縁の花
(魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)
第177号
武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行
(2003年12月23日出陣)
∞「武田家・諏訪の盛大な祭り」∞
2003年9月25日(木曜日)から9月30日(月曜日)まで、縁の花村 第1回ツアーという事で、武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行をさせて頂きました。
25日から27日までは、紫陽花と、黄桜さん、葉桜さんの3人で、甲斐(山梨県)、信濃の松本、川中島、諏訪(長野県)を参り、28日からは、紫陽花一人で江戸(東京)、29日は、大阪から京都に行ったのです。
しかし今から考えても、本当に不思議な旅でした。
紫陽花や、黄桜さんが計画したというよりも、もっと大いなる存在、武田家や諏訪の神々が、ずっと計画していた旅だった気がします。
うまく、導いて頂いたというか、すべて動かされていたのです。
紫陽花は、今回、その事を痛感しました。
このツアーを仕掛けた陰の仕掛け人は、武田家の存在や諏訪の神々だったのです。
また、縁の花 第1回ツアー 武田・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行は、おかげさまで大成功しました。
紫陽花は、前世、武田勝頼公、黄桜さんは、武田家の重臣で、甲陽軍艦の作者、高坂弾正、葉桜さんは、案内役、運転手の大役を見事に果たせました。
3人にとっても、一生忘れられない旅になったと想うのです。
でも、それは紫陽花達だけでなく、武田家の存在や諏訪の神々もとても喜んでくれた気がしています。
何故なら、武田家の存在や諏訪の神々にとって、今回の出来事は、もしかしたら、長い間、日本の戦国時代の頃からずっと待っていた事だったかもしれません。
今、関西は、阪神タイガーズが20年ぶりに優勝した事で盛り上がっていますが、武田家が滅亡したのは、戦国時代、織田信長に滅ぼされてから、約420年になります。
そんな気が遠くなる程の年月、前世もしかしたら武田家の人間である紫陽花や黄桜さんが、今世訪ねて来るのをずっと待っていてくれたのかもしれないのです。
だとしたら大阪の道頓堀にも、多くの人が飛び込んで、阪神の優勝を喜びましたが、武田家の存在の喜びはあんなものでないはずです。
飲んだり、踊ったり、謡ったどんちゃん騒ぎが開催されたのではないかと想います。
残念ながらそんな武田家の存在や諏訪の神々の世界の事は、紫陽花には分かりませんが、少なくても、紫陽花や、黄桜さんの背景にいる多くの存在が、9月25日から27日に、武田家の由緒ある所や諏訪大社をお参りすると決まった時から、ワクワク・ドキドキした気がします。
そんな背景さんに引きずられて、紫陽花も、黄桜さんも、喜びで一杯で甲斐・信濃に行った気がするからです。
だから、今回の縁の花ツアーは、武田家の存在や・諏訪の神々にとっては盛大な祭りでした。
紫陽花や、黄桜さんや葉桜さんだけでなく、3人を通して、何よりも背景にいる多くの武田家や諏訪の神々が、一緒に楽しんだ気がするのです。
しかし、こんな事を紫陽花が、突然、書いても、縁の花の読者の皆さんは、一体何の事なのか、さっぱり分からないかもしれませんね。
紫陽花自身、まさか、こんな事を書くとは、夢にも想っていませんでした。(笑)
では今から無限の無限の喜びで、武田家の存在や、諏訪の神々に「ありがとうございます」して、順序よく、書きたいと想います。
∞『スズランさんとの縁』∞
そもそも、紫陽花が、縁の花ツアーとして『武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行』を企画したのは、前世もしかしたら、武田勝頼(紫陽花)のお母さんである諏訪の姫様、スズランさん(本人の希望で匿名にします)との縁が、2003年2月復活した事から始まります。
前号第176号「諏訪の湖衣姫と武田勝頼」で詳しく書きましたが、スズランさんが、小林さんの時間創造学を紹介しているホームページを作ったという事で、メールをくれたのです。
それで、紫陽花と、スズランさんのメール交換が始まったのです。
また、そのメール交換は、前世親子だったからなのか、大いなる存在の導きだったのか、今から考えても、スムーズに流れました。
いろんな話をして楽しかったです。
それで縁の花のホームページが、「ありがとうございます」効果のおかげで、順調だという事もあって、スズランさんの事をいろいろ支縁する気になったのです。
しかしやはり決定的だったのは、メールの交換の中で、スズランさんが、ボランティアで朗読をしていると知った事です。
縁が復活して3ヵ月後には、もうスズランさんに、カセットテープで、縁の花 第161号「ありがとうございます」を朗読して貰う事になったのです。
しかも、そのカセットテープは読者にはとても好評でした。
皆さん、とてもいいといって喜んでくれます。
だから紫陽花は、縁の花のカセットテープが誕生したのは、間違いなく、武田家の存在の導きだと心から感謝しました。
だってスズランさんの縁を導いてくれたのは、武田の縁だからです。
その上に、縁の花の掲示板でも、スズランさんの縁が復活してから、前世、武田家の人間だったという人の縁が現れました。
信玄の五女、松姫がいた八王子に住んでいる女性も、紫陽花が武田勝頼かもしれないという事に関心を持って、書き込みしてくれましたし、黄桜さんも興味持ってくれました。
1ヶ月間に1度、自然が好きで、長野、山梨に東京から遊びでいっているといいます。
山梨の武田八幡神社なども参った事があり、不思議な経験をしたりした事もあるというのです。
ですから、紫陽花は黄桜さんに不思議な縁を感じました。
黄桜さんは、わざと武田家の事は隠していたので、まさか、前世武田家の縁で繋がっているとは想いませんでしたが、何かの縁がある気がしたのです。
しかも何と黄桜さんが、“東京の「諏訪」の付く地名”で住んでいる事と、黄桜さんの本名が、〇〇〇ですごいという事があります。
紫陽花というよりも、スズランさんと絶対に縁があるような気がしていたのです。
その上に、紫陽花自身も不思議と、長野県の人とも縁ができていました。
「ありがとう募金」のたけしさんなども、長野県に住んでいると知った時は、びっくりしました。
紫陽花は、こんなに長野の縁が、どんどんできているのは、陰から武田家の存在が動いているような気がしていたのです。
そしてそんな武田家の縁は、自然な形で、甲斐、信濃に紫陽花を呼ぶようになりました。
スズランさんが、「写真家の小林さんも会いたがっているのでと、長野県に遊びに来て下さい」と招待してくれたのです。
宿泊も小林さんの家に泊まってくれたらいいからといって、わざわざデジカメで撮ったスズランさんの写真をメールで送って、誘ってくれたのです。
その時、紫陽花は、武田家の存在が、紫陽花を呼んでいると確信しました。
とても嬉しかった事を覚えているのです。
しかし、この時点で紫陽花は、「分かりました、長野に行きます」という返答はできませんでした。
やはり、長野は遠いですし、お金も結構かかります。
躊躇していたのです。
でも、武田家の存在は、紫陽花を上手に誘います。
というのも紫陽花は、第161号のカセットテープが好評だという事もあって、本格的にやる気になりました。
カセットテープだと雑音の問題があるので、いろいろ調べてCDを作る決心をしました。
スズランさんも、朗読をしたいというので、縁の花の号をどんどんCD化する決心をしたのです。
また、紫陽花は、その為にも、これを機会にスズランさんを、どんどん売り込みたいと想うようになりました。
CDの朗読をしている女性、スズランさんの事や、何よりも冬麻君の事を知って欲しいと想うようになって、縁の花 第176号「諏訪の湖衣姫と武田勝頼」を誕生させました。
縁の花のHPで紹介する事で、縁の花の読者の力で、これからのスズランさんのいろんな力になってあげたいと想ったのです。
そしてCDの目処がつき、第176号「諏訪の湖衣姫と武田勝頼」が完成したら、紫陽花は、いよいよ長野に行く事に決めました。
スズランさんにCDで、朗読して貰うには、スズランさんのコンピューターに、ソフトやRCWの機械を取り付ける必要があります。
名付けでスズランさん、自宅スタジオ計画です。
ちょうど黄桜さんも、スズランさんに会いたがっているので、紫陽花は、黄桜さんをお誘いして、スズランさんの自宅を訪問して、スタジオにしたり、小林さんの時間創造学の話をたっぷり聞いたり、小林さんの案内で、4人で、長野県の山登りをしたいと想っていました。
小林さんの家に泊めて貰えるのなら、費用もあまりかからないと少し期待していましたし、時間創造学の事も、縁の花の号として詳しく書いてみたいと想っていたのです。
またその時、紫陽花は、この縁を導いてくれた陰の功労者、武田家の存在にも、4人で「ありがとうございます」したいと想いました。
武田家に関係ある所にも、お参りできたら、武田家の存在も喜ぶだろうなあ。
黄桜さんもプロとして、CDのジャケットのイラストを書いてくれるというので、スズラン、黄桜さん、紫陽花の合作の、縁の花のCDが大成功するように、武田家の存在にお願いしたいと想ったのです。
これが長くなりましたが、紫陽花が、長野、山梨に行こうと想った、そもそもの動機、縁の流れなのです。
だけど縁の花 第176号ができ、第161号「ありがとうございます」のCDも、カセットテープからなので、雑音がありますができて、いよいよ9月末には、スズランさんに会うという時に、紫陽花にとってショックな事がおきました。
スズランさんが、小林さんが、武田家が重いので、紫陽花や黄桜さんの武田の旅に参加できないというのです。
これには紫陽花も、正直参ってしまいました。
小林さんだけでなく、スズランさん自身も、冬麻君が亡くなった事で、武田家の事を忘れたいと想っている事は、途中からうすうす感じていましたが、メールの内容を見るかぎり、スズランさんも、気持ちは小林さんと同じだと感じられたからです。
正直、スズランさんが、武田家の事を過去にして、忘れたと言い出すとは想わなかったのです。
何故なら、紫陽花自身は、武田家の存在をこれからも大切にするつもりです。
武田家の存在と縁を持つ事は霊的に大変だという事は理解できますが、今更、縁を無視できません。
武田家の事が大好きだからです。
紫陽花は武田勝頼として、武田家の存在に懺悔して、供養しなさいというのならご勘弁願いますが、これから21世紀、人類の為に、すばらしい事をどんどん共にやっていこうというのなら、陰からの力添え、是非、お願いしたいです。
ですからそんな武田家の存在に関して、私は分からないという普通人の反応なら全然構わないのですが、拒否されると、友人としてなら別ですが、パートナーとして、一緒に活動はできません。
紫陽花は構わないとしても、紫陽花の背景にいる武田家の存在が怒ってしまいますし、スズランさんも紫陽花が武田家を清算しないかぎり、武田家を想い出してしまいます。
これは、スズランさんの縁は、続かないという予感がしたのです。
そしてそれは、悲しいけど当たってしまいました。
スズランがそういった時から、いろんな行き違いが生まれて、結局、スズランさんの縁も、おかしくなって朗読して貰う話は、中止になりました。
武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行も、スズランさんが参加しないので止めようと想ったのです。
真に皆さんに言いずらいですが、要するに前世親子が、今世、初めて親子喧嘩をした訳です。
ただしこれは、スズランさんが悪い訳でもなければ、紫陽花が悪い訳でもないと想います。
スズランさんも、武田家の事でガンバッテくれましたが、時期的に早かったというか、そうなる運命だったのです。
今は、紫陽花はそう想う事にして、感謝しています。
ただ縁の花の読者の皆さんで、スズランさんのすてきな朗読の声を気にいって下さっていた方には、真に申し訳ない結果になりましたが、紫陽花の至らなさが原因です。
お許し下さい。
いい機会ですから、悲しいけどご報告させて頂きました。
しかしここで誤解して欲しくないのは、スズランさんとの縁は、これからも大切にするという事です。
CDの朗読の件は、「はい、お願いします」という事にはなりませんが、「無限の無限の」幸せの交換はしていきます。
ご心配をおかけしましたが、前世の親子喧嘩は、『武田家/諏訪「ありがとうございます」奉納紀行』が無事に成功した事で、諏訪大明神のご加護があったのか何とか修復しました。
「ありがとうございます」
∞「黄桜さんとの縁」∞
先程も書きましたが、小林さんが、武田家の旅に参加できないという事になった事で、紫陽花は、『「武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行」は、やめようと想いました。
その上にスズランさんも、武田家の事を過去の事にして、嫌がっている事も、紫陽花にはショックでした。
そのショックで、わざわざ大阪から長野県まで行くエネルギーが全く無くなったのです。
だから折角予定している黄桜さんには悪いけど、小林さんが駄目になった事を正直にいって、中止したいと想ったのです。
しかしここで一つだけ困った事がありました。
スズランさんからそんなメールが来るほんの少し前、わずか1時間前に、黄桜さんから初めてのお電話があって、紫陽花は、黄桜さんと意気投合してしまったからです。
黄桜さんは、びっくりするぐらい武田家の歴史に詳しかったのです。
こんな女性は、後にも先にも、紫陽花にとっては初めてです。
男性でもいません。
どんな事を話したかは、今となっては覚えていませんでしたが、信玄公や勝頼公の話で、ものすごく盛り上がってしまいました。
紫陽花の背景にいる武田家の存在が、とても喜んだのです。
それで紫陽花は、武田家にとっては、1度口に出したら、絶対に変更できないという誓いの言葉、御旗盾無しご照覧あれという言葉を調子に乗って口にしてしまいました。
9月末は、必ず、甲斐、信濃に、紫陽花と黄桜さんとその友人の葉桜さんで、行こうと、御旗盾無しに誓ってしまったのです。
ですから紫陽花から、中止するとは、口が裂けてもいえませんでした。
後で知った事ですが、黄桜さんの背景にいる武田家の存在は、スズランさんの心境が分かっていたのか、先手を打ったみたいです。
黄桜さんは、何故か、どうしても電話したくなったのでしたという事ですが、それがなかったら、紫陽花は、甲斐、信濃行きは間違いなく中止になっていたと確信しているのです。
だけど紫陽花の方から中止とは言い出せないので、小林さんが、参加できない事をすぐに伝えて、黄桜さんに諦めて貰おうとしたのです。
でも黄桜さんは、意外にも、それでも行きたいといいます。
結局、スズランさんとの関係もおかしくなって、スズランさんも、駄目になっても、黄桜さんの気持ちは変らず、紫陽花は、何か不思議だなあと想いながらも、御旗楯無に宣言した以上、武田家の旅を、紫陽花と黄桜さんと葉桜さんの3人で行く事にしたのです。
しかし、その反面、スズランさんが駄目になった事で、紫陽花自身、救われた事も事実です。
途中から武田家が嫌という人と、一緒に行動する事に疑問を感じていました。
今から想えば、これが一番よかったと想います。
こうなったら、紫陽花なりに、精一杯企画して、どんな武田家の旅になるか分かりませんが、3人で楽しもうと想ったのです。
それで、紫陽花なりに、前からの縁の花の読者で、松本市一の中華料理店「みさと」のKさんや、「ありがとう募金」のたけしさんとも連絡取って、現地で会って頂く事にしました。
お二人のおかげで、何とか形だけはできたのです。
また、紫陽花は、この旅を、折角行くのですから、縁の花村 第1回ツアー、『武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行として行く事にしました。
紫陽花の背景にいる武田家の存在が、そう囁いたのかもしれません。
何か天からの大きな意味のある武田家の旅として、縁の花の号として詳しく書きたいと想ったのです。
しかしその反面、正直いって3人で、武田家に関するいろんな所巡りをしたとしても、一体、武田家の存在に、紫陽花が何をさせて貰えるかと考えたら、何もありませんでした。
それでいろいろ考えましたが、第175号「惟喬親王祭」で学んだ「ありがとうございます」を、武田家の存在に、3人で届ける事にしました。
縁の花の小冊子や、今迄書いた武田家に関する号、スズランさんの朗読してくれたCDなども、奉納という形で、「ありがとうございます」で届けさせて頂こうと想ったのです。
それで紫陽花は、縁の花 武田家の奉納「ありがとうございます」、1、武田信玄公、山梨、長野の誇りになって頂いて「ありがとうございます」 2、武田信玄公、武田家を日本史に残る大きな大名にして頂いて「ありがとうございます」などから始まって、4、高坂弾正甲陽軍艦を作成して、武田家を歴史に残してくれて「ありがとうございます」などの武田家「ありがとうございますの21か条を急遽作成しました。
最後は、21、天目山で、武田勝頼と最後まで同行してくれて家臣達「ありがとうございます」で閉めましたが、多くの重臣や、家臣、妻である北条の姫などに、考えられるだけ、「ありがとうございます」したのです。
よかったら、皆さんも、下にリンクしているので、興味があればお読み下さい。
( 1、武田家奉納「ありがとうございます」 2、武田家奉納「品目」 )
また紫陽花は、もう一つの武田家の奉納品目では、奉納する品を書きました。
縁の花で武田家の事を書いた号や縁の花の小冊子やCDなどです。
それと今回のメインになる、「夜お酒」(黄桜さんと葉桜さんとの楽しいお酒)も奉納する品にと入れたのです。(笑)
そしてその後で、「ありがとうございます」のご祈願をしました。
黄桜さんの「無限の無限の幸せ」「ありがとうございます」
縁の花村 日本一の智閥達成「ありがとうございます」
という感じで、9個の「ありがとうございます」を天に届けたのです。
また最後に紫陽花は、勝頼の言葉として、自分を待ってくれている武田家の存在に、420年ぶりにご挨拶しました。
「多くの武田家の存在、今迄じっと待ってくれていて「ありがとうございます」やっと帰ってきました。本当に今迄すみませんでした。今から、人類の平和の為に、多くの武田家と縁ある人達と、本当の活動をやり遂げます。願わくは、すべての武田家の縁ある人達と今世結ばせて下さい。人類統一に向けて、陰からの戦国時代最強の後ろ盾お願いします。一緒にやりましょう。御旗楯無もご照覧あれ」
と、武田家の存在に誓ったのです。
しかし紫陽花は、正直いって、それが、どれだけ武田家の存在に通じたのかは、分かりません。
通じたという自信もありません。
ただ、紫陽花はそうしたいから、『武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行に、作ってきたというだけですが、そんな事をさせて頂いたのです。
∞「甲斐の旅一日目」∞
9月25日、紫陽花が甲斐の国に入ったのは、朝の6時半でした。
大阪から、山梨県の甲府にどう行ったらいいか、いろいろ検討したのですが、旅行会社のアドバイスで、結局夜行の高速バスで、甲府に入る事にしました。
新幹線で、新富士駅や東京駅に行ってから、電車で甲府駅に入るよりも、その方が、安いですし、正確だと判断したのです。
また、帰りも、インターネットで、東京から大阪まで4000円でいける激安チケットがあった事で、一泊して、日曜日の晩に帰る事にしました。
月曜日は休みなので、25日から何と29日まで、有休が上手くとれて、5日間も休む事ができたので、じっくり日程を組めました。
東京では、普段会えない読者に会いたいと想いましたし、京都でも、会いたい人がいました。
まるで、武田家の存在のご加護があったのか、スムーズに行ったのです。
しかもデジカメも阪神タイガース優勝セールの最後の日という幸運で、安く買えました。
ものすごく運がついていたのです。
だから紫陽花は、ルンルン気分で、甲府駅に入りました。
甲府駅で、黄桜さんに教わった待ち合わせの場所である、信玄像の前に、時間通りに着く事ができたのです。
そこで信玄公の像に、紫陽花は一人でご挨拶した訳です。
しかし紫陽花は何故か、それが不思議な気持ちでした。
というのも、実は、紫陽花は、20歳の大学生の時に、甲府駅に来ています。
縁の花は、今から10年前の、平成5年の10月に始めていますが、紫陽花の想いの中では、20年前に、縁の花 第86号「縁の花の原点」で書きましたが、ある初恋といえる女性に、生まれて初めて縁の花という題名のラブレターを書く事で始まっています。
紫陽花は、その時から文章を書く喜びを知って、文章を書き始め、小説家を目指す事になったからです。
だけど、紫陽花自身、つい最近まで忘れていましたが、その時の、失恋のショックで、何故か、信玄公に会いに甲斐、信濃に行っています。
甲府の信玄像や、武田神社に行っている気がするのです。
ですが、紫陽花自身、何故、信玄に会いに、甲斐、信濃に行く気になったのか、今となっては分かりません。
大学の頃には、もう武田信玄が好きだったのかと、今、驚いているぐらいです。
はっきりいって失恋と信玄が、常識で考えたら結びつきませんが、ただ悲しくて、どうしても武田家のある所に行きたくなった気がします。
とても説明は不可能なのです。
でも、紫陽花は、今やっと、初めて、文章を書き始めた時に、信玄を訪ねて、一人旅で、甲斐、信濃を訪問したという事は、すごい意味があった気がしています。
武田家の存在が、あの頃の紫陽花を呼んで、甲斐の武田家の所に行った時に、背景に付いていてくれたのではないか、そんな気がするのです。
そしてそれから20年後の今、紫陽花は、考えたら、同じように、武田家に呼ばれて来ている気がしています。
黄桜さんと葉桜さんは、待ち合わせの場所に来るのが少し遅れており、紫陽花は近くのマクドナルドで、そんな事を考えながら、二人を待っていたのです。
しかし正直いって、紫陽花自身、この『武田家・諏訪の「ありがとうございます」奉納紀行は大変だと想っていました。
運転をしてくれるという葉桜さんは、東京の人です。
山梨の地理に明るいとは想えません。
武田家の本などの資料、甲斐の地図、信玄マップなどを持ってきましたが、地図を見ながら行くので、車でも、そんなにたくさん廻れないのではないかと想っていたのです。
でも、紫陽花の予想は見事に外れました。
喫茶店で打ち合わせをした時に、1年前から黄桜さんと葉桜さんは、葉桜さんの運転で武田家周りをしていて、殆どの場所を廻っているというのです。
これには「何でだろう」とびっくりです。
だから、武田家巡りは、スムーズに行きました。
1、躑躅ヶ崎館といって、信玄、勝頼が住んでいた館で、今は神社になっている武田神社から始まって、2、信玄の墓、3、勝頼の腹違いの兄で、本来なら武田家を継ぐはずでしたが、駿河侵攻の事で父、信玄と争い、自害した義信がいる東光寺などを廻りました。
その後も、4、信濃の善光寺にある本尊が戦火にまきこまれる事を危惧して、信玄が本尊を甲斐国内に移すと強引に建てたと言う甲斐善光寺、5、信玄の師匠で、信玄の葬式を執り行い、信玄の六男、信貞を庇って、「心頭滅却すれば火も自ら涼しい」という有名な言葉を残しながら、織田信忠に焼き殺された快川和尚の恵林寺と次々と廻りました。
3人で参り、紫陽花は用意した、縁の花の小冊子やCD、作成した武田家奉納「ありがとうございます」や武田家奉納「品目」などを奉納すると、勝頼として挨拶させて頂きました。
武田神社では、武田家の存在に、「勝頼です。やっと帰ってきました。多くの武田家の人達今迄待ってくれていてありがとうございます」信玄公の墓では「御屋形様、勝頼です。武田家を滅ぼして御免なさい。でも勝頼として産んで頂いてありがとうございます」兄、義信の墓では、「義信公、弟の勝頼です。お会いしたかったです」甲斐善光寺では、「父、信玄公が強引に建てましたが、長野善光寺に、本尊をお返しできてよかったです」恵林寺では、「快川国師、信玄公の為に、最後まで尽くして頂いてありがとうございます」
そういった内容のことなどを、心の中で言いました。
正直いえば、そんな武田勝頼の大役は全然こなせていなかったと想いますが、それでも、どこにいっても、スムーズに挨拶、「ありがとうございます」の言葉が出ました。
懺悔するのだったら、苦しいかもしれませんが、感謝するのだったら別です。
紫陽花自身、どこにいっても、ずっと前から言いたい事があったのか、自然に言葉が出るのです。
ですが、この事は、今から考えても、本当に不思議です。
紫陽花は、今回の『武田家・諏訪「ありがとうございます奉納紀行」では、いろんな不思議な事が起こりましたが、一番の奇蹟は、この事だと想います。
だって普通だったら、こんなにスムーズに武田家巡りができる訳がありませんし、挨拶もできる訳がありません。
まるで武田家の存在が、この事をさせる為に、何十年も前から、武田家の歴史を紫陽花に勉強させ、黄桜さんや葉桜さんを通して、1年前から具体的に準備してくれていたのではないかとしか紫陽花には想えなかったからです。
武田家の存在のする事は、実にそつがないと感心したのです。
また、それは後半の勝頼公巡りでも同じでした。
武田勝頼は、親族の木曽氏や穴山氏に裏切りにあって、ろくに抵抗もできずに、織田軍によって追い詰められて、妻の北条の姫や、嫡男の信勝や、付き添った家臣わずか44人と、甲斐の天目山で討死にしています。
首は、信勝の首と共に、信長によって京都でさらされているのです。
黄桜さんと葉桜さんは、そんな天目山にも行っており、案内をしてくれました。
片手千人斬りで有名な武田家の家臣、土屋昌恒の墓や、北条の姫に最後までついて行って身投げした侍女達のお墓にも参りました。
紫陽花自身、天目山に登っても、何かを想いだしたという事は一切ありませんが、武田勝頼として、「ありがとうございます」はさせて頂いたのです。
そして、勝頼夫婦や信勝のお墓があるという天目山の景徳院にもいきました。
実は、紫陽花は知らなかったのですが、景徳院は、信玄公を尊敬する家康が建てましたが、勝頼、勝頼婦人の北条の姫や信勝のお墓が仲良く3つ一緒に並んでいたのです。
ですからここで紫陽花は、長年の念願だった、勝頼の妻だった北条の姫(正式な名前は残念ながら分かっていませんが、一般的には「佐代姫」、「蘭姫」と呼んでいるそうです。黄桜さんに教わりました)とお話する事ができました。
というのも北条の姫と勝頼は、18歳さんも年齢が離れていましたが、勝頼を心から愛し、武田家が滅亡する時にも、北条家に帰ったらいいという勝頼の勧めも拒んで、最後まで共にしています。
19歳の若さでした。
恵林寺の快川国師は、気高く美しい慈愛に満ちた夫人を、自然に人を感化するとして「芝蘭」にたとえていますが、夫婦仲は、琴瑟相和していたそうです。
いよいよ最後という時には、柏尾大善寺に宿泊した夫人は、寺の本尊が薬師如来と聞き、「来世を祈りましょう」と薬師堂に篭り、通夜を行なっています。
だから紫陽花は、勝頼として、そんな北条の姫様に、やっと最後まで自分に付いて来てくれて「ありがとうございます」と感謝する事ができました。
来世も、夫婦になる事を誓っているので、ずっと待っているので早く現れて下さい(笑)と言えましたし、信勝にも、紫陽花の子供として生まれて来て下さいねとお願いする事ができたのです。
しかも景徳院は、勝頼と北条の姫と信勝をイメージした大きな木が寄り添うようにたっていて、紫陽花はとても気にいりました。
いつか再び、北条の姫や信勝とお話したいと想ったのです、
でも、ここで忘れてはいけないのが、緑(みどり)の紫陽花の花です。
景徳院は、山の上にあるからなのか、一部の紫陽花の花が、9月末なのに、まだ奇跡的に咲いていました。
この中でも、初めてみた緑の紫陽花の花は、「グリーン紫陽花」という名の品種で、黄桜さんによると普通の紫陽花の花がある種のウイルスに侵されると、グリーン紫陽花になるそうです。
このグリーン紫陽花が、3人が来るのを待ってくれていたのか、写真のようにまったく枯れていなかったのです。
紫陽花は、緑(みどり)が、縁の花をイメージさせるだけに本当に嬉しかったのです。
しかも別の「ブルーの紫陽花」の花では、殆ど枯れているのに、勝頼、北条の姫、信勝をイメージさせるブルーの花が3つと少し離れた所に、信玄公を連想させる大きなブルーの紫陽花の花が咲いていました。
そんな紫陽花の花が、3人を歓迎してくれたのです。
本当に不思議です。
しかし、やはり圧巻だったのは、天目山から、武田家の発祥の地、信義公などを奉っている先祖在来の武田八幡神社を参った後、最後に勝頼が、躑躅ヶ崎館から、移り住んだ、新府城に行った時です。
勝頼は、織田軍、徳川軍が来た時に、新しく造った新府城で籠城するつもりだったのですが、武田家の家臣団の裏切りで、ろくな抵抗もできず、籠城を諦めると新府城をわずか3ヶ月で燃やすと、天目山に落ちています。
新府城は、勝頼にとっては、いろんな想いのある城なのです。
だけど、紫陽花はこの新府城に、長篠の戦で亡くなった武田家の家臣、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、三枝守友、武田信実などの長篠陣没者慰霊塔があるとは知りませんでした。
皆が仲良く並んで建っていたのです。
しかもこの長篠陣没者慰霊塔の前には、武田勝頼公新府城入城祭りといった旗が立てられ、墓のちかくに420年、勝頼公入城と書いたものが去年造られていました。
この旗は、1ヶ月前に、黄桜さんや葉桜さんが来た時にはなかったそうですし、420年勝頼公入城と書いたものにも気がつかなかったそうです。
まるで紫陽花が、武田勝頼が今日、入城する事が分かっていたのか、用意されているようで、3人はびっくりしました。
武田家の存在に、420年以上待っていたのだと、念押されているような気がしたのです。
ですから紫陽花は、ここで初めて、本気で武田勝頼になれた気がします。
自分の愚かな判断の為に、長篠の戦で犠牲になった家臣達の事が考えたら、真剣にならざるをえませんでした。
黄桜さんが用意したお酒を、長篠陣没者達にふるまい、用意した奉納の品々を並べると武田勝頼として手を合わせると「ごめんなさい」と詫びました。
その後、一人一人の慰霊にハグ(抱きしめる)すると詫びと感謝しました。
山県昌景の慰霊には、本人にいうように、忠告を聞いて長篠から撤退すべきだった。
馬場信春の慰霊には、自分を守る為に犠牲になってくれて「ありがとうございます」などと声をかけさせて頂きました。
長篠陣没者慰霊には、紫陽花の知らない家臣の名前もありましたが、不思議と言葉が出てきました。
すべての慰霊とハグすると、これから人類の為に、縁の花などを通して精一杯のことをするので、後詰、陰からの応援をお願いするという事で、新府城、甲斐の国を、後にしたのです。
新府城を離れると、3人は甲斐の国から出て、信濃の松本に向かいました。
縁の花の読者で、松本市で、長野一といってもいいぐらいの、とても美味しい中華料理店を経営している「みさと」を経営しているKさんが、料理をごちそうしてくれるという事で待ってくれていたのです。
というのも、紫陽花とKさんは、古くからのお付き合いです。
もう8年ぐらいになります。
ずっと縁の花を送らせて頂いていますが、直接、お会いしたのは、5年ぐらい前の「ガイアヒーリングIN長野」以来です。
この時に、Kさんに、「みさと」に招待して頂いて、紫陽花の縁ある20人ちかくの人がご馳走して頂いています。
その料理の美味しかったこと、今でも忘れられません。
ですから、松本市に行くのなら是非寄りたいと想っていました。
それで事前に連絡したら、喜んでくれました。
わざわざ車で迎えに来てくれたのです。
また、「みさと」での料理は、本当に美味しかったです。
Kさんには、男のむさくるしい人と来ると想ったら、二人の若い女性なのでびっくりしたとからかわれながら、無限の無限の喜びで食べさせて頂きました。
その上「みさと」は、従業員の教育が行き届いている上に、材料も現地の無農薬で殆ど造っており、いろんな飾りも見事です。
紫陽花は、改めて感動しました。
でも一番の喜びは、ご亭主が、かぼちゃにえんのはなと書いてくれたものを出してくれた心使いでした。
しかも後で車の中で気がつきましたが、かぼちゃにえんのはなと書いているものは、つい最近できた縁の花村かぼちゃ村合同掲示板を、神々や天が、祝福してくれているような気がします。
偶然といったら、それまでですが、紫陽花には、大いなる存在が、祝福してくれたような気がしたのです。
そしてその後、3人は、Kさんに教わった、非常に安い、ホテル1・2・3に泊まる事ができました。
一人で4800円、二人で5800円、3人で6800円という激安のホテルです。
その安さに感謝して泊まったのです。
また、ここで紫陽花は、楽しみにしていた黄桜さんや葉桜さんとのお酒を、武田家の存在に奉納しました。
お酒が大好きな、黄桜さん、葉桜さんとの武田家の話は、実に楽しかったです。
きっと、武田家の存在も、喜んだと想うのです。
でも、ここで紫陽花が、驚いたのは、黄桜さんの前世の話でした。
黄桜さんはイラストを書くプロで、いろんな雑誌にイラストを書いているそうですが、どんどん仕事が入ってきたのはいいのですが、1年ぐらい前に本当に自分が書きたいものが描けないという事で、悩んでいたそうです。
その時に、紫陽花の予想では、何かのスイッチが入ったのか、黄桜さんは、前世を想いだし始めているのです。
それが男性の時の過去世で、一言でいえば「御屋形様に会いたい」というものでした。
黄桜さんは、女性なのに、男性としての感覚が蘇ってきて、どうしょうもなかったというのです。
それで過去世の事を教えてくれるいろんなところを訪ね、退行催眠を受ける事で四菱が浮かんだといいます。
四菱は、武田家の紋章なので、武田家という事が分かったというのです。
しかも、黄桜さんも、退行催眠を受けた事で、どんどん過去世を想い出しました。
自分の前世の中に、武田家の四名臣の一人で、海津城を任されていた、高坂弾正の一部があるという事が、はっきり分かったと言うのです。
その上に、黄桜さんは、高坂弾正が、信玄をどれだけ愛していたかも痛感したといいます。
高坂弾正は、甲陽軍艦の作者で、十六歳の時に、信玄の奥近習として出仕し、なかなかの美童だったのか、若き信玄の寵童だった事で有名です。
信玄が、高坂弾正に宛てた、自分は浮気をしていないという誓詞もさえ東大に残っています。
そんな高坂弾正は、武将としても優れていて、お使番を経て、若くして武将として取り立てられると、川中島の戦場にある一番重要な海津城を任され、武田家随一の騎馬、450騎を任される智将になっています。
しかしそんな高坂弾正も、信玄公が亡くなり、勝頼の代になると、勝頼との仲がうまくいかず、勝頼の側近の長坂釣閑斎、跡部大炊助などを批判しています。
このままでは、武田家が滅亡すると感じ、勝頼にも諌言しますが、なかなか聞き入れて貰えず、そんな中で、甲陽軍艦を書き、無念の中で死んだといわれているのです。
黄桜さんは、そんな高坂弾正の心情を、信玄公とはできていたから、心から御屋形様や武田家を愛していたと言い、紫陽花を唖然とさせました。
紫陽花自身、今迄、高坂弾正が、甲陽軍艦を何故書いてまで、信玄の軍神としての業績を必死になって残しているのか、分かりませんでしたが、初めて理解できました。
高坂弾正は、そこまで信玄公を愛していたのかと、心かに感動したのです。
またそんな黄桜さんは、高坂弾正の記憶や、感覚が蘇ってきた時には、「御屋形様に会いたい」という想いを押さえる事が大変だったそうです。
どうしても会いたいという事で、信玄の過去世を持つ人を探し、前世義信公の記憶を持っている女性と会ったりしていたというのです。
ただ本音をいえば、紫陽花は、それを夜、初めて詳しく聞かされた時には驚きましたが、少し複雑な気持ちもありました。
そうだったら、そうと最初からいってくれというのが、正直な気持ちでしたが、そこが智将高坂弾正です。
信玄と同じような慎重さを兼ねそえています。
想いついたらすぐに突進してしまう、猪武者の勝頼公とは違うみたいです。
さすがは、武田家一の智将、逃げ弾正の高坂だとほとほと感心してしまったのです。
何故なら、黄桜さんが、縁の花を知ったのは、インターネットで、「武田家と生まれ変わり」で検索して、縁の花 第163号「武田勝頼天下取り物語」を知った時からだそうです。
この第163号は、紫陽花が、武田家頼の最高のシミュレーション、武田勝頼が、高坂弾正を軍師として受け入れていたらという事で書いたものですが、黄桜さんはそれを読んで涙が出たそうです。
自分の中にいる高坂弾正が、とても喜んでいるのが分かったらしいのです。
だけど、黄桜さんは、慎重で、前世、もしかしたら武田勝頼かもしれないという紫陽花に、すぐにメールくれようとしませんでした。
いろんな号を読んで、紫陽花がどんな人間か、見ていたといいます。
その上で、縁の花の掲示板が、6666になった時に、書き込んでくれたのですが、この時にも、武田家の事はまったく書きませんでした。
縁の花の読者として、熱心に縁の花村人会議の掲示板に書き込んでくれているだけです。
縁が動いて、自然に武田家の縁で繋がるのを待っていたのです。
だから紫陽花は、そんな黄桜さんと話をしていながら、これは黄桜さんに嵌められたなあと想ったのです。
でも、紫陽花は、そんな黄桜さんとの縁を大切にしたいと想いました。
前世ここまで武田家で繋がっている人は、黄桜さんが初めだからです。
しかも黄桜さんは、今、武田家に関する人が、たくさんこの世に生を受けている気がするといいます。
これには最初、紫陽花も考えた事もなかったのでびっくりしたのです。
だけどこの黄桜さんの意見は、紫陽花は賛成です。
だって、今、たくさんのシミュレーション小説が出ていますが、武田家に関するものが非常に多い事からも、紫陽花もそんな気がするからです。
黄桜さんの友人、葉桜さんも、紫陽花の受けた感じでは、何か武田家の縁が強くありそうですが、紫陽花はもっともっとこれからいろんな人が出てくるような予感がしました。
そんな前世武田家で繋がっている人達と、将来、何かを一緒にしたいと心から願います。
黄桜さんがいうように、今世の楽しい御酒の同窓会でもいいです。
是非、縁の花村ツアーでやりたいと想ったのです。
しかも、それは、武田家の存在だけでなく、戦国時代に生まれた多くの魂も一緒のような気が、紫陽花はしています。
織田家や徳川、北条や上杉などの、前世、戦国時代に戦った存在も、いろんな因縁、憎しみや恨みを捨てて、今世は力を合わせて、日本や世界の為に活動をするような予感がしています。
何故なら、そうでもしないと、とても紫陽花は、人類の為に何もできないからです。
将来、前世、戦国時代の人達が、集まる事を楽しみにしているのです。
そして黄桜さんに対しても、まだ武田信玄公の前世を持っている人は会っていないそうですが、ちかい将来現れたらいいと願っています。
紫陽花は、これからの武田家の縁が、どうなっていくか興味を持ちましたし、黄桜さんの夢、「御屋形様に会いたい」をいつか紫陽花が、縁の花で叶えてあげたいと想ったのです。
∞「信濃松本・川中島二日目」∞
松本城は、信濃の守護だった小笠原長時を塩尻峠の戦いで勝った信玄が、中信の小笠原長時を追い出した後、山本勘助の勧めで、深志城を山本勘助に造らせ、馬場信春を城主にしたのが最初です。
それが、武田家が滅亡した後、信長が死んだ混乱で、徳川の家臣になっていた小笠原長時の子供の貞慶が取り戻しています。
その時に名前を、松本城に変えているのですが、今は名城として、国宝になっています。
それで、紫陽花は、馬場信春や、山本勘助を偲んで松本城に入ったのです。
しかし紫陽花は、この松本城では、手荒い歓迎をされました。
甲斐の国と違って、信濃の一部では、信玄が侵略者として扱われています。
信濃でも絶大な人気があると想っていた紫陽花は、少しショックを受けたのです。
何故なら松本城では、城を造った山本勘助や馬場信春の名前は消されていました。
たぶん城を取り戻した小笠原氏にとって、武田家は恨みが一杯で、武田家の資料は、全部消滅させたのだと想いますが、見事に何もなかったのです。
しかも紫陽花が、ショックだったのは、松本城では、何か、「勝頼何しにきた」というような感じを、霊的に感じた事です。
紫陽花には、霊感はないので、気のせいかもしれませんが、何となく、頭が重くなったのです。
それで、松本城は、すぐに退散すると、「ありがとう募金」のたけしさんがいる、長野にいきました。
善光寺で会う予定だったからです。
というのも、実は、武田家と善光寺は、不思議な縁があります。
武田信玄は、川中島で上杉謙信と戦っていた時に、信濃善光寺に兵火にかかるのを怖れて、本尊などを甲斐の国に移すと、甲斐善光寺を建てています。
ある意味で、善光寺の本尊などを、力づくで奪っているのです。
しかもその後も本尊は、武田家が滅亡した後、織田信長が本尊を岐阜に移し、織田信雄が、本能寺の変で、尾張の甚目寺、家康がそれを譲り受けて遠江の鴨江寺に移す事で、次々移転させられたのです。
だけどそれが家康の夢枕に善光寺如来がたった事で、一端甲府に帰座する事になりました。
しかし、地震で崩壊した京都の広寺再建の時に秀吉の懇願によって、今度は京都に移される事になって、翌年秀吉の病で、やっと信濃善光寺に戻る事ができました。
本尊を移した権力者が次々と滅亡している事で、本尊を移すと天罰があるという噂がたって、元の善光寺に戻された訳です。
何と長野善光寺に戻された翌日に、秀吉が死んでいるのです。
ですから、善光寺の本尊が、移された話は、今も伝説として残っています。
紫陽花自身、それで武田家が滅亡したとは想っていませんが、本尊を次々と移してしまった事は、すまない事をしたのではないかと想っていました。
井沢元彦さんの野望の小説でも、その事を書いており、善光寺如来を怖れる気持ちがあるのです。
それで善光寺は、武田勝頼としてどうしても一度お詫びする為に行きたかったのです。
また、長野善光寺はとてもよかったです。
その上にたけしさんとも善光寺の前で会いましたが、なかなかの好青年で、楽しかったです。
善光寺では、甲斐善光寺と同じように、奥にある、真っ暗な心と書いている部屋を、今度は4人で歩いて、願い事が叶うというかぎを皆で握りましたが、素晴らしい想い出になったのです。
それに心配だった霊的には何も感じませんでした。
さすがは仏さんです。
もうとっくに武田家を許して頂いている感じを受けました。
救いとして善光寺の教えは、甲府、岐阜、京都と次々と本尊が移転する事で広がったといいますから、紫陽花は武田家がした事も、もう許して頂いていると想う事にしたのです。
そしてその後、4人は、武田信玄と上杉謙信が戦った有名な川中島に行きました。
信玄と謙信が一騎打ちをしている像もみました。
川中島の戦いでは、信玄の貴重な弟、信繁公や、軍師の山本勘助など、重要な人が亡くなっています。
何よりも、第4回目川中島の合戦の死傷者は、武田家で、戦死者4630名、負傷者7500名、上杉家で、戦死者3470名、負傷者9400名に及ぶ、日本史に例がない大激戦だったといわれています。
しかも黄桜さんの話では、甲斐の新府城と同じように、幽霊が出る事で有名だそうです。
だから紫陽花は、川中島の戦いで死んだ多くの武田家、上杉家の存在に「ありがとうございます」させて頂きました。
高坂弾正が、戦死した両軍の人達を弔う為に建てたと言う、首塚にも、縁の花の小冊子やCDなどを奉納して、これからの4人の活動の後押しをお願いしました。
日本でも一番の勇者達に、頼んだのです。
ですから紫陽花は、川中島に来る事ができて本当によかったと心から喜んでいるのです。
そしてここでたけしさんとは、ちょうど、川中島から長野駅の行きの定期バスがある事で、別れると、次の目的地、信繁公の墓がある典厩寺に向かったのです。
でもここでも不思議な事がありました。
たけしさんの乗るバスは、着くのが遅くなっていたのか、本来なら、30分ぐらい待つ必要があったはずなのに、別れて1分もせずに来たのです。
これには、車の中で3人は大喜びしましたし、後で知った事ですが、たけしさんもびっくりしたそうです。
武田家の存在のやる事は、本当に無駄がないのです。
またそれは、その後も変りませんでした。
信繁公の墓がある典厩寺も分かり難い場所でしたが、すぐにみつかりました。
この信繁公は、第4回の川中島の合戦で、上杉軍の奇襲を受けて、信玄本陣危しとみると、信玄を守る為に、わざと自分が信玄だと名乗って、注意をひき付けて上杉軍に首をとられたといいます。
そんな信繁は武田家の真の副将として家臣団にも人望はすこぶる高かったといわれています。
だって兄想いで、兄弟の道を踏みはずす事なく信玄を慕い、君臣の道を守って尽くした信繁が嫡男信豊に残した、九十九か条の教訓は、江戸時代、信玄家法と呼ばれ、江戸時代の武士の教育に大きな影響を与えたからです。
秀吉の弟、秀長や、真田家の幸隆も大変尊敬していたというのです。
だから紫陽花は、この信繁公が、川中島の戦いで死なずに、信玄が亡くなった後も、生きていてくれたら、勝頼と武田家臣団の仲をうまくまとめて、武田家が滅亡する事はなかったのではないかと信じているだけに、信繁公には、いろいろお話をしたい事がありました。
「兄信玄の為に犠牲になってくれてありがとうございます」という感謝と「ずっと副将として生きてほしかった」という事をお伝えしたかったので、心の中でお話させて頂いたのです。
そしてその後、いよいよ、今回のメインである信玄が高坂弾正に守らせた海津城や山本勘助の墓、高坂弾正の墓を参りに行きました。
海津城は、戦国時代が終わると、武田家の家臣だった真田家が10万石で入り、以後松代城と呼んでいます。
しかし、行ってみてびっくりしたのは、松本城などと比べたら、本当に寂れている事です。
へんぴな場所に建てられており、周りには何もありませんでした。
紫陽花自身、これが真田家の本城かとびっくりしました。
だけど、そのおかげで、夕方でも誰もいないので、3人で城の中に入る事ができました。
海津城で、武田家の存在とお酒を酌み交わしたのです。
またその後、山本勘助の墓にも行きました。
山本勘助の墓は、畑の中で、ひっそりと建っていました。
黄桜さんや葉桜さんは、初めて山本勘助の墓を探し出した時は、感動したそうですが、これでは探すのは大変だっただろうと紫陽花も納得したのです。
しかも山本勘助の事を紹介している板は落ちて、半分に割れていました。
紫陽花は、これが山本勘助の墓だと想うと、とても悲しかったです。
でも紫陽花は、それでもあるだけで奇蹟だと感謝すると、もしかしたら430年以上も、ずっとひっそりとした所で、勝頼を待ってくれていた山本勘助に挨拶する事にしました。
というのも山本勘助と武田勝頼は、不思議な縁があります。
信玄が、敵方の諏訪家の姫を側室にしようとした事には、武田家の家臣団の猛烈な反対があったからです。
諏訪の姫の父親である諏訪頼重を、信玄は、甲府に連れてくると切腹させているのですから、それが当然なのです。
だけど、そんな家臣団の反対を、軍師の山本勘助が説得して、諏訪の姫は、信玄の側室になり、勝頼を産んでいます。
勝頼は、山本勘助が預言したように、武田家と諏訪家が共に一つになる象徴になったのです。
だから山本勘助にとっては、勝頼は特別な存在だったはずです。
実際のところはよく分かりませんが、映画などでは、勘助は、まだ幼かった勝頼を、川中島の戦いで死ぬまで、若君としてかわいいがっているのです。
それで、紫陽花は、勘助には、「もっと長生きをして、自分を育てて欲しかった」といいました。
今から、紫陽花の背景から陰の軍師役をお願いしたのです。
またその後、山本勘助のお墓から歩いていける大鋒寺に、代藩真田本家の祖真田信之の墓があるというので寄る事にしました。
というのも真田信之は、徳川家康を二度破った事で有名な真田昌幸の長男で、関ヶ原の戦いでは、徳川方について、見事に、真田家を守っています。
昌幸や息子の幸村が、関ヶ原の戦いが終わった後、徳川に降伏した時も、切腹が当然なのに、舅の本多忠勝(榊原康政・井伊直政とも)らの後押しもあり高野山配流にとどめる事に成功しています。
大阪の陣では、派手に戦った真田幸村と違って地味ですが、なかなかの武将です。
ですがそんな真田家が、今日あるのは、真田幸隆が、山本勘助に推挙で、武田家の家臣になり、信玄のおかげで先祖の土地を取り戻す事ができたからです。
その後真田家は、外様ながら、武田家の有力な家臣となって、信玄公、勝頼公に仕えています。
特に、信之の父真田昌幸は、武田家が滅亡した時も、家臣の大半が勝頼から離反した中でも、最後まで勝頼を支え、上野にある真田家の城、吾妻城に勝頼を迎えようとしています。
もし武田勝頼が、甲斐の郡内にある小山田信茂の岩殿城でなく、真田昌幸のいうように、上野の吾妻城を選んでいたら、武田家の再興はなった可能性も大きかったといわれています。
真田家にとっては、武田家は、特別な家なのです。
ですから真田信之も、父親が仕えた武田家を大切にしてくれていたみたいです。
信繁公のお寺、典厩寺を建てたり、山本勘助の墓や高坂弾正の墓を守ってくれたりしていたのです。
紫陽花は、その事を初めて知りました。
どおりで松本市とは違って、真田の土地、松代市は武田家にとっても悪くない感じだと納得したのです。
それで紫陽花は、薄く暗くなった大鋒寺に入ると、真田信之さんのお墓に、真田昌幸が、最後まで自分に尽くしてくれたお礼をいうと、武田家の事を大切にしてくれて「ありがとうございます」と心から感謝したのです。
そして最後に紫陽花は、いよいよ今日の最大のメインである高坂弾正の墓に行きました。
別に高坂弾正の墓に行く為に、川中島を選んだ訳ではありませんでしたが、自然とそうなっていた感じです。
また、高坂弾正さんのお墓は、明徳寺にありました。
紫陽花は、その明徳寺に入ると、高坂弾正さんのお墓で、黄桜さんの横で、高坂弾正さんにご挨拶しました。
「高坂弾正さん、武田勝頼です。前世、高坂弾正さんの一部を持っている黄桜さんや、その友人の葉桜さんとやっときました。前世、勝頼の一部を持つ紫陽花を、「武田家・諏訪家ありがとうございます奉納紀行」を通してここまで導いてくれて「ありがとうございます」高坂弾正さんとは、いろいろあって、衝突したと想いますが、今は、素直にいう事を聞いていたらと後悔しています。黄桜さんや葉桜さんとこれを縁に、末永く仲良くしていきます。どうか、よろしくお願いします」というような事をいいました。
川中島の旅は、こうして終えたのです。
しかしここで最後に1つ、紫陽花は何故か、メガネを川中島で無くしていました。
どこで無くしたのかは分かりませんが、勘助のお墓だったらいいと想います。
片目で不自由している勘助が使ってくれていたらいいと想います。
∞ 「甲斐の旅 二日目の夜」∞
夜は、長野に泊まらずに、甲斐の国に帰る事にしました。
やはり、3人とも信濃よりも甲斐の国の方がいいです。
信濃はやはり居心地が悪いという感じで、一端甲斐の国に帰って、そこから明日の予定の諏訪に入ろうという事になったのです。
それで、松本で泊まった、一・ニ・三のホテルの安さに味をしめて、山梨でも同じ系列のホテルに泊まりました。
値段は少し高かったですが、信玄風呂、温泉があって、紫陽花は大満足だったのです。
しかし、ここで、紫陽花にとって忘れられない事は、前世、高坂弾正の魂を持つ黄桜さんと、正式に和解できた事です。
というのも、紫陽花は、夜、車の中や、夕食などを通して、ゆっくりと黄桜さんと話をする事ができました。
それで、黄桜さんや葉桜さんが、この1年間、武田家の旅でしてきた事を、初めて理解できたのです。
だけど、それは驚きでした。
何故なら、黄桜さんの、最初は前世、武田家の人間だったのではないかという事で、友人の葉桜さんに頼んで始めた、武田家巡りでしたが、行く事で二人の霊的な感性は、どんどん強くなったそうだからです。
いろんな霊、武田家の存在を感じるようになったというのです。
しかもそれは、黄桜さんだけでなく、葉桜さんも同じです。
二人とも霊的な感性はまったくなかったそうですが、いろんな所に行くたびに感じるようになったそうです。
特に葉桜さんは、霊的な感性が磨かれて、紫陽花の感じては、霊達の想いが分かるみたいで、霊達の媒体役をされている感じです。
そこから考えてもお二人は、何と前世からの縁だったのです。
また二人は、武田家の存在の大いなる意志も感じています。
前回武田八幡神社に行った帰りは、雷が、二人の近くにある木に落ちてきたそうです。
行く道だけでなく、帰り道にも落ちて、神社から出られなくなったのです。
ただ、この意味は何なのか、武田家の存在が何をお二人に伝えたかったのか分かりませんが、何かを伝えようとして、いろんな不思議な事を起しているみたいなのです。
しかしそんな二人は、自分に頼ってくる武田家の存在を供養したりしています。
自宅まで付いてくる存在がいたり、自分の中に入ってきたりする存在もいるそうです。
黄桜さんは、そんな存在を霊界に帰したりもしているというのです。
でも、これは紫陽花にとっては驚きでした。
だって、これは紫陽花が20世紀までやっていたある金沢の人達の活動に似ていたからです。
今はやっていませんが、武田家の存在を霊界に帰すのは、まさしく済度という活動です。
紫陽花は、この済度の大変さが理解できるだけに、腕組をして考えてしまいました。
黄桜さんや葉桜さんが、やっている事は決して遊びではない。
武田家の存在を救うという事は、大変ですが、本当にすごい事をしているなあと感心したのです。
何故なら、420年以上も、あの世に帰らないという事は、何か大きな執着や未練を持っているという事です。
そういった霊を救わせて頂く事が、どれだけ大変だけど、素晴らしい事か、紫陽花には少しは理解できるのです。
ですから紫陽花は、お二人の武田家の旅を、心から応援したいと想いました。
お二人は、行きたくなると、武田家の由緒ある所に、1ヶ月間に1度のペースで行っているそうですが、前世、武田勝頼として、本当に「ありがとうございます」しました。
「でも無理しないでね」という気持ちで一杯だったのです。
そしてホテルでは、黄桜さんと紫陽花は、酒を組み合わせる事で、いよいよ前世、高坂弾正さんと武田勝頼として、前世できなかった事、正式に和解をする事ができました。
というのも、高坂弾正と武田勝頼は、前世、信玄が死んでから、いろいろ対決したといわれています。
高坂弾正は、武田家の重臣として、武田勝頼に、いろいろ諌言しましたが、煩がられると、ことごとく否定され、武田家の将来を悲観した中で、甲陽軍艦を作成すると亡くなったといわれています。
黄桜さんのそんな武田家の記憶のいくつかを想い出したと、紫陽花に話してくれました。
御屋形様の小姓としてあがり、初めて寵童としてお勤めしようとした時に、もう16歳の時なのに、想わず泣き出した自分に、その時青年だった晴信(信玄)が、何もせずに優しくしてくれた事や、ある夜、暗い部屋で山本勘助を紹介され、その人にいろんな事を教わるように言われた事などです。
他にも家庭を持って、妻や子供がいた事、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春などの他の四重臣といわれていた人達と、楽しく酒を飲んでいたなども想いだしているのです。
そして勝頼に対しては、海津城で上杉軍に対して、1万の軍勢で待機していた高坂弾正は、長篠の戦の大敗を知ると、途中で迎え、用意した武具衣服に着替えさせて、堂々と帰国させる事で敗軍の見苦しさを感じさせないように配慮したといわれていますが、その事も想いだしています。
あの時は信濃、甲斐国内の民に、武田軍が長篠の戦で大敗をした事を知られないようにする事で必死だったというのです。
ですから紫陽花は、参ってしまいました。
あの時は、「ありがとうございます」とお礼をいうしかなかったのです。
その上で、もっと早く、援軍、8千を送ってくれていたら、長篠の戦であそこまで大敗しなかったかもしれないのになんて、ぼやいたら、黄桜さんにあの頃の心境を告白されました。
あの時、家臣の皆が死ぬ気になっていた事は分かっていた。
自分は必要ないという事で呼ばれなかったので、勝頼公のお手並み拝見という気持ちで、長篠の戦場に駆けつけるべきか、どうか迷っていたけど、やはり心配で駆けつけようとしたが間に合わなかったといわれました。
そういわれると武田勝頼としては、何もいえなくなってしまったのです。
でもそんな黄桜さんの話のおかげで、紫陽花は素直に謝る事ができました。
何故なら紫陽花が信じている武田勝頼は、きっとこの事があってから、高坂弾正に感謝して、意見を聞く気になったと信じているからです。
もしそうでなかったら、勝頼は救いようのない愚か者です。
紫陽花の性格でいっても、その時にやっと分かった気がするのです。
だけど、時代の流れが、予想以上に武田家衰退へと流れていき、高坂弾正のいう案を採用する事ができなくなった気がします。
高坂弾正がいう長篠の戦で、勝頼の了解なしに兵を引いた、穴山信君や武田信豊の一族を成敗したり、新しい家臣団の編制をしたりする事は難しくなっていたのです。
ですから結局、勝頼ができた事は、高坂弾正が勧める北条の姫との縁組だけです。
しかしそれも、すぐに壊れています。
高坂弾正は、長篠の戦いの後、3年後に亡くなっているので、勝頼は、上杉家の内乱、御館の乱の時は、弾正の考えを聞く事ができず、景勝と和睦する事で、上杉家と手を組みましたが、北条氏を敵にする事になってしまったからです。
この事で、武田家は、織田/徳川だけでなく、背後の北条氏までも敵にして、武田家を滅亡させてしまいます。
勝頼としては、高坂弾正の意見を聞きたくても、聞く事ができなかったのです。
紫陽花は、残念ながら、その頃の事はまったく覚えていませんでしたが、何となくそんな気がしまました。
多くの人がいうように、甲陽軍艦に書いているように、最後まで高坂弾正を無視した訳ではないと信じているのです。
だって最後まで、そんな関係だったら、黄桜さんと紫陽花が、今、こうして、会う訳がないですし、第163号「武田勝頼天下取り物語」で、勝頼が、高坂弾正を軍師に迎える物語が書けるはずがありません。
それでその事を話したら、黄桜さんも分かってくれました。
自分も、姑のように、いろんな事をいいすぎたといってくれたのです。
そして紫陽花と黄桜さんは、今世は、ずっと仲良くして、生きていく事を誓いました。
今世は主人と家臣の主従の関係ではありませんし、一緒に何をしたらいいのかも、まだはっきり分かりませんが、多くの武田家の存在からの支縁を受けて、世の中の為にやろうと約束しました。
紫陽花は縁の花で、黄桜さんは、イラストで、とりあえず縁の花のCDを成功させようと誓ったのです。
その上で、お互いを強くハグする事で終わりました。
きっと前世の高坂弾正と武田勝頼が、一番したかった事をしたのです。
∞ 「諏訪の旅、三日目」∞
三日目の朝は、勝頼の母が生まれた諏訪に行きました。
勝頼の母、諏訪の姫の実家、諏訪家は、有名な諏訪大社に仕える大祝(神官)として、諏訪地方をずっと長い間、古代から祭政一致的な支配を行なっていました。
この諏訪大社は、我が国でも最も古い神社の一つで、ご鎮座の年代については、千数百年から二千年以上も昔だといわれています。
しかも全国諏訪神社の御分社は、一万有社を数え、お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、幅広い信仰を有していました。
昔は、日本第一大軍人として武家の守護神としても尊ばれ、武田信玄も、諏訪家を支配すると、「南無諏訪南宮法性上下大明神」、諏訪大明神の旗を使うようになっているのです。
また御祭神は、本当の名前は、建御名方神(たけみなかたのかみ)といいます。
この建御名方神とは、古事記の国譲りの神話によれば、高天原におわす天照大神が、天孫への国譲りの命令をした時に、反対して、建御雷命(たけみかづちのみこと)と稲佐の浜で行なわれた力比べで負けた第2王子です。
それで科野(信濃)の州羽(諏訪)の地までこられ、「この地を除いて他所に行かない」と言われて、妃の神八坂刀売神(やさかとめのかみ)とお住みつきになり、下社には併せて、御兄八重代主神様が祭られるようになったというのです。
これが諏訪大明神で、一般には古くから、上社が男神様、下社が女神を祭るといわれてきたそうなのです。
だから武田勝頼は、この諏訪を治めていた大祝諏訪氏の姫の子供なので、諏訪大明神の子孫、つまり神裔であるという事になります。
歴史的にみて、直系の子孫になるのかどうかは知りませんが、本当にすごいです。
だって紫陽花自身、今迄まったくそんな事を意識した事もなかったのですが、前世の一部が武田勝頼だという事は、紫陽花の背景には、戦国時代最強の武田家の存在だけでなく、諏訪の神々、諏訪大明神もついている事になるからです。
そうか紫陽花には、諏訪大明神のご加護もあるのかと想うと、本当に無限の無限の幸せなのです。ですから、『武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行』で、諏訪に行く事は、前日までの武
田家の存在と挨拶するという感覚ではなくて、神々に挨拶するという事になります。
武将のどろどろしているものから離れて、すがすがしい、新鮮な気持ちで縁が持てたのです。
そして紫陽花は、この諏訪でも、葉桜さんの運転のおかげで、4つの社にすべて順序良くお参りする事ができました。
下社春宮、秋宮、上社前宮、上宮に、縁の花の小冊子とCDを「ありがとうございます」で奉納する事ができたのです。
しかもここでもいろんな不思議な事がありました。
というのもまず、諏訪に行く途中、新府城を通り過ぎた時に、コンビニによったら、切り花と書いていたものが貼っていたのですが、紫陽花にはそれが何故か縁の花と一瞬見えました。
その時、紫陽花は今迄一つ大切なものを奉納するのを忘れていた事にやっと気が付きました。
「縁の花」にとって大切な花を忘れていたのです。
だから慌てて切り花を紫陽花と、黄桜さんが一つずつ買って、今回は諏訪なので、武田家の号や武田家の奉納に代わって、花を奉納する事にしました。
その事を武田家の存在が教えてくれた気がしたのです。
また、諏訪の神社の所でも、小冊子とCDをずっと置かせて頂き、最後の一番大きな上宮で、置いていこうと想っていましたが、それは実現できました。
お賽銭を入れる所に置いて、奉納させて頂いていたのですが、最後の上宮のお賽銭箱だけは、枡が大きくて、とても置く事ができませんでした。
これは入れなさいということだなあと想うと、無限の無限の喜びでお賽銭箱に入れさせて頂きました。
きっと波動で諏訪の神々、諏訪大明神も読んで頂けたと、紫陽花は確信しているのです。
その上に、神々に「ありがとうございます」奉納が終わって、帰ろうとした時に、一般のあるご夫婦が、御祈祷して貰う為に、諏訪大社の中に入ったのが見えました。
まるで諏訪の神々が、紫陽花の為に、御祈祷してくれる感じでした。
紫陽花は、諏訪の神々に心から「ありがとうございます」しながら、それをじっと見ている事で、御祈祷して貰っていたのです。
そしてそれが終わると、諏訪大社から離れると、次の目的地、いよいよ紫陽花の前世のお母さん、諏訪の姫、新田次郎の小説「武田信玄」では湖衣姫、井上靖さんの小説では「風林火山」では 姫ですが、初めて御挨拶する事ができたのです。
しかもそれは、最初は、高遠にある、良く一般に知られている建福寺にあるお墓だけではありませんでした。
諏訪湖を見通せる小高い場所、小坂観音院で、供養されている墓碑にも行く事ができました。
黄桜さんと葉桜さんが、わざわざ紫陽花の為に、諏訪湖の近くに、供養できる墓碑があると調べてくれていたのです。
だから紫陽花は、喜びで、お母さんに会える事ができました。
やはり新田次郎の小説にあるように、湖衣姫は、諏訪湖が見通せる所に居ると想います。
諏訪大社の人に、場所を聞いて、少し迷いましたが、すぐにたどりつく事ができたのです。
またここで、3人がびっくりする事がおきました。
縁の花の小冊子とCDを奉納して、紫陽花が武田勝頼として、 諏訪の姫の墓碑に、「お母さん、勝頼です。やっと来る事ができました」という内容の挨拶が終わった時です。
後ろにいる葉桜さんが、何故か固まっていました。
聞けば紫陽花が祈っていた時に、墓碑の近くにある木が、風が吹いている訳でもないのに、紫陽花に近づこうとしていたというのです。
枝が勝頼にむかって意識して伸びていたというのです。
それで紫陽花と黄桜さんは、びっくりです。
紫陽花は、その時に、初めて自分は、前世武田勝頼の魂の一部を持っているという確信を持ったのです。
だからその木を紫陽花の前世のお母さんと想って、手を握り、ハグをしました。
しかも家に帰ってから、インタネットで知った事ですが、小坂観音院のある所は、小坂公園といって、7月頃はアジサイが見事に咲くそうです。
小坂観音院もアジサイ寺として有名なのです。
これは、とても紫陽花には偶然とは想えません。
アジサイがお母さんとずっと一緒にいるのです。
いつかアジサイが一杯咲いている7月頃に、再び、小坂観音院には行きたいと想ったのです。
そしてその後3人は、小坂観音院を後にすると、最後の訪問地、高遠に行きました。
この高遠には、勝頼も城主になっていた高遠城があります。
高遠城は、もともとは諏訪氏の分家にあたる高遠頼継の館城だったのですが、信玄に追い出されると、山本勘助によって、大幅に修築されて、大規模な城郭に仕上げられています。
武田家の四大支城で、信濃伊奈経営の戦略拠点として、重臣の秋山信友や、一族の武田勝頼、武田信廉、仁科盛信などが城主になっていたのです。
けれどもそんな高遠城も、5万の織田軍の前には、どうする事もできませんでした。
武田家は、天正十年に、木曽氏の裏切りから始まって、2万ちかくの大軍が、ろくな抵抗もせずに崩壊する事になるのですが、この高遠城だけは違いました。
信玄の五男、仁科盛信は、織田信忠の降伏の勧めを拒否すると、城兵3千人と戦って死んでいます。
最後まで勝頼を支えたのです。
だから高遠城は、勝頼にとっては、本当に感謝しないといけない城です。
黄桜さんも、紫陽花も、是非、行きたかったのです。
また高遠城も、良かったです。
江戸時代は、徳川家の天領として、武田家の家臣の保科、内藤などが城主として任されていましたが、明治になってから、大きな公園になっていました。
桜を旧藩士達が、植えた事で、桜の名所として有名なのです。
それで高遠城で討死にした武田家の存在や日露戦争や太平洋戦争で亡くなった人達を供養しているのです。
ですから、本当は、桜の季節に行ったらいいと想いますが、自然が一杯で、本当にいい所でした。
3人で、公園の中を歩いたのです。
しかもここでも不思議な事がありました。
黄桜さんは、おなかがいたくなる事で、武田家の霊を感じたみたいですし、仁科盛信のお墓では、3人で参っていたら、鳥達が何羽も集まってきて、しばらく鳴き声を聞かせてくれました。
それはまるで、武田家の為に死んだ高遠城の兵が、鳥になって歓迎してくれたようでした。
紫陽花は、高遠城の人達に、武田勝頼として、仁科盛信や高遠城で亡くなった武田家の兵士達に、心から「ありがとうございます」をする事ができたのです。
本当によかったと想います。
そして最後に3人は、武田勝頼の母の正式なお墓がある、建副寺にいきました。
お墓は、江戸時代、高遠城を守っていた、武田家の家臣で、武田の滅亡した後、徳川の家臣になった保科家の墓の隣にありましたが、それだけでも保科家が、諏訪の姫の墓を大切にしていてくれた事が分かりました。
紫陽花は、そんな保科家に感謝すると、縁の花の小冊子やCDを含めて、用意していた武田家の奉納の品を全部、お墓に供えると、お母さんに、『武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行』のご報告をさせて頂くと、この旅を終えました。
奉納の品々は、全部置いて行ったのです。
後は、それが終わった瞬間に、黄桜さん、葉桜さんの友達から携帯電話に電話がかかった事で、武田家の存在や諏訪の神々が終わったよと教えてくれた事や、東京まで車で送って頂きましたが、降ろして頂いた駅が、何と、府中駅(躑躅ヶ崎の館のある所の呼び名)だった事で、最後まで武田で終わった事です。
では皆さん、第177号『武田家・諏訪「ありがとうございます」奉納紀行を読んで頂いて「ありがとうございます」
2003年10月20日
追伸、『武田家/諏訪「ありがとうございます」奉納紀行は、正式には、後2日間ありました。
9月28日は、紫陽花は、江戸で、ラエリアンさんの杏さんと会えましたし、つい最近縁ができた、越村さんとも会いました。
越村さんは、越後、上杉家とは関係はないそうですが、紫陽花にとっては、素晴らしい縁をご紹介してくれました。
朗読してくれる女性を知らないかと尋ねたら、ビデオなども作成する山崎さんに頼んで、ある女性を紹介してくれたのです。
しかも翌日も、京都で、関東から京都に来ている別の女性にも会う事ができました。
その人にも駄目元で朗読をお願いしたらOKでした。
さっそく武田家や諏訪のご加護があったのです。
本当によかったと想います。
また、正直いって、第177号「武田家/諏訪「ありがとうございます」奉納紀行」を書くのは、少し苦労しました。
書きたい内容がたくさんありすぎです。
しかも紫陽花の背景にいる武田家の存在が、あれもこれも書いてというのか、なかなか最初は、まとまらなかったみたいです。
終止がつかなくて、苦労したのです。
でも最後は、うまくまとまったと想います。
ほっとしています。
それと最後に、紫陽花が、第177号を、武田家の存在や、諏訪の神々によって、書かせて頂けた目的の一つは、黄桜さんのように、武田家の前世の事を思い出した人と、縁の花のホームページを通して、縁を持つ事だと想っています。
武田家や武田勝頼では、検索してもなかなか出てこなくても、「武田家」と「前世」とか「生まれ変わり」で、検索したら、縁の花は出て来るのです。
だから皆さんの中で、私も武田家と縁があるという事や、何かの関係があるという人はメール下さい。
紫陽花のように、武田家が何となく大好きだという人でも大歓迎です。
皆さんと、第2回 『武田家/諏訪「ありがとうございます」奉納紀行』を企画したいと想います。
夜は、黄桜さんや葉桜さんも交えて、お酒を飲みながら、大いに武田家の話をしながら、武田家自慢をしたいと想います。
最後に、八王子の松姫様、黄桜さんも、縁の花の掲示板で、松姫様の投稿みたそうです。
お読みになれば、連絡下さい。
最後に黄桜さんが、2003年12月24日、紫陽花の誕生日から一日遅れのクリスマスの日に参戦してくれました。
黄桜さんにとっては初陣です。
是非お読み下さい。
奉納紀行に寄せて(同行者/黄桜)
「ごめんなさい」「ありがとうございます」「愛しています」
もしこの三つの想いさえしっかり届けることができたなら、どれほどの怒りや悲しみが
喜びに変わることでしょう。そしてやり直せる関係のなんと多いことでしょう。
このツアー中、紫陽花さんは
行く先々の慰霊碑や神社仏閣すべてに手を合わせ、感謝とお詫びと「これからは御一緒に世界のお役に立ちましょう」という呼び掛けを
真剣に宣言されていました。
ある時は、武田家がお世話になった氏族の碑に「ありがとうございます」。
またある時は、家臣の名の入った慰霊塔のそれぞれを抱きしめ「嗚呼、お前達の諌言をもっと聞いておけば良かった。すまなかった」と呟かれていました。
霊感のない私達ですので、果たしてどれだけ存在にどれくらいの気持ちが届いたのかは
窺い知ることができません。
しかし少なくとも私は、そんな紫陽花さんの姿の中に
この旅の本当の意味を見たような気がしました。
私達が今回訪れたのは、御家滅亡の地や合戦場など
悲劇的な歴史の墓標です。
どの地も多くの方に大切に供養されていて「有り難いなぁ」と感じられる土地ばかりでした。
しかし、それでも報われないまま時を止め、ひっそりと誰かの癒しの言葉を待っているような…そんな寂しげな場所も、少なからずありました。
その報われない歴史に
語りかけ
想いを届け、わずかながらも「和解」という喜びに祀ること。そうすることが、この旅の意味だったのかも知れません。
勝頼公と武田家の和解。あるいは諏訪家と武田家の和解。武田軍侵攻で剣を交えてしまった相手との和解ーーー
中でも諏訪家と武田家の和解を祀る役は、両家の橋渡しである勝頼公が
最も適任だったのではないでしょうか。そして「当事者の魂かもしれない紫陽花さん」こそが、これまた一番のハマリ役だったのではないでしょうか。
この旅は最後まで、人にも恵まれ
タイミングにも恵まれ、神仏の御加護があったとしか言いようのない不思議な紀行となりました。それは紫陽花さんの想いが届くべき相手にちゃんと届いた、という神様からのサインだったのかも知れません。
今回は及ばずながら私も
家臣の役を務めさせていただきましたが、ツアー中はずっと不思議な喜びと感謝の気持ちに包まれていました。
後日談ですが、すずらんさんからも「偶然同じ日に同じ市内でこの旅に参加されていた」との旨を掲示板にてお知らせ頂けまして、たいへん嬉しく思いました。
また、今回のご報告が
御縁あるどなたかの心にも届くことができたなら、こんなに嬉しいことはありません。
今、私の手元に一枚の写真があります。
撮影した場所は、普段はひと気のないひっそりとした新府城跡の山頂なのですが、あの日だけは様子が違っていました。偶然にも「ある旗」が新しく立っていたおかげで、
とても雰囲気が明るかったのです。
写っているのは、満面の笑みを浮かべる紫陽花さんと「武田勝頼公
新府入城祭り」と書かれたその旗です。これには私も「神様もずいぶん粋なシャレを飛ばされるなぁ〜」とニッコリしてしまいました。
そう、これは「祭り」だったのかも知れません。
実に420年ぶりの「武田勝頼公、祀り祭り」でした。