縁の花
(魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)
第189号
太平洋戦争架空戦いえり
∞「太平洋戦争の英霊達に捧げます」∞
縁の花、第185号「大東亜戦争架空戦いえり」で、大東亜戦争(日中戦争・日英戦争・日米戦争)で亡くなった英霊達の今の想いを、紫陽花なりに書かせて頂きました。
英霊達は、今も、日本人や日本の国の事を、あの世やこの世から心配してくれていると想います。
日本が、戦後英霊達の尊い犠牲があって、世界2位の経済大国になれたのに、21世紀に成ってから、それを再び、大東亜戦争の教訓を少しも生かそうとせずに、没落するのは、「自分達は、何の為に命懸けで戦ったのか」と耐えられないと想います。
アジア諸国も、戦後、欧米からの独立を確立したのに、アジアでのバブル崩壊後、欧米に今度は、経済的に支配されたら、「自分達は、アジア諸国の独立の為に戦ったのに」と心配していると想います。
そういった想いを、紫陽花なりに、書かせて頂きました。
あの時こうしていたらよかったという一種のシミュレーションの形にして、今の人が読んでも分かるようにしたのです。
それを紫陽花が書く事で、縁の花の読者の皆さんに、少しでも、現在、日本が抱えている、国際的な問題を解決する教訓を知って欲しかったのです。
そうする事で、英霊達が持っている無念、悔しいという想いを、消してあげたかったのです。
でないといつまでも、この世にいる英霊達は、ずっと彷徨っていると想うからです。
しかし、この英霊達の想いですが、なかなか難しいです。
大東亜戦争では、日本人だけで、600万人が死んでいるといいます。
その内、どれだけの人が、英霊達として、今もこの世に彷徨っているのかは分かりませんが、紫陽花は、まだまだたくさんいると想います。
21世紀、世界が平和で、貧富の差もなくなって、もう戦争が亡くなったと想える時が来るまで、英霊達は、安心してあの世には帰れません。
紫陽花に、いろんな想いが、やってくるのです。
だから、紫陽花としては、英霊達の縁は、これからもずっと大切にしていくつもりです。
カッコいい事をいえば、紫陽花自身が、靖国神社になります。
いろんな想いや、シミュレーションが浮かんだら、それは紫陽花の想いではなくて、英霊達の想いだと想って、『英霊達「ありがとうございます』で消させて頂いていますし、2004年4月1日からは、「ありがとうございます」瞑想も始めました。
紫陽花の家に、光柱が建っていると言うイメージして、「ありがとうございます」を唱える事で、光柱を登って、霊界に帰って頂いていると信じています。
正直いえば、光柱が建っているか、どうかは自信ありませんが、紫陽花はそう信じて、これから2012年12月23日、「フォトン・ベルト」が来るまで、続けたいのです。
しかし、紫陽花が、こんな事を書けば、紫陽花と英霊達の関係が、何か堅苦しい関係のように想うかもしれませんが、そんな事はありません。
21世紀になってから英霊達の意識も変わったのか、もう戦争に対する恨み事は消えている気がします。
「戦争をしたくなかった、苦しかった、痛かった、怖かった、もっと食べたかった」というような想いから、紫陽花の感覚では解放された気がします。
もう軍服姿で、お化けとして出て来るような英霊は、いなくなっている気がするのです。
何故なら、20世紀末から、いろんなシミュレーション小説が、続々と出てきました。
英霊達の嫌な想いは、そのシミュレーション小説を、多くの人が読む事で、解消された気がするのです。
ただ、そうはいっても、英霊達の想いはまだまだありますし、英霊達の事を願ってというよりも、お金儲けが目的な小説が多い事も事実です。
まったく奇想天外で、読むに耐えないものも多いのです。
また、そんな中で、紫陽花も、縁の花第123号「太平洋戦争済度」(帝国日本軍大勝利) で、太平洋戦争のシミュレーション小説を書きましたが、まだまだ書きたらない感じです。
いろんなアイデアが浮かんでくるのです。
だから、今回、「太平洋戦争架空戦いえり」では、「大東亜戦争架空戦いえり」とは違って、もう少し実写版で書きたいと想います。
太平洋戦争で戦った英霊達の、世界一の超大国米国、横綱とこうして戦いたかったという想いを、書く事で表現して、一つ納得するぐらい大暴れさせてあげたいのです。
是非、お付き合いして頂けたら幸せです。
∞「太平洋戦争の前提 日中戦争の終戦」∞
米国相手に、太平洋で戦うには、前提があります。
第185号「大東亜戦争架空戦いえり」で書いたように、中国と何年も戦っている上に、米国だけでなく、英国などの世界を敵にして戦っては、米国相手にまともに戦える訳がありません。
こんな戦争を始めてしまった、あの当時の日本の指導者、特に官僚は狂っていたのです。
だから、第189号「太平洋戦争架空戦いえり」では、もう少しましな指導者がいたという事が前提になります。
紫陽花としては、その人物を、いろいろ考えましたが、実際に亡くなった英霊達にしたいと想います。
いろんなシミュレーション小説では、架空の人物を置いたり、もっとまともな判断があの時にできたとか、実際に存在した人物を、事実よりももっと早く昇進させたりしていますが、紫陽花としては、何よりも、戦死した事でいろいろ後悔した英霊達が、霊界で猛反省した後で、過去に戻って、いろんな人物に想いを届ける事で、変えたということにしたいのです。
それを具体的な名前でいえば、海軍では、連合艦隊司令長官だった山本五十六、山口多聞少将、南雲忠一中将・・・陸軍では、今村均中将や栗林忠道陸軍中将・・などになりますが、紫陽花としては、そんな名前の知れている人ではなく、多くの無名の人にスポットライトを与えたいです。
戦争をしたくないのに祖国や、何よりも愛する人を守る為に、死んだ無数の「英霊達」を主人公にしたいのです。
以後、「英霊達」で書いていきたいと想います。
また、それではそれをいつ始めるかですが、一番いいのは、日中戦争が始まる前ですが、それでは戻りすぎのような気がします。
ここは、実際に日本が、太平洋戦争を始める前、12月8日の真珠湾攻撃を始める前、太平洋戦争を始める決断をする前にしたいと想います。
米国から、ハルノートという事実上の最後通牒が出された後の歴史を変えたいのです。
何故なら、このハルノートの内容に中に、中国の撤退だけでなく、満州国の撤退や、日本に対しての石油の輸入禁止まで入っている事で、戦争に消極的だった海軍も、覚悟を決めたといわれるのですが、この時に、英霊達が、日本の過去に介入した事にするのが、一番自然のような気がします。
おそらく歴史を変えるという作業は、これぐらい緊迫している時でないと不可能な気がするのです。
だからこの時に、山本五十六や東条英機などの指導者の背景に、実際の山本五十六の霊や、東条英機の霊や、戦争に拘わった人物の霊や、何よりも「無数の無名の英霊達」の霊達が入って、「今のままでは負けるよ」「本土が空襲されて多くの日本人が死ぬよ」「日本は悪者になって負けるよ」と影から指導したのです。
そしてその事で、山本五十六などの戦争反対派は、国民やマスコミを敵にしても、戦争を止める決心を固め、海軍大臣の嶋田繁太郎に強力にいって、海軍は、米英両国を敵にしても、絶対に勝てる見込みはないという発言を政府に言わせる事に成功します。
首相の東条英機にも、英霊達のメッセージは入っていて、戦争に対する恐怖が、どんどん生まれていて、御前会議の閣議で、その発言を海軍がしても、海軍を追い詰めないという根回しができていたのです。
こうして太平洋戦争をする事は中止になりました。
主役になる海軍が勝てないという米国と戦争する事ができるはずがなかったのです。
それで、日本の舵取りは、軍事から、外交に大きく変わりました。
ハルノートで要求している満州国からの撤退は、認められないが、何とか外交で解決する事になったのです。
また、「英霊達の想い」は、今度は、日本の若手の外務官僚に届き始め、ルーズベルト大統領と米国の意識は違うという事に気が付かせます。
民主主義国である米国では、政府が戦争をしたがっていても、国民が反対していたら、なかなか戦争を仕掛ける事はできない。
ルーズベルトは、ナチスドイツに苦戦している英国を助ける為にも、三国同盟を結んでいる日本と戦争する事でドイツと戦いたがっているが、米国民は、戦争に大反対している事に気付かせるのです。
「米国人も同じ人間で、戦争を望んでいない。鬼畜ではないよ」と囁いたのです。
こうして、今迄、米国のルーズベルトの外交に一方的に押し捲られていた日本は、巻き返す事に成功します。
ハルノートを世界に公表し、このままでは米国や英国と、戦争する事になる事を正直に、欧米のマスコミ各社に言う事にしたのです。
「日本国民は、米英国民が戦争を欲しているのなら、命懸けで戦うというものです」
この日本のキャッチフレーズは、大成功しました。
米国政府が何を進めているか、知らない多くの米国民は、新聞やラジオを通して、日本の覚悟を知って、ルーズベルト大統領に世論という圧力をかけました。
ルーズベルト大統領も、譲歩するしかなかったのです。
それで、日米戦争は、回避されました。
日本は、ルーズベルト大統領の仲介で、中華民国の蒋介石と和解して、中国から軍隊を退きました。
米国も、日本が、オランダの植民地であるインドネシアから、石油を輸入する事を認めました。
後は、フランス領であるベトナムから日本が撤退する代わりに、満州国に対しては、一切口出ししない事になったのです。
日本と米国は、それを、日本の東条英機首相と、米国のルーズベルト大統領が、ハワイで会談して、正式に調印したのです。
日本としては、米国などの外国の圧力で、中国からの泥沼の戦争から抜けられて、内心は万々でした。
「英霊達」の考えた、日本は外国の圧力に弱いのを利用しようと言うのが、成功したのです。
∞「太平洋戦争の前提 アジア解放」∞
しかし、ルーズベルト大統領は、これに不満を持っていました。
日本がうまく逃げた為に、ドイツに参戦できず、イギリスの苦戦は続いています。
北アフリカのロンメルとのエジプトでの戦いに、イギリスは負けた事で、遂にスエズ運河を取られてしまいました。
ドイツは、地中海を完全に、支配化に置く事に成功していたのです。
このままではイギリスは、戦争に嫌気がさして、ドイツとの和解に合意するかもしれません。
ソ連は、ドイツをモスクワから追い出して善戦していますが、今後の行方は分かりません。
何としても、参戦する必要があったのです。
それで、ルーズベルトが目をつけたのが、中国でした。
中国は、日本軍が撤退した事で、中華民国と共産党の内戦が激しくなっていました。
しかもその戦いは、共産党が有利に展開していました。
中華民国が敗れたら、何の為に、今迄肩入れをしていたのか分からなくなります。
米国が、日本と戦争しようとした最大の目的は、中国の市場が欲しかったからなのです。
だから米国は、英国を誘って、中国の港に基地を建設しようとします。
蒋介石の中華民国を肩入れする為です。
それに中国に飛行機の基地を作る事ができれば、日本を太平洋とで挟み撃ちにする事ができます。
一石二鳥だったのです。
だけど、それは日本が飲める提案ではありませんでした。
中国に基地ができれば、日本本土を戦略爆撃機で攻撃する事も可能です。
太平洋の島を米国に取られたら、完全に挟み撃ちで日本はもうどうする事もできません。
日本は、中国に介入しようとする米英両国を「約束が違う」と非難する事になりました。
それに対して、米国は日本の弱点である石油の輸出禁止で対抗しようとします。
1年後、再び、日本と米国は、一食触発の危機を迎える事になったのです。
そしてこの時に「英霊達」は、戦争の決断を降します。
日本国内で戦争をしたがっている軍人達は、「英霊達」が止めようと囁いても、なかなかいうことを聞かなくなってきていたのです。
でも、真の理由は、それではありませんでした。
「英霊達」は、日本が、米英両国との戦争を避けるには、中国の基地建設も認める事は仕方がないと判断していました。
米国と戦えば、日本が勝てないという事は、実際に戦った「英霊達」が一番良く分かっています。
大抵の条件は、日米戦争を避ける為だったら、飲むつもりだったのです。
しかし、日本はそれで良くても、アジア諸国はそれでは救われません。
ずっと植民地のままです。
特に、原子爆弾が開発されて、英国と米国が持つ事になれば、どんなに利害が対立しても、米英が戦争する事は不可能になります。
英国・フランス・オランダの植民地に、内政干渉できる国は存在しなくなります。
アジア諸国やアフリカ諸国は、未来永劫、植民地から解放されない可能性が高かったのです。
それで、「英霊達」は、自国の独立の為に戦ったアジアの霊達にも「このままでは我々は一生独立できない。協力するから日本に入って欲しい」と頼まれて、アジアからの植民地解放の為に、戦う決意を固めました。
アジアを解放する事が、戦後の日本の為に、絶対必要だと判断したのです。
ただし、戦争は、英国だけに絞って、米国との戦争を避けました。
英国と戦争しても、国民が反対している米国は、簡単に参戦できないと冷静に判断していたのです。
また、その為に日本が取った作戦は、大体的な植民地解放のキャンペーンでした。
日本は、アジア諸国からの植民地解放を訴え、日本は、韓国・台湾・満州国の独立を、アジアの植民地解放を条件に認めるという事を宣言しました。
若手の外務省の官僚は、「英霊達」の想いを素直に聞く事がまだできたので、こんな大胆な事ができたのです。
そしてそれに困ったのが、英国でした。
日本を非難していた英国は、今度は攻守を変えて、世界から非難される事になります。
米国も、露骨に、英国を支持する事はできなかったのです。
日英戦争が始まったのは、その後すぐでした。
日本は、英米との戦争の為に、仲が悪い、陸軍と海軍が合同で武器を開発して生産する軍需省や、大本営を廃止して、軍人だけでなく、外務省や鉄道省などのいろんな人の意見を聞いて、国民の全体の総力戦で、作戦を考えたりできる「国民最高戦争会議」を新たに設置するといよいよ始めました。
陸軍、海軍の中には、軍需省や「国民最高戦争会議」に反対する人も多かったのですが、戦争に反対していた山本五十六や米内光政は、軍人だけでなく、国民の力が結集できないと、英米相手に、とても「近代戦」は戦えないと言って、東条英機の後押しで強引に作ってしまったのです。
こうして、実際の太平洋戦争が始まった時から、1年半後の6月8日、日本は、堂々とイギリスに対して、宣戦布告をすると、一気に攻撃を仕掛けました。
米国が支配しているフィリピンには、一切の手出しをせずに、パラオ諸島、トラック諸島に集めた日本陸軍を、インドネシアのボルネオに上陸させました。
南雲中将率いる6隻の機動艦隊には、ボルネオの飛行機基地やシンガポールの基地を叩かせて、制空権も奪った上での作戦だったのです。
また、この時の日本軍は、無敵でした。
実際に、2年前に行われた本当の太平洋戦争でも日本は、英国軍相手には、無謀なインパール戦以外は殆ど負けた事はありませんでした。
あの時に比べても、ナチスドイツに苦戦している英国は、アジアに殆ど増強できないのに対して、中国から撤退した日本軍は余裕があります。
オランダ領のインドネシアを今村均大将率いる8万の大軍(2年前は4万)で上陸すると、アッと言う間、1週間で、ボルネオ・セレベス・ジャワ・スマトラを押さえると、念願の石油資源を手に入れました。
後は、インドネシアを根拠地にして、マレーシア、シンガポールと進み、1ヶ月間で、英国の要衝であるシンガポールを山下奉文大将が落としました。
東南アジアは、1ヶ月間で、日本軍が占領する事になったのです。
しかも、その後も日本軍の勢いは止まりませんでした。
中立国であるタイの承認で、領土を通過すると、ビルマも占領しました。
英国の宝石といわれているインド解放に向って驀進しました。
それに対して、米国は、何もできませんでした。
日本軍が、予想よりも遥かに強い事が分かって、益々、米国民は慎重になっていて、批判はしても、何も具体的な事はできなかったのです。
そして日本軍は、それを見切っていたのか、全勢力をアジア解放に向けていました。
米国軍に対して、太平洋の守りを固めず、戦艦大和や武蔵さえ、インド洋制圧に向けていました。
英国海軍自慢の戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」や巡洋戦艦レパルスでさえ、圧倒的な戦力の日本海軍を恐れて、シンガポールから早々と、スリランカに逃げていたのです。
だから、日本軍は、3ヵ月後には、実際の太平洋戦争でもできなかったインドの解放にも手をつけます。
「英霊達」は、インドを開放して、英国をインドから追い出すまで、米国との戦いは避けるつもりでした。
インドから英国を追い出せば、もう英国が、インド洋から東南アジアが攻め込む事は不可能です。
アジアの独立はなると見ていたのです。
また、その為に日本軍が取った作戦は、「英霊達」がインパール作戦で失敗した反省に基づいて考えたものでした。
皮肉にも、インパール作戦を指揮した牟田口中将は、再び、指揮していましたが、ますます傲慢になっていた軍官僚達は、「英霊達」の想いさえ通じなくなっていたのですが、今度は、彼らは囮役でした。
ビルマから、インパールを目指す事で、英国陸軍をインパールに集結させて、本隊は、インド洋から、インドの東海岸を目指し、ここから上陸しようとしていました。
空母は、瑞鶴、翔鶴の2隻と、戦艦は、伊勢、日向、山城、扶桑の4隻が、護衛して、日本陸軍2個師団と、インド独立運動の指導者スバス・チャンドラー・ボース率いる、東南アジアで降伏したインド軍1個師団を、見事に上陸させました。
インドには、殆ど、飛行機がなく、日本海軍は、殆ど無傷で近づくと、戦艦の砲撃で、海岸を押さえ、上陸部隊を堂々と上陸させたのです。
また、英国のインド艦隊に関しては、南雲中将率いる機動艦隊、赤城、加賀、飛竜、蒼竜、飛鷹、隼鷹の6隻の空母と、大和、武蔵、長門、陸奥、高速戦艦、比叡、霧島、金剛、榛名の8隻の戦艦、重巡洋艦7隻、軽巡艦5隻、駆逐艦25隻が迎え撃ちました。
英国海軍も、空母、インドミタブル、フォーミタブル、軽空母ハーミス、とアメリカから貸与された軽空母3隻(プリンストン、カウペンス、ベローウッド)と戦艦は、英国が誇るプリンス・オブ・ウエールズ、巡洋戦艦レパルス、ウォースパイト、ラミリーズ、ハウの5隻、重巡洋艦10隻、駆逐艦15隻という大艦隊で戦いましたが、空母が搭載する飛行機の量、質ともに、日本軍に大きく劣る英海軍では勝てませんでした。
英空軍が誇る「スピットファイアー」戦闘機を、艦上戦闘機に改造した「シーファイアー」も、ゼロ戦の敵ではなく、数に勝るゼロ戦に圧倒されました。
日本海軍は、ゼロ戦、九九式爆撃機、九七式攻撃機の2度に及ぶ猛攻で、6隻の英空母を全部沈めてしまったのです。
その上に、戦艦同士の夜戦でも、英海軍は、日本が誇る大和、武蔵の戦艦に惨敗しました。
日本の飛行機によって、傷ついていた英国の戦艦は、それでも突入したのですが、夜戦は日本軍の得意とするところです。
46センチ砲を誇る大和や、酸素魚雷を持つ日本海軍の敵ではありませんでした。
数でも勝る日本の戦艦に追い詰められて、見事に戦艦も全部沈んでしまいました。
4隻の高速戦艦の足は速く、逃げる事は不可能だったのです。
ここに英国の東洋艦隊は、滅亡しました。
何とか逃げ切れたのは重巡洋艦3隻と駆逐艦5隻ですが、それさえ無傷ではなかったのです。
そしてその海戦、セイロン沖海戦の結果は、すぐにインドに波及しました。
英国海軍の惨敗に歓喜したインド国民は、インド独立運動の指導者スバス・チャンドラー・ボースを解放軍として迎え、英国は、インドから撤退せざるを得なくなったのです。
こうして「英霊達」の望んだアジア解放は、半年間という短期間で実現しました。
ここにアジア解放は成ったのです。
∞「真珠湾での決闘 日米開戦」∞
英国軍の呆気ない敗戦は、影から英国を支援している米国に衝撃を与えました。
東洋の猿と侮っていた日本軍が強いという事は、よく分かったのです。
だから日本軍が、ここで米国との戦争を避ける為に、大幅な譲歩をすれば、米国との戦争を避ける事は可能でした。
さしものルーズベルト大統領も、日本軍との戦いに踏み切れなくなっていました。
日本軍と戦っても圧倒的な国力で、十分に勝てる自信がありましたが、国民がそれを許すとは想えなかったのです。
しかし、「英霊達」は、絶対に避けたいと想っていた米軍との戦争をする決心をしました。
その一番の理由は、日本人の傲慢にありました。
日露戦争に勝ってからの日本人は、アジアの人を見下ろしているところがありましたが、特に軍部は酷くなっていました。
アジアの独立など本気で考えず、ますます日本を軍事政権で、独裁しようとしていたのです。
しかも、それは英国軍を予想外に呆気なく破った事で同調していました。
アジア諸国を開放するという事で、戦争を始めたのに、それを守ろうとしなくなっていたのです。
そこで「英霊達」は、米国との戦争を決断しました。
「英霊達」には、想いで何でも分かるので嘘はつけません。
今の軍事政権の姿で日本が残っても、日本国民やアジアの人達の為にはなりません。
日本の軍事政権は滅びてしまった方がいいという悲しい決断をしたのです。
しかし、それは日本だけが一方的に悪いという事でもありません。
欧米の国民の人種差別に対する意識は、まだまだ根強かったですし、米国の傲慢さも変わりませんでした。
米国は、日本とドイツを倒して、世界の覇権を握る狙いは決して捨てませんでした。
日本からアジア諸国の市場を開放させて、アジアを経済的に支配するつもりでした。
原子爆弾を開発した時点で、日本と戦争するつもりだったのです。
また、もっと「英霊達」を悲しませたのは、同盟国ドイツの存在でした。
ドイツは、スターリングラードの戦いで、ソ連に負けたとはいえ、健在でした。
米国の参戦がないので、英国は夜襲で、ドイツの工場をなかなか叩けませんでした。
ドイツは、日本が、インド洋を支配した事で、スエズ運河から資源を得る事もできて、息をゆきかえしていました。
ロンメルに中東からソ連のコーカサス方面を攻撃させるつもりだったのです。
でも、そんなナチスドイツの存在は、「英霊達」には許せない事でした。
ナチスドイツが、何をしているかは、霊になった「英霊達」には全部分かっていました。
同盟国として共に戦っていただけに、ナチスドイツのやる事は許せなかったのです。
ですから、「英霊達」は、日本が、米国と戦う事で、ルーズベルトの願いどおり、米国にドイツと戦わせる決心をしました。
その為に、日本は、結局米国に敗れてもいい。
多くの日本人が犠牲になっても仕方がないと判断しました。
多くの「英霊達」の魂が、矛盾するようですが、まだ死んでいない自分達は、その為なら死んでもいいといったのです。
こうして、日本は、米国と戦う決心をしました。
しかし、その戦いは、山本五十六大将が考えたハワイ奇襲攻撃から始まるものではありませんでした。
2年間の猶予がある間に、ハワイの基地は、偵察機なども増強され、レーダーも拡充されて、もう奇襲攻撃は不可能になっていたのです。
いえ、「英霊達」は、奇襲攻撃などではなく、堂々と米国と戦いたかったのです。
何故なら、この当時の日本海軍の実力は、予想以上に米国海軍を凌駕していました。
ゼロ戦は、米国のF4戦闘機よりも強く、艦爆、艦攻などの操縦士の腕も遥かに優秀でした。
ハワイにいる米国の太平洋艦隊とまともに戦っても、十分に勝てる力があったのです。
だから、「英霊達」は、堂々と米国と決戦する事を考えました。
奇襲攻撃だとどうしても米国に、騙まし討ちの容疑をかけられる可能性があります。
「英霊達」は、外務官僚の怠慢で、あれだけ注意していたのに、宣戦布告が真珠湾攻撃よりも、遅くなった事に激怒していましたが、冷静にその結果を分析していました。
騙まし討ちという事で、米国民をリーメンバーパールハワーで結束させた事を反省していたのです。
奇襲する事で、宣戦布告を遅れるリスクは、犯すつもりはなかったのです。
ただ、そうはいっても、どちらにしても、米国相手に戦うのです。
初戦で、太平洋艦隊を叩き、ハワイの基地を破壊しないかぎり、その後の展望は見えて来ない事も事実でした。
「英霊達」は、フィリピンを海上封鎖して、太平洋艦隊を誘き出す事など、いろいろ考えましたが、日本海軍を恐れる太平洋艦隊は、結局出て来ようとしなかったのです。
ですから、日本海軍は、直接ハワイの攻める事にしました。
日本軍が、太平洋のオーストラリア領のラバウルやニューギニアに軍を向けたら、戦争になると警告している米国に対して、遂に日本は、1週間後の12月8日、ハワイ沖で、堂々と決闘を申し込む事にしました。
これだったら、暗号を解読されていても関係がありません。
日本の空母や戦艦は、もうハワイを目指しているので、米国に戦うつもりがあるのなら、堂々と勝負しろと、全世界のマスコミを東京に集めて外務大臣の東郷茂徳が宣言したのです。
さあ、それに驚いたのは、米国政府やマスコミです。
日本は、艦隊を率いる小沢中将が、米国の太平洋艦隊が本気で決闘に応じるつもりがあるのなら、攻撃する前に正式に宣戦布告をした上で、ハワイの基地を攻撃すると宣言しています。
遂に開戦かという事で、大騒ぎになったのです。
また、米国政府も、この日本海軍の大胆な行動に対して驚きながらも、受けて立つ事にしました。
決闘といわれて、西部魂のある米国は逃げる訳にはいきません。
太平洋艦隊に全力をあげて、日本海軍を壊滅する命令を与えました。
日本海軍が、アメリカ海軍が、本気でないと判断して、結局戦争せずに引き上げたら何もなりませんし、堂々の決闘に負けたという事になれば、米国民から非難されてしまいます。
エンタプライズ、レキシントン、ホーネット、サラトガの4空母や、ウェスト・ヴァージニア、アリゾナ、ペンシルヴェニア、テネシー、カリフォルニア、メリーランド、コロラドの七隻の戦艦を、キンメル大将に任せて迎え撃とうとしていました。
地の利があるので互角に戦えると判断していたのです。
そして日本海軍と米軍の太平洋艦隊は、12月8日、ハワイ沖で戦い、日本は、世界の予想を覆して圧勝しました。
最初の航空機戦で、エンタプライズとレキシントン、2隻を沈め、ホーネットとサラトガの2隻を大破させる事に成功しました。
エンタプライズで指揮を任されたハルゼー中将も戦死したのです。
しかも、日本海軍は、執拗に、大破した2隻を追いかけ、見事に撃沈させています。
それに対して、日本艦隊は、赤城が爆弾1発を浴びて小破するだけに留めただけでした。
「英霊達」の期待に見事に小沢中将は答えたのです。
何故なら、「英霊達」は、米国との戦いの前に、第一機動艦隊の指揮官を、南雲中将から、小沢中将に変えさせています。
南雲中将は、ミッドウエーの戦いだけでなく、真珠湾攻撃の時でも、徹底的にハワイの基地を戦わなかったというミスをしています。
その事を一番痛感しているのが、サイパン島で戦死した南雲中将の魂自身です。
南雲中将は、水雷戦の専門家で、航空機戦に対しては、まだまだ理解ができていなかったのです。
南雲中将の魂が、まだ生存している南雲中将に囁いて、自ら、指揮官を変えてくれるように、山本五十六大将に申し入れるようにしました。
「米国との戦争が始まった以上、先任とか、学歴の順位ではなく、人事は実力で選ぶべきだ」と強くいったのです。
それで山本五十六大将は、思い切った人事で、小沢中将を指揮官にする事ができました。
「英霊達」は、日本の軍隊の弱点である、先任制度を実力主義に変えるようにしていたのです。
また、その期待に見事に、小沢中将は答えました。
作戦の第1目的が、ハワイの基地ではなく、米軍の空母だという事を理解して、ハワイ基地から攻撃されない距離に、機動艦隊を置いて、偵察を重視して、ハルゼー率いる空母艦隊を発見すると、わざと接近して、自ら宣戦布告はせずに、ハルゼー中将に宣戦布告をさせた上で攻撃を仕掛けさせました。
あくまでも肉を切らせて骨を斬るつもりだったのです。
小沢中将は、その為にゼロ戦の数を大幅に増やしていました。
6隻の正式空母には、積めるだけ航空機を積んでいましたが、半数はゼロ戦ですし、飛鷹、隼鷹にも3分の2、30機はゼロ戦でした。
戦艦の護衛にあてた2隻の軽空母に積んでいたものも、全部ゼロ戦だったのです。
ですから戦いは、F4戦闘機よりも、遥かに、量も質も、操縦する腕も、優れているゼロ戦が圧勝し、まず制空権を奪う事ができました。
日本の機動艦隊は、レーダーで発見すると、150機以上のゼロ戦で、迎え撃ち、米空母にも、100機以上のゼロ戦で、まず護衛しているF4戦闘機を片づけることに成功したのです。
後は、本来よりも数は少ないですが戦に慣れている艦爆機、艦攻機によって、極めて高い命中率で、最初の航空機戦で、エンタプライズとレキシントンの2隻を大破させ、サラトガを小破させる事に成功しています。
それに対して、日本艦隊は、赤城が爆弾1発を浴びて小破するだけだったのです。
しかも小沢中将は、徹底していました。
二次攻撃、三次攻撃をする事で、大破した2隻を沈めるだけでなく、翌日、高速の飛竜、蒼竜、瑞鶴、翔鶴の4隻の空母を別々の海域に向かわせてまでも、大破した為に逃げていたサラトガとホーネットを追いかけて沈めているのです。
また、南雲中将が率いる戦艦同士の戦いでも、日本海軍は圧勝しました。
得意の夜戦をさけて、翌日、堂々と砲撃戦を望み、米国の戦艦を全部沈めました。
戦艦大和、武蔵の46センチ砲の威力だけでなく、日本の戦艦の命中率は、米国を凌駕していましたし、新兵器の酸素魚雷は、走っている跡が見えないという事で、米国を驚かせました。
日本は、航空機と艦隊の砲撃を同時にして、米軍を苦しめ、駆逐艦が6隻、軽巡艦が2隻、重巡艦が1隻を沈めたのに対して、日本は、駆逐艦2隻と軽巡艦1隻が沈みましたが、後は比叡と金銅が中波するだけですんだのです。
そして小沢中将は、2日後、10隻の空母に護衛させながら、堂々とハワイに接近させました。
ハワイの基地からは、陸軍機を始め、300機の飛行機を向かわせましたが、ゼロ戦の壁は厚すぎました。
小沢中将は、飛行機自体よりも、操縦する人の人的損害を増やす事が大事だという事を正しく理解していました。
米国ならいくらでも飛行機は生産できますが、操縦士は、簡単に育てる事はできないのです。
ですから小沢中将は、わざと攻撃させたのです。
その小沢中将の判断は的確でした。
陸軍機は、海上の攻撃になれていない事もあって、駆逐艦1隻に爆弾を当てる事しかできませんでした。
殆どの飛行機は、途中で待ち構えていたゼロ戦によって撃墜されたのです。
こうして、もう米国は、日本の機動艦隊に攻撃する事ができなくなりました。
日本海軍は、潜水艦に注意しながら、近くまで接近すると、戦艦や重巡洋艦の砲撃で、基地にあるドックや石油コンビナートを火の海にしました。
新兵器の三式弾の威力は想像以上にすごく、ハワイの基地や、砲撃戦で逃げていた艦は、全滅しました。
小沢中将は、殆ど全弾使い果たすと、日本に凱旋したのです。
ハワイでの決闘は、こうして日本海軍の奇蹟的な大勝利で終わりました。
「英霊達」は、実際の真珠湾攻撃で遣り残した失敗、ハワイの基地を破壊しなかった事と、「ミッドウエーの海戦」の敗戦の敵討ちができたのです。
でも、期待した米軍の戦意は、喪失する事はありませんでした。
アメリカがNO1だと信じている国民は、米国の敗戦を認めようとせず、むしろ、米国の誇りを傷つけたという事で、日本との戦争を望んだのです
∞「ポートモレスビー攻略」∞
実際の太平洋戦争の戦いでは、日本海軍は、真珠湾攻撃が成功した後、フィリピンや、東南アジアに攻め込んで、各国を占領した事で、気をよくして、勢力が圧倒的な優勢な時期に、それ以上、何もしようともしませんでした。
だからミッドウエーの戦いで、戦力が整った米国の海軍に大きな敗北をしているのです。
でも、今回の戦いでは、違います。
ハワイ沖の決闘で、空母を取り逃すこともなく、全滅させています。
しかも日本軍は、同じ日に行われた、フィリピンの航空戦でも、2年前と同じように、航続距離が長いゼロ戦の強みを生かして、勝利しています。
米国は、フィリピンが占領されて、米国の軍人が、日本軍の人質になる事を恐れて、軍備の増強はしませんでした。
2年前よりも、台湾の戦力を整えている、日本軍に勝てるはずがありませんでした。
日本軍は、3日間の航空戦で、フィリピンにある航空機を全部破壊すると、フィリピンに上陸すると、今度は、一気ではなく、時間をかけて、攻略する事に成功しています。
米国のマッカーサー将軍は、前回と同じように、バターン半島のコレヒドール島に逃げこみましたが、日本軍はあえて攻撃せずに、要塞に立てこもっている米軍の物資がなくなるのを待つ、兵糧攻めにしました。
前回の戦争で、起きた「バターン半島死のロード」と非難されたような、降伏した多くの人が死ぬ事は避けたのです。
だから米軍は、前回同様、マッカーサー将軍を極秘に逃がさせると、半年後、降伏しました。
日本軍は、半年の余裕があったので、降伏した米軍人もゆとりも持って、対応できましたし、英霊達は、戦後の復興で、借りのあるマッカーサー将軍は、わざと逃がしてあげたのです。
また、オーストララリア方面の戦いでも、日本軍は、圧勝しました。
太平洋にある米国の島、グアム島などを早々と占領しました。
旧式の戦艦である山城、扶桑、伊勢、日向の4隻の戦艦には、重巡艦を1隻ずつつけて、オーストラリア方面の輸送船を攻撃させる事に成功しました。
何隻もの輸送船が沈められ、恐れをなした米軍によって、オーストラリアには、輸送船がしばらく向けられませんでした。
オーストラリアと米国の海上での遮断に成功したのです。
しかも潜水艦は、ハワイ方面に集中して、ここでも敵の輸送船に絞って攻撃させました。
実際の太平洋戦争の失敗、潜水艦に輸送船を攻撃させなかったという事は、「英霊達」の働きで、変えられていたのです。
そして日本に凱旋した機動艦隊にも、3日間の休養の後、すぐにトラック島に南下させて、ニューブリテン島のラバウルを攻撃させています。
8隻の空母で攻撃されたら、準備が整っていない英国軍は、すぐに逃げ出してしまったのです。
しかも日本海軍は、その後、ラバウルに早速、大規模な工作部隊を派遣すると、占領した飛行機場を拡張しています。
トラック島からも、飛行機隊を送り込むと、2週間後、8隻の機動艦隊に護衛させた、上陸部隊に、念願だった、ニューギニアの要衝、ポートモレスビーを占領させています。
実際の戦いでは、日本海軍は、瑞鶴、翔鶴、軽空母、祥鳳の3隻で、MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)を実施しましたが、暗号を解読していた米海軍のレキシントン・ヨークタウンによる2隻の空母の待ち伏せにあって、サンゴ海海戦で戦い、祥鳳が沈んだかわりにレキシントンを沈めるという戦術的な勝利を得ましたが、被害が大きくて、ポートモレスビーの占領を諦めるという、戦略的には敗北を経験しています。
この時に、ポートモレスビーを攻略できなかった事が、日本軍にとって、後々、大きな痛手になったのです。
しかし、今度は、邪魔をする米軍の空母はありません。
大西洋からパナマ運河を渡って来るとしても、時間が必要です。
ポートモレスビー自体は、米軍の協力で、大幅に戦力は増強されていましたが、8隻の空母と、ラバウルからの航空隊に同時攻撃をされると、抵抗する事は不可能でした。
ゼロ戦の力は圧倒的で、英軍・米軍の飛行機にわざと攻めさせて、多くの飛行機を撃墜して、操縦士を捕虜か、戦死させているのです。
だからポートモレスビーも占領できました。
オーストラリアの北岸、アラフラ海を押さえる事ができたのです。
その上に、日本海軍は、米海軍の戦力が整わないうちに、想い切った作戦も取っています。
ポートモレスビーの航空機を全滅させると、後の上陸軍の援護は、瑞鶴、翔鶴や、戦艦、大和、武蔵、長門、陸奥に任せ、6隻の空母は、距離的に少し離れているニューカレドニアのヌーメアまで攻め込んで、太平洋上では、ハワイに次に大きな米軍の基地があるニューカレドニアを、一時占領しています。
何故ならニューカレドニアに産するニッケルは、航空機の部品をつくるのに欠かせない金属で、日本にとっては喉から手が出るぐらい欲しい資源です。
日本海軍は、このニューカレドニアの港を押さえると、ありったけのニッケルを輸送船に積む事にしました。
3ヶ月間と期間を限定して、ニッケルを掘りまくって、全部輸送船に積むと、米海軍の勢力が整う前に、徹底的に基地を破壊すると、ニューカレドニアから見事に撤退しているのです。
それで米軍が、太平洋を北上して反撃するのをくい止める時間稼ぎをしたのです。
しかも以後、日本は、攻撃から、防御に見事に切り替えています。
ポートモレスビーから、オーストラリアの北岸、クックタウン、タウンズビルの基地を攻撃しましたが、後は、ソロモン諸島の島、ブーゲンビル島やガダルカナル島に、基地設営をして飛行機場を建設する事や、トラック島、マリアナ諸島などの重要な島を固める事に専念しました。
自由自足を目的として、まず現地で食料が得られるように、農産物を育てさせ、次に戦艦の砲撃でも耐えられるように、陣地を固めさせたのです。
こうして、日本軍は、「英霊達」の願い通りの第2作戦を迎えたのです。
そしてそんな日本軍に対して、米国の反撃は、一度、日本軍の飛行機で壊滅したオーストラリアの北岸のクックタウンからの攻撃で、開戦から半年後始まりました。
米国は、大西洋にある空母、ワスプとホーネット、レンジャーを、3ヵ月後太平洋に入れると、オーストラリアに対する大規模な輸送を開始しました。
北岸のクックタウン、タウンズビル、ケアンズに航空機を入れると、ポートモレスビーを攻撃させたのです。
しかも、この戦いでは、米軍には、新兵器の飛行機がありました。
ゼロ戦よりも強い、米軍の新戦闘機、F6戦闘機です。
米軍は、これでポートモレスビーの奪還を狙ったのです。
しかし、この航空機戦は、米軍の目論見どおりにはうまくいきませんでした。
日本軍は、ポートモレスビーに、ゼロ戦150機、陸軍機の隼70機をいれて、守りを固めていました。
しかもレーダーで発見したゼロ戦は、ポートモレスビーの上空で待ち構えていて、足の長いゼロ戦の強みを生かして、執拗に追いかけました。
米軍の戦闘機は、長距離を飛んでいる事もあって、戦いは有利とはいえませんでした。
多くの爆撃機や戦闘機が、優秀な日本のパイロットによって、落とされたのです。
ですから、米軍は、ポートモレスビーの攻撃を一時諦めると、いよいよガダルカナルに目を向けたのです。
∞「天王山第1次ガダルカナルの戦い」∞
米軍が、カダルカナル島を攻撃したのは、実際の戦いよりも3年後でした。
しかし戦略的な価値は、以前よりも遥かに増していました。
日本海軍が、旧式の戦艦と重巡艦で、米軍の輸送船を攻撃した事は、米軍には大きな脅威でした。
ソロモン諸島やポートモレスビーを押さえて、戦艦が単独で来るのを、しっかり航空機で監視する必要がありました。
ポートモレスビーの守りが堅く攻略するのが、難しい以上、防御が劣るガダルカナルの島を占領して、そこからラバウルを目指す事を考えました。
日本の航空機を、ガダルカナルの戦いに引きずり出したいと想っていたのです。
だけど、日本軍は、この事は予想していました。
実際の太平洋戦争では、奇襲を食らって、折角作った飛行機場をあっけなく占領され、その後の航空機の戦いで、多くの優秀なパイロットを死なせましたが、今度は違いました。
ガダルカナル島にある3つの飛行機場には、ゼロ戦や隼で、合計70機ありましたし、攻撃機も40機もありました。
偵察にも力を入れていて、2式大艇もツラギ島に30機と多く供えていました。
奇襲は、不可能になっていたのです。
でも、米軍は、ガダルカナルを攻撃しました。
ここを落とさないかぎり、反撃ができないと判断したのです。
また、この戦いでは、米軍は、最初は予定通り、ガダルカナルの上陸には成功しています。
待望のエセックス級の新空母2隻も加わった、5隻の空母で、カダルカナルの飛行機場を制圧しました。
日本の航空機は、意外な事に、米海軍を攻撃せずに、ブーゲンビル島のブインに撤退しました。
数が少ない航空機で攻撃しても、成果がない事を予想していたのです。
だけど、7千人もの陸軍部隊は違いました。
彼らには、1週間、飛行機場を守る事が義務付けられていました。
上陸した米海兵隊に激しい攻撃を加えて、1歩も動かせなかったのです。
そしてその間に、日本海軍は、ラバウルに待機させていた飛竜、蒼竜、飛鷹、隼鷹の4隻の空母と、ラバウルを拠点とする第八艦隊司令長官三川中将に命じて、夜襲をかけさせました。
4隻の空母は、ゼロ戦や新型の彗星艦爆機、天山艦攻機の航続距離が長い事をいかして、米国の空母からの攻撃が届かない距離から、陸上の航空機と一緒に攻撃していました。
主に、輸送船や、ガダルカナル島の米軍の攻撃して、大きな被害を与えていたのです。
しかも、三川中将は、一昼夜で、ガダルカナル島に駆け付けると、夜襲を行いました。
実際の太平洋戦争でも、夜襲を行って、三川中将の第八艦隊は、米海軍の巡洋部隊に大きな勝利をしていますが、輸送船を攻撃しなかったという大きな失敗をしていました。
でも、今回の戦いでは、輸送船を叩くという事は、海軍の方針として徹底していました。
三川中将は、ガダルカナル島の飛行機場が、日本軍の手にある事もあって、米豪軍の重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦8隻を、ほぼ同数の重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦8隻で戦い、魚雷で全滅させると、輸送船を攻撃して、10隻を沈めて、多くの兵士を戦死させたのです。
こうして、第1次ソロモン海戦は、日本海軍の大勝利で終わったのです。
しかし戦いは、まだまだ続きます。
トラック島に待機していた赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴と本土で待機していた葛城、天城の新空母2隻も集って来て、今度は、米空母に攻撃を仕掛けました。
第2次ソロモン海戦が始まったのです。
でもこの戦いは、日本海軍は、初めて苦戦しました。
米海軍には、ゼロ戦より優れているF6戦闘機があります。
操縦の腕は、日本のパイロットの方が、戦経験が豊富な事もあって、圧倒的に上でしたが、F6戦闘機には苦戦しました。
完全に制空権を取る事はできなかったのです。
ただ、それでも、第2次ソロモンの海戦も、日本の勝利に終わりました。
日本海軍は、航空機の量で勝る事と、ガダルカナル島の飛行機場を押さえている事で、航続距離の長い利点を生かしたアウトレンジ戦法を取りました。
彗星艦爆機ができた事で、これは可能でした。
日本の攻撃でホーネット、レンジャーの2空母を沈没させ、ワスプを大破させる事に成功したのです。
それに対して、日本の空母は攻撃されなかったので、まったく被害はありませんでしたが、航空機はF6戦闘機と、対空砲火を強化していた護衛艦の為に、大きな被害を受けていました。
艦爆で半分の60機、艦攻で3分の2の75機、ゼロ戦でさえ60機が帰って来る事はありませんでした。
優秀なパイロットを多く亡くしたのです。
でも、第2次ソロモン海戦の勝利で、ガダルカナル島の勝利は確定しました。
米海軍は、恐れをなして、ガダルカナル島の付近から撤退しました。
日本海軍は、今度は、大和、武蔵、長門、武蔵、比叡、霧島、金剛、榛名による夜襲を仕掛けました。
米海軍はいないので、ガダルカナル島の米軍を、砲撃で容赦せずに叩いたのです。
これで米軍の戦意は一気になくなりました。
戦艦の砲撃の威力は、とてつもなくすごく、特に大和、武蔵、長門、陸奥の砲撃は、圧倒的です。
恐怖で、もう戦う気力がなくなったのです。
その上に、日本軍は、1週間後には、一個師団を、ガダルカナル島に送る事にも成功しました。
ガダルカナルにいた1万5千人の米軍は、撤退もできずに呆気なく降伏してしまったのです。
こうしてガダルカナル島の戦いは、日本の勝利に終わったのです。
∞「天王山第2次ガダルカナルの戦い」
しかし米軍は、ガダルカナル島を諦めませんでした。
ガダルカナルを抑えないかぎり、ソロモン海を監視する事ができません。
日本海軍の戦艦や空母が、ソロモン海を渡って、米国とオーストラリアの輸送路を遮断する事が怖かったのです。
それで、8ヵ月後、新たにエセックス級(100機搭載)の新空母4隻と、インディペンデンス級(45機搭載)の軽空母4隻を建造した事で、正式空母5隻、軽空母4隻、ジープ空母(34機搭載)15隻という圧倒的な戦力で、再び攻めてきました。
国力が遥かに違うという、米軍の強みが生きてきたのです。
それに対して、日本は、新空母大鳳と、戦艦信濃の代わりに建造する予定の、瑞鶴級の、紅鶴、白鶴と、戦艦伊勢、日向を、装甲空母に変える計画があるだけでした。
戦力の上で、日米はすでに逆転していたのです。
また、戦い自体も、米軍が勝利しました。
ガダルカナル島の日本の守備軍は、増強されず、7千人のままでした。
現地で農産物なども植えて、食料の確保に努めていましたが、補給の事を考えると、これ以上は増やせませんでした。
半年間も戦いが続くと、餓死する事が考えられるので、無理な増強はできませんでした。
送り込んだ1個師団は早々と撤退していました。
何故なら、実際の戦争で、日本軍が犯した最大の失敗、補給を考えない事は、「英霊達」の奮闘で、改められていたのです。
そういった教育もされ、バンダイ攻撃や玉砕もしてはいけないという事になっていました。
もうこれ以上戦えないという事になれば、潔く、捕虜になる事は認められていたのです。
だから、今度の戦いは、米軍が勝利しました。
米軍は、前のガダルカナル島の戦いの失敗で、反省したのか、3個師団という圧倒的な軍を送り込み、3日目には、飛行機場を占領したのです。
また、空や海の戦いでも勝利しました。
日本軍は、前回同様、飛竜、蒼竜、飛鷹、隼鷹や、陸上の基地から、アウトレンジ戦法で、航空攻撃を仕掛けましたが、F6戦闘機や、新兵器のVT信管による対空砲火を強化した米軍の前では、損害が増えるばかりでした。
夜襲を仕掛けた三川中将の第八艦隊も、レーダー射撃で応戦する米軍艦隊によって、初めて敗戦を経験しました。
もう、得意の夜戦でも日本海軍は勝てなくなっていました。
重巡艦3隻、軽巡艦1隻、駆逐艦4隻を沈没されて、逃げ帰ってきたのです。
こうして第三次ソロモンの戦かは、米軍の勝利に終わりました。
飛行機場を占領された事で、見切りをつけた日本軍は、10日後、ガダルカナル島の日本軍を全員救出すると、ラバウルに引き上げました。
前回と同じように、10隻の空母を揃えた日本海軍に、今度こそリベンジーを果たせると想っている米軍に対して、肩透かしをさせたのです。
そしてその後の戦いは、ラバウルとガダルカナル島の航空戦の戦いに変わりました。
激しい消耗戦です。
米国は、ラバウルまで主な航空機は届かないので、ブーゲルビル島のブインの基地を攻め、日本軍は新しく開発した局地戦闘機雷電やゼロ戦で、必死で守るという戦いです。
でも、米軍機は、質、量とも大きく日本軍を凌駕していて、さすがの日本のパイロットも、もはや米軍機を撥ね退ける力はありませんでした。
ブインの飛行機場は、破壊されてしまったのです。
しかも米軍は、新たに、チョイセル島やコロンバンガラ島、ニューギニア島のラビ、ブナにも飛行機場を建設すると、ラバウル、ポートモレスビーにも、攻撃を仕掛けました。
これに対して、日本の機動艦隊を率いる小沢中将は、牽制はしても、あえて米海軍に攻撃はしませんでした。
空母にあるゼロ戦も、ラバウルに送り込むだけだったのです。
今、戦えば、負ける事を冷静に見つけていたのです。
だけど、この日本海軍の判断は、米軍を苦しめました。
長い距離を渡ってくるのと、上空で待機していればいいのとでは大きな違いがあります。
米軍は、雷電や陸軍の局地戦闘機飛燕の活躍もあって、たくさんの飛行機を落とされました。
実際の太平洋戦争では、ガダルカナルに膠着した日本軍は、ゼロ戦でもぎりぎりのラバウルから攻撃する事で、多くの優秀なパイロットを失いましたが、ここでは逆になっていました。
米軍の被害も大きかったのです。
しかも米軍がショックを受けたのは、日本軍は、航空戦の不利を悟ると、早々と、ラバウル、ポートモレスビーにある飛行機を隠した事です。
日本軍は、その為にずっと前から地下に隠すところをたくさん造っていました。
上空から偽装している所を見つける事は困難です。
ラバウルやポートモレスビーには、百機以上の攻撃機が温存されている事になります。
これを破壊するには、陸軍を上陸するしかありませんが、ブインには1個師団、ラバウルには3個師団、ポートモレスビーには2個師団もいます。
膨大な犠牲を覚悟しないといけません。
結局、米軍は、ラバウル、ブイン、ポートモレスビーの占領を諦めて、ガダルカナルや、ラビ、ブナから、つねに、ラバウル、ポートモレスビーを監視し、攻撃しないといけないはめになりました。
ソロモン海、アラフラ海を完全に抑える事ができず、つねに日本の航空機や、艦艇の脅威を受ける事になりました。
日本軍は、「英霊達」の働きで、暗号のコードを変えていて、解読は不可能になっていただけに、いつ攻撃するのか分からないので、ある程度の戦力をガダルカナル島や、オーストラリアのクックタウンに置いておく必要があったのです。
∞「マリアナへの道」∞
ラバウルなどの占領を諦めた米軍が次に取った作戦は、マリアナ諸島を占領する事でした。
戦略爆撃機であるB29は、もう完成しています。
マリアナ諸島のサイパン、グアムを抑えて、日本本土を直接、空爆する事を狙っていたのです。
また、日本軍も、その事は分かっていました。
ドイツは、B29の空爆にあって、大きな損害を出して、もう敗戦は濃厚でした。
米英軍がフランスに上陸するも時間の問題でした。
B29が、日本に向けられることは、誰でも分かる事だったのです。
だから日本政府は、マリアナ諸島が占領されたら、降伏する事を閣議決定していました。
日本は、前の戦争の時とは違って、新型の戦闘機、陸軍機「疾風」や海軍機「紫電改」「烈風」を開発しようとしていました。
B29に対しても、ある程度の対抗する事はできますが、それでも防ぎきれる事はありません。
「英霊達」の強い意志で、何とか閣議決定をする事ができたのです。
しかし、実際にマリアナ諸島を占領されたら、それを応じるかは分かりません。
人間の意思が強かったら、「英霊達」の囁きも通じなかったのです。
しかも、この時には、「日本の英霊達」だけでなく、「米国の英霊達」もどんどん生まれていました。
彼らは、日本に「英霊達」がついていた事を知って、米軍を応援しようとしていました。
戦いは、日米の「英霊達」で行われようとしていたのです。
そんな中で戦いは、今度は、太平洋の島、ギルバート諸島の中で、飛行機場がある、タラワ・マキン・アパママの島に向けられたのです。
米軍は、そこから、マーシャル諸島、トラック諸島、マリアナ諸島と目指すつもりでした。
海兵隊や陸軍に、島を攻略する訓練を実戦でする必要もあってギルバート諸島の島を攻撃したのです。
だけど、その被害は、米軍の遥かに予想を越えていました。
この1年半の間に、日本軍は、陣地を造る時間をたっぷり得る事ができていました。
陣地は、セメントで固め、直接、戦艦の砲撃が当たらないかぎり破壊される事はありません。
食料のある程度自給自足ができて、武器弾薬も豊富で、最新の装備で待ち構えていました。
米軍に大きな損害を与える事に成功したのです。
しかし戦いは、結局、米軍が勝ちました。
小沢中将の機動艦隊は、救援に来なかったからです。
日本海軍は、トラック島から動かず、米軍を牽制し、飛竜、蒼竜、飛鷹、隼鷹と山城、扶桑、長門、陸奥のもう一隊が、米国と豪州のシーレンを破壊する為に出撃して、米軍を慌てさせ、何隻かの輸送船を沈め、何よりもオーストラリアの潜水艦の基地である、ケアンズを破壊していますが、この間に、タワラなどの島は落ちているのです。
だけど米軍の死傷者は、6千人を超え、4千人の日本軍よりも、遥かに大きかったです。
日本軍は、バンダイ攻撃も玉砕もせずに、武器弾薬がなくなった時点で、1千人は降伏していますが、それでもこれだけの被害を与える事で、米軍にショックを与えたのです。
でも米軍は、怯みませんでした。
3ヵ月後、訓練を必死で重ねた海兵隊をマーシャル諸島に向けました。
今度は、米海軍の一部をニューヘブリデイーズに待機させて、攻撃したのです。
また、この時の日本軍は、クェゼリンに7千、ミリに7千、ウォッゼに4千、マロェラップに五千、ヤルートに4千、クサイエに5千と、数は多くありませんでしたが、装備と弾薬に関しては、本当に充実していました。
虎視眈々と米軍を待ち構えていたのです。
それで、米軍は大被害を受けました。
降伏を認められているに日本軍は、追い詰められた悲壮感はありません。
バンダイ突撃などはせず、ただ、一人でも多くの米国の兵士を倒す事しか考えていませんでした。
洞窟から攻撃する日本軍を攻撃する事は難しく、米軍はここでも大きな被害を受けました。
日本軍と同数以上の死傷者を出したのです。
けれど、ここでも最終的に米軍は勝利を治める事ができました。
小沢中将は、多くの人から非難されながらも、決して米海軍とは戦おうとはしなかったからです。
こうして、マーシャル諸島も、米軍の手に落ちたのです。
そして、いよいよ米海軍の目は、東洋のジブラルタルいわれている、日本海軍の拠点、トラック島に向けられました。
トラック島を抑えたら、次はマリアナ諸島です。
米海軍は、トラック島に牙を向けたのです。
しかし、司令官のニミッツ大将も、参謀のスプルーアンス中将も、小沢中将が攻めて来ない事には、内心焦りを覚えていました。
日本海軍が攻めて来ないという事は、日本海軍は健在だという事です。
遠くない所で、睨みをきかせていたら、いつまでも、米軍の機動艦隊が、マーシャル諸島や、ギルバート諸島から離れる事ができません。
本拠地のハワイで兵隊に休養を与える事も、なかなかできなかったのです。
でも、それでも戦いは、米国に益々有利にはなっていました。
エセックス級の空母は、どんどん生産されて、その数は9隻になっていましたし、インディペンデンス級の軽空母は13隻も建造しました。
シープ空母を入れたら、その数は、日本軍を大きく凌ぎます。
半数をハワイに戻す事もできたのです。
また、米海軍のトラック島攻撃は、そんな中で、マーシャル諸島を落とした2ヵ月後に行われました。
今度は、米海軍は、トラック島の占領は考えていませんでした。
トラック島には、3個師団の日本軍がいるので、まともに攻撃したら、膨大な死傷者を出します。
航空機の攻撃で十分だと判断していたのです。
だけど、その飛行機の数は、千機を越えるというもので、トラック島で待機している200機の飛行機では、どうなるものではありませんでした。
トラック島の飛行機は、戦わずに、グアム、サイパンに撤退しました。
こうして、トラック島も、米海軍によって、大きな被害を受けたのです。
でも日本海軍は、トラック島から艦隊だけでなく、輸送船もすべて離していたので、実質的な被害は、そんなに大きくはありませんでした。
トラック島には、ゼロ戦20機と、彗星艦爆機40機、天山艦攻機40機、合計100機が隠されていたのです。
∞「マリアナ沖の空中決戦1」∞
トラック島の基地が破壊された事で、パラオで、待機していた小沢中将の機動艦隊は、全軍を本土に向けました。
次は、マリアナ諸島です。
小沢中将は、最初から、ここで決戦をするつもりでした。
太平洋にある全空母16隻を本土に引き上げる事にしたのです。
こうして、マリアナ諸島の海戦は、日本軍にしろ、米海軍にしろ、決戦だという事になったのです。
しかも、この戦いの前に、ノルマンディの上陸を成功させた英海軍もこの決戦に参加する事になっていました。
英空母、4隻も参加したのです。
これに、ニューヘブリデイーズで待機している空母4隻も加わり、米海軍の戦力は圧倒的でした。
エセックス級空母10隻、インディペンデンス級の軽空母13隻、ジープ空母20隻、英空母4隻で、マリアナ諸島を目指し、早々と、サイパン、グアム、テニアン、硫黄島、ウルシーの飛行機場を攻撃したのです。
その上で、サイパン島に、艦砲射撃を加えたのです。
しかし、日本軍も負けてはいませんでした。
シーレンを守っていた軽空母は、米海軍の潜水艦の攻撃で、5隻沈められていますが、16隻の正式空母は、まだ一隻も撃沈されていません。
これに今迄、東南アジアと日本本土の間のシーレンを守っていた軽空母の龍鳳、千歳、千代田、瑞鳳も加わっていました。
日本も全艦隊で、マリアナ決戦を戦うつもりだったのです。
しかも日本軍には、新兵器がありました。
海軍は、紫電改、陸軍は、疾風という新型戦闘機が完成していました。
インド海を抑えた事で、スエズ運河を通して、東南アジアの資源と交換に、ドイツからの技術協力や工作機械を買って、完成させた航空機ですが、特に疾風の性能は、F6戦闘機を凌いでいました。
日本海軍は、そんな新型機、紫電改を600機、空母に積んでいたのです。
また陸軍は、疾風戦闘機を、フィリピンのレイテに300機集め、パラオ諸島、トラック諸島方面に進めて、マリアナ決戦に参加するつもりでした。
こうして、日本軍も、マリアナ諸島に向かったのです。
ですが、その中でも日本海軍の進路は、大方の予想を裏切るものでした。
小沢中将は、すぐに南下せず、機動艦隊を東に大きく向けると、大回りして、南鳥島、エニウェトクと向かって、米海軍を慌てさせました。
マリアナ沖で、潜水艦で待ち構えていた米海軍の裏をかいた事と、潜水艦に対して、細心の注意をした事で重巡艦に魚雷を1発貰うだけですんだのです。
その上に、小沢中将は、米海軍の背路を遮断する事で、スプルーアンス中将を混乱させる事に成功していました。
小沢中将は、全滅する覚悟かもしれない。
全滅覚悟でマリアナに来られて、サイパン島の米軍に、戦艦で砲撃されるだけで大変な事になる。
米海軍は、内心焦りながら、サイパン島を北上していた米英空母27隻は、急いで、日本の機動艦隊を追うと、サイパン島の西に来たのです。
ですから、日本と米軍は、小沢中将とごく少数の参謀以外は、誰も予想しなかったサイパンの西で、決戦する事になったのです。
しかも小沢中将には、米軍をアッと言わせる秘策がありました。
小沢中将は、第三次ソロモン海戦の体験で、空母は、搭載する飛行機がなくなったら、何の価値もない事に気がついていました。
単純な事ですが、空母は飛行機がなかったら、何の戦力にもならないのです。
それで小沢中将は、まず、米海軍の飛行機を全部落とす事を考えていました。
その為に、空母に搭載する飛行機は、9割戦闘機を積む事にしていました。
F6F戦闘機でも追いつけないという新型の艦上偵察機「彩雲」を16空母に各5機と、猛訓練で、新兵器の飛行機から落とす3式弾を何とか落とせるように成った彗星が各3機、
米国の艦隊を発見できる電探を装備した天山が各2機で、後は正式な戦闘機として採用された紫電改が半数と残りはゼロ戦だったのです。
すなわち、彩雲が80機、彗星が48機、天山が32機、紫電改が600機、ゼロ戦が500機、合計で1260機という膨大な数だったのです。
しかし米海軍は、その2倍の数がありました。
エッセンス級空母10隻には、F6F戦闘機が、各空母、40機で、400機、SB2Cヘルダイバー爆撃機が45機で、450機、TBFアベンジャー艦攻機が、15機で150機、インディペンデンス級軽空母には、F6F戦闘機が、各空母35機で、455機、TBFアベンジャー艦攻機が、10機で、130機、英空母4隻で、F6Fが120機、B2Cが60機、TBFが60機、米英合計で、F6Fが975機、B2Cが510機、TBFが340機、1825機も積まれていたのです。
しかもジープ空母20隻にも、20機の戦闘機と14機のSBU爆撃機が積まれていました。
F6F戦闘機が200機、F4戦闘機が200機、SBU爆撃機が280機もありました。
通常の戦いなら、日本海軍が、勝てるはずはなかったのです。
でも、「英霊達」に背景で囁かれていた小沢中将は、練りに練った作戦を実施しました。
まず、日本海軍が、全滅覚悟で、夜戦を仕掛ける為に、猛接近をさせると想わせた上で、彩雲偵察機の活躍で、いち早く、米海軍の位置を掴み、次に、遠い距離から米海軍の偵察機にわざと発見させて、スプルーアンス中将に、遠距離から攻撃させました。
F6F戦闘機や、B2C艦爆機は、航続距離が、日本機よりも小さい1900キロで、小沢中将はその攻撃距離に入ると、わざと逃出して、スプルーアンス中将に攻撃を決断させたのです。
こうして、マリアナ沖海戦が7月20日に始まりました。
米海軍は、第一次攻撃隊として、米英の20隻の空母から、F6F戦闘機300機、B2C爆撃機350機、TBF艦攻機190機、45分後、第二次攻撃隊は、F6F戦闘機、220機、B2C爆撃機160機、TBF艦攻機150機を自信一杯で出撃させたのです。
でも合計1370機にも及ぶ米軍機の動きは、すぐに彩雲偵察機によって、掴まれていました。
小沢中将は、彩雲偵察機20機を、米海軍機ように配置していて、細かく把握していました。
第一次攻撃機が届く前に、1100機の戦闘機を全部、上空にあげていました。
航続距離が長いゼロ戦が最初に500機、次に紫電改が、600機が全機発進したのです。
その上に、小沢中将は、数々の工夫をしていました。
多くの部下が、「英霊達」の密かに指導によって、共に考えたアイデアです。
それは、機動艦隊は、彩雲偵察機から位置を確認して、できるだけ米海軍機から逃げる事で、燃料を使わせる事から始まり、第一航空戦隊の装甲空母の大鳳、伊勢、日向を囮として、前面に立たせる事や、護衛の駆逐艦は、対空兵装を強化した防空巡洋艦を、第一航空戦隊の3隻の装甲空母と、次の第二航空戦隊の飛鷹、隼鷹、瑞鳳にできるだけ、集めるといった事でした。
通常は、一つの航空戦隊は、3隻の空母に、1軽巡と9隻の防空駆逐艦という編制を組んでいたのですが、第一航空戦隊と第二航空戦隊には、2軽巡と15隻で、編制を組む事にしていたのです。
しかも、戦艦や空母には、新兵器の対空噴進砲という一種のミサイルを設置していたのです。
その上に、小沢中将には秘策がありました。
それは戦艦や重巡洋艦に搭載する三式弾を有効に使うという事でした。
三式弾は、威力はあったのですが、高速で飛ぶ飛行機に狙いをつける事は、なかなか難しく、その効果は、限界がありました。
でも、味方の空母の上空、3千メートルに狙いをつけるという事であれば別です。
つねに照準を合わせられます。
その為に、小沢中将は、空母に3千メートル上空を飛ぶ風船をつけて、それを3式弾で落とす訓練をして、見事に成功させていました。
第一航空戦隊の3隻の空母には、並列に金銅、比叡、霧島、榛名の高速戦艦や6隻の重巡洋艦を走らせて、米軍機が、空母の上空に来たら、3式弾をお見舞いするつもりでした。
各戦艦に30発ずつ三式弾を用意していたのです。
これと第二航空戦隊を護衛している大和、武蔵、長門、陸奥の3式弾を合わせたら、空母の上空は鉄壁になっていたのです。
だから、米海軍機と日本海軍機の空中決戦は、日本海軍機の圧勝でした。
米海軍機は、逃げる日本の機動艦隊によって、余分な燃料を使わされて、燃料がギリギリの所で、発見したと想ったら、待っているものは、1100機もの戦闘機でした。
しかも、日本海軍は、28機の彗星を上空に上げていて、レーダーの誘導の元に、三式弾を米海軍機の編隊に落として、何十機の米海軍機を落とす事に成功しました。
米軍のパイロットの肝を冷やさせて、冷静さを失わせたのです。
その上に、初めて見る紫電改の性能にも、驚かされました。
紫電改は、F6Fにも負けない性能で、操縦するのは、太平洋戦争を初期から戦っていた優秀なパイロットです。
この時に、小沢中将が今迄、ずっと多くの人に非難されながらも、あえて戦わずに優秀なパイロットを温存していたことがいきました。
F6Fを必死で研究しているのと、まったく紫電改の性能を知らないのでは、大きな差がある事もあって、第一攻撃隊の300機のF6Fは、倍の紫電改600機によって、翻弄されました。
F6Fは、艦爆、艦攻の護衛をしないといけないという不利な立場で戦い、4機から5機に紫電改が1機という率で落とされる事になったのです。
また、500機のゼロ戦は、F6Fを紫電改に任せ、B2C艦爆機やTBF艦攻機を相手にしていました。
ゼロ戦は、新米のパイロットが操縦していましたが、相手が艦爆や艦攻であれば、勝負になりません。
500機のゼロ戦も、350機のB2C艦爆機や190機のTBFの艦攻機を次々と落としたのです。
その上に、ゼロ戦から逃れられたB2C艦爆機に待っていたのは、戦艦や重巡洋艦の3式弾の嵐や、空母からの噴進砲のミサイル弾でした。
まったく予想していなかった米海軍のパイロットは、恐怖のあまり冷静さを失いました。
ここでも100機ちかくを落とされてしまいました。
結局、350機のB2C艦爆機で与えた被害は、大鳳に爆弾2発、伊勢に爆弾一発だけだったのです。
でも、もっと悲惨だったのは、TBF艦攻機でした。
ゼロ戦は、小沢中将の命令で、航続距離が長い艦攻機を狙い内にしていました。
スピードの遅い艦攻機は、艦爆機よりも、攻撃しやすい事もあって、多くのTBF艦攻機は、空母にたどり着く前に落とされました。
その上に、やっとたどりつけても、待っていたのは防空駆逐艦と空母の噴進砲でした。
魚雷を20発ちかく放ちましたが、どれも距離が遠いと言う事もあって、1発を大鳳に当てる事ができただけだったのです。
こうして、米海軍機の第一次攻撃は終わりました。
ほうほうのていで逃げたのです。
しかし、日本の海軍機は、米海軍機を逃がしませんでした。
120機の紫電改が、F6F戦闘機を、90機のゼロ戦が、取り逃がしたB2C艦爆機を執拗に追いかけました。
航続距離が長くないF6FとB2Cは、追いかけられるので、全速力で逃げなくてはならず、燃料を使う事になります。
小沢中将からは、F6F戦闘機に関しては、あえて攻撃せずに、追いかけるだけでいいという命令を受けていました。
100機以上のF6F戦闘機は、生き残っていたのですが、30分ちかく追いかけられた為に、結局、燃料を使い果たしたのか、多くのF6Fが、空母にたどり着く前に、海上に不時着することになったのです。
こうして、米海軍機の第一次攻撃隊は、20機のF6F戦闘機とB2C3機を覗いて、全滅してしまったのです。
それに対して日本海軍機の損害は、紫電改40機、ゼロ戦が30機程度ですんだのです。
∞「マリアナ沖の空中決戦2」∞
しかも、その上に、米海軍機の悲劇は、まだ続きました。
第一次攻撃隊の報告を待っていたスプルーアンス中将は、攻撃隊の予想もしなかった報告に驚きましたが、その全貌はなかなか無線ではつかめませんでした。
攻撃機は慌てて報告していましたが、「罠だ」とか、「新戦闘機が無数」では、はっきりとした事は分かりませんでした。
予想もしない事が起こった事は分かっても、まさか、第一攻撃隊が3パーセントしか戻って来られないなんて想像もしませんでした。
それで、米海軍は、第2次攻撃隊を引き返させる事ができませんでした。
積んでいる爆弾や魚雷を落として引き返す事は、空母に積んでいるものは限られているので貴重です。
時間的にいっても、もう手遅れでした。
後20分もすれば、日本の機動艦隊につきます。
無線で連絡しても、米海軍機に確実に命令が届く事は限らなかったのです。
しかも、第2次攻撃隊が途中で引き返す事を恐れていた日本海軍は、ゼロ戦、100機を空母の護衛に残すと、紫電改340機、ゼロ戦280機を、米軍の第2次攻撃隊に、彩雲偵察機の案内で向かわせました。
彩雲偵察機の活躍で第2次攻撃隊の大予想の位置は分かっていて、日本海軍機を捕える事ができたのです。
こうして、再び、米英と日本の空中戦が始まったのです。
だけど、その結果は同じでした。
彗星の空中三式弾の投下から始まり、F6F220機と紫電改340機、B2C艦爆機160機とTBF艦攻機150機とゼロ戦280機の戦いが始まったのです。
そしてこの戦いでも、日本海軍機は圧勝しました。
紫電改は、第1次攻撃隊のように、倍の数では戦えませんでしたが、120機も多いです。
その上に、F6Fを追い駆けていた紫電改120機も、少しずつ戦いに加わっていました。
最初の戦いで、経験を少し積んだ事もあって、無理をせずに、できるだけ燃料を使わせる事に専念した事もあって、被害を抑える事ができたのです。
しかも、米海軍機にとって、致命的だったのは、引き返す命令がなかった事です。
B2C艦爆機、TBF艦攻機は、まだ見えない空母を攻撃する事に拘り、次々とゼロ戦の犠牲になりました。
艦爆機、艦攻機を護衛していたF6Fは、逃げる事もできず、紫電改によって落とされました。
艦爆機、艦攻機が諦めて、爆弾、魚雷を落として、逃出した時にはもう手遅れでした。
ゼロ戦に退路を抑えられていて、次々と落とされてしまいました。
航続距離の長いゼロ戦は、最後までB2C艦爆機とTBF艦攻機を追い駆けて、ほぼ全滅させてしまいました。
F6Fも、再び燃料を使いすぎて、生き残っていた120機の中で、戻ってきたのは、早々と逃出したB2C艦爆機2機とF6F戦闘機5機だけでした。
それに比べて、日本海軍機の損害は、紫電改が30機、ゼロ戦が40機でした。
第2次日本対米英の空中戦も、日本の圧勝だったのです。
さあ、その結果に驚愕したのは、スプルーアンス中将達です。
第一攻撃隊840機出撃させて、戻って来られたのはたったの23機です。
初めて、小沢中将に嵌められた事を悟りました。
生き残った第一次攻撃隊からの報告を受けて、第二次攻撃隊が戻ってくると大急ぎで収容すると、慌てて逃出したのです。
しかし、小沢中将は、そんな米英海軍の航空機に留めを刺しました。
F6F戦闘機は、まだ、空母の護衛として、455機残っています。
小沢中将は、米英空母を追い駆け、戻った紫電改、ゼロ戦に、2時間の休養を与えると、ゼロ戦100機を護衛として残して、全機、出撃させました。
米英海軍がいろんな対策を少しでも練る前に、F6F戦闘機を破壊したかったのです。
こうして第三次空中戦が始まりました。
損傷したものもあって、出撃できた機は紫電改450機、ゼロ戦は250機、彗星30機、電探を備えた天山が5機でしたが、彩雲偵察機の案内で、今度は米空母に向かったのです。
でもこの戦いは、上空にいた彗星は、報告を受けていた米海軍が、レーダーで捕えて、F6Fを向けた事で、失敗して3式弾を放つ事はできずに、逃げ帰る事になりましたし、紫電改もF6Fの前で苦戦しました。
もう米軍のパイロットは、紫電改を見ても、びっくりしませんでした。
その性能は、はっきりとは分からなくても、日本が恐るべき新戦闘機を開発した事は理解しました。
455機対450機で互角の勝負をしたのです。
でも、この戦いも勝利したのは、日本海軍機でした。
後から駆けつけたゼロ戦250機の存在は大きかったからです。
F6F戦闘機は、途中からまったくタイプの違う紫電改とゼロ戦の両方と戦う事に戸惑い、次々と損害を増やしました。
2対1の確率で落とされてしまいました。
墜落した機は、F6Fは250機に対して、紫電改は120機、ゼロ戦は30機という事で、決着がつきました。
航続距離がゼロ戦程長くない紫電改は、そこで引き上げ、F6Fも無理して追い駆けようとはしませんでした。
航続距離が長いゼロ戦がいる以上、下手に追い駆けたら、今度は、やぶへびになります。
多くのF6F戦闘機は、負けている事のショックで、追い駆けてまで、日本の海軍機を攻撃しようとはしなかったのです。
こうして、日本対米英のマリアナ沖の空中戦は終わりました。
小沢中将は、ほぼ計画どおり、米軍の飛行機を落とす事に成功したのです。
しかも、小沢中将は、陸軍に依頼して、パラオ諸島と、トラット諸島から、陸軍の新型戦闘機、疾風を150機ずつ、同じ時間、昼の1時に、米海軍の軽空母に攻撃して貰う事を依頼していました。
フィリピンのレイテから、パラオ諸島、トラックと渡った疾風は、彩雲偵察機の案内で、米海軍の20隻の軽空母を襲い、護衛していたF6F戦闘機200機、F4戦闘機200機と戦い、ほぼ全滅させる事に成功しました。
日本の飛行機が、飛行機場を修理したトラック諸島、パラオ諸島から、飛んできているという情報を得た米海軍は、マリアナ諸島の日本軍を攻撃している戦闘機を全部寄り戻して、万全の体制で望んだのですが、疾風の敵ではありませんでした。
疾風は、紫電改を凌ぐ性能があって、F6F戦闘機でも、敵ではありませんでした。
ましてやF4戦闘機では相手になりません。
陸軍も優秀なパイロットを集めていました。
数で上回る事もあって、油断している400機の米軍の戦闘機を完璧に叩きました。
F6F戦闘機は150機、F4戦闘機は180機を海の藻屑にしました。
これに対して、疾風の損害は、80機にもならなかったのです。
こうして、陸軍の空中戦でも、圧勝しました。
米海軍は、たった一日で、稼動できる飛行機は、F6F戦闘機が、米空母130機、英空母30機、米軽空母はF6Fが30機、F4戦闘機10機、爆撃機は、SBU爆撃機が280機という事になってしまったのです。
これに対して、日本の空母には、紫電改が300機、ゼロ戦が300機が健在でした。
しかも日本には本土やレイテから、彗星艦爆機、天山艦攻機も発進されて、硫黄島、パラオ諸島、トラック諸島の飛行機場一杯に集められていました。
日本軍が圧倒的に有利になっていたのです。
∞「マリアナ沖海戦」∞
7月21日、マリアナ沖海戦の翌日、スプルーアンス中将の機動艦隊は、軽空母や米英の戦艦と合流すると、マーシャル諸島への全軍撤退を決めました。
硫黄島、トラック諸島、パラオ諸島に、戦闘機だけでなく、海軍攻撃機が続々と集っているという情報が届いていました。
日本の空母にあるゼロ戦や紫電改の代わりに、彗星艦爆機や天山艦攻機が搭載される事は、日を見るよりも明らかでした。
愚図愚図していたら、日本の空母や艦隊に各個に撃破されて、全滅してしまいます。
残された道は、小沢中将が待ち受けている、マリアナ諸島の東に進んで、戦うしかありませんでした。
何があっても、マーシャル諸島に逃げ込むしかなかったのです。
こうして、戦艦「ニュー・ジャージー」を旗艦として、米艦隊「アイオナ」「マサチューセッツ」「インディアナ」「ミズリー」「ウィスコンシン」「アラバナ」「アラスカ」「アイダボ」「ニューヨーク」「テキサス」英艦隊「ハウ」「アンソン」「リナウン」の14隻の戦艦を中心して、米艦隊は、重巡洋艦7隻、軽巡洋艦7隻、駆逐艦88隻、英艦隊は、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦32隻が、輸送船50隻、エッセンス空母16隻、英空母4隻、軽空母20隻を守って、小沢艦隊に突入したのです。
しかし、小沢中将は、そんな米英海軍に対して慎重でした。
大和、武蔵があるとはいえ、数の上では、10隻の日本の戦艦に対して、米英海軍は15隻と上回っています。
他の艦隊の数は、重巡洋艦16隻、軽巡10隻 防空軽巡洋6隻、駆逐艦30隻、防空駆逐艦72隻とほぼ互角ですが、油断はできません。
米英艦隊は、マリアナ諸島の日本陣地を砲撃した事で、砲弾が3分1から半数を使っている不利がありますが、それだけに死ぬ気で戦うつもりでいます。
相当な被害は覚悟していたのです。
しかし、日本海軍は、この艦隊決戦を夢見て、ずっと何十年も苦労していました。
日本海軍の将兵に取っては、望む戦いだったのです。
そしてそんな中で、7月21日、昼の2時に、日本艦隊と米英艦隊は、激突したのです。
また、この戦いでも、最初に行なわれたのは、12時頃の空中戦でした。
米英海隊は、日本艦隊が、飛行機の攻撃範囲に入ると、迷わずに、F6F戦闘機190機、F4戦闘機10機、爆撃機は、SBU爆撃機が280機を全機出撃させました。
空母ではなく、攻撃できる船があったら、何でもいいから攻撃するように、命令していたのです。
また、それに対しても、日本艦隊も、待っていたよと紫電改300機、ゼロ戦250機を出撃させました。
米英海軍機と日本海軍機は、死にもの狂いで戦ったのです。
しかし形成は、戦闘機の量で勝る日本海軍機がやはり優勢でした。
しかも日本海軍には、トラック諸島からの援軍がありました。
疾風50機に護衛された彗星艦爆機70機、天山60機も、応援に参加したのです。
こうした中での空中戦で、F6F戦闘機もSBU爆撃機も航続距離が日本機に劣る事があって全機落ち、日本海軍は、紫電改90機とゼロ戦80機を落とされ、艦艇は防空駆逐艦5隻と軽巡洋艦に爆弾を貰うという被害を受けました。
4隻の防空駆逐艦は沈没し、軽巡洋艦1隻と防空駆逐艦1隻は、大破して戦場から離脱したのです。
これに対して、日本海軍機は、トラック諸島からの攻撃機の活躍で、あえて米空母は無視すると、駆逐艦10隻と重巡洋艦2隻、戦艦2隻に魚雷や爆弾を命中させています。
日本の勝ちだったのです。
でも、米軍の反撃も大きかったです。
米軍のVT信管による対空砲撃は強力で、F6F戦闘機の護衛がないのに、彗星艦爆機30機、天山45機は、落とされたのです。
そして戦いは、今度は、日本艦隊と米英艦隊の海の戦いに移りました。
だけど、この戦いでも、ゼロ戦は活躍しました。
小沢中将は、米英艦隊の対空砲撃のすごさに驚きながらも、予定していたゼロ戦に、爆弾を積む戦爆として出撃させたのです。
だから先頭をつとめた10隻の戦艦と重巡洋艦16隻、軽巡10隻、駆逐艦30隻の日本艦隊と同じく先頭をつとめた空母の護衛をする艦隊を除いた米英軍の15隻の中心とした戦艦と、重巡洋艦12隻、軽巡10隻、駆逐艦40隻との激しい砲撃戦には、空中からのゼロ戦の援護がある日本海軍が有利でした。
米英艦隊は、日本艦隊との戦いの最中に、空からゼロ戦で攻撃され、対空砲撃が満足にできず、VT信管の強みがいかせなかったのです。
でも、それでも、マーシャルへの道を明けようとする米英艦隊は、あくまでも塞ごうとしている日本艦隊と必死に戦ったのです。
それで昼の戦いで、日本は、戦艦「山城」と「金銅」、重巡洋艦2隻、軽巡4隻、駆逐艦6隻が沈没し、米国の戦艦は、「アラバナ」「アラスカ」「ニューヨーク」「テキサス」英国の戦艦は、「ハウ」が沈んでいます。
他に米英の艦隊では、重巡洋艦6隻、軽巡4隻、駆逐艦20隻が沈んでいますが、空母や輸送船は、1隻も沈みませんでした。
米海軍は、空母や輸送船は、夜になるまで、日本艦隊に突入させるのを避けていましたし、日本海軍も、あえて、空母や輸送船に対して、何故かこの時点では、いっさい攻撃をしようとしなかったからです。
だから、先頭で戦った米軍の犠牲のおかげで、マーシャルの道は一端開きました。
夜になると、米英の艦隊は必死に逃げ込み、日本の艦隊は追い駆けていたのです。
しかし、日本海軍の攻撃も激烈を極めていました。
日本の艦隊から放たれる酸素魚雷の威力は強力でした。
米英とは、性能で比較にならないぐらいよかったのです。
その上に、潜水艦の攻撃から艦隊を護衛する水上機を25機ずつ積んでいた3隻の特務水上機母艦には、高速魚雷艇を30隻ずつ積んでいました。
高速魚雷艇も空母を追い駆けると、魚雷を1発当てて、スピードを落とさせるという活躍をみせたのです。
しかも米英の艦隊は、これからはもう飛行機の時代と言う事で、マリアナ諸島の戦いでは、艦隊決戦は想定していませんでした。
防空巡洋艦として、魚雷を外しているものも多く、艦隊決戦を最初から考えて、密かに訓練していた日本とは大きく違っていました。
日本艦隊は、空母を護衛する役目の、防空軽巡洋艦6隻、防空駆逐艦40隻を、第2陣、第3陣として待機させていて、これが足の速い、空母を捕える事に大きな力になったのです。
また、朝になると、ゼロ戦に爆弾を積んだ戦爆やトラック島や硫黄島から飛んできた彗星、天山を、飛鷹、隼鷹、龍鳳、千歳、千代田、瑞鳳が中継して、飛竜や蒼竜、瑞鶴などの10隻の空母に運び、米英戦艦や空母に攻撃を集中させました。
2日後、マーシャル諸島に逃げ込んだ米国の艦隊は、重巡洋艦2隻と軽巡洋艦が1隻、駆逐艦が20隻、英国の艦隊は、重巡洋艦2隻、駆逐艦8隻で、戦艦や空母は、軽空母を含めて1隻もありませんでした。
戦艦は、最後まで殿を務め、日本艦隊の袋叩きにあいました。
スプルーアンス中将などの多くの幕僚も責任をとって、「ニュー・ジャージー」ともに沈んだのです。
その上に日本の艦隊は、輸送船と空母を集中して攻撃し、エッセンス空母5隻、インディペンデンス級軽空母6隻、英空母2隻、ジープ空母5隻、輸送船10隻を沈め、後のエッセンス空母5隻、インディペンデンス級軽空母7隻、英空母2隻、ジープ空母15隻、輸送船40隻を捕獲するという大きな収穫を得ています。
空母や輸送船に乗っている乗組員は、船が沈没すれば、他の船に乗り込む訳にもいかず、ある程度被害を受けて、船にスピードが出なくなったら、降伏したのです。
こうしてマリアナ沖の海戦は、日本海軍の大勝利でした。
日本は、日露戦争の時の、日本海海戦以上の勝利を治め、世界を驚かせました。
米国の海軍は、作戦に参加したすべての空母を失うという大敗北に、再び、再建するのに2年は必要になったのです。
しかも、米軍にショックを与えた事がもう一つありました。
それが日本陸軍の新戦闘機、疾風の存在でした。
米軍は、マリアナの米英海軍を助ける為に、マーシャル諸島やギルバート諸島から、必死でB29やB17を繰り出していました。
日本が、トラック諸島、パラオ諸島、硫黄島の飛行機場を修復させたという情報を得ると、戦略爆撃機B―29を、空の要塞をP-51マスタング戦闘機に護衛させて、20機、30機で攻撃したのです。
でもその事は、彩雲偵察機からすぐに報告され、日本軍は、疾風を出撃させていました。疾風は、B29を護衛している世界一の戦闘機といわれているP-51マスタング戦闘機
とも互角以上に戦い、1万メートル以上も高く飛ぶB−29に対しても、攻撃しました。
日本は、ドイツからの技術援助で、空気の薄い高々度でも飛行性能を確保する為に、必要な航空エンジンに組み込む過給器を開発し、疾風につけていました。
B−29を何機も撃墜したのです。
しかも日本軍は、疾風にも3式爆弾を積んでいました。
上空から落とされる爆弾は、B−29のパイロット達にも恐怖を与えました。
米軍が、例えマリアナ諸島や中国から、P−51マスタング戦闘機やロッキ−ド P−38ライトニング戦闘機に護衛させてB−29を発進させても、疾風がいる限り大きな被害を受けてしまいます。
米国政府も、この戦争はなかなか終わらない事を、改めて認識して大きな衝撃を受ける事になったのです。
∞「終戦」∞
7月20日から7月23日に及んだマリアナ沖海戦の結果は、米国に衝撃を与えました。
米国政府も、すべてを隠す事ができずに、ある程度はマスコミを通して報告しましたが、あまりの敗戦のショックに、米国民の怒りは、米海軍や政府に向けられました。
「ハワイの沖」の決闘の時から、米国民は、日本との戦争は、堂々とした紳士の決闘だと考えている人がたくさんいました。
敵国である日本よりも、見事に負けた自国の政府や軍に、批判が向けられていたのです。
ドイツとの戦いが、やっと終わろうとしているだけに、日本と再び、何年も戦って、米国民の血をこれ以上流す事に耐えられなかったのです。
またそれは、米国政府も同じでした。
1年前に亡くなったルーズベルト大統領の代わりに、大統領になったトールマン大統領も、マリアナ沖海戦で、米国海軍が壊滅するとは夢にも想いませんでした。
空母も戦艦も、大西洋にあるものを持って来ないといけませんが、数は多くありませんし、3ヶ月間以上もかかります。
その間に、マリアナ諸島に置き去りにされている10万以上の米軍兵士は人質になってしまいましたし、マーシャル諸島やギルバート諸島を日本軍に攻められたら、防ぎようがなく、どうするか、頭の痛い問題でした。
何よりも、国民の怒りと日本との戦いの嫌戦気分が出ていて、これ以上、戦う事は続けられそうもなかったのです。
しかしトールマン大統領には、取って置きの切り札がありました。
原子爆弾です。
開発が遅れていた原子爆弾は、やっと完成していました。
それを日本海軍がいるトラック諸島や、パラオ諸島に落とす事が急遽決定されました。
8月6日トラック諸島、8月9日パラオ諸島に落とされようとしていたのです。
これで一気に、日本との戦争の決着をつけようとしたのです。
「英霊達」の一番恐れていた事、日本は勝ちすぎた為に、原子爆弾の投下が行なわれようとしていたのです。
しかも、これは、日本の英霊達には止める事はできませんでした。
米国の事は、「日本の英霊」には、どうする事もできなかったのです。
でも、この時に、ハワイ沖の決闘で戦死したハルゼー中将や、マリアナ沖海戦で戦死したスプルーアンス中将などの多くの米国の「英霊達」が動きました。
米国の「英霊達」も死んだ事で、人類の過去や未来を知る事ができました。
ヒットラーと同じだと信じていた昭和天皇が、ヒットラーとは違うと言う事も理解しました。
戦争を始めた時の昭和天皇の苦渋を知る事もできました。
天は、今の戦いだけでなく、日本の英霊達が拘わる前の「本当の太平洋戦争」の真実も見せてくれました。
昭和天皇が、アジアの解放と、日本の軍事政権の崩壊を願って、太平洋戦争をする事が、日本国民の総意ならとあえて止めようとしなかった事に感動したのです。
その上に、亡くなったルーズベルト大統領が、太平洋戦争をわざと仕組んでいた事も知りました。
昭和天皇やルーズベルト大統領の心が全部分かったのです。
今迄、自分達が真実だと想っていた事が、違っていた事も理解したのです。
日本だけでなく、自国や英国も悪いと想うようになっていたのです。
しかも軍人だけでなく、アインシュタイン博士などの科学者の霊達も、これに参加しました。
「すべての米国の英霊達」には、朝鮮戦争、ベトナム戦争、米ソの冷戦の終了、湾岸戦争、イラク戦争という未来も見せられました。
その未来では、核兵器が世界中に広がり、米国は超大国として君臨して、最後には世界の国から嫌われて、人類を滅亡させようとしていました。
「米国の英霊達」は、第三次世界大戦が、イスラエルとパレスチナの憎しみがきっかけになって、始まった未来も見せられたのです。
それで、「米国の英霊達」も、米国がこのまま太平洋戦争で勝利する事が、米国の為にはならないと考えるようになりました。
原爆は、その威力を世界中の人に知らせてはならない。
世界の国が集って新しく結成された国連決議で、その本当の威力を分からないままに、研究を禁止すべきだと考えていたのです。
だから、「米国の英霊達」は、原爆を使う事は、止めさせるように動きました。
多くの政府の指導者や、トールマン大統領に囁いて、止めさせようとしたのです。
しかし、怒りに燃えている米国政府の決意は固く、それは難しかったのです。
そんな「米国の英霊達」に行為に励まされて、「日本の英霊達」が、動いたのはその時でした。
「日本の英霊達」の囁きで、日本の指導者、東条英機首相などは、マリアナ沖の戦いで勝利をした事で、辞任を決意すると、新しく首相になった山本五十六は、米英両国に和平を求めました。
アジア諸国の独立を条件に、「これ以上の血は流せない」と事実上の降伏をしたのです。
しかも日本政府は、米国政府だけでなく、世界中のマスコミに報道して、米国民に訴えました。
「もう戦争はいい、日本はもう二度と外国を侵略する戦争はしない。」
日本の昭和天皇はそう終戦を世界に宣言したのです。
この日本の「外国を決して侵略しない」という決断は、世界中、特に米国民を驚かせたのです。
しかし実は、この当時、もう日本は戦う力を無くそうとしていました。
米国の艦隊は、壊滅させたとしても、潜水艦の脅威は残っていました。
「英霊達」も、日本のシーレン確保に努めていましたが、もう限界でした。
技術力が違いすぎました。
米国の潜水艦は、レーダーを備え、次々と日本の輸送船を沈め始めていました。
日本海軍は、駆逐艦や軽空母、水上機を使って、必死でシーレンを守っていましたが、護衛している駆逐艦や軽空母さえ沈められるしまつです。
東南アジアからの資源は、日本に入りにくくなっていたのです。
また、同盟国のドイツが敗戦した事も、日本に大きな衝撃を与えました。
世界を相手に一国で戦わないといけません。
独立したアジア諸国も、日本と心中する事は望んでいませんでした。
ここで戦争を止めなければ日本は滅亡する、日本の指導者は、「英霊達」のおかげで正しく世界の情勢を認識していました。
日本の指導者は、米国が原爆を開発したという事も掴んでいたのです。
それで陸軍、海軍の若手の中には、想わないマリアナの沖の大勝利に、好戦を望む人も多かったのですが、小沢大将さえもうこれ以上は無理だという以上、どうする事もできませんでした。
実際に、米国と戦ってみて、マリアナ沖の戦いで、本気で勝てると想っていた若手は少なく、戦争を止めるという山本五十六にあえて抵抗する人間はいなかったのです。
そしてその日本政府の決断は、米国政府を動かしました。
日本が、降伏するという以上、もう戦争を継続する意味がありません。
本音をいえば、米国と互角に戦う日本国を、二度と戦えないように占領したいのですが、米国民が、これ以上の戦いは、望んでいませんでした。
米国民も、日本の潔さに感銘したのです。
トールマン大統領も、もう戦わないと言う日本に、原爆も落とすわけにもいかなかったのです。
その上に、「米国の英霊達」の囁きで、科学者の一人が、米国が新型原子爆弾を開発して、トラック諸島に落とそうとしている事をリークしました。
これで、原爆の事を知ったアジア諸国だけでなく、世界各国が非難しました。
原爆の開発は止める動きが、英国、ソ連、フランスなどでも起きたのです。
こうして、原爆の投下は中止され、日本と米国は、戦争を一端停戦すると、和平の話し合いをハワイで8月13日から行なわれました。
山本五十六首相は、切腹覚悟で、命懸けで参加したのです。
だけど、ここで米国政府が迫った条件は過酷でした。
日本に対して大幅の軍縮を望み、東条英機元首相などの何人かの責任者の処罰まで求めたのです。
何とか、和平を蹴って、戦争を継続して、日本を占領する事が、米国の狙いだったのです。
でも、そんな目論見は、東条英機の決断で救われました。
山本五十六首相は、戦争責任者をA級戦犯として、連合国が日本人を一方的に処罰する事に反対し、戦争の継続も覚悟しましたが、その事を、人を通して知った東条英機は、すべての責任を自分一人で背負うと、自ら死を選んだのです。
この事で、世界の世論は、日本に対して一気に同情しました。
米国政府は、マリアナ諸島や、トラック諸島、パラオ諸島に対しては、日本に任せるという事で、8月15日についに和平に応じたのです。
∞「それからの日本」∞
8月15日、終戦をした日本は、米国の条件であるシビリアン・コントロールを徹底させると軍備力を大幅に捨てました。
昭和天皇の意志である戦争放棄を実施する為に、軍は専守防衛に徹すると、自衛隊に名称が代わり、予算は大幅に減りました。
しかも日本は、「世界中の軍備を無くす事」を国家の目標に掲げ、二度と他国を一切侵略する事を誓った新たな日本国憲法を、世界の助言を貰って作りました。
憲法第九条です
山本五十六首相は、それを見届けると、半年後には、首相を辞任したのです。
後は、一切、政治に拘わらず、悠々の自適生活で暮らしたのです。
また、米国とは日米安全保障条約が結ばれました。
日本は、軍事は米国に任せ、農地改革などの国内を大きく改革して、経済大国を目指し、それは見事に成功しました。
戦後日本は、米国が市場開放してくれた事もあって、経済大国として繁栄したのです。
そして、独立したアジア諸国は、戦後新しく繁栄した日本を見習って、成長していく事になりました。
中国は、蒋介石が敗れて、台湾に逃げ込んだので、共産圏の国になりましたが、朝鮮、ベトナムは南北に分断される事もなく、戦争も起きなかったのです。
そして核兵器は、戦後結成された国連の厳しい監視の元で、どこの国も開発はできなくなりました。
米国は、それを条件に、開発した原爆をすべて破壊しました。
日本も新たに国連に常任理事国として参加すると、強力にパックアップしたのです。
また中東のパレスチナに、イスラエルを建国する事も、日本の反対でできず、代わりに南樺太に移住する事になりました。
日本は、南樺太をソ連に返すぐらいなら、ユダヤ人にわずかな金額で貸すという大技を打ったのです。
こうして世界の歴史は、米ソ冷戦があるものの、比較的平和な時代を迎えました。
20世紀末には、米ソの冷戦も、終了して、世界は平和統一に向けて走り出しました。
日本は、米国と組んで、貧しい人々の援助に最大限の力をいれていました。
テロは、貧富の差から生まれていると考え、武力ではなく、援助でなくそうと考え、米国も理解していました。
米国の力と日本の富が、まるで夫婦の男女のように、うまくいっていました。
太平洋で、命懸けで決闘した事が、お互いの尊敬になったのです。
また最後に、日本の英霊達は、靖国神社に奉られていましたが、8月15日は、アジア開放の日と言う事で、日本だけでなく、アジアから多くの人が来る自体になっていました。
アジアの人達は、日本の英霊達の事は忘れませんでした。
日本の英霊達が、英米と戦ってくれたから、独立ができたとずっと感謝してくれていました。
欧米からA級戦犯として処刑されようとしていた東条英機なども、アジア諸国の人達から、一緒に靖国神社に奉るべきだという事で、奉られる事になったのでした。
その事に、中国、朝鮮も反対しなかったのです。
では皆さん、縁の花 第189号「太平洋戦争架空戦いえり」読んで頂いて「ありがとうございます」
2004年5月8日
縁の花 第189号 表紙(花) (紫陽花が入魂で書いています)
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