縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第454号

「新武田戦記」シミュレーション済度1

∞「武田勝頼の死」∞

「戦国の嵐」のシミュレーションの本を通して

武田家の御霊達を、済度させて頂きましたが

俺には、もう一つ、是非、皆さんに、ご紹介したい本があります

 

それが、古本屋のブックマートで見つけた本

河丸裕次郎さんが書いている

「新武田戦記」全3冊の本ですが

この本は、武田家ファンにとっては

痛快で、本当に、良い本だと思います

 

しかも、前世、武田勝頼の俺だけでなく

熱烈な武田家ファンの俺にとっては

目から鱗が落ちた本でもありました

 

この本は、俺に衝撃を与えました

今まで、まったく気がつかなかった事を

教えてくれたのです

 

しかし、それだけでなく

この本は、武田勝頼の死んだ後の事を

テーマにした本で

武田勝頼の御霊としては

もっとも、気になる事だと思います

 

と言うのも、自分が、歴史の史実である

天正10年の織田信長、徳川家康の武田征伐の時に

もっと早く亡くなっていたら

跡目を、その時ではなく

もっと早く、まだ若い嫡男を元服させて

継がせていたら

武田家は、どうなっていただろう

 

信玄公の頃のように

人は城、人は石垣、人は掘りと言った

あの団結を取り戻す事が出来たのではないか

そんな答えを出してくれた本なのです

 

では早速、その本の内容を

皆さんに、ご紹介して

武田家の御霊達を一緒に済度

慰霊、供養、成仏させたいと思います

 

時は、天正六年3月13日

越後の龍、軍神とも呼ばれた上杉謙信が

没してから半年後の天正六年9月5日でした

 

武田勝頼は、同盟を組んでいる

北条夫人の兄である北条氏政の要請で

謙信公が亡くなった後の二人の養子の戦い

景勝と景虎の戦い

御館の乱に

信濃から出兵して

介入していましたが

景勝側から、好条件で

和議を持ち込まれると

北条氏政に、断りもなく

あっさり、景勝側についてしまいます

 

これには、軍資金1万両とか

上野の上杉領の割讓

景勝の武田家の出仕などに

目が眩んだと言われていますが

そんな単純な事ではなく

もっと、その時代の当事者でないと

分からない事があると思いますが

兎に角、武田勝頼は、北条氏を裏切ると

景勝側につきましたが

二人の和睦調停も継続し

強引に、819日には春日山において

両者の和睦を成立させました

 

でも、徳川家康の侵攻に際して827日に

武田勝頼が帰国すると

景勝・景虎間の和睦は破綻するのですが

シミュレーションは

この時に、帰国した勝頼に対して

勝頼の裏切りを知った

北条氏照、氏邦達が

奇襲攻撃をして

勝頼を討ちとった事で始まりました

 

1万の軍だった武田軍も

信濃に入ると

仁科盛信、高坂信達、真田昌幸などと分かれて

4千程度で

北条軍の大軍の前に

あっさり討たれたという設定なのです

 

だけど、これは、本当に大変な事でした

何故なら、この時、後継ぎの信勝は

まだ、12歳という年齢です

 

なので、徳川、織田と言う強敵と戦っている武田家は

常識的にいえば、当主を亡くした事で

ここで、滅亡しても、おかしくないのですが

シミュレーションでは、意外にもそうはなりませんでした

 

だって、信勝は、武田信玄が、遺言した正式の後継ぎで

勝頼は、その信勝が、大きくなって、元服させて

家督を継ぐまでの後見人でしかありませんでした

信勝は、待望の、信玄の跡を継げる人物だったのです

 

それで、武田家臣団は

勝頼の死に対して

武田家最大の危機に対して

長年、勝頼ができなかった

団結する事が出来ました

 

まだ若い信勝を

元服させて

家督を、早々と継がせたのです

 

しかも、信勝は、まだ12歳で

政をした経験もないので

勝頼のように、独断専行をせず

武田家臣団の意見も

素直に、聞く事が出来ました

 

武田家臣団は、勝頼の時とは違って

いろんな意見が言えて

伯父の武田信廉を中心に

一つになりました

 

もし、武田勝頼の御霊が

この光景を見たら

涙を流すような事が起きたのです

本当に、よかったと思います

 

∞「御館の乱の勝利と上野原の勝利」∞

天正6年9月5日、御館の乱から

帰国した武田勝頼が

裏切りに、激怒した北条軍に奇襲されて

呆気なく討たれた事で

正式に、武田家の当主になった

武田信勝の行動は、素晴らしかったです

 

勝頼の死に集まった

武田家臣団の軍議で

いろんな意見があったものの

真田昌幸の意見

織田家、徳川家、北条家を敵にして

四面楚歌になった武田家の唯一の味方

上杉景勝を応援する事だと言う策を採用すると

甲斐と北条家の相模の境は、小山田信茂

駿河を狙う徳川には、穴山信君

上野には、内藤昌月

甲斐は、叔父である武田信廉に任せると

すぐに、越後に軍を向けました

俺自身、素晴らしい選択だと思います

 

また、武田勝頼を討った

北条氏照、氏邦は

この時に、上杉景虎と共に

景勝が立て篭もる春日山城を

攻撃していましたが

俺は、この事は、十分に考えられると思います

 

何故なら、勝頼を討ちとったという事になれば

武田家からの援軍は得られずはずがなく

景勝有利だった、形勢は一気に逆転します

 

しかも、勝頼を討った後

武田家を攻めるのではなく

北信濃から、越後に入るのであれば

越後と上野の境にある難所の三国峠を通らずに

一気に、越後に入って、春日山城を攻撃できます

シミュレーションの世界の話だと言っても

想定できる事なのです

 

だけど、そんな北条軍に対して

同じルートで、武田信勝が、背後から攻撃したら

武田軍が、圧倒的に有利です

 

だって、「新武田戦記」一で書いているように

武田勝頼が討たれた後

後継ぎの信勝は、12歳なので

敵討ちに来る事などは考えられず

油断している可能性は高いからです

 

そこに、武田軍が迫ったら

どんなに北条軍が大軍でも

上杉景勝軍と、武田軍の挟み挟み撃ちが可能です

北条氏照が、戦上手でも

野戦で、武田軍に勝てるはずがありません

この本のように、武田軍は勝つと思うのです

 

またその後、合流した上杉景勝軍と

御館に逃げた上杉景虎を

討った事も、不思議ではないと思います

 

実際の御館の乱は、天正7324日に

同じように、景勝方の勝利により、乱は収束するのですが

「新武田戦記」の世界では

すぐに、終わる事ができ

武田信勝は、心から感謝した

上杉景勝と言う、頼もしい味方を得る事が出来たのです

 

しかし、そんな武田信勝に、新たな試練が来ました

父である勝頼を討たれた事を知った武田信勝が

大軍で、越後に向かった事で

甲斐が手薄になった事を知った

北条氏政が、攻めて来たのです

 

でも、信玄公が作った狼煙制度で

急報を知った

帰国していた武田信勝が、慌てて、甲斐に駆け付けた事で

北条軍を撃破する事が出来ました

 

しかも、北条家の当主である氏政を

生け捕りにすることに成功するのです

 

と言うのも、武田勝頼を討った事で

北条氏政は、油断していました

後継ぎの信勝は、まだ、元服もしていない

12歳の若者です

 

そんな信勝に、信玄公の時とは、比較できないぐらい弱体して

家臣も、ばらばらの武田家が、まとめられる訳がありません

今頃は、甲斐国内は、大いに動揺していて

北条軍が、1万以上の大軍で

甲斐に侵攻したら、簡単に、甲斐は、取れると思っていたのです

 

でも、そんな氏政の目論見は、うまくいきませんでした

御館の乱を、あっと言う間に収めた信勝は

甲斐の本拠地、躑躅ヶ崎館に、戻っていたからです

 

その上に、武田信勝の考えた策で

武田軍は、北条軍に対して

緒戦ではわざと負けて

野戦ができる上野原まで誘いこんでいました

 

だけど、油断していた北条氏政は、その事を見抜く事ができず

気がついた時には、四方を武田軍に包囲されていました

逃げる事も出来なかったのです

こうして、生け捕りにする事に成功したのです

 

ただ、このシミュレーションは、小説の世界の話でも

あまりにも、出来過ぎだとは思います

野戦で、大将を討つ事は、なかなかできないからです

桶狭間の戦いは、滅多にない事なんです

 

けれど、甲斐国内で、武田軍と、北条軍が戦ったら

いくら、北条軍が、大軍でも、勝てる事はありません

 

何故なら、織田信長、信忠親子が、本能寺の変で亡くなった後

主人を亡くした、甲斐、信濃は、徳川軍と北条軍が争いましたが

武田家臣団を掌握した徳川軍、1万に対して

北条氏照は、55,000人の軍勢を率いていました

 

なのに、何度、戦っても、北条軍は勝てませんでした

黒駒合戦をかわきりに、連敗続きで

結局は、徳川軍についた武田家臣の依田信蕃や真田昌幸のゲリラ戦法で

北条軍の補給線は事実上途切れてしまった事で

甲斐、信濃を諦めるしかありませんでした

徳川家康と和議を結んだのです

 

だから、甲斐内で、武田軍と北条軍が戦えば同じ結果になったと確信しています

長期戦になっても、北条軍は負けて、撤退する事になるのです

 

でも、そうだとしたら

駿河を、徳川家康に取られた可能性はあったので

やはり、野戦に誘いこんで、短期間で、北条軍を破ったのは

最高ですが

あの時の氏政の心境なら十分、可能なんです

 

しかし、ここで、俺が、感心したのは

武田信勝が、生け捕りにした北条氏政に対して

父、勝頼の敵討ちはしなかった事です

 

何故なら北条氏政の首を取ったら

決着がつくまで、北条家と、争わないといけません

そうなると、織田軍、徳川軍とも戦っている武田軍には

とても不利です

 

なので、信勝は、慕っている母になる北条夫人の実家の兄を討って

悲しませたくない事もあって

北条氏政に隠居させて

家督を、北条得氏直に継がせて

氏政を、甲斐に引き取りました

新しい当主である5代目氏直と和議をして

盟約を結びなおしたのです

 

これは、見事です

特に、北条氏政に、「俺と勝頼も、もっと仲良くしておけば

こうはならずに済んだかもしれぬの」

という言葉を引き出した事は

父である武田勝頼の御霊も、大喜びだと思います

まさしく、信勝、天晴れ(あっぱれ)です

 

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第450号「戦国の嵐」の本でする武田家済度5

第451号「2013年武田済度が始まりました」

第452号「2013年武田家済度で、
戦国時代の慰霊させて頂いています」


第453号「金沢での武田家済度お楽しみ様しました」

第454号「新武田戦記」シミュレーション済度1

第455号「新武田戦記」シミュレーション済度2

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第465号「戦国時代に武田家が滅亡したのは、
今、武田家済度をする為だったのです」


第466号「人は城、人は石垣の意識で、
今から、武田家の結界を作ります」