、武田の軍師のお役、精一杯務めてみせます。

そう誓ったのです。

  

              ※「勝頼の反撃」※

勝頼が、高坂弾正を、信玄の遺言通り、武田の軍師にしたのは、勝頼と弾正が、話し合った、翌日でした。

穴山信君や信廉などの一族のものや、山県や馬場などの家臣に、こっそりいいました。

弾正は、内密でお願いしたいといい、勝頼は、その意志を尊重したのです。

しかし、この事は、武田家内での勝頼の評価を高めました。

弾正と同じ、武田の4重臣と呼ばれていた山県や馬場や内藤も、歓迎しました。

勝頼様は、これでむちゃをしないと想ったのです。

また、そんな勝頼を中心にまとまっていこうという雰囲気も生まれました。

信玄が死んだ事で、ショックを受けて、何も考えられなかった家臣達も、半年もすれば落ち着いてきました。

しかも、敵である、信長も、家康も待ってくれません。

家臣の合意のもとで、武田家を動かしていくというのにも限界があります。

やっぱり当主が必要です。

弾正に頼まれた山県や馬場は、密かに動き、勝頼を中心にまとまっていこうという根回しをしました。

一族の中心的存在だった、穴山信君や信廉も、その事は分かっており、合意しました。

勝頼は、一族や家臣のもとで、正式に当主になる事ができたのです。

と同時に、そんな勝頼がまず取った行動は、信長や家康に対する反撃でした。

秋山信友が守る、美濃の岩村城を囲んでいる織田の信忠軍や、遠江や駿河を荒らしている家康に反撃する事でした。

勝頼は、軍師弾正の了解を得て、まず岩村城の救援に向かったのです。

だが、この結果は、とてもあっけないものでした。

武田軍を恐れる織田信忠は、武田軍が来ると分かると、あっさり岩村城の包囲網をといたのです。

だから、勝頼は、簡単に岩村城を救援する事はできました。

兵量や武器・弾薬もたっぷり、岩村城に入れる事ができたのです。

だけど、勝頼は、それ以上の事はしませんでした。

歴史では、その後、遠山衆を手なずけて、明智城などの城や陣地を簡単に落とし、弱い織田軍に対して、侮りの気持ちが生まれたのですが、ここでは違いました。

弾正は、それ以上の攻勢は、味方を慢心させるだけだと止めており、勝頼も、それに従いました。

一端引き上げ、今度は三河に入ると、徳川の軍を追い出し、二俣城や諏訪原城に兵量をたっぷり入れると、甲斐の国に帰りました。

守りに入った事を、内外にみせたのです。

そしてその後、勝頼は、一族や家臣をまとめる事に専念しました。

甥の信豊や弟の仁科盛信などにも、積極的に自分の考えを伝えました。

弾正も、山県や馬場や内藤や、小山田、土屋、小幡などの家臣を押えました。

勝頼は、外の織田信長や家康でなく、内の家臣達に目を向けており、一族の穴山氏や木曽氏も、あまり発言できなくなっていきました。

家臣達の中で、影で諏訪殿とか、勝頼殿と呼ぶものもいなくなり、御屋形様と呼ぶようになっていったのたです。

当主の勝頼に睨まれるのが怖かったのです。

また弾正は、そんな中で、かねての念願だった、上杉家の和睦の準備に入りました。

その為に弾正は、勝頼に話したように、その布石を打ち始めました。

勝頼の了解を得て、追放された足利義昭将軍に使者を何人も派遣しました。

「信玄が亡くなった為に、足利義昭様をお助けする事ができなくなりました。むざむざ、信長の好き放題にされて、悔しいと思います。でも、父、信玄が亡くなった後、勝頼では、まだまだ信長を京都から追い出す事は力不足でございます。この上は、上杉謙信様に頼る以外に策はありません。我が武田家も、将軍様の為に、今までの怨みは忘れて、謙信公と供に戦う所存です。何とぞ、謙信公に、武田家、北条家や北陸の一向一揆と和睦して、関東は一時捨てて、上洛するように命令を出して欲しい」という内容を足利義昭に送ったのです。

 足利義昭も、その勝頼の文面に感激すると、上杉謙信に命令を出しました。

 他に、頼る人物は、足利義昭にもいなかったのです。

 と同時に、弾正は、大阪にいる本願寺の顕如にも使者を何度も派遣しました。

 父、信玄の急死を知らせなかった事を詫び、上杉謙信と北陸の一向一揆との和睦をお願いしました。

「今の武田には、伊勢長島の一向一揆を信長から守る力はありません。謙信の力を借りるしか、方法はありません。北陸の一向一揆と謙信を早く和睦させて、供に織田信長と戦いたく何とぞ、顕如様から、一向衆に命令されて頂きたく存じます」

 弾正は、そんな泣き言の書状を、勝頼の了解を得て、書くと、顕如に送ったのです。

これで顕如に対しても、危機感を与えたのです。

 そしてその弾正の策は、見事に当たりました。

 浅井・朝倉が滅びた今、織田信長の目は、伊勢長島に向いています。

 伊勢長島の一向衆を守る為には、武田家の力を頼るしか方法がありません。

 その武田家の弱気に、顕如は慌てて、北陸の一向衆に、謙信との和睦を勧め始めたのです。

 こうして、すべての準備を整えると、弾正は、上杉謙信のいる、越後にわずかの部下と一緒に密かに向かったのです。

 

 

             ※「甲越同盟なる」※

弾正が、わずかの家臣と、勝頼の書状を持って、上杉謙信のいる、越後、春日山城に向かったのは、雪の積もっている天正二年の一月でした。

武田家の家臣の中でも、勝頼とごく一部の者しかしらない、隠密行動でした。

弾正は、あくまで、密かに、謙信との和睦を考えていました。

その為に、謙信が必ずいる、雪の深い冬に会う方が好都合だったのです。

また、雪が深い中を、信濃からかつての敵将、海津城の高坂弾正が、内密に訪ねてくる事は、謙信にとっても驚きでした。

さっそく、自分の重臣である直江景綱と、警護のもの4人を呼ぶと、弾正と密かに会ったのです。

そしてそこで弾正は、信玄公になりかわったつもりで、想いを上杉謙信にぶっつけました。

 弾正は、まず、謙信が、信玄が死んだ事を知った時に、家臣に命じて、三日間喪をふせてくれた事や、武田家に攻め込まなかった事に感謝しました。

 上杉謙信の、信玄に対する、やり様に心からお礼をいったのです。

 しかもその上で、織田信長のやり様を非難しました。

 浅井久政、長政親子や・朝倉義景の頭蓋骨で造った酒盃で、家臣と酒盛りをした事や、将軍を追放した事を非難したのです。

 でも、謙信もさすがで、そんな弾正の話に、乗ってこずに、冷静に聞いていました。

 信玄も、足利将軍を利用するだけ利用して、その後に追放するつもりであっただろうといったのです。

 だけど弾正は、そんな謙信に負けず、あっさりそれを認めた上で、いいました。

 信玄は、将軍を追放するつもりだったかもしれませんが、それでも、天下を取った後でも、足利義昭公を粗末にするつもりはなかった。

 信長に対しても、尊敬しており、信長の頭蓋骨で、酒盛りを造らないといったのです。

 けれど、信長は違うと、弾正は次にいいました。

 自分と争ったものは、根こそぎ滅ぼしかねない、弾正は、自分の考えていた事をいいました。

 比叡山を焼き討ちした事といい、信長は何をするか分からない。

 信玄を昔、恐れていた事実さえ、消してしまおうとするかもしれない。

 上杉家も、謙信様が亡くなったら、どうなるか分からない。

 信長とは、妥協できないといったのです。

 その上で弾正は、信玄公が、勝頼に残した遺言を伝えました。

 弾正は涙ながらに、信玄が亡くなるようすを説明しながら、

「上杉謙信とは和議を結ぶように、謙信は男らしい武将であるから、頼っていけば、若いお前を苦しめるような事はしないだろう。私は大人げない事に、最後まで謙信に頼るとは言い出せなかった。お前は必ず謙信を頼りにするがいい。上杉謙信とはそのような男である」

 という言葉を、病の中で、必死で若い勝頼に言い聞かせた事を伝えました。

 後に弾正が、甲陽軍艦で書く、後世の人にも分かり易くまとめようとしていた内容の言葉を、言い、さすがの謙信も、信玄はそこまで自分を信頼していたのかと涙を流したのです。

しかも、弾正は、その後に、勝頼の書状を出すと、勝頼の気持ちも伝えました。

 勝頼は、書状の中で、自分では、まだまだ力不足で、信長と戦う事はできません。

 このままだと武田家を滅ぼしてしまいます。

 自分は構いませんが、父、信玄が罵倒されるのはがまんできません。

 なにとぞ、これからは謙信公を父と思いますので、お力をお貸し下さい。

 勝頼の文面は、そうなっていました。

 弾正が、文面を考え、渋る勝頼に書かせたのです。

 しかし、この文面は、大成功でした。

 謙信も、信玄を心から認めていました。

 敵である信玄も、自分をそこまで自分の事を、敬慕してくれていたのかと思うと、感動したのです。

 想わず、謙信も涙ぐんだのです。

 でも謙信は、それだけで、弾正にいう事を聞く程、甘い武将ではありません。

 弾正は、そんな謙信に、信玄の代りに、信長を倒して、天下を安定させて欲しいと頼みました。

 武田家は、その為に、全面的に協力するというのです。

 また、この提案は、上杉謙信にとっても、魅力的でした。

 信玄がいない今、謙信は、もう北信に興味はありませんでした。

 武田家と戦うつもりはありません。

 北条家を倒して、関東に秩序を取り戻す事さえ、関心がなくなっています。

 謙信の目は、越中、能登、加賀の北陸に向いていました。

 京都を目指し、武将として、信長と戦ってみたくなっていたのです。

 その上に弾正が、事前に打った手、足利義昭将軍の、謙信宛の手紙も効いていました。

弾正は、勝頼に、武田家では力不足なので足利義昭に、上杉謙信に頼るように、手紙を出させていました。

足利義昭が、仲介してくれるのなら、武田家は、喜んで、上杉家と同盟を結ぶと書いており、義昭公も、謙信に、武田家と和睦して、信長を討つように、命令していました。

将軍家の秩序を重んじる謙信にとって、無視のできない命令だったのです。

だから、謙信も、弾正の提案に乗気になっていました。

武田と、同盟する事で、北信からの脅威がなくなるだけ、北陸に全勢力をそそり込めるので、ものすごく助かるのです。

ですが、弾正の提案は、謙信の予想をはるかに越えるもので、謙信や直江景綱を驚かせました。

弾正は、上杉家の為に、北陸の一向一揆との和睦を、武田家が仲介すると提案してきました。

今迄、信玄と結んで、上杉家と戦っていた、北陸の一向一揆と上杉が、和睦できるように、大阪の本願寺顕如に頼むというのです。

この提案には、謙信も、声も出ませんでした。

武田家が、顕如に頼めば、一向一揆との和睦は、すぐに実現するかもしれません。

北陸の一向一揆と和睦が実現すれば、謙信が考えているより、3、4年、早く、能登、加賀を平定できるかもしれないのです。

その上に、弾正は、武田も、北陸に上杉家の援軍として、5千人ちかくの兵を出してもいいと提案しました。

もちろん、上杉家が、領土を取れば、武田家も、見返りは頂きますが、武田家も血を流すというのです

この時ばかりは、謙信に、「武田も供に戦う」というのかと驚嘆させたのです。

これでは武田家は、上杉家の配下に入ったといっても、いいすぎではありません。

一も、ニもなく、謙信は、同意しようとしたのです。

ですが、弾正は、そんな謙信に何でもかんでも、好条件を与えるつもりはありませんでした。

その見返りとして、上杉家と北条家との和睦も提案しました。

上杉家・武田家・北条家の三家が、同盟を結んで、供に信長と対決する事を提案したのです。

そしてその為に、弾正は、謙信に、関東を北条家に任せる事を提案して、謙信を激怒させました。

弾正は、関東は、北条家に任せるべきだといい、関東管領の上杉謙信は、それは認められないといったのです。

けれど弾正も、負けていません。

上杉家が、関東で、北条家と戦うのなら、武田家は、援軍を出すのを止めて、上杉家と戦うというのです。

同盟を結ぶという以上、当然、北条とも、武田は供に戦うと思っていた、謙信は、その弾正の言葉に、憤慨しました。

でも弾正は、怯みません。

謙信が、怒る事は最初から予想しています。

だけど、弾正は、絶対に、この事は成し遂げないといけません。

上杉家と同盟を結べても、北条家を敵にしたら意味がないからです。

弾正は、その事を、武田家は、北条家と、同盟を結んでいるので、それを破れないという事で説明しました。

北条家との同盟を破ってまでも、上杉家と同盟するつもりはないと言うと、信義を重んじる謙信公が、武田家に、北条家との約束を破る事を求めるのはおかしいといいきったのです。

と同時に、北条家と同盟する意義も述べました。

上杉家と武田家が、力を合わせて、織田信長を追い詰めても、北条家と同盟を結んでいなかったら、かならず、信長は、北条家に手を回して、上杉家、武田家の背後をつこうとするだろう。

北条家も、上杉家が大きくなると、次は自分達を攻めてくるのが分かってくるので、簡単に同意してしまうというのです。

その弾正の見通しには説得力にあり、謙信も黙ってしまいました。

武田家は、決して、無条件に、上杉家に従うつもりがない事が分かったのです。

でも謙信は、弾正のいう事を、即座に、断る事もできませんでした。

実際に、北条家は、関東の覇者です。

北条家を関東から追い出す事などもう不可能です。

弾正のいうとおり、北条家ととりあえず、和睦してもいいと考えたのです。

それで、とりあえず、弾正の考える条件を聞きました。

弾正は、1、北条家が、上野以外の関東の土地を支配する事を、関東管領として認める。

2、その代りに、北条家は、上杉家、武田家が、織田信長と戦うのに、全面的に協力する。

という事を提案しました。

上杉謙信が、それに同意すれば、細かい事はともかく、この弾正が、このまま北条家にいって、三国の同盟を何としてもまとめてみせるというのです。

だけど、謙信も、この弾正の案に、単純に同意できませんでした。

それを認めたら、北条家は、喜んで、常陸の佐竹義重、下総の簗田春助、安房の里見義弘を攻める事は分かっています。

弾正は、それを黙認しろといっているのです。

謙信は、その決断がつかなかったのです。

弾正は、そんな謙信に切り札を出しました。

この上杉・武田・北条の同盟ができなかったら、武田家は、最終的に織田家に、滅ぼされるだろうから、今の内に、織田家と結ぶというのです。

謙信は、そんな弾正のものいいに「儂を脅す気か」と激怒しましたが、弾正は、少しも怖れる事無くいいました。

今、武田が、織田家と同盟を求めたら、信長も、上杉家の牽制の意味でも応じるだろう。

上杉家、北条家が滅びた後、武田家も信長に滅ぼされるかもしれないが、それまでは生きられるというのです。

弾正は、本気であり、その事は勝頼も、同意しているといいました。

さすがの謙信も、この弾正の決心を知ると、何もいえませんでした。

織田家と武田家が、結びついたら、上杉家といえども、滅びる可能性があります。

北陸から織田家、北信から武田家が攻めてきたら、上杉謙信といえども、守る手がないのです。

北陸の制覇など、夢になってしまいます。

謙信は、そんな弾正や、勝頼の決心が堅い事を知ると、ついに同盟に同意しました。

武田家は、謙信が、関東に手を出さないのであれば、誠意を持ってつくすといっています。

その言葉に嘘はない事は、弾正の姿をみていれば分かります。

謙信は、主君であった、信玄の為に、精一杯つくそうとしている弾正にさすがは、信玄はいい家臣を持っていると感服すると、必ず、信長を倒す事を誓ったのです。

こうして、この物語の歴史は、事実よりも、5年早く、武田家と上杉家の同盟を結ぶ事に成功しました。

本来なら、上杉謙信が死んだ後、上杉家の跡目争いで、景勝と景虎が戦った後、勝頼は、景勝と結ぶのですが、その為に北条家を敵にまわしています。

武田家は、織田家、徳川家、北条家を敵に回してしまった為に、2年後には滅びているのです。

でも、弾正は、甲越同盟を成功させたからといって、北条家を敵に回すつもりはありませんでした。

あくまで、甲越同盟は、内密にする事を、謙信に約束させると、誓紙を交わし、静かに春日山城を後にしたのです。

 

                ※「新三国同盟なる」※

弾正は、上杉謙信との同盟がうまくまとまると、その報告を、すぐに勝頼に知らせる為に、家臣を、躑躅ガ崎の館にやると、自分達は、本城の海津城に帰ると、すぐに碓氷峠を越え、西上野に入り、箕輪城で、城主の内藤昌豊と最終的な打ち合わせをすると、北条氏政がいる小田原城に向かいました。

 内藤昌豊によって、北条家にも、高坂弾正が、会いに行く事は伝えていたのです。

 しかし、その内容は、もちろん、秘密にしていました。

 北条家にも、武田家と上杉家が、同盟を結んだ事は内緒にしていたのです。

 弾正は、そんな中で、北条家に対しても、内密の会談を求め、氏政と何人かの重臣の前で、まず、最初に、信玄が亡くなった事を、同盟国の北条家に伝えなかった事を詫びました。

 北条家も、信玄が亡くなった事は、もう分かっていますが、弾正の口からやはり、聞くと重みがありました。

 弾正は、信玄の死はもう隠せる事ではないので明かすと、信玄が、3年間、死んだ事を隠せと遺言していた為に、同盟国である北条家にもいえなかった事を謝ったのです。

 また、その後、弾正は、勝頼の書状をみせました。

 それは、今度の武田家の方針が書いていました。

 勝頼は、父、信玄なら、織田信長を倒せたろうが、自分では、とても戦う事は不可能だという泣き言を書いていました。

 弾正は、ここでも渋る、勝頼に、弱気な文章を書かせていたのです。

 氏政も、勝頼と同じように、偉大な父である氏康を亡くしています。

 きっと、勝頼が、本音で書けば、氏政にも分かると想いました。

 弾正は、偉大な創業者を亡くして、これからの武田家をどうしていこうかと苦悩している勝頼の心境を伝えたのです。

 その弾正の想いは、氏政にも伝わりました。

 氏政も、同じ悩みを抱えていたのです。

 だから弾正は、手ごたえを感じると、信玄の遺言として、北条家、上杉家との同盟を提案しました。

 信玄は、北条家に頼れとは遺言していませんが、謙信に頼れと遺言して、北条家の事は言わなかったとはいえません。

 武田が、生き残るには、北条家との同盟を強化し、謙信公とも結べと、信玄が遺言したと嘘をついたのです。

 それで弾正は、その事を説明し、その後、上杉謙信と会ってきた事を、告げたのです。

 ですが、その事は、もちろん氏政や北条家の重臣をびっくりさせました。

 弾正は、北条家に断らずに、会った事を詫びながらも、謙信も、信玄の遺言に同意したといいます。

 すでに武田家と上杉家は、同盟したいというのです。

 でも、もちろん、北条家が、そんな事を納得できる訳がありません。

 武田家、上杉家が、関東に攻めてきたら、大変です。

 北条氏政は、少しむっとした顔をしました。

 だけど、弾正が次にいった言葉で、その表情は変わりました。

 弾正は、これを機会に、北条家、武田家、上杉家の新しい三国同盟を結びたいといい、上杉家との和睦の条件をあげました。

 上杉謙信は、北条家に関東を、武田家に、中部・東海道を任せてもいいといっている事を告げました。

 謙信は、北陸を支配し、畿内は、足利義昭公が支配するというのです。

 その上で、天下を有力な大名に任せ、政は天皇様を中心に、将軍様や各大名の話し合いで解決していこうというのです。

 この謙信の案は、北条家に取っても、願ったり、適ったりでした。

 上野以外の土地は、すべて北条家に任せていいと、謙信がいっている事は、関東に以後手出しはしないという事を意味します。

 関東以外の土地に野心のない北条家にとって、これ程ありがたい話はありません。

 しかも関東管領としての謙信が、それを認めるという事は、謙信が、上洛して、天下をまとめた後も、北条家の地位は安泰だという事です。

 謙信が、信義に生きる武将です。

固く約束した事を、後で破るという事はありません。

北条家としても、謙信が生きている内に、天下をまとめて貰った方が、いいに決まっています。

氏政や、他の重臣も、乗気になってきました。

弾正は、そんな氏政や重臣達に、佐竹義重、簗田春助、里見義弘などを攻撃するのは、上杉家、武田家の戦いが軌道に乗る、3年か4年待って欲しいといいましたが、氏政に不足はありませんでした。

その見返りとして、上杉家、武田家同盟と織田家の戦いに、協力するという事も依存ありませんでした。

北条家の将来を考えれば、喜んで協力すべきだと想ったのです。

しかし氏政は、即断を避けました。

家臣達と協議した上でないと、氏康がいない今は、こんな重要な事は決められません。

歴史の史実としても、北条家は、豊臣秀吉が小田原城を囲んだ時も、有名な小田原評定といわれる程、家臣達と会議ばかりして何も決められませんでした。

それは、この時点で始まっていました。

「分かった。同盟の事は、家臣達と協議して返事する」といったのです。

 だけど、弾正は、北条家が、この案に乗る事は分かっていました。

 よほどのばかか、野心家で、天下を北条家が取るつもりがないかぎり、この案にのらない訳がありません。

 問題なのは、北条家が、上杉家や武田家の為に、どれだけの兵を出してくれるか、協力してくれるかです。

 弾正自身、氏政や重臣達の態度を見ていると、あまり期待できないと判断しましたが、目的の新三国同盟が、うまくいきそうな事に喜びを感じていました。

 これで、織田家と五分に戦えると思ったのです。

 しかし、弾正の目的は、これだけで終わりませんでした。

 もう一つ、ありました。

 弾正は、まず、氏政に「ありがとうございます」と返事をすると

「上杉家の事は、これぐらいにして、当家、武田家の事ですが、勝頼様は、今、正室を亡くされていません。是非、北条家との絆を強くされる為にも、北条家の姫様を正室に迎えたいと想っています」といいました。

 武田家と北条家の縁組を打診したのです。

 この事は、氏政や重臣達にも、予想されていた事でした。

 武田家の重臣である高坂弾正が来ると聞いた時から、武田家と北条家の同盟の話、縁組の話だと察していました。

 氏政自身、この事も、家臣達と協議して決めるつもりでしたが、弾正の先程の話を聞いて応じるつもりでした。
 父、氏康が、北条・武田・今川の三国同盟で、各自の娘を嫁がせたように、自分も妹を嫁がせるつもりだったのです。
「分かった。その件も、協議した上で、返事する」と答えたのです。
 
 この時に、武田家、上杉家・北条家の新三国同盟は事実上成立しました。

 氏政は、さっそく家臣達と協議して、2週間後には、同盟に応じる事を確約しました。

 武田家、上杉家に、使者が何度も行き、細かい事も決めると、1ヵ月後、正式に誓紙を交換しました。

 北条家からは、武田家には、氏康の六女の姫が、勝頼の正室になる事も決まりました。

 上杉家には、氏康の息子の景虎が、養子に出しているので、いいという事になりました。

 武田家からは、五女の松姫を、謙信の二人の養子である、景勝か景虎に嫁がせようとしたのですが、信忠との破談を受け入れようとしない頑固な松姫の為に、勝頼が、謙信公を父と思うという事で、話がついたのです。

 こうして、武田家と北条家の同盟もできました。

 歴史では、北条家の六女の姫が、勝頼に嫁いだのは、長篠の戦で、勝頼が負けた後ですが、この物語では、三年早く実現できたのです。

 しかも二人の仲は、大変よかったのですが、武田家が滅んだ時に、北条の姫も、勝頼、信勝と一緒に、天目山で織田軍に追い詰められて、死んでいます。

 勝頼は、姫を実家に帰そうとしたのですが、北条の姫が、拒んだのです。

 でもこの物語では違います。

 勝頼と北条の姫との仲は、終生良く、北条家との関係も、北条の姫の働きで、絆は守られました。

 新三国同盟は、いろいろありましたが、成功したのです。

 

             ※「上杉謙信の北陸制定」※

 武田家・上杉家・北条家の三家が、新三国同盟を結成したという事は、天下を揺るがせ、織田信長に衝撃を与えました。

 信長は、信玄の遺言から、そんな同盟が誕生するとは夢にも思いませんでした。

 まったく極秘に、短時間で進められていたので、信長の忍びでもつかめなかったのです。

 しかも、この同盟は、信長に、勝頼に対する怖れを生みました。

 信玄が死んだとほっとしたのも、束の間です。

 高坂弾正という信玄が育てた重臣が、勝頼の軍師になったという事は、武田家の秘密で、上杉家、北条家にも内緒にして貰っていました。

 信長は、弾正自らが動いて、実現させたとは知りませんでした。

 例え、知ったとしても、信長の、勝頼に対する評価は変わりませんでした。

 勝頼が、血気盛んで、戦を仕掛けてきているのなら、信長も恐れませんでしたが、勝頼は、風林火山の山の言葉にように動かず、信長は不気味さを覚えていました。

 そんな気持ちになっているところに、新三国同盟です。

 もしかしたら勝頼は、信玄を超える、戦略家ではないのかと怖れたのです。

 また、その新三国同盟は、反信長の勢力も勢いづかせました。

 毛利家の厄介になっている将軍足利義昭は、自分の命令で、三家が結びついたと有頂天でしたし、本願寺も喜びました。

 これで伊勢・長島や、北陸の一向一揆衆を、信長から守る事ができます。

 北陸の一向一揆衆に、武田家から依頼されているように、上杉家と和議を結んで、供に、織田信長と戦う事を命令してきたのです。

 と同時に、武田家内でも、衝撃を与えました。

 軍師である高坂弾正が勧めた事は分かっていても、勝頼の地位を高めました。

 一族の中には、事前に知らされていなかった事に、不満を覚えている者もいましたが、謙信公が、勝頼の後ろにいると思うと、逆らう気にはなりませんでした。

 勝頼は、信玄公よりすごいという家臣さえ多く、勝頼も、内に睨みをきかせています。

 とても逆らう事などできません。

 自然に、誰もが御屋形様と、心から呼ぶようになったのです。

 そしてそんな中で雪解けが始まった、4月、上杉謙信は、さっそく越中に兵を入れました。

 越中の神通川の東は、すでに占領しています。

 後の神保や椎名も戦意を半分喪失しています。

 武田家も、そんな謙信の為に、約束以上の7千人もの兵を送ってきました。

 北条家も3千人です。

 謙信は自分の配下の、15千人を加えて、一気に越中を平定しました。

 一ヶ月もかからなかったのです。

 その上で、謙信は、能登に入ると、畠山氏の本城である七尾城を囲みました。

 畠山家の当主、義慶は、そんな上杉家に怖れて、すぐに降伏して、その配下につきました。

 歴史の事実としては、義慶は天正2年に変死し、後を継いだ義隆も毒殺されて、春王丸が4歳で家督を継ぐと、上杉家と戦っています。

 七尾城にたてこもって戦い、病が流行って、春王丸も死んでいます。

 でも、この物語では、戦うのは、3年以上も早いです。

 織田信長の勢力は、能登にまで及んでおらず、義慶も生きており、縁がある上杉家の配下になるのに、あまり抵抗はありませんでした。

 ですから上杉家は、2ヶ月で、畠山氏を味方にすると、軍を、加賀に向けました。

 加賀の一向一揆衆と合流すると、そのまま、越前に入りました。

越前は朝倉氏が滅んだ後、信長の領国になっていましたが、それに不満を持つ一向一揆衆が、立ちあがって、一向一揆の国にしていました。

信長も慌てて、柴田勝家を大将とした前田利家、佐々成政、羽柴秀吉、明智光秀など、5万の兵に奪還を命じていましたが、この物語ではとても間に合いませんでした。

信長は、うまく越前をまとめられず、一向一揆に奪還された事を後悔しましたが、後の祭りです。

越前に兵をいれて、木ノ芽峠城を抜けて、府中城を落とし、日野川を渡ってところで、進入していた柴田勝家は、上杉家が、越前に入ると、もうすでに、ちかくの長泉寺山付近まで迫っているという知らせを受けると、慌てて夜の内に兵を引きました。

越前の国では、織田軍の評判は悪く、いっさい情報は入ってこない為に、その情報がなかなか入らなかったのです。

でも謙信は、そんな織田軍を見逃す程、あまくありませんでした。

織田軍が逃げる事を悟ると、織田軍の半分が、日野川を渡ったところで、追いつくと夜襲をかけ、散々に叩きました。

一千人以上の兵が、溺れ死んだのです。

歴史では、天正5年に起きた有名な加賀の手取川の戦いが、天正2年に、場所をかえて、起きたのです。

しかし、この敗戦に、柴田勝家のショックは大きかったです。

一向一揆衆が蔓延っている越前で、上杉軍と戦うのは、あまりにも不利です。

民の協力を得る事ができません。

越前に留まって、雪でも降ってきたら、畿内からの援軍もなく、孤立してしまいます。

府中城に入っていた柴田勝家は、木の芽峠に軍を退き、やがてそこからも軍を退くと、思い切って越前と近江の境にある塩津まで撤退しました。

信長の命令で、塩津に柵を立て、陣地を築いたのです。

ここで戦う事にしたのです。

だけど、謙信は、ここまでは来ませんでした。

あまりにもうまくいきすぎて、上杉家は、新たに、越中の西半分と、能登、加賀、越前、150万石以上も支配する事ができました。

加賀・越前は、一向一揆の国なので、上杉領とはなりませんが、取り決めで、ある程度の年貢は得る事もできます。

実質の年貢としても、70万石を越えます。

まず、その領土を固めるのが、先決と判断したのです。

と同時に、武田家や北条家にも見返りがありました。

武田家は、越中に5万石と銭5千両、北条家は、東上野にある上杉領から、五万石貰っています。

その約束で、兵を出したのです。

そして、その事を、ますます信長を焦らせました。

上杉家は、250万石で、7万の兵を出す事ができます。

武田家も、130万石で、3万の兵を出す事ができます。

合わせたら、300万石の織田家よりも大きいのです。

川中島で戦ったあの甲斐の虎と越後の龍が、力を合わせたら、信長など簡単にやっつけられると世間の評判は、持ちきりで恐怖を覚えていたのです。

でも、信長も、あっさり負ける男ではありません。

越前に雪が降って、上杉家が、近江に入れなくなると、すぐに軍隊を伊勢・長島に向けました。

今の内に、伊勢・長島の一向一揆を滅ぼしてしまおうと考えました。

できたら、そんな伊勢・長島の一向一揆を救おうとする、武田勝頼を三河か、尾張に誘い出して、戦うつもりだったのです。

信長は、謙信より、勝頼の方が組み易いと判断したのです。

けれど、勝頼は、弾正の進言で、その信長の罠にかかりませんでした。

弾正は、伊勢・長島の一向衆を助けるべきだといい、誰も思いもつかなかった、武田の水軍を使う策を考えました。

勝頼は、弾正の策にうなずくと、北条家に依頼して、武田の水軍と北条の水軍を、合流させると、向かわせました。

武田家の家臣の中には、信玄公が大切にしていた水軍を出すのに反対した家臣もいましたが、勝頼は、「何の為にある」といって押し切ると、反対する者はいませんでした。

この当時の、織田の水軍と武田の水軍は拮抗していました。

北条の水軍が加われば、2倍の戦力になります。

伊勢・長島沖での海戦は、激しい戦いになりましたが、武田家・北条家の水軍が勝利を治めました。

織田水軍は、全滅にちかい打撃をうけたのです。

こうして、長島城でたてこもった、伊勢・長島の一向一揆衆は、海から、食料を得る事ができて、生き残りました。

しかも、勝頼は、陸上の兵も、秋山信友に命令して、東美濃に兵1万人集めると、東美濃を攻略しました。

岐阜城をつこうとしたのです。

だから信長は慌てて、伊勢・長島から、兵隊を引きました。

歴史上の史実としては、信長の伊勢・長島の攻めは、成功しています。

信長は、伊勢・長島の一向一揆衆を追い詰め、全滅させているのですが、この物語では、武田家が、援軍を出した為に、失敗したのです。

 

 

        ※「上杉の謙信と信長の運命の一戦」※

上杉謙信と織田信長の戦いは、越前と近江の境である、塩津で起こりました。

謙信は、雪解けを待って、天正3年の3月に、上杉軍7万人と、武田軍7千人と北条軍8千人の合計、8万5千人、信長は、織田軍6万人と徳川軍3千人の、合計6万3千人で戦おうとしていました。

兵力の上では、謙信の方が有利だったのです。

しかし、信長にも勝算がありました。

信長は、上杉家と戦う為に、長年考え抜いていた、武田に対する攻略方法を実施する事にしていました。

長い柵を作って、上杉家を止めて、鉄砲3千丁を3段に分けて、休む事無く撃つ方法です。

これで、武田の騎馬軍団を全滅させようとしたのを、上杉謙信との戦いに実行しようとしたのです。

でも、その目論見は、うまくはいきませんでした。

歴史の史実としては、この信長の試みは、長篠の戦で、見事に成功しています。

父、信玄を超えたいと思っていた勝頼は、焦っており、柵を作っている織田軍に戦を仕掛け、結局柵を攻め落とせず、疲れたところを信長につかれたのです。

ですが謙信は、戦の神様でした。

信長が作った長列の柵をみた瞬間に、これはただ事ではないと直感しました。

さすがの謙信も、信長が、3千丁の鉄砲を用意して、3段撃ちをするつもりとは分かりませんでしたが、今迄、経験した事のない戦が始まると想ったのです。

だから、謙信は、織田信長は侮れないと用心すると、むやみに戦を仕掛けませんでした。

謙信自身、勝頼のように焦りはなかったのです。

ですから、謙信は、長期戦を決断しました。

武田勝頼に書状を出して、まず、岐阜城を2万で囲んでいる武田軍に、すぐに塩津まで来るように命令しました。

信長が、上杉軍と武田軍の挟み撃ちを怖れて、塩津から、兵をひいたところを討とうとしたのです。

また、この謙信の試みは、成功しました。

勝頼は、北陸の上杉軍が動いたのと同時に、自らも本隊、2万をひきいて、東美濃に入ると、岐阜城を目指していました。

信長は、塩津に多くの軍隊を集めているので、岐阜城にさえ、7千の兵しかいません。

他の城は、北方城主の安藤守成、西美濃北部の曽根城に稲葉氏、南部の大垣城に氏家氏、中部の金山城に森氏が、それぞれ7百から8百いるだけで、後は殆ど空でした。

武田軍は、一気に、岐阜城を囲む事に成功したのです。

その上に、勝頼は、徳川軍に関しては、北条から5千人を借りると、遠江や駿河の各城に分散して配置すると、守りを固めています。

北条軍も、守備の兵という事ならと貸してくれました。

徳川軍は、そんな勝頼の戦略の為に、信長を助ける事はできませんでした。

三河を留守にすれば、北条軍が、攻めてくる可能性があったのです。

しかも、勝頼は、弾正の助言で、この2年間、わざと徳川軍との戦いを避けました。

徳川軍が、駿河や遠江の、武田領を侵しても、反撃はしませんでした。

弾正は、徳川軍が強いので、徳川軍とむやみに、戦うべきでないと考えていたのです。

と同時に、弾正は、徳川家康との同盟も考えていました。

徳川家康は、三方が原の戦いで、武田信玄に惨敗してから、武田信玄をものすごく尊敬しています。

それは、武田の諜報機関の耳にも入っていました。

弾正は、徳川家康の事を調べ、徳川家康は取り込めると考えていたのです。

だから、武田は、わざと徳川との戦いを避けて、家康は、信玄公を尊敬しているので、勝頼が喜んだとか、勝頼は、家康との同盟を考えているという噂を流しました。

信長に、徳川と武田は密かに組んでいるのではないかという疑心暗鬼を持たせるようにしました。

その為に、この2年間、徳川家康は、疑惑を晴らす為にも、遠江の二俣城や、駿河を攻めないといけなくなっていました。

それで徳川軍は、疲れていました。

信長の命令で、5千人送れていわれていたのを、3千人、塩津に送ったのが精一杯で、それ以上は、織田の為に軍は出せず、家康は、信長の頼みを断ったのです。

ですから、徳川軍は、弾正の狙い通り、動きませんでした。

上杉・武田軍が勝つか、織田軍が勝つか、見守る事にしたのです。

その為に、武田軍は、徳川軍を気にせずに、織田軍を攻める事ができていました。

何とか、岐阜城を落とそうとしたのです。

でも岐阜城は、難攻不落です。

信忠が、7千人で、たてこもっており、志気も高く、簡単に落とせそうではなかったのです。

それで勝頼は、謙信に命令通りに、岐阜城の囲みを取ると、北方城の安藤守就や、大垣城の氏家氏を落とすと、北方城に穴山信君率いる3千人、大垣城に木曽氏、3千人を配置して、14千人で、塩津を目指しました。

関ヶ原を越えて、琵琶湖を北上して、長浜を抜けて、ゆっくり、塩津に向おうとしたのです。

だけど、それを察した信長は、負けを悟ると、塩津から撤退しました。

武田軍が来る前に、急いで羽柴秀吉5千人を長浜に戻すと、自らも船を使って落ちると、織田軍を撤退させました。

信長は、調子に乗った謙信が、一気呵成に攻撃してくれば、鉄砲の餌食できると考えていましたが、謙信はそんなにあまくない事を悟ったのです。

こうして塩津の戦いは、織田軍の負けが決まりました。

せっかく兵達に、木を持たせ、柵を造ったのに、信長は、自分の考えていた戦ができなかったのです。

けれど、織田軍自体は、まだまだ健在です。

織田軍が撤退する事を予想していた謙信も、夜に織田軍が、準備万端兵を見事に退いたので、追い討ちをかけられませんでした。

信長は、殿を、佐々成政と滝川一益に任せ、後方に鉄砲隊を集めさせると、全軍を退き、最後に、舟を呼び寄せて、見事に、殿を務めた佐々軍と滝川軍、8千を撤退させています。

上杉軍は、柵が邪魔した事もあって、そんな織田軍に7百ぐらいしか損害を与えられませんでした。

謙信は、その見事な撤退に、信長は侮れないと、改めて認識したのでした。

 

 

            ※「塩津の戦い」※

塩津の戦いで、上杉軍が勝ったという知らせは、武田軍が、関ヶ原を越えようとしたあたりで届きました。

武田軍は、その知らせに沸きかえりました。

でも勝頼と弾正は、その知らせに、そんなに喜んでいませんでした。

戦の詳細を聞くと、織田軍は、武田軍が北上して、上杉軍と挟み撃ちに合うのを怖れて、撤退しただけです。

織田軍は、殆どは無傷です。

そんな織田軍が、次に取る策は、各地の城に武将がたてこもる事です。

これをされると、上杉軍・武田軍としても、攻略するのに、何年もかかります。

その間に、どんな自体が起こるか、予測はつきません。

弾正は、野戦で、一気に決着がついて欲しかったのです。

だけど、それでも上杉・武田軍、有利なのは間違いありません。

弾正は、勝頼に進言して、山県昌景を大将とした6千人を美濃に戻し、関ヶ原に内藤昌豊3千人を置きました。

撤退した織田軍が、美濃・尾張に入るのを、防いだのです。

その上で、勝頼は、残りの本隊5千人で、上杉謙信が待つ、長浜城に目指しました。

謙信は、塩津で、織田軍を追い出した後、近江の東半分を占領する為に、秀吉が守っている長浜城を攻略する気だったのです。

こうして、武田勝頼は、初めて、謙信と直接顔を合わせる事ができました。

また勝頼と謙信の対面は、大成功でした。

勝頼は、弾正に注意されていたように、心から謙信を親と想う事にしていました。

尾張・美濃を攻略できそうだからと傲慢にならず、謙信に忠誠をつくすつもりでした。

ここで、武田軍と上杉軍が、仲たがいしたら、織田信長は勢いを取り戻します。

勝頼自身、尾張・美濃を占領できたら十分だったのです。

と同時に、謙信も、そんな勝頼の態度に、満足しました。

温かく、勝頼達を迎えると、長浜城を包囲している所で、軍義をしたのです。

それは、予想したように、武田軍は、織田家の本拠地美濃・尾張を占領し、上杉家は、近江、若狭を占領するというものでした。

謙信は、同盟を組んだ時の約束通り、美濃・尾張・三河・遠江は、武田に任せるつもりだったのです。

しかも、その軍義が終わった翌日、謙信は、勝頼が、弾正を誘うと、塩津にむかいました。

3日後、謙信や勝頼は、何人かの武将を連れて、塩津に着くと、信長の造った、長い3段に分かれた柵を見ました。

信長が、どんな戦をしようとしていたのか、検分しようとしたのです。

でも、この事は、勝頼には驚きでした。

信長が、塩津に、長蛇の柵を造って、上杉軍の攻撃を防いでいると聞いていましたが、どんな柵なのかは、イメージできていませんでした。

初めて、柵をじかにみて、実感できたのです。

けれど、そんな勝頼に、謙信は、鋭い質問をしてきて、慌てさせました。

謙信は、柵を見ている勝頼に、すぐに、「勝頼殿なら、あの織田軍に、どう攻めるかな」と聞いてきたからです。

勝頼は、そんな謙信に戸惑いながらも、少し考えると、力攻めを主張しました。

信長は、鉄砲をたくさん集めていると、聞いていましたが、最初の柵さえ突破できたら、後はもう武田軍のものです。

鉄砲では人は斬れません。

接近戦になれば、織田軍など、簡単にやっつけられるという自信が、勝頼にありました。

柵を突破するには、ある程度の被害をうけるでしょうが、鉄砲は一度撃つと、しばらくは撃てません。

勝頼は、十分に勝てる自信があったのです。

ですが、謙信は、そんな勝頼に、苦笑いをすると

「では、一度やってみるか」といって、用意した兵を柵の前に並べました。

 上杉軍を織田軍に見立てたのか、柵の前に配置したのです。

 それは、柵の前面に、鉄砲隊を置き、後方に長槍隊を置く、配置でした。

 勝頼は、そんな上杉軍の動きを見ると、しばらくあっけにとられていましたが、今度は、上杉軍と共に戦っていた、馬場信春と武田信豊の軍が、反対の陣地に並びました。

 今までの武田軍の配置で並んでおり、竹で作った楯を持った兵を全面に出しながら、騎馬隊が、後ろに控え、ゆっくり前進しようとしていたのです。

 謙信は、それに満足すると、勝頼に、「鉄砲に玉は入っていない。あくまでも演習じゃ。だが、公平にする為に、鉄砲を撃てば、ある程度のものは倒れるようになっている。さあ、いって大将として指揮をしてみなさい」

 と言い、勝頼は、その謙信の命令で、馬場隊にむかうと、直接指揮をとりました。

 武田軍は、勝頼の命令で、鉄砲を警戒しながら、近づいたのです。

 でも、この戦いで、勝頼は、最初から誤算を感じていました。

 織田軍を想定した上杉軍は、なかなか鉄砲を撃ってきませんでした。

 引き付けて撃とうとしており、勝頼は、何故そんな事をするのか、理解できなかったのです。

 そんな中で、武田軍は、柵に接近し、20メートル程、近づくと、初めて上杉軍は、号令と共に一斉に撃ったのです。

 その鉄砲の音で、馬は暴れましたが、竹の盾があるので、損害はそれ程ありませんでした。

 謙信は、事前に鉄砲の効果を調べており、この距離では、竹で造ったものに、板を張った盾が鉄砲の弾を通さない事は分かっていました。

 殆どの兵は、倒れなかったのです。

 それで勝頼は、自信を深めると、一斉に突撃を命じました。

 というのも勝頼は、鉄砲の一斉射撃に驚きましたが、それを待っていました。

 鉄砲は、一度撃つと、次に撃つまでに時間が必要です。

 勝頼は、その前に、柵を壊そうとしたのです。

 しかし、意外にも、武田軍が、柵に近づく前に、第2段を放たれ、後方にいた盾を持っていない兵が、何人か倒れました。

 馬に乗っていた武将も、倒れたのです。

 でも勝頼は、突撃を中止しませんでした。

 今更、そんな命令は出せません。

 柵にたどり着いたら、もう鉄砲は撃てないと思ったのです。

 けれど、その勝頼の試みは、違いました。

 上杉軍は、柵にたどり着いた武田軍に、第3段の鉄砲を撃ち、今度は多くの兵を倒しました。

 盾を持っていた兵も、盾を捨てると、槍で、柵にいる上杉軍を倒そうとしており、鉄砲の弾を受けたのです。

 しかも、上杉軍は、第4段、第5段の鉄砲を放ち、勝頼を慌てさせました。

 バタバタ兵だけが倒れていきます。

 勝頼は、たまらずに、一度、兵を退かせようとしたのです。

 だけど、その命令は、混乱した兵達には、なかなか伝わりませんでした。

 鉄砲は、第6段、第7段と撃たれたのです。

 こうして、武田軍は、惨敗して、兵を退きました。

 上杉軍は、そんな武田軍に対して、柵から出ると追い討ちをかけました。

 武田軍は、そんな上杉軍の追い討ちに、対抗できずに、ますます損害を増やしました。

 槍の先端は布で巻いたり、刀は竹光だったりしているので、もちろん、本当に人が斬られる事はできないようになっていましたが、模擬戦では結局勝頼は、わずかの間に、兵の3分の2を無くしてしまった事になります。

 勝頼は、惨めな姿で、謙信の前に現れる事になったのです。

 謙信は、そんな勝頼に、にっこり笑うと、感想を求め、勝頼は、何がなんだか分からないまま、素直に敗戦を認めました。

 模擬戦でなく、実際に織田軍と戦っていたらと考えるとぞっとしたのです。

 また謙信は、次に自分の側にいた、軍師の弾正に尋ねました。

 弾正も、そんな謙信に、勝頼と同じように衝撃を受けていました。

 何かあると思いながらも、まさか、勝頼が、これ程負けるとは思いませんでした。

 弾正は、謙信の側で、上杉軍が鉄砲隊を3隊に分けて、撃っているのをみて、声も出ませんでした。

 一隊が鉄砲を撃つと、すぐに後ろに下がると、鉄砲の弾をつめ始め、その間に、もう一隊が、鉄砲を撃つと同じように下がる。

 上杉軍は、何日か、訓練しているのか、順序良く、見事に隊を動かしていました。

 それによって、鉄砲は一度撃つと、次に撃つまでに時間がかかると言う弱点は、補われていました。

 一の隊が撃つと下がり、鉄砲の弾を込める間に、二の隊と三の隊が鉄砲を撃っていれば、最初の一の隊は、余裕を持って、鉄砲を撃てる準備ができるのです。

こうすれば、鉄砲は、とぎれる事無く撃てます。

 誰が考えたのかは分かりませんが、これを実行しようとしている、信長は天才だ。

 弾正は、そう思うと身体が震えました。

 この信長の新しい画期的な戦術は、対武田戦用に考えられていた事を、悟ったからです。

 しかもその時は、武田は惨敗したと弾正には確信できました。

 武田家が、単独で織田家と戦った場合、兵力では、2倍、徳川家を含めたら、3倍は違う事が予想されます。

 それでも弱い織田兵なら、十分戦えると弾正も想っていました。

 だけど、信長が、この戦術を取ったら、柵を突破する事は不可能だろう。

その上に、信長が策を練って、武田がどうしても柵を突破しないといけないように、後方に兵を向けたら武田は、取り返しのつかない大敗をしただろう。

柵を突破できずに疲れた武田軍に対して、柵を出た人数の多い、元気な織田軍が、戦を仕掛けたら、接近戦でも弱い織田軍に壊滅的な打撃を受けて、もしかしたらこの一戦で、事実上、滅んだかもしれない。

弾正は、信長なら、必ずそこまで工夫するだろうと思うと、表情は青ざめていました。

山県昌景や馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、土屋昌次、三枝守友、武田信廉、などの同僚が、次々に討たれる姿が、想像できたのです。

謙信は、そんな弾正の姿をみて、安心しました。

信長が、鉄砲隊を三隊に分けて戦うつもりだった事は、さすがの謙信にも分かりませんでした。

織田軍が、塩津から撤退した時に、謙信は、織田の兵を何人も捕虜にさせています。

その捕虜の鉄砲隊の兵から、謙信は、三隊に分かれる戦術を信長が訓練している事を聞きだしたのです。

それで、戦の神様、謙信は、実際に信長の造った柵を検分して、信長が何をやろうとしたのか、掴みました。

それで、景勝やその側近の樋口与六、景虎、馬場信春、武田信豊を、塩津に残し、模擬戦をやらしていたのです。

謙信は、その模擬戦の結果が、自分の予想通りに結果に満足し、弾正が、その事に気がついた事に、安心しました。

勝頼には、弾正がついているかぎり、簡単に信長の策に引っかからないだろうと思ったのです。

でも、謙信と弾正では、信長に対する見方は、違いました。

謙信は、確かに戦に対する信長の新しい戦術を認めても、それ以外の事は、認めるつもりはありませんでした。

だけど、弾正は違いました。

信長は、戦以外でも次々新しい事をやっています。

次々と本城を移動させたり、楽市楽座という経済制度をとったり、農民と武士を分ける,兵農分離を実施しています。

それを学ばなければ、信長を倒せても、天下は取る事はできない。

弾正は、そう考えました。

と同時に、それを考える事は、自分の古い頭ではいけないとも弾正は、考え始めました。

武藤昌幸(真田昌幸)や曽根昌世のような若い武将に考えさせ、山本勘助が自分を軍師にしてくれたように、自分も、武藤昌幸や曽根昌世を勝頼や、その後を継ぐ信勝の為に、軍師にしなければならない。

弾正はそう決心したのです。

しかし、それには時間がかかります。

その前に、信長を絶対に倒さないといけません。

謙信は、そんな弾正に

「おそらく信長は、野戦になれば、もう一度、この手を使おうとするだろう。その前に、破る方法を考えないといけない」といいました。

弾正は、勝頼を見つめ、勝頼が頷くのを確かめると「御意」と答えました。

その方法を、1年、2年の間に考えないといけないと固く決心したのです。

 

 

        ※「武田家と織田家の美濃攻略戦」※

 謙信と塩津で別れた勝頼率いる武田軍は、急いで美濃に戻りました。

 信長を追い詰めるには、美濃と東近江を取る事が重要です。

 そうすれば、信長の本国尾張の領国と、近江、山城などの領国を分断できます。

 絶対に、とる必要があります。

 謙信は、上杉軍を二つに分けて、本隊4万は、羽柴秀吉がいる長浜城、後の3万8千を上杉景勝に任せて、近江の今津と若狭の国を攻めさせました。

 何とか、この領地を支配する必要があったのです。

 また謙信は、援軍に来ていた馬場、信豊隊7千も、返して、本来の武田軍にすると、勝頼にも、絶対に美濃を押えるように厳命していました。

 もし、美濃が取れないと、織田軍の勢いが復活する事を怖れたのです。

 しかし、この謙信の命令は、勝頼、弾正にはプレシャーでした。

 さいわいに、関ヶ原に内藤昌豊、美濃にも山県昌景6千人を戻して、睨みをきかせたので、織田軍も、美濃に兵を出す事はできませんでした。

 武田軍は、馬場・信豊軍が本隊が戻った事で、合計2万7千の大軍で、岐阜城を囲む事ができたのです。

 でも、信忠が7千人でこもる岐阜城は、難攻不落です。

 勝頼が、力攻めで、一気に落とそうとしても、落ちませんでした。

 信長は、岐阜城を重視して、嫡男の信忠に守らせると、食料、弾薬を1年以上分、蓄えさせていました。

 信忠も、戦意旺盛です。

 1ヶ月や2ヶ月で、落とせる城ではなかったのです。

 しかも、武田軍にしろ、上杉軍にしろ、大きな弱点がありました。

 兵の大半が、農民なので、農業の作業が忙しい時期になると、兵を帰さないといけません。

 もしそうしなければ、兵達は、不満を覚えて、反乱します。

 農作業が忙しくなる梅雨時の6月頃から稲刈りが終わる8月末までは、帰さないといけないので、後、1ヶ月で落とす必要があったのです。

 だけど、それは不可能でした。

 勝頼は、諦めると、美濃で、まだ落としていない西美濃北部の曽根城の稲葉氏を降伏させ、中部の金山城の森氏を攻め落としました。

 その曽根城には稲葉氏3千人で守らせ、金山城には、真田信綱3千人に任せました。

 後の北方城に穴山信君率いる3千人、大垣城に木曽氏、3千人を含めて、美濃で新たに兵になったものを含めて1万2千人を残すと、本隊は、謙信の了解を得ると、悠々と引き上げたのです。

 また、謙信も同じでした。

 羽柴秀吉が7千人で守る長浜城を落とすのに苦戦したのです。
 
 だけど、長浜城は、平城で、岐阜城のような山城ではありません。

 その上に、浅井家が滅んだ後、浅井氏の本城、小谷城を捨てて、新たに長浜城を造ってから、2年しか経過していません。

 本気で攻めれば、攻め落とせます。

 謙信は、力攻めで、長浜城を落としました。

 羽柴秀吉は、自分を農民から城持ち大名にまで出世させてくれた信長の為に、最後まで抵抗していましたが、ついに最後まで戦って、討ち死にしました。

 謙信も、そんな羽柴秀吉を高く買っており、部下に加えようと、降伏を勧めましたが、羽柴秀吉は拒みました。

 秀吉が降伏したら、人質になっている母や妻のねねが、信長に殺される事が分かっていたのです。

 こうして歴史とは大きく違う出来事が起こりました。

 信長の後、天下をとった羽柴秀吉後の豊臣秀吉は、ここで死にました。

 本能寺の変後、秀吉は、信長の跡を継ぐはずの、次男、北畠信雄と三男、神戸信孝の仲が悪い事を利用して、戦わせ、うまく織田家を乗っ取ると、信雄、信孝を殺しています。

 だけど、この物語では、秀吉は、信長の為に、見事防波堤になったのです。

 でも、謙信の攻撃もそこで終わりました。

 信頼できる直江実綱や村上国清に、8千人の兵を預けると、長浜城を任せ、越後に引き上げたのです。

 だけど、ここで謙信は、ただでは帰国しませんでした。

 鉄砲の製造で有名な近江の国友村に入ると、鉄砲の製造施設を完全に壊しています。

 国友村で、鉄砲が生産できなくしたのです。

 これで、新しく信長が、鉄砲の持つのを減らす作戦で、信長には痛手でした。

 国友村の職人の多くは、信長が、事前に保護していましたが、製造施設がなければ、鉄砲のような高度な技術が必要なものは造る事は不可能なのです。

その上、謙信も勝頼も、高額で、鉄砲職人を国内で呼んで、製造させる方針を取りました。行く場のなくなった国友村の職人を中心に、全国の職人の中で、上杉、武田に行きたがるものも現れ、信長はそれを引き止める為に、負担が大きくなったのです。

しかも、別働隊の率いていた景勝も、今津を占領した後、若狭の国、後瀬山城を攻め落とすと、各3千人の守備隊を、今津と後瀬山城に残すと、北陸の領国に引き返しました。

 上杉軍の怒涛の攻めは、一端終わったのです。

 しかし信長は、そんな上杉軍、武田軍の弱点が分かっていました。

 農作業の為に、上杉軍、武田軍が、引き上げるのを待っていました。

 織田軍は、信長の長年の努力によって、武士と農民を切り離しています。

 お金で、兵を動かしており、農作業の忙しい時でも、多くの兵を動かせます。

 上杉軍、武田軍が去ると、岐阜城の信忠と合流し、4万の大軍で、すぐに木曽義昌のいる大垣城を攻めました。

 どうしても、この城を奪還する必要があったのです。

 でも木曽義昌も無駄無駄、この城を渡す訳にはいきません。

 ここで激しい攻城戦が起こりました。

 勝頼は、9月には必ず戻ってくると約束しており、それまで守ろうとしたのです。

 でも、信長の必死な攻めで、ついに2ヵ月後大垣城は落城しました。

 木曽義昌は、もう駄目だと思ったら、降伏してもいいという勝頼の許しを貰っていましたが、最後まで勝頼の為に降伏せずに、討ち死にしました。

 歴史の史実としては、木曽家を守る為に、土壇場で、穴山信君とともに、武田家を裏切った木曽義昌も、この物語では、勝頼の信頼に答え、喜んで死を選んだのです。

 こうして東美濃は、織田軍に奪還されました。

 勝頼と信長は、激しく、美濃の戦う事になったのです。

 しかもその戦いは、織田軍の方が、優勢でした。

 膨大な兵を動かすには、お金が必要です。

 信長は、堺や京都を抑え、尾張などの豊かな国を持っています。

 謙信も、佐渡の金山を持っているので、お金は十分あります。

 再び、何とか大軍を動かせます。

 けれど武田は、信玄の時に金山を掘りつくしてしまい、勝頼の代になると、金が急に出なくなっていました。

 長期間、2万以上の軍を動かすには、負担が大きかったのです。

 それで9月の時期になると、勝頼は、大垣城を落とした勢いで、裏切った曽根城の稲葉氏を滅ぼそうとしている織田軍を、牽制する為に、2万の大軍を向け、曽根城の囲いを解くと、戦を避けてさっさと引き上げました。

 弾正が、勝頼に、今、美濃・尾張の城を攻めても、守りを固めているので、無理だという進言に、素直に従ったのです。

 でも、そんな事をしていたら、いつまでも美濃・尾張を取れません。

 信長は、完全に、長期戦をするつもりでした。

 尾張では犬山城に三男の神戸信孝4千、小山城に次男の北畠信雄4千、清洲城に柴田勝家7千、末森城に池田恒興3千もの大軍を置いて、守りを固めていました。

 美濃でも、岐阜城に丹羽長秀7千、大垣城に蒲生賢秀4千を入れています。

 近江でも佐和山城に、信忠1万、坂本城に明知光秀6千、伊勢の亀山城に、滝川一益6千人と主要な城は、簡単には、落とせそうもなかったのです。

 しかし弾正には、秘策がありました。

 それは、上杉、武田軍の弱点である、農作業時期に戦えないというものをおぎなう為に、雪が積もっている11月から、2月までの4ヶ月も戦うというものです。

 北陸や信濃に雪が積もっている時期に、敵が攻めてくる心配はありません。

 越前、加賀、能登、越中、越後、東上野の上杉軍が、甲斐、信濃の武田の領土を雪が降る前に通過して、上杉軍、武田軍が一緒になって、尾張・美濃を攻略しながら上洛するというものです。

 そうすれば、雪国では本来戦えない冬の間も、戦える事ができます。

 しかも上杉軍、武田軍、伊勢・長島の一向一揆や北条の援軍も入れたら、全軍で10万以上の大軍で戦えます。

 4千人程度で守っている城なども、力攻めで、落とす事も可能です。

 それだけの軍の食料を確保する事は大変ですが、太平洋なら、武田軍と北条軍の水軍も使って、尾張に食料を運ぶ事もできます。

 弾正は、11月から2月の4ヶ月間で、尾張、美濃を制覇して、その後、一気に信長と決着をつけたいと考えたのです。

 それで、弾正は、勝頼の了解を得ると、春日山城に向うと、上杉謙信に、この策を献上しました。

謙信は、その策を黙って聞いていましたが、すぐに返事はしませんでした。

実は、謙信自身、この事は考えていました。

各地の城で守りを固めようとしている織田軍を倒していくには、時間が必要です。

冬の間も、戦えれば、いう事はなかったのです。

でももし、武田家が裏切ったら、上杉軍が、何万いても、袋のねずみです。

織田軍、武田軍に挟まれた上に、本国には雪で帰れずに、滅んでしまいます。

 謙信は、勝頼や弾正を信じていても、用心する必要があったのです。

 しかも、上杉、武田連合軍が、尾張・美濃を占拠しても、その領土は、約束通り、全部、武田家のものになります。

武田家の力は、一気に、倍増して、上杉軍と並んでしまいます。

さすがの謙信も、その事を恐れたのです。

でも、弾正は、その事は、分かっていました。

あくまでも、武田家は、上杉家の下です。

上杉軍の案内として、勝頼の弟になる仁科盛信や甥の武田信豊などの軍を、人質を兼ねて出す事を約束しましたし、武田軍の監視役として、上杉家の武将を受け入れる事も提案しました。

上杉軍が占領した尾張・美濃の領土は、上杉謙信が天下を取るまで預けたい事もいいました。

人質がいる躑躅ヶ崎館にも、上杉軍を入れてもいいとさえいったのです。

それで、謙信はついに承諾しました。

躑躅ヶ崎館に、上杉軍が入る事は、さすがに遠慮しましたが、そこまで武田家がする以上、家臣達も納得するだろうと判断したのです。

こうして、上杉家と武田家は、10月に、共に戦う事になったのです。

 

 

             ※「尾張・美濃攻略戦」※

 上杉謙信が、約束通りに、大軍を率いて、信濃・甲斐の領国を通過したのは、10月でした。

越前、加賀、能登、越中、越後、東上野から、越後の春日山城に、どくどくと集まり、5万の大軍になっていました。

謙信は、畿内以外の、自国領にいる全兵力を率いて、武田領土に堂々と進軍しました。

その5万の大軍は川中島の海津城、深志城、上原城、躑躅ヶ崎館と進み、信濃、甲斐の領民を熱狂させました。

長い間戦ってきた、上杉家と武田家が、連合したという事が、領民にも実感できたのです。

また勝頼は、そんな上杉軍に対して、各城を空にして迎えました。

上杉軍を完全に信頼しているという事をみせたのです。

と同時に勝頼自身は、謙信を、2万の軍で躑躅ヶ崎の館で迎えましたが、ここでも大歓迎をしました。

上杉家と武田家の武将達も、初めて、全員が会いました。

夜は、川中島の戦いの話で、意気投合しました。

今迄、敵方として、戦ったもの同志が、一つになったのです。

しかも、川中島で戦った上杉家と武田家が、共に戦えば、織田軍に負ける訳がないという強烈な自信が、両軍に生まれていました。

この当時に生きていた人達にとって、そう考える人が殆どでした。

敵方の織田軍の兵の中でも、恐怖を与えていました。

桶狭間の戦いで、今川義元の首をとったようにはうまくいかないだろうと考える兵士が多かったのです。

そして上杉軍、武田軍は、躑躅ヶ崎の館に、2日ほどいると、いよいよ、駿河に入り、遠江、三河の徳川に、7万の大軍の力を見せながら、進んで行きました。

徳川の高天神城、本城の浜松城、吉田城、岡崎城の目の前を堂々と進んでいき、その力を徳川に見せつけました。

家康もそんな上杉、武田軍の圧倒的な兵力に、怖れて何の抵抗もしませんでした。

何の抵抗もできなかったのです

また謙信も、弾正の策で、徳川の城を攻めようとしませんでした。

尾張、美濃を落とせば、徳川は、降伏する。

弾正はそういうと、信長に、徳川家は、上杉、武田に密かに寝返っているという疑わせ、家康が、ほっといても、下ってくるように仕向けていました。

謙信は、この弾正の策に、信玄なら用いる策だと感心していました

よく信長の性格を掴み、信長を家臣がどう見ているかも把握している策です。

謙信は、そんな弾正の策を受け入れて、信長の弱点をつき始めたのです。

だから上杉、武田軍は、徳川軍の抵抗を受けずに、一気に織田家の本国、尾張に入ると、大暴れしました。

尾張で池田恒興が3千の兵で守っている末森城や1千の兵で守っている鳴海城などの小城を一気に抜くと、那古屋城跡で、一端軍を休めると、清洲城で、伊勢・長島の一向一揆衆、1万と合流しました。

上杉、武田、一向一揆衆は、8万の勢力で、清洲城、8千の柴田勝家を攻撃したのです。

しかし柴田勝家も、織田家筆頭の重臣です。

前の戦で、謙信に敗れて、越前を取られた失敗もあります。

絶対に謙信に抜かせないという覚悟があったのです。

ですから謙信は、清洲城を諦めて、ちかくの勝幡城、蟹江城を占領すると、そこを一向一揆衆に任せ、防御が固い、尾張・美濃を避けて、伊勢国に軍を向けました。

伊勢は、信長に快く思っていない勢力も多く、占領するのは簡単でした。

伊勢の亀山城にいる、滝川一益、6千人を除く、ほとんどの城を占領したのです。

こうして謙信は、伊勢一国を手に入れ、伊勢・長島を拠点にすると、尾張の国を北上しました。

伊勢・長島は、海に面しており、武田・北条の水軍から食料・弾薬をいくらでも運べます。

膨大な兵の食料も、海から運ぶ事ができたのです。

しかも謙信は、本願寺の顕如や足利義昭に依頼して、毛利家を動かす事にも成功していました。

摂津にある石山本願寺にある食料も、毛利家の村上水軍によって、伊勢・長島に運ばれていました。

織田家の水軍は、前に武田・北条の水軍との戦いに敗れてから、まだ立ち直れていないので、抵抗する事はできませんでした。

上杉・武田軍は、食料・弾薬の心配をせずに、北上すると、小山城のいる、信長の次男北畠信雄4千を武田軍が、犬山城にいる信長の三男、神戸信孝4千を上杉軍が攻めると、二週間で落としました。

謙信は、信長が、息子のいる城を囲むと、慌てて、助けに来る事を期待したのですが、信長が息子を見殺しにしたと判断すると、城を力攻めしたのです。

それで信長の次男、三男は、武将としての器はあまりよくないのか、勢いのある上杉、武田軍の攻撃されると耐え切れず、とうとう北畠信雄は降伏し、神戸信孝は討ち死にしたのです。

こうして、尾張の国も、清洲城を除いて、上杉、武田軍のものになりました。

尾張の国の東と南は武田家、北は上杉家が占領し、西の清洲は、一向一揆衆が、任される事になりました。

謙信は、その勢いで、美濃の岐阜城や大垣城を攻めました。

美濃の大半は、武田家が押えているので、この二つの城を落とすと、美濃は、上杉家・武田家のものになります。

謙信は、ここを抜いて、近江の佐和山城にいた、信長と決着つけるつもりだったのです。でも岐阜城の丹羽長秀も、大垣城の蒲生賢秀も、さすがに名将です。

上杉軍、武田軍の猛攻にも、城を固く守って、つけいる隙を与えませんでした。

謙信は、そんな二人の武将に感服すると、その武将を使っている信長を、心から尊敬すると、美濃に4万の兵を残すと、信長のいる近江佐和山城にむかいました。

信長が、ここに2万の軍でおり、上杉、武田家、3万と決戦、野戦を仕掛けてくるのを期待したのです。

でも、信長は、佐和山城にこもると出てこようとはしませんでした。

あくまで長期戦、籠城する作戦だったのです。

謙信は、そんな信長に対して、佐和山城を攻撃するのを諦めると、美濃の攻撃を勝頼、の武田軍、3万に任せ、自分は、本隊、5万で、京都を目指して上洛しました。

途中、山岡氏が守る瀬田城を落とし、橋を焼いて、信長が追い掛けられなくすると、京都を目指し、念願だった、三度目の上洛を果たしました。

その後天皇に挨拶すると、弾正の進言で、軍を、摂津の本願寺や和泉の堺にむけました。

本願寺では、顕如と会談し、堺では、鉄砲を生産する施設を破壊しました。

堺の商人は、上杉軍の乱入を恐れ、軍資金を密かに渡し、鉄砲を生産する施設の破壊だけで、堺の町を焼き払うのだけは勘弁してもらいました。

謙信は、これで軍資金も得ると、再び、北上し、今度は、近江の西側、坂本城、大溝城を攻めると大溝城を落とし、5月、半年の長い遠征を終えると、越前から、越後へと帰っていったのです。

しかし、謙信は、これが、自分にとって、最後の戦になるとは想っていませんでした。

来年、今度こそ、信長と決戦し、足利義昭を、将軍としてむかえ、天下の争乱を終えるつもりだったのです。

 

 

               ※「謙信公の死」※

謙信が死んだのは、天正6年の313日でした。

脳卒中で倒れ、意識がなかなか回復しない中で、4日後に死んだのです。

この日付は、歴史の事実と同じだったのです。

でも、その状況はまったく違っていました。

歴史の事実では、領地は加賀半国までだったものが、この物語では、近江半国、伊勢まで領地とし、信長を後一歩のところまで追い詰めていたのです。

というのもその前の天正5年、上洛した謙信は、6月に越後に戻った後、半年以上、美濃を攻めている勝頼に援軍1万を与えたぐらいで、軍を起すのを控えていました。

長期の遠征は、お金も必要ですし、民を疲弊させます。

百姓が中心の上杉は、天正の5年の冬は動かずに、兵を休ませることにしました。

美濃攻略は、武田家に任せ、雪解けの4月、北陸から上杉軍、美濃からは、武田軍が進

み、信長と最後の決戦をするつもりでした。

 その為の準備をしていたのです。

 また、そんな謙信によって、信長は風前の灯でした。

 天正4年冬から天正5年の春の戦いで、伊勢、尾張の二国を取られたのも痛かったですし、謙信に上洛を許し、摂津や和泉にまで、上杉軍の進行を許した事も痛手でした。

 5万の上杉軍をみた、摂津や和泉、河内や山城にいる地侍も、信長の命令を聞かなくなりました。

 日和見をする地侍も多くなったのです。

 だから上杉軍が、越後に帰った後も、信長は、美濃にいる兵達を助ける事はできませんでした。

 勝頼は、上杉軍が、引き上げる前に、相当な犠牲を覚悟で、大垣城を攻め、とうとう降伏させる事に成功しました。

 三の丸、二の丸を落とし、もう落城が見えた所で、勝頼は、蒲生賢秀の命を惜しんで、城から出る事を勧めました。

 蒲生賢秀を助けられない信長も、撤回する事を認め、蒲生賢秀は、死傷者の1千名以外で、城に残る事を希望したもの1千名を除いた、2千名で、大垣城から出たのです。

 と同時に岐阜城にいる丹羽長秀や、清洲城にいる柴田勝家も、信長は、思いきって撤退させる決心をしていました。

 というのも大垣城を占領した勝頼は、大垣城を武藤(真田)昌幸に、8千の兵で任せると、甲斐に引き上げました。

 まだ、兵農分離ができていない武田家は、どうしても六月の梅雨が迫ってくると、兵を国に帰さないといけなかったのです。

 でも、勝頼も信長の軍隊が、兵農分離をしているので強いという事は理解しており、お金で兵を雇っていました。

 尾張の国を取った事で、勝頼はお金を得る事ができました。

 大垣城や曽根城に、たくさんの兵を置いており、今の織田軍では、落とす事は不可能です。

 今や岐阜城は、武田軍に囲まれ、清洲城は、一向一揆に囲まれて孤立しており、戦略上、ここに大軍と食料を置く意味もなくなっていたのです。

 しかも信長を驚愕させたのは、三河の徳川家康の寝返りでした。

 弾正は、徳川家康を味方にする為に、ずっと動いていました。

 徳川家康は、そんな武田の誘いを拒んでいましたが、尾張、美濃が、ほぼ武田家のものになった事で、気持ちが武田になびき始めました。

 弾正は、徳川家の家臣団にも、手を回しており、家臣達の気持ちは、とっくに信長から離れていました。

 信長は、同盟国の徳川家を、今迄、まるで臣下のように散々利用しており、不満を持っていた家臣の中に、武田につくべきだという声が多く、武田を贔屓にしている長男、信康を中心に、渋る家康を説得しました。

 武田家は、今なら、三河・遠江の領地を安泰させると約束しています。

「例え、信長につくしても、一端疑心暗鬼になった徳川家を、信長が許すはずがありません。それに比べて勝頼殿は、徳川家を高く評価しています」

 という家臣の言葉が決め手になりました。

 家康は、尊敬する武田信玄の息子、勝頼の臣下になる決心をしたのです。

 こうして勝頼は、徳川家康という、大きな味方を得る事ができました。

 弾正は、家康を高く評価しており、警戒しながらも、心から喜んだのです。

 こうして、徳川家康が、後に天下を取る歴史も大きく変わりました。

 勝頼は、家康を大切にしながらも、弾正の「家康は、天下取りの器、油断なさいますな」という言葉を忘れませんでした。

 大切にしながらも、警戒心を死ぬまで解かなかったのです。

 そしてその事が決め手となって、信長は、岐阜城の丹羽長秀7千、清洲城の柴田勝家8千、伊勢にある亀山城の滝川一益6千の兵を、次々救い出すと、近江の佐和山城に集め、謙信との決戦の兵力にしていたのです。

 ですから、そんな信長にとって、謙信の死は、大きな助けになりました。

 反撃のチャンスだったのです。

 でも、この情報は、武田家の方が早かったです。

 武田家は、上杉家と親しいだけに、情報が早く、弾正は、謙信が倒れたという事を聞くと、さっそく勝頼と相談して動きました。

 というのも、弾正は、実子のいない謙信が上杉家の跡目を、正式に決めていない事に、関心を持っていました。

 候補は、謙信の養子の景勝と景虎の二人です。

 この内、景勝の母は、謙信の姉で、謙信にとって景勝は甥になり、景虎は、北条氏康の七男で、北条との同盟がなった時に、人質となっており、北条家との同盟がなくなった後は、気の毒になった謙信の養子になっていました。

 弾正は、そんな謙信がはっきり遺言しないままに死んだら、この二人で内乱が起きると考えており、謙信の死に対しても、慌てる事はありませんでした。

 謙信が、はっきりと遺言を残さずに死んだ事を確かめると、勝頼に進言して、武田家は景勝、景虎の戦いには、当面どちらにもつかない事を決めました。

 景虎の兄である北条氏政にも、使者を派遣して、景虎に味方して、上杉家の内乱に、北条家が介入しないように要請しました。

 北条氏政も、その早い勝頼の動きに、動くのを止め、様子をみる事にしました。

 もし武田家を敵にまわしたら、北条の関東支配が崩れる事を怖れたのです。

 というのも天正5年、北条家は、かねてから上杉謙信が、関東に介入しないという約束していたので、本格的に、上総国、安房国を支配している里見氏と戦い、里見氏を支配する事に成功しました。

 もうそれ以上の野心は、北条氏政にはありませんでした。

 景虎を助けて、上杉家の内乱を利用して、東上野を完全に支配したいという欲がないわけはありませんが、勝頼が、それを許すはずがありません。

 氏政は、同盟している今の武田家と争うつもりはまったくなかったのです。

 こうして、弾正は、北条家を押えると、景勝、景虎の動きを、自分の本城、海津城に戻り、兵2万を集め、見守る事にしたのです。

 また弾正の思案どおり、景勝、景虎に動きがありました。

 この物語では景勝は、近江の長浜城にいて、畿内を任され、景虎は、七尾城にいて、北陸を任されており、謙信の死に目にはあえませんでした。

 景勝は、予想される信長の反撃を、勝頼にすべて任せる事を依頼すると、長浜城に武田軍を入れ、勝頼に武田領内の通過の承諾を得ると、軍勢、1万で、武田の領土の美濃、信濃を通ると、慌てて越後に帰りました。

 本来の上杉領である北陸の、能登、越中は、景虎の支配化にあるので、景勝や景勝の側近である樋口兼続が、景虎の妨害や、下手をしたら殺される事を恐れたのです。

 

 

                 ※「御館の乱」※

こんな調子ですから、越後に帰った、景勝、景虎がうまくいくわけがありませんでした。

 二人は、謙信が死んだ後の家督を譲ろうとはせず、315日に、謙信の葬儀を終えると、すぐに対決を始めました。

 景勝は、本城の春日山城の実城を占領し、有利にたちました。

 景虎派を、春日山城の本丸、二の丸から追い出したのです。

 その後、五月まで、景勝、景虎とも内乱を避けて、春日山城で話し合いをしましたが、どちらも家督を譲らない以上、まとまる事はなく、内乱が起こりました。

 歴史の事実と同じように、御館の乱と呼ばれるものが、上杉家内の景勝派、景虎派に分かれて戦われたのです。

 でも、その事は、弾正にとって、本当に待ちに待ったチャンスでした。

 武田家が、上杉家に変わって、天下を取る機会を得た事になるのです。

 と同時に、弾正は、勝頼がものすごく運がいいと思いました。

 というのも、もし、謙信が死ぬのが去年で、まだ近江や美濃などの畿内を領地化する前に上杉家の内乱が起こったら、武田家にとって、忌忌しき事態でした。

 景虎は、兄である北条氏政に援護を依頼し、勝頼も北条家と同盟している以上、景虎を支持して戦わないといけない事になります。

 それで、景虎が勝ったら、北条家は東上野、越後、越中なども支配する事になり、武田家は、北条家の属国のような立場になってしまいます。

 北条家に頭を下げて生きていかないといけないのです。

 しかも景勝と景虎の上杉家内での勢力は、謙信の甥になる景勝の方が有利で、北条家の援護があるからといって、景虎が勝つとはかぎりませんでした。

 北条家が、くずくずしていたら、下手をしたら、景勝が勝つチャンスもあります。

 そうなると景虎を支持した勝頼は、上杉家を敵にまわす事になってしまいます。

 いろんな事が想定されて、上杉家の内乱に、介入すべきではないと、弾正は想っていたのです。

 何故なら実際に、歴史の事実では、勝頼は、北条家の要請で、景虎を支持して、越後に入ったものの、北条家の中途半端なやり方に怒って、景勝の支援に変わっています。

 それで景勝は勝利すると、景虎を殺しています。

勝頼は、妹の菊姫を景勝の妻とする事で、上杉家と同盟し、怒った北条家と対立する事になり、結局、織田家、徳川家、北条家の挟み撃ちで、滅亡しました。

謙信のいない上杉家では、武田家を助ける事はできなかったのです。

だけど、この物語では違います。

弾正は、海津城に2万の大軍を集めても、決して越後には入ろうとしませんでした。

景勝、景虎のどちらも支持しようとはしなかったのです。

その上で、景勝、景虎が、御館の乱で戦う前に、使者を送って、上杉家の畿内の領地、伊勢、北尾張、北近江の武田家、割譲を認めさせました。

弾正は、勝頼も、謙信の息子だと主張し、上杉家の内乱に介入しない代わりに、織田信長の反撃から、畿内を守る為にも、勝頼に譲る事を約束させました。

景勝にしろ、景虎にしろ、畿内に帰る事は不可能ですし、武田家を敵にするわけにもいきません。

認めなかったら、弾正が、2万の大軍で攻めてきます。

結局、景勝も、景虎も認めました。

畿内の領地を任されている景勝は、抵抗しようとしましたが、側近の樋口兼次に説得されて、渋々認めました。

景勝も、武田家を敵にするのを避けたのです。

こうして武田家は、景勝、景虎の了解を得て、畿内の上杉領を、武田家のものにする事に、成功しました。

上杉家の家臣も、景勝、景虎が認めた以上、抵抗する事はできませんでした。

畿内で武田家の家臣になるか、越後に帰るかを求められて、3分の1が帰りましたが、後は残りました。

勝頼は、戦をする事なく、新たに100万石以上の領地を得る事に成功したのです。

これで勢いを得た勝頼は、信長の反撃に対しても、混乱する事無く、防ぐことに成功したのです。

しかも、弾正がした事はそれだけではありませんでした。

次に、弾正は、石山本願寺の顕如に使者を送って、一向一揆の支配下になっている越前、加賀の二国を、上杉家の代りに、武田家が任して貰う事を依頼しました。

顕如も、謙信が亡くなった後の、上杉家に不安を覚え、武田家に任せる事に承諾しました。

内乱をしている上杉家では、無理だと判断したのです。

それで、顕如から、景勝、景虎に、武田家に任せたいという使者が派遣され、景勝、景虎も、裏で武田が動いている事は承知していながら、認めました。

武田家を敵にできなかったのです。

こうして上杉家は、あっという間に、領地が、能登、越中、越後、下野、出羽の庄内に減ってしまいました。

弾正が、上杉家の内乱の仲介を始めたのは、この時からです。

まず岐阜城で、織田家との戦いの指揮をとっている勝頼を、海津城に呼び寄せると、景勝、景虎の仲介を始めたのです。

また戦い自体も、五月に始まった、御館の乱は、歴史の事実よりも激しく戦われていました。

越後だけでなく、越中、能登まで巻き込んでいたのです。

しかもこの戦いは、双方互角でした。

越後の大半を押えている景勝と、越中、能登の大半を押えている景虎とは、兵力でも拮抗しており、簡単に決着がつかない感じだったのです。

でも、ここで武田軍が、どちらかについたら、勝敗はすぐについてしまいます。

勝頼は、景勝、景虎に和解案を提示しました。

それは、景勝は越後と出羽の庄内地方を領土し、景虎は関東管領職を継いで、越中、能登を領土にするというものです。

後の北信は、武田家に、東上野の上杉領は、北条家に分割し、下野は、上杉家から独立させるというものでした。

弾正は、どの家も納得できる妥協案を示し、それに納得できないものは、武田が戦うといったのです。

これで景勝も景虎も承知しました。

北条家も納得したのです。

こうして勝頼は、御乱の乱を収める事に成功し、その評価を高めました。

弾正は、上杉家に強大な領土を、うまく分割させる事ができ、大満足したのです。

しかし勝頼は、その後、上杉謙信の恩は忘れることなく、天下を取って、武田幕府を開いた後も、上杉家を大切にしました。

武田勝頼の跡を継いだ信勝も、その跡を継いだものも、上杉家を別格扱いにしました。

上杉景勝も、上杉景虎も50万石程度の領土だから、それができました。

弾正は、その為に大恩ある謙信の領土の大半を、策を練って奪ったのです。

だから武田家に、うまく領土の大半を取られたと憎しみを覚えていた上杉家も、そんな武田家の姿勢に、感謝すると、武田幕府が続くまで、武田家に忠誠を誓いました。

謙信の家風を守っている上杉家程、頼りになる存在はありません。

武田家は、上杉家を信頼し、越後、越中、能登の領土を任せました。

後に越後の上杉家では、当主が急死し、世継ぎが決まっていない事で、藩の存続が危なかった時も、武田幕府の武田信貴の威光で、上杉家は石高も減らされる事もなく、続きました。

この時に、信貴は、越中・能登の上杉家の次男に、越後の藩主に就かせ、上杉両家が仲直りできるようにしました。

勝頼は、遺言で、上杉謙信公の命日の墓参りと、両上杉家の仲直りに尽力をつくす事を命じていました。(上杉家が奢らなければという条件つき)

代々武田家を継いだ当主は、それを実行したのです。

 

 

               ※「佐和山の戦い」※

上杉謙信の急死による、上杉家の内乱、御館の乱が、わすが2ヶ月の6月末で終わった事は、信長の誤算でした。

謙信の死を、知るとすぐに、上杉領内に反撃しましたが、勝頼は、動揺する上杉家臣をうまく、武田に従わせると、信長の反撃を防ぎました。

信長は、4万の大軍で、大溝城を包囲すると落とし、西近江と、若狭の後瀬山城を落として、若狭の国を取り返しましたが、それ以上は進めませんでした。

御館の乱が、終息したと知ると、慌てて、兵を退いたのです。

こうして天正6年の戦いは終わりました。

武田家も織田家も、天正7年に起こる、おそらく最後の決戦の為に、勢力を温存したのです。

でも、この戦いは、勝頼が圧倒的に有利でした。

武田家は、自力で、75千もの大軍を動かせるだけでなく、各地の一向一揆衆3万、徳川家康1万、上杉景勝1万、上杉景虎1万、北条家、3万という援軍が期待できます。

その上に毛利氏も、援助を申し出ていました。

総勢、16万の大軍だったのです。

これに対して、織田家は、5万が限度でした。

しかも弾正は、桶狭間の例もあるので、油断する事無く、織田の領土の地侍に手を回して織田軍に加わらないようにしたり、家臣の佐久間信盛や、明智光秀に裏切りを勧めたりしていました。

今川義元を破った時よりも、織田家の内部はガタガタだったのです。

だから、この戦いは、武田家が圧倒的に有利でした。

信長は、そんな武田軍に対して、籠城しても無意味な事を悟り、佐和山城を後ろに、長列の柵をたてさせました。

かねてからの武田の騎馬軍対策だった、塩津の戦いで実行できなかった3隊に分かれた鉄砲隊の3段撃ちを実行する決心をしたのです。

しかしその事は、勝頼や、弾正には分かっていました。

弾正は、この時の為に、謙信が、武田の真田昌幸や曽根昌世、上杉家の樋口兼次などに命じて、検討させていた、ある策を、勝頼に、報告させました。

勝頼も、その策に満足すると、武田や上杉、徳川、北条、一向一揆衆が持っている各鉄砲隊を前方に集めさせると、全員に竹で作った盾を持たせ、騎馬隊は後方に置くと、前方の鉄砲隊を3隊に分かれて、ゆっくり前進させました。

武藤昌幸(真田)達は、鉄砲には、鉄砲で対決する事を考え、織田軍が持っている鉄砲2千丁に負けないぐらいの数を用意していたのです。

こうして日本の歴史始まって以来の銃撃戦が始まりました。

織田軍も盾を用意し、三隊が順序よく鉄砲を撃ちます。

武田連合軍も、盾で防ぐと、負けずに、三隊で、鉄砲を撃ったのです。

しかも武田連合軍には、樋口兼次が考えていた秘策がありました。

鉄砲の銃撃戦をしながら、織田家の柵に近づくと、越後からたくさん用意した、燃える水、石油を、柵にかけ、火をつけると、多数の柵を燃やす事にしました。

謙信は、この樋口兼次の考え出した事を誉め、密かに実験して試すと、見事に成功した事を喜び、越後にある石油を大量に集めさせていました。

今度の信長との戦いに実施するつもりだったのです。

それが、見事に成功しました。

石油は、日本では、越後しか取れず、信長は、まさか、勝頼が燃える水を使うとは思っていませんでした。

何箇所もの柵が燃え、織田軍は、水で消そうとしたところを、鉄砲隊で撃たれ、とうとう武田軍を柵の中に入るのを許しました。

武田軍は、燃えた柵の中から、織田軍の陣地に潜入したのです。

もうこうなると勝敗は、決まりました。

武田の兵1人は、織田家の兵、3人から5人に匹敵するといいます。

お金で雇われている織田軍の兵は、一気に戦意を無くすと逃げ始めました。

接近戦で武田軍に勝てるわけがなかったのです。

こうして第2の柵、第3の柵も、武田軍の侵攻を防ぐ事ができず、織田軍の兵士は、逃げ出したのです。

しかも、ここで佐久間信盛の兵、3千が、信長を裏切ると、「敵は信長だ」と叫ぶと信長の本陣に突っ込みました。

この事で織田軍は、ますます大混乱しました。

佐久間軍は、信長の本隊と戦いながらも、織田軍の退路をたとうし、織田軍は、もう秩序だった行動は、どの武将もとれなくなったのです。

その上に、織田軍に恐怖を与えたのは、出陣を待ちに待った武田の騎馬軍団でした。

勝頼は、後方に供えさせていた、1千の、騎馬だけで編制した、勝頼直轄の軍を、仁科信盛に任せ、出陣させました。

この武田の騎馬軍団は、馬だけの編制なのでさすがに早く、逃げる織田兵を捕まえると、散々に打ち負かせました。

織田の鉄砲隊は、崩壊して、そんな騎馬軍団を防ぐ事はできません。

武田の騎馬軍団は、どんどん織田軍の中枢に進んだのです。

勝頼が1万の本隊以外の武田全軍に命じて、織田軍を追い掛けさせたのはその時です。

後方に控えていた、北条、徳川、上杉、一向一揆も出番はなく、あっけにとらわれていました。

武田軍は、逃げる織田軍を散々に討ち、滝川一益や蒲生賢秀、佐々成政、前田利家などの武将と1万5千以上の兵を討ちました。

武田軍の損害は、7百にも及ばないという、日本の歴史に残る大勝利をしたのです。

と同時に、織田軍と武田軍がした銃撃戦は、日本の歴史も変えました。

後世に残る戦となり、見事に信長の戦法を破った勝頼は、長く日本の歴史から評価される事になったのです。

しかし、これで織田家との戦は終わりませんでした。

勝頼は、翌日、佐和山城に籠城している5千の信忠軍を、仁科信盛を大将にした武田軍2万で包囲させると、残る全軍14万を率いて、堂々と京都を目指して、進撃しました。

そんな武田連合軍を防ぐ城も、力も信長にありません。

山城、和泉、河内は、武田の支配する領地になったのです。

でも、信長は、それでも最後の抵抗をしてあきらめませんでした。

明智光秀の坂本城に1万の兵で籠城しました。

若狭の国には丹羽長秀5千、大溝城には、柴田勝家5千で、西近江と若狭の国で、最後まで戦おうとしたのです。

でも、弾正は、そんな織田家を滅ぼすつもりはありませんでした。

かねてから考えていた事を実施する覚悟をすると、勝頼に、信玄の娘、松姫と信忠の結婚を勧め、勝頼をびっくりさせました。

というのも信長の嫡子信忠と信玄の五女、松姫とは、織田家と武田家が同盟していた時に、婚約していました。

松姫は、その婚約が破談になってからも、信忠の愛を信じて、誰とも結婚しようとはしませんでした。

勝頼は、上杉景勝や徳川信康と結婚させようとしましたが、頑として拒み、勝頼を呆れさせました。

松姫に無理やり結婚させたら、自害しかねない性格だという事を理解している勝頼は、処置に困り、松姫の兄である仁科信盛に松姫を預けていたのです。

だけど、弾正は、そんな頑固な松姫に、勝頼の母である諏訪の姫を見ていました。

松姫も美貌の持ち主で、何となく諏訪の姫様に似ていたのです。

それで弾正自身、松姫の想いを大切にしてあげたいと想っていました。

それが信玄公の願いのような気がしていたのです。

ですから弾正は、勝頼に、松姫と信忠を結婚させ、織田家を親戚にする意味を説明しました。

信長とは絶対に妥協できないが、信忠なら妥協はできる。

もし、信忠が降伏して、松姫と結婚したら、織田家で戦っている丹羽長秀も柴田勝家も、戦わず、降伏するだろう。

織田家の重臣である二人は、信忠の命令を聞く可能性が高いと弾正はいったのです。

しかも敵である織田家さえ許す勝頼の器量は、次に戦う、毛利家や四国、九州征伐でも大きな意味が出てくる。

徹底的に戦わず、降伏する可能性が高いと、弾正は熱弁したのです。

その上に、何よりも、信玄公が可愛がっていた松姫を、一生誰にも嫁がせないわけにはいかないと言い、最後には勝頼も苦笑いをしてこれを許しました。

それだけの余裕が武田に生まれていたのです。

ですから勝頼は、腹違いの弟、仁科盛信に命令して、佐和山城で籠城している信忠に正式に松姫との婚姻を求めました。

その武田家の意外な行動に、最初は拒んでいた信忠も、松姫が自分の事を想ってくれる事をしっており、密かに信忠も、松姫を嫁としてむかえようとしていた事もあって、家臣達に相談して受け入れる事にしました。

織田家が滅亡する事だけは、なんとしても防ぎたかったのです。

こうして、松姫と信忠の結婚は決まりました。

松姫は、兄である仁科盛信に連れられて、すぐに信忠のいる佐和山城に嫁ぎました。

正式な結婚式も、佐和山城で行われ、信忠は、佐和山城を出ると、勝頼が与えた、東美濃の岩村城10万石を領地としたのです。

こうして織田家との戦いも、最終局面になりました。

弾正のいった通り、抵抗していた丹羽長秀も、柴田勝家も、信忠と松姫の婚約を知り、織田家の存続が決まった事を知ると、信忠の命令を守って、後瀬山城、大溝城を明渡すと、岩村城に向かったのです。

こうして残るのは、明智光秀が築いた坂本城にいる、織田信長だけになりました。

勝頼は、武田軍、5万で包囲していました。

北条や徳川、一向一揆や上杉の軍隊は、佐和山の戦いで会った後、2ヶ月間だけ借りるという約束通りに、それぞれの国に帰しており、武田軍単独で包囲していたのです。

しかし信長は、信忠と松姫の結婚を知っても、絶対に降伏しようとはしませんでした。

家臣の明智光秀も、弾正が裏切りを勧めても、まったく受け入れず、自分を浪人から、城持ち武将にまでしてくれた織田信長の為に、最後まで戦うつもりだったのです。

しかも明智光秀が造った坂本城は、名城です。

武田軍が、総攻撃しても、1万で守っている坂本城は落ちなかったのです。

でも弾正は、そんな事は分かっていたので、慌てませんでした。

1万の軍が、坂本城で何ヶ月も籠城する事は不可能です。

弾正は、食料が減るまで待つつもりだったのです。

こうして半年後、ついに食料がなくなった織田信長は、自分の自刃を条件に、明智光秀などの1万の兵の無事を求めました。

勝頼は、弾正と相談して、その条件を受け入れる事にしました。

こうして、織田信長と武田勝頼の戦いは終わりました。

弾正は、京都のちかくの坂本城で、この戦いを終わらせる事ができ、亡き信玄公にやっと報告できると想ったのです。

 

 

                 ※「弾正の死」※

信長が、自ら自刃する事が決まった事で、弾正の軍師としての役目は、殆ど終わりました。

武田家を守るだけでなく、信玄公の夢だった、瀬田に武田の旗を上げる事も実現しました。

もう弾正が、勝頼に進言する必要もありません。

勝頼は、この4年間で、天下人の器に大きく成長しました。

十分勝頼だけで、武田家を動かせる大将に育ったのです。

しかも弾正が育てた武藤昌幸や曽根昌世も、重臣として見事に育ちました。

立派に務まると、弾正は頼もしく思っていたのです。

そろそろ引退して、自分の望みだった甲陽軍艦を書く決意でした。

今なら、余裕を持って、信玄公や勝頼公に心から感謝して、物語を書けると想っていたのです。

しかしそんな弾正には、最後の仕事が待っていました。

それは、織田信長と会う事です。

弾正は、信長のやっている事を調べれば調べる程、その天才性を高く評価していました。

信玄も、死ぬ前に、信長を評価して、いろいろ尋ねたい事があるといっていました。

弾正は、信玄公の為にも、信長に聞きたい事がたくさんありました。

特に、信長が、どう天下を治めようとしたのか、弾正はどうしても知りたいと想っていました。

弾正には、日の元の事しか見えませんが、信長には世界が少しは見えているような気がしたのです。

だから弾正は、信長が自刃する前に、会いたいという要望を出し、信長は、快く受け入れました。

信長自身、勝頼を影から動かしている高坂弾正に会いたいと想っていたのです。

こうして弾正は、信長と内密で、会う事になりました。

しかし信長は、性格もあって、多くは語ろうとしなかったのですが、弾正がうまく信長の考えを引き出しました。

弾正が、信長の考えを天下人になる勝頼に伝えて、今後の政権造りにいかそうとしているのが、よく分かったのです。

それで信長は、自分がしたかった天下不武の構想を話しました。

信長は、全国の大名をどんどん潰して、最終的には中央集権の世の中をつくるつもりだったといったのです。

しかも信長は、宗教は認めても、宗教組織が政治に拘わろうとするのを絶対に認めるつもりはありませんでした。

不利と分かっていても、本願寺の一向一揆衆と戦ったのもその為です。

弾正は、それを聞きながら、いつか一向一揆衆と武田が戦う事を想定しました。

武田が天下を取った後、一向一揆衆に圧力をかけて、本願寺を大阪から追い出し、加賀や越前を治めようと決心しました。

本願寺とは、妥協はしないと決心したのです。

またその後、信長は、日本の国を豊かにすべきだという事を主張しました。

外国とどんどん貿易して、いろんな技術を仕入れ、日本を豊かにすべきだといったのです。

弾正は、その信長の考えを聞いて、目がさめる想いがしました。

世界の中の日本という事を考えた事もなかったのです。

その上で、信長は、日本が、開国して、世界と交流していかないと、いつか大変な事になると鉄砲をみせるといいました。

鉄砲は、外国のポルトガル人が種子島に来た時から、わずかの間に、日本国内で普及したのでよかったですが、将来、何百年した後、鉄砲よりもっとすごい武器を持って、どんなに遠くからでもこられる船を外国が、もてるようになったら、日本は外国人の支配される国になる、そう信長は予言するかのようにいったのです。

弾正は、それを聞いて、信長はまさしく天才だと想いました。

新しい武器である鉄砲を積極的に持ち、3段にして鉄砲を続けて撃つ事を考えるだけでも天才なのに、信長は、鉄砲を造り出した外国人に対して、そんな恐怖感をもっていたのかと感心しました。

日本の天下が統一された後、日本が外国に目をむけなくなったら、信長のいうように、いつか、外国に支配されてしまうと想ったのです。

と、同時に弾正は、信長が、日本を統一したら、次は外国に目をむけるつもりなかったのではないかと想うと、恐怖を覚えました。

まさか朝鮮や唐を攻めるつもりはなかったのではないかと想い、それを尋ね、朝鮮や唐が開国しなかったら、そうしたかもしれないと聞いて驚きました。

日本が統一されたら、信長が進めた、武士と農民を分ける兵農分離の制度で武士になった人達は、戦う場所を無くして、失業してしまいます。

そういった者達に、働き場所を与える為にも、必要かもしれないと信長はいい、弾正は、信長はそこまで考えていたのかと感服しました。

さすが兵農分離の制度を考え出した男だと感服しました。

正直言って弾正は、朝鮮や唐を攻めるなど一度も考えた事はなく、そんな途方もない事をやる男だったのかと改めて見直していました。

信玄なら、そこまではしないと思い、ある意味では、信長は、信玄以上だと想ったのです。

でも弾正は、唐入りには反対でした。

よく内情を分からない朝鮮や唐を攻めるべきでないと想ったのです。

たぶん失敗すると判断したのです。

だけど弾正は、その事はいわず、信長といろんな話をし、話はどんどん信玄公の話になりました。

信長は、勝頼の事より信玄公の話を聞きたがりました。

弾正という人物をみて、信玄に対する興味が出てきたのです。

そして弾正は、信長が、信玄を高く評価している事を知りました。

信長は本音、「儂は信玄を一番怖れていた」といったのです。

でも信長は、「儂は神になるつもりだった」ともいって、弾正を心底驚かせました。

神になろうとしていた以上、そんな自分が、信玄を恐れていたという事実は、すべてこの世から消すつもりだったというのです。

弾正は、そんな信長の話を聞いて、やはり信長を倒してよかったと想いました。

勝頼は神になろうとは想わないだろうし、できるはずもないと想ったのです。

こうして弾正と信長の話の重要部分は終わりました。

最後に信長は「儂は信玄に負けたのか」と弾正に尋ね、しばらく弾正は考えると、「すべての欲を捨てられた信玄公に負けたのです」と答えました。

信長はそれに納得すると、織田家と信忠の事を弾正に頼み、弾正と別れました。

「信玄は、よい軍師を持った。儂は、そんな軍師を持とうともしなかった。その差だな」というと「信玄にあったら誉めておこう」といって、その場から去ったのです。

 信長が、武田家の家臣や織田家の家臣が、見守る中で、坂本城で自刃したのは翌日でした。

 明智光秀や1万ちかくの将兵は、そんな信長の犠牲によって救われました。

 救われた1万の織田の兵達は、信長に心から感謝し、信長の歴史上の評価をものすごく高めました。

 最後まで信長の家臣として戦った、明智光秀も、勝頼の家臣にならないかという誘いを断り、勝頼の許しを得ると、坊主に成り、死ぬまで信長を弔ったのです。

 こうして信長との長い、激しい戦いは終わりました。

 信玄が死んだ後、6年で、勝頼は信長を倒す事ができたのです。

 弾正が倒れたのは、信長の自刃を見届けた後、2週間後でした。

 信長の考えなどを報告した後、これから開く武田幕府の方針を勝頼と信勝に進言した後で、弾正は倒れました。

 その後、動けずに、軍師を引退すると、京都の屋敷で、分筆者に甲陽軍艦を書かせ、勝頼にも会おうとはしなかったのです。

 そして弾正は、半年で甲陽軍艦を完成させると、歴史の事実と同じ日になくなりました。

歴史の事実とは違う、新しい甲陽軍艦を完成させ、晴れ晴れとした気分で、天国で待つ、信玄公に会ったのです。

 しかし弾正がいった進言の数々は、その後の武田政権に大きな影響を与えました。

 まず、弾正は、信長が鉄砲を持ち出してくれた話を、自分なりにアレンジして、日本の開国を勧めていました。

 諸外国に鉄砲などの技術で負けないように情報を得る事を忘れてはいけないと念を押し、武力ではなく、経済で、外国に積極的に進出する事を勧めました。

 失業する武士は、外国に送り、日本人の町を作らせて、いろんなものを生産させて、日本と貿易をさせていく。

 内情がわからない国を攻める事を、強く諌めたのです。

 その上で、毛利や北条などの大名の勢力をできるだけ100万石までに押えて、各地方を任せながらも、日本を一つにする中央政権を、つくるようにいいました。

 本願寺などの一向一揆衆も戦をしても、徹底的に抑え、宗教組織が政治に介入させないようにいったのです。

 そしてそれらの事は、勝頼、信勝は実施していきました。

 1年間は、畿内の領地を固めた後、天正9年に中国地方に兵を向けました。

 毛利家は、そんな巨大になった武田家と戦うつもりはなく、将軍、足利義昭を通じて和議を求めていましたが、勝頼は、謙信と違って、義昭を無視すると簡単に応じませんでした。

 毛利家に対して条件を厳しくして、毛利家本家には、長門、周防、安芸、石見の四カ国60万石に封じこめました。

吉川家には、出雲の国19万石、小早川家には、備後の国、18万石を与え、毛利家全体で100万石の大名に押えました。

後、宇喜多家には、備前の国、22万石を与え、勝頼は、中国地方を押えました。

翌年には四国征伐に乗り出して、四国を占領した長宗我部元親を土佐一国に抑え、次の天正11年には、九州征伐をして、島津氏を降伏させ、本領の薩摩、大隈の二国に押えました。

こうして武田家は、西国を押えると、東国の東北にある伊達家にむかい、伊達政宗を降伏させました。

伊達政宗も、日本の殆どを支配している、武田家と争う愚かさを理解して、戦わずに降伏しました。

勝頼は、それを許し、東北も押えたのです。

こうして残りは、関東を押えている北条氏だけになりました。

北条氏は、2百万石を越える大大名です。

関東は北条氏に任せるという約束になっていましたが、武田家が、天下を動かしていくには、関東という重要な土地に、大大名があるのは、邪魔です。

勝頼は、信玄の遺言どおりに、信勝が十六歳になると、家督を譲り、信勝は、武藤昌幸の謀略で、北条氏との戦を仕掛け、小田原城を25万の兵で囲みました。

その後、圧倒的な武力や経済力が違う事をみせつけて、氏政、氏直は、降伏しました。

信勝は、勝頼の妻である北条の姫の願いもあって、北条氏に安房、上総、下総半国、100万石を与えると、それ以後、信勝の娘と北条氏の嫡男と結婚させたりして、北条家を大切にしました。

武田幕府自体は、近畿の大阪を中心としましたが、それ以後、国内で大名同士の戦争は起きませんでした。

ただ、一向一揆とは加賀、越前で戦い、本願寺の顕如を大阪から追い出しました。

二度と、宗教組織が、日本の政治に介入しない、政教分離ができたのです。

こうして日本は、歴史の事実とは違う、新しい国として、長く続いたのです。

と同時に、武田家の家臣達も、そんな武田家と共に長く繁栄しました。

主な武田家の家臣でいえば、真田は近江に20万石、武藤昌幸(真田)は上野20万石、山県は越前に10万石、高坂は信濃に15万石、内藤は、美作に10万石、馬場は讃岐に10万石に、秋山信友は美濃に10万石、曽根昌世に加賀に10万石を与えられました。

他の原昌胤や土屋昌次、三枝守友・・・・なども5万石が与えられました。

歴史の事実では勝頼を裏切った、武田の一族になる穴山信君は伊予に10万石、小山田信茂は下野に10万石も与えられ、勝頼の腹違いの弟、仁科盛信は播磨に20万石、甥になる武田信豊は、豊後に15万石に与えられています。

勝頼は、弾正の進言で、基本的には家臣にもそんな大きな領地を与えずに、それよりも多くの家臣に1万石以上を与えるようにしていました。

共に苦労した家臣が、全員領地を求められる様にして、信長のように、能力だけを優先して家臣を扱うのを避けたのです。

ですから多くの家臣が、1万石以上の大名になれたのです。

しかも勝頼は、外様の大名が、自分の領地でやる事は、地方分権で口出ししないかわりに、武田幕府の政権内部は、小さな領土を持っている武田の家臣だけで運営するようにしました。

1万石以上の武田の家臣達で、天下を動かし、他の大名が、幕府に口出しするのは認めなかったのです

その上で、できるだけ大名は取り潰さずに、藩の家臣が 浪人しないようにしたのです。

だから国内では、ずっと日本の国では、戦は起きなかったのです。

しかしアジアでは違いました。

武田家の日本は経済面でアジア諸国にも勢力を広げ、植民地にしようとしたスペインやポルトガル、オランダ、イギリスとは、アジア諸国と力を合わせて武力で戦い、勝利しました。

やがて日本はアジアの盟主となり、産業革命を起し、アジアから、欧米を追い出しました。

武田家の日本は、世界史の事実を根本から変えたのです。

そして、そんな日本の栄光の歴史に、軍師としてではなく、甲陽軍艦の作者として、有名な高坂弾正が、再び登場したのは、武田家が解体した時でした。

欧米の影響で、日本も民主化を目指さないといけなくなり、武田家、15代将軍、信○は決断すると、政権を天皇に返す大政奉還をして、日本を民主主義の国にしました。

高坂弾正が、いつか武田家が、滅びようとした時に、その策を実施したらいいと遺言しており、それが代々の武田家には、内密に残されていました。

それが、信玄の生まれ変わりといわれる信○によって、実施され、世間では、高坂弾正ブームになりました。

高坂弾正が残した甲陽軍艦は、ずっとこの時代大ベストセラーになっていましたが、その後も広く知られ、日本の歴史を創った重要な人物の一人として、つねに上位に入る人間になったのです。

では、皆さん、縁の花、第163号「武田勝頼天下取り物語」とても長い物語、読んで頂いてありがとうございます。

  

 

追伸、第163号「武田勝頼天下統一物語」やっと終わりました。

紫陽花がこんな事を書くのは、とても変ですが、正直言ってほっとしています。

いつ終わるのか、紫陽花自身にも分からなかったからです。(笑)

何故なら、紫陽花自身、この物語のストーリーがどうなるか、最初、全然決めていませんでした。

書く間に、いろんなアイデアが出てきて、物語はどんどん面白くなっていったのです。

だから、この物語は、紫陽花が書いたとは、紫陽花自身想っていません。

守護霊やいろんな存在が書かせてくれた。

きっと武田信玄公から始まって、高坂弾正や、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などの武田の家臣や武田の縁ある人達、または上杉謙信などの上杉家と縁ある人達や、織田信長や、戦国時代に拘わったいろんな人達の力で、書く事ができたと心から感謝しています。

紫陽花と一緒に書いてくれたすべての存在に「ありがとうございます」「ありがとうございます」と心から言いたい心境なのです。

しかも、紫陽花は、この物語は、なかなかいい作品になったと満足しています。

いろんな作者が、シミュレーション小説の中で、武田信玄や上杉謙信の事を書いていますが、紫陽花のが、一番だと声を大にしていいたいです。

まじで本屋にあるいろんなシミュレーション小説よりも、あらすじは面白いと、結構自惚れているのです。

結構、ここらが、前世、紫陽花自身、武田勝頼さんかもしれないところだと想います。

と同時に、間違いなく、武田家や上杉家や織田家などの戦国時代に生きた人達にとっては、最高の供養になったと確信しています。

だって、紫陽花の前世かもしれない武田勝頼さんでいえば、 高坂弾正という、父親である信玄がもっとも信頼した重臣をうまく使えなかった事を始め、家臣や一族と仲違いしてしまい、結局は一族の穴山氏、木曽氏、小山田氏に裏切られてあっけなく戦国時代最強といわれていた武田家を滅ぼしていますが、この物語では違います。

高坂弾正を軍師にする事で、武田家臣と一致団結できて、勝頼は、父、信玄でもできない事、上杉謙信と同盟する事ができ、天下統一を実現できました。

頭の中で、新しい人生を、武田と縁ある人達と一緒に進む事ができたのです。

多くの家臣のこうしたかったという想いを、感謝に変える事に成功した。

紫陽花はそう想っていますし、高坂弾正、山県昌景、馬場信春、穴山信君などの、武田の家臣や、一緒に戦ってくれた、甲斐、信濃などの中心とした何万の武田の兵達すべてに、「ありがとうございます」と心から感謝を唱えられる、あらすじになったと想うのです。

これで、勝頼さんや、信玄、武田家の家臣の人達が喜ばないわけがない、最高の供養をしてあげられたと想うと、嬉しくて嬉しくて仕方がありません。

無限の無限の幸せなのです。

また、それは、上杉謙信さんや織田信長さんも同じです。

上杉謙信公贔屓の方には、謙信が死んだ後、納得できない面あったと思いますが、二人の養子、景勝と景虎の戦い御館の乱で、歴史の事実とは違って、負けるはずだった景虎は景勝に殺される事無く、越中、能登を継ぐ事になりました。

景勝も、歴史と違って、越後から離れる事無く、ずっと越後で上杉家を守る事ができました。

しかも謙信は、念願だった織田信長と戦う事もできました。

きっと天国で、謙信公は、信玄公と一緒に喜んでくれていると想うのです。

そしてそれは信長も同じです。

本能寺の変で、家臣の明智光秀に殺された信長は、この物語では逆に、自分に最後までついてきてくれた明智光秀や1万以上の兵を救う為に、自刃しています。

その亡骸は、本能寺の変では、見つからなかったのに、この物語では書きませんでしたが、ここで秘話として紹介しますと、勝頼の命で、織田信忠のもとに丁寧に送られて埋葬されています。

葬式には、勝頼は参加しませんでしたが、武田の家臣には参加を許し、信忠のもとで、弾正や松姫、仁科盛信も参加して、地味ですがされているのです。

その上に、信長だけでなく、信忠も京都で明智光秀に討たれた為に、後継ぎがいなくなった織田家は、皆さんもご存知なように、百姓から大名にまで異例の出世をさせて貰い、恩義があるはずの羽柴秀吉によって、上手に乗っ取られ、滅ぼされましたが、この物語では、松姫によって、織田家は、武田家の親戚となり、四国の伊予一国、36万6千石を与えられ、ずっと織田家は続きました。

信長も喜んでいるはずです。

と同時に、織田家を乗っ取った秀吉も、主君を殺した明智光秀も、最高の恩返しが、この物語ではできました。

秀吉は、信長の為に死に、明智光秀は、死ぬまで信長を弔いました。

二人も、信長公に対する恩返しができたと喜んでいるはすです。

正直言って、紫陽花自身、こんなすばらしいシーンになるとは想っておらず、書きながら驚いていたのです。

そして最後に何よりもすばらしいのは、信長の政策も、弾正によって、勝頼に伝えられ、さまざまな政策が実現された事です。

日本は、勝頼が、信長の考えを実現する事によって、一気に何百年も、時代を速める事に成功しています。

具体的には、日本は開国して、武力で朝鮮に攻め込むのではなく、アジア諸国に進出して、各地に日本人の町を造っていきました。

そこから日本は、経済力をつけて、アジア諸国から欧米を追い出し、今、現在起こっているアジアの時代を、何百年も早く実現させました。

悪い事もたくさんしていますが、より以上のいい事もたくさんして、日本人はアジアの人々から、21世紀を迎えても尊敬されているのです

すべてのアジアや世界中の人々から、英語よりも普及している日本語で「ありがとうございます」と想われている事をご報告して終わりたいと想います。

と同時に、最後に、武田勝頼は、アジアや世界中の人達から、世界の歴史を創った男として、NO1の人気があり、モンゴルのジンギスカンやナポレオンよりも、尊敬されている事も報告しておきます

武力だけでなく、信玄と同じように、民政家としての力量を愛されたのです。

そしてついでに、甲陽軍艦も、世界中の人に読まれている事も、皆さんに知って頂いて終わります。

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