縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第456号

「新武田戦記」シミュレーション済度3

∞「名将武田信勝誕生」∞

天正7年、「新武田戦記」の世界では

武田家の事情が大きく違っています

 

歴史の史実としては

御館の乱で、途中から上杉景勝に寝返った事で

同盟していた北条家を敵にした武田家は

北の上杉家からの脅威は、完全に無くなったものの

東の北条家、西の織田家、徳川家から挟まれた事になって

ますます不利になりました

 

そんな中で、徳川家康の高天神城攻めが始まりました

それに対して、武田勝頼は、北条家も敵にしてしまった事で

救援する事ができなくなっていました

結局、城主の今川旧臣の岡部元信を含めた城兵千人以上を

全員、見殺しにする事になり

武田氏の威信を致命的に失墜させた戦いになりました

 

翌年における武田攻めで、木曾義昌をはじめとする国人衆の離反、

武田一門衆である穴山信君・小山田信茂の造反の一因になったと

考えられているのです

 

しかし、近年の研究では、信長はこの城攻めにあたり、家康に対して

「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている事が判明しています

 

それで、武田勝頼は、高天神城に対して

降伏する事を認めていたのに

徳川家康は、織田信長の目を意識して

岡部元信から降伏を認めなかったのではないか

 

その当時の戦の常識では、降伏をするものを認めない事は

ルール違反なので

織田信長は、ルール違反の事を冷酷にした

一種の織田信長の策略に、武田勝頼は、嵌められたのです

家臣を平気で、見殺した、頼りにならない大将という

汚名をきせられた武田勝頼は、本当に、悔しかったと思います

 

しかし、「新武田戦記」のシミュレーション小説の世界では

当主は、勝頼から嫡男の信勝に代わっていて

高天神城は、武田信勝によって救出され

宿敵だった徳川家康は、菊川の夜戦で

討つ事が出来ました

 

しかも、遠江の浜松城にいた徳川軍は

家康が討たれた事を知ると、城を放棄して

武田軍は、浜松城を手に入れました

何と、武田信勝は、そこに、真田信繁

後の真田幸村を城主に入れたのです

 

こうして、遠江国争奪戦は、武田家が有利になりました

何故なら、菊川の夜戦で

徳川家康、その後を継ぐはずだった信康も亡くした徳川家では

次男が、於義丸が継ぐ事になりましたが

まだ幼く、とても遠江に侵攻する事はできません

その上に、菊川の夜戦で、8千の兵の内、6千の兵と

酒井、本田、石川と言った有能な武将も、徳川軍は、亡くしています

 

これでは、徳川家は、三河一国を固める事に専念し

遠江国の二俣城、犬居城、掛川城、諏訪原城の徳川軍は

孤立する事も、仕方なかったのです

 

なので、遠江の各城は、攻略、武田家のものになるのは

時間の問題でした

各城の城主は、降伏するしか道は、なかったのです

 

また勝頼とは違って

信勝の有利は、まだありました

それは、上杉家だけでなく

北条家とも、同盟を結んでいた事です

武田信勝は、西だけを見ていたら、良かったのです

 

それで、勝頼の跡を継いで、

わずか13歳で、北条家、徳川家に勝利し

上杉家、北条家との同盟を築いて

落ち目だった武田家を、1年間で立て直した武田信勝は

信玄公を超える名将と言われるようになったのです

 

ただ、残念ながら、新武田戦記の本では

そう近隣諸国に評価されたとは、書かれていませんでしたが

結果が、すべての戦国時代では

そう評価されるのが、当然だと、俺は、思うのです

 

 

しかし、それでも、武田信勝は

織田信長との戦いでは不利でした

だって、この当時の織田家の勢力は

毛利家と、全面対決するまで広がっていました

その領地は、羽柴秀吉が任された播磨、但馬国まで及んでいて

武田家の何倍もあったのです

 

だから、武田信勝が、上杉家、毛利家と同盟しても

織田家には勝つ事は、極めて困難でした

それを、シミュレーションの世界ではどうするか

作家の、河丸裕次郎さんは、どうするか

俺は、それに、興味を持っていたのです

 

また、参考までに、俺自身が、シミュレーションを任されるとしたら

まず、遠江国の残る城

二俣城、犬居城、掛川城、諏訪原城を攻撃して

城主を籠絡して

寝返えさせても、手に入れる事で

遠江国を早く、自分のものにします

 

その後は、三河国に、一気に攻め込んで

落とせる城は、全力で落として

有利な陣を構えて

織田軍が、やってくるのを待ちます

 

後は、秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いの再現です

この時に、織田・徳川連合軍は3万で、羽柴軍10万と戦い

羽黒の戦い、小牧の戦いなどの局地戦で勝利して

長期戦に持ち込んで、勝利する事ができました

秀吉との和睦に持ち込んだのです

 

ですから、信勝も、これなら

十分に、できたと思います

織田軍が、大軍でも、最強の武田軍相手に

野戦で、勝利する事は、大変です

兵の質では、甲斐、信濃の兵が強いです

 

別に、織田信長と和睦しないでも

武田信勝は、時を費やしたら、三河の吉田城、岡崎城も落として

三河国を奪う事も可能なのかもしれないのです

 

だけど、俺のシミュレーションでは、ここまででした

同じように、今度は、尾張、美濃を攻めようとしても

織田信長は、十分な兵を、城に入れていたら

有利な陣を、築く事はできません

 

そんな戦いをしている内に

経済力でも大きく織田家に劣る武田軍は疲弊してしまうのです

 

後は、西の毛利家も倒して

ますます、巨大になった織田軍が攻めて来たら

信勝が、どんな名将でも、織田軍には勝てないのです

 

なので、俺は、それを名将の武田信勝が、どう戦うか

信勝の新しい軍師になった信之は、どんな策を考え

信繁、勝長なども加わった、新しく武田軍は、それを実行するか

俺は、とても関心を持っていたのです

 

 

∞「武田信勝、名城、岩村城を落とす」∞

天正七年(1957)413

宿敵だった、徳川家康を討って

浜松城を手に入れた武田信勝でしたが

徳川家と同盟している織田信長が

黙っている訳がありません

 

もし、徳川家の要請で

幼い於義丸を不憫になった

織田信長が、本気で攻めてきたら

二俣城、犬居城、掛川城、諏訪原城などの

各城がまだ残っている遠江の戦いはどうなるか

 

いえ、信長が、今は、西側の制圧に力を入れて

遠江国、三河国を、武田家が攻めても

徳川家を本気で助けず

自由に任せていても

2年、3年と経過する間に

毛利家を倒して、九州も平定した上で

武田家に向かったら、どうするか

 

このことは、武田信勝だけでなく

武田家の有能な重臣だったら

誰でも考えることでした

日々、巨大化する信長に対するプレッシャーは

それほど、大きかったのです

 

また、そんな難問の中で

武田信勝が、採用した策は

信玄の目と言われた、真田昌幸

真田信之の父の策でした

 

何と、真田昌幸、信勝の叔父、仁科盛信は

新しく軍師になった真田信之さえ想像しない策

俺も、まったく夢想だにしない策を実施したのです

 

それが、武田家と織田家が

長年争ってきた織田の美濃国の恵那郡を奪うことでした

即ち、恵那郡にある天下一の高さを誇る

日本三大山城の一つと言われている

難攻不落と呼ばれている、名城、岩村城を一気に落として

織田信長の目を、遠江から岩村城に向けさせて

ここで、戦っている間に、時を稼いで

遠江を完全に、支配すると言うのです

 

そうすれば、織田軍が、西側の諸国を平定して

何十万という軍隊で攻めて来ても

上杉、北条などの東側の国と堅く守っていたら

簡単に、敗れることはない

 

特に、名城、岩村城は、どんなに大軍で攻めても

五千の兵で守れば、まずは落ちないので

信濃の国境、信濃口は守られるので

後は、遠江国、駿河国の城を強化して

甲斐国と駿河の国境の駿河口に、重点を置いて守れば

織田軍が、武田家の本拠地、甲斐に入る攻め口はなく

山での戦いなので、武田家にも

勝算は、少しはあるというものでした

それに、真田昌幸は、武田家の望みをかけていたのです

 

しかし、そんな名城である、岩村城なら

逆に、武田軍が、簡単に、奪うことはできないはずですが

真田昌幸には、秘策がありました

 

それは、武田軍が、岩村城に迫る事で

篭城されないように

城主の猛将である河尻秀隆を誘い出し

その隙に、密かに迫った織田勝長が岩村城に着いて

降伏を迫れば、岩村城は、うまくすれば

落とせるというものでした

 

というのも、織田勝長は、織田信長の五男ですが

岩村城の城主で、恵那郡を長年、収めていた遠山家の当主、遠山山景任が

嗣子なくして死去したため

妻で、未亡人になった信長の叔母であるおつやの方の願いで

遠山家を嗣がせるために、養子になっていました

坊丸と呼ばれ、遠山家から大切にされていたのです

 

しかし、そんな二人の運命は

信玄の家臣である秋山信友が、岩村城を攻略した事で

大きく変わりました

 

おつやの方は、女城主として

岩村城を守っていたのですが

織田信長は、援軍を送ることができず

仕方なく、おつやの方は、秋山信友に降伏しました

 

その時に、和議の条件として

おつやの方は岩村城代となった秋山信友を

夫として迎え入れることになり

坊丸は甲斐国に送られ、信玄の養子(人質)となったのです

 

だけど、そのことは、身内の裏切りと

織田信長を激怒させ

長篠の戦で、武田軍が破った織田軍が

岩村城を攻撃して

五ヵ月間、抵抗していた秋山信友も

とうとう、武田の後詰が敗れたことを知って

織田信長に降伏して、岩村城を開放すると

信じられない、暴挙に走りました

 

織田信長は、城兵の命を救い

二人の命も助けるといっていたのに

二人は、磔刑の処分

帰国を許された信濃の兵は、帰路の途中に

騙まし討ちによって全滅

秋山に、協力していた遠山の者も

場内に押し込められて、火攻めを受けて

多くのものが殺されたのです

 

だから、織田家の占拠が続いているので

遠山の兵は、黙って従っていますが

本来、遠山家を継ぐはずの坊丸

織田勝長が、開城を迫れば

一族を殺された遠山一族の恨みが爆発して

岩村城は、外からではなく、内か開くというのです

さすがは、天才的な策略家の真田昌幸の策だと思います

 

しかし、新武田世紀の世界では

真田昌幸の策は、成功しましたが

俺は、実際は、難しい気持ちもします

 

何故なら、織田家と武田家では、圧倒的に戦力が違うことは

遠山一族も承知しています

冷静に考えたら、寝返ることはないと思うのです

 

でも、まったく、遠山一族に伝えず

織田勝長が、武田軍を連れて

突然、岩村城に来れば

織田軍に不満を持つ

遠山の兵が、感情で走って

織田軍を、岩村城から一気に、追い出す事は

十分に考えられます

 

なので、この策を考えた、作家の河丸裕次郎さんは

本当にすごいと思いますし

武田家の家臣、秋山信友の御霊とその妻、おつやの方の御霊

遠山一族とその兵たちの遠山家の御霊の恨みを

こんな形で、晴らし

前世、武田勝頼として、

実際に、ご縁のあると言うか

秋山夫婦の御霊や兵士を含めた遠山家の御霊を

見殺しにした張本人の俺を通して

済度させて頂けたこと、心から感謝したいと思います

ありがとうございます

 

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戦国時代の慰霊させて頂いています」


「金沢での武田家済度お楽しみ様しました」

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「戦国時代に武田家が滅亡したのは、
今、武田家済度をする為だったのです」


「人は城、人は石垣の意識で、
今から、武田家の結界を作ります」