縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第455号

「新武田戦記」シミュレーション済度2

∞「武田信勝、真田信之、真田幸村、
織田勝長の友情に、目から鱗が落ちました」∞

記憶はまったくありませんが、前世、武田勝頼の俺が

「新武田戦記」のシミュレーション小説で

目から鱗が落ちたように感動したのは

嫡男、武田信勝の活躍ではなく

信勝の周りを固める3人の側近の存在でした

 

それが、真田昌幸の嫡男、源三郎で

もう一人は、その弟で、信勝と同じ歳の弁丸

後、一人は、織田信長の五男である織田御坊丸です

 

この3人は、信勝(武王丸)の小姓を兼ねた

遊び相手でもあったのですが

戦国時代は、帝王学として

人質にされていた家臣の有能な子供は

当主の子供に、教育も兼ねて

あてがわれていました

 

小さい頃から

兄弟同然に、共に育つ事で

将来、有能な家臣になる事を

期待されていたのです

 

だから、俺自身、まったく気がつかなかったのですが

武田信勝にも、将来、武田家を動かす事を期待できる

小姓、近習がいた可能性は大なのです

 

しかも、新武田戦記の世界では

北条夫人の発案で、仲の良い3人は

信勝と一緒に、元服していますが

実際も、真田兄弟は、武田家が滅亡いる前に

信勝と一緒に、元服して、

武田家の由緒ある一字を貰って

名前を変えています

 

それが、源三郎は、改めて、真田信幸

弁丸は、真田信繁、

織田御坊丸は、織田勝長になったのですが

3人とも、有能な武将なのです

 

というのも、真田信幸は、関ヶ原の戦いでは

父である真田昌幸、真田信繁とは別の東軍につきましたが

徳川秀忠が、第二次上田合戦で、真田昌幸に負けた事で

真田家に対する恨みを買っていて

家康の死後、真田家を取り潰そうとした事からも

真田家を守り抜いた知将として知られています

 

歴史では、真田信繁が、有名ですが

知略では、信之の方が、優れていたと言われていて

新武田戦記では、信勝の軍師になるのです

 

また。弟の信繁は、言わずと知れず、後に大阪の陣に活躍した

真田日本一の兵と言わせた、真田幸村の事です

 

この真田幸村の武将としての能力を疑わない人はいないと思いますが

知、武、仁、どれも優れていて

一軍を率いさせたら、こんなすごい武将はないと思います

その真田幸村は、列記とした旧、武田家臣なのです

 

そして、最後の一人、織田勝長は、織田信長の五男ですが

岩村城主遠山景任の未亡人おつやの方の養子となっていて

武田家の武将、秋山信友が、美濃の岩村城を攻略した時に

叔母のおつやの方と一緒に捕えられ

武田家の元で、引き取られました

 

しかし、武田勝頼は、そんな勝長を

殺す事も、交渉の道具としても利用せず

先妻遠山夫人と過ごした日々を懐かしむように

猶子(ゆうし)、として扱って

家族の一人として、優遇したと言われています

勝長は、武田家によって、大切に、育てられたのです

 

でも、歴史では、武田家が滅亡する前に

相模後北条氏との甲相同盟の破綻に際して

勝頼は、必死で、織田方との和睦(甲江和与)を、模索していて

その一環として、勝長は、織田家に返還されました

何とか、織田家との和睦をしようとしたのです

 

だけど、それを織田信長は許すはずがなく

勝長は、甲州征伐には兄・信忠の与力として参陣して活躍しています

 

しかし、本能寺の変において信忠と共に

明智光秀の軍勢に攻められて

二条御所で奮戦ののちに討ち死にしていますが

新武田戦記の物語では、返還される前に

勝頼が亡くなったので、

武田家の在籍していたのです

 

だから、この3人は、武田家が、呆気なく滅亡しなかったら

武田信勝の側近とした活躍した事は、間違いありません

 

たけど、その事は、俺には、衝撃でした

今まで、武田信玄、武田勝頼で、

俺自身、シミュレーション小説のあらすじを書いたり

いろんな武田家に関するシミュレーション小説読みましたが

信勝を主人公にしたものは、少ない事もあって

この3人に注目した作品は、なかったと思います

 

その絵尾に、特に、その三人の中でも、織田勝長に関しては

俺自身、まったく、考えもしませんでした

織田勝長の事を、まったく重要視していなかったのです

 

でも、織田勝長は、あの織田信長の血を持っている上で

人質として、苦労しているので

立派な武将になった可能性は高いですし

まだ若いと言っても、真田昌幸の兄弟を従えて

戦をするなんていうのは

シミュレーション作家なら、誰でも

わくわくすると思います

 

なので、俺は、その事に気がついて

見事に、新武田戦記を書いた

河丸裕次郎さんには、武田家のファンとしても

脱帽しました

見事だと思います

 

∞「武田信勝、徳川家康を討つ」∞

「新武田戦記」一の本で、武田信勝は、十ニ歳の若さで

父、武田勝頼が討たれた後の、武田家の家督を継ぐと

武田家、最大の危機で、まとまった武田家臣団に支えられると

信玄公を彷彿させる、電光石火の早業で

越後に侵入すると、上杉景勝を助けて

御館の乱を終わらせるました

 

しかも、そのすぐ後、今度は、甲斐を侵攻した北条氏政を

緒戦で負ける事で、油断させて

上野原に誘い込むと

北条氏政を生け捕りにして

新しい当主になった

北条氏直と、再び、同盟を結びました

北と東の脅威を、取り除く事が出来たのです

本当に、良かったです

 

また、そんな新生武田家にとって

次の敵は、徳川家康でした

 

と言うのも、長篠の戦での大敗までは

兵力差が、物を言って

武田家が、有利だった、徳川家康との戦は

その後は、徳川家康有利になっていました

 

徳川家康は、武田勝頼が、大軍で迫ると

織田軍の援軍が来るまで、戦を避けてしまいます

それで、本拠地の甲斐から遠い武田軍は

すぐ近くの浜松城が、本拠地の徳川軍に

遠江の攻防戦では、押されていたのです

 

しかも、徳川家康は、武田勝頼が落とした

遠江の要所、高天神城に対して

横須賀城など多数の付城を築いて

高天神城への締め付けを強化して

高天神城奪回を図っていました

 

信玄公以外には、負けた事がない

名将となった、徳川家康との戦いは

避けられなかったのです

 

しかし、この戦いでは

実際に行われた、勝頼の戦いとは違って

武田信勝にとって、有利な事がありました

 

それは、歴史の史実として

御館の乱で

北条家との同盟が、破棄されて

北条家も敵にする事はなかった事だけでなく

武田信勝の若さでした

 

武田信勝は、去年、上杉景虎、北条氏政を破ったとはいえ

まだ、十三歳で、家督を継いだばかりでした

 

なので、いくら、2戦に連勝したと言っても

それは、まだ若いと油断したからだとか

家臣の言う事を聞いていただけだと言う評価であって

武田信勝が、名将だとは言えなかったのです

 

だから、そんな信勝が、1万6千の軍で

徳川軍8千の2倍の兵力で

勢力で来たとしても、簡単に戦は避けられませんでした

 

13歳の若者に、恐れをなしたと思われたら

三方ヶ原の戦いで、2倍以上の信玄公に対しても

堂々と戦ったと言う徳川家康の権威が喪失してしまいます

 

これによって、織田信長よりも

遠江の武将達の、信頼が失われる事は

怖かったのです

 

しかも、高天神城を包囲する為に造った

多数の付城を、武田軍に、潰される事は

今まで、徳川家康が、長年の武田家との苦しい戦いで

築き上げたものを、一気に、壊されることでもありました

 

なので、徳川家康としても、ここで、簡単には

引く事はできませんでした

織田信長からの援軍を貰うと

戦うしかなかったのです

 

だけど、百戦錬磨の徳川家康は、野戦で、武田信勝に負けるとは思っていませんでした

織田信長が、長篠の戦で実施したように

高天神城の前にある、菊川に、長い柵の陣を作って、鉄砲で、待ち構えていたら

武田軍は、恐れて、何もできないと思っていたのです

 

だけど、信勝には、父である真田昌幸に劣らない

軍師真田信之がいました

真田信之は、昼間ではなく

夜に、密かに、兵を動かして

兵を集中させて、柵の一ケ所だけを攻める

夜討ちを仕掛けて

柵を火で焼いてしまうと言う策を立てました

長篠の戦の逆襲を考えていたのです

 

そして、その策は、見事に成功しました

菊川で待ち構えていた一番、左の陣

酒井忠次の陣を、先陣の岡部正綱、朝比奈信置が突破すると

次々に、援軍に来た

徳川軍、織田軍を、今度は、真田信繁、織田勝長達が破ると

家康の嫡男、徳川信康を討ちとり

高天神城の付城を落として

包囲されていた高天神城の城兵を救うと

神宮寺砦にいた徳川3千に遭遇したと判明すると

浜松城に、逃げる、徳川家康、3千を必死に追いかけて

天竜川の河原で、捕まえると

徳川家康を、自害させる事に成功します

あの家康を討ちとったのです

 

ただ、これに関しては、北条氏政との上野原の戦でも書きましたが

野戦で、逃げる敵の大将を討つのは

難しいので、これは、出来過ぎですが

菊川夜戦の策、自体は見事です

 

何故なら、俺自身、長篠の戦の屈辱戦

どうしたら、ニ重、三重の柵と鉄砲で

待ち構えている徳川、織田軍を破るかは考えていましたが

兵力集中による、夜討ちの一ケ所突破は思いつきませんでした

これなら、実現できると納得したのです

 

しかも、その後、家康がいなくなった浜松城を落とすと

これ以上、徳川家康、信康親子がいなくなって

跡を継ぐのは、まだ幼い、次男の於義丸しかいないのに

それ以上、信勝が、攻めない事には、最初は、納得いきませんでしたが

確かに、これ以上の勝利は、織田信長を刺激して

三河で、織田軍との全面戦争になったら

まだ、遠江を、完全に支配していない上に

復習に燃える徳川軍と

大軍の織田軍と戦っては、兵力で劣る武田軍は不利でした

 

なので、後で考えたら

その冷静な判断、素晴らしいと思います

それで、俺は、多くのシミュレーション作家の中でも

原作者の河丸裕次郎さんは、よく考えていますし

武田家の事もよく理解して頂いているので

心から、尊敬してしまったのです

 

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第450号「戦国の嵐」の本でする武田家済度5

第451号「2013年武田済度が始まりました」

第452号「2013年武田家済度で、
戦国時代の慰霊させて頂いています」


第453号「金沢での武田家済度お楽しみ様しました」

第454号「新武田戦記」シミュレーション済度1

第455号「新武田戦記」シミュレーション済度2

第456号「新武田戦記」シミュレーション済度3

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第458号「新武田戦記」シミュレーション済度5

第459号「新武田戦記」シミュレーション済度6

第465号「戦国時代に武田家が滅亡したのは、
今、武田家済度をする為だったのです」


第466号「人は城、人は石垣の意識で、
今から、武田家の結界を作ります」