縁の花
(本物を目指して心と心のネットワーク
第54号
シミレーションゲーム
今、シミレーションゲームというのが、小説やテレビゲームの世界で流行っています。
自分が戦国時代の武将になったり、小説の主人公になったりして、体験するゲームですが、若い人を中心に多くの人が楽しんでいます。
小説の世界では逆転小説とも呼ばれていますが、武田信玄や山本五十六などの登場人物が、もう一度歴史をやり直すのです。
今、本屋にいけばそういった小説がずらりと並んでいるので、皆さんも一度や二度は読んだ事があると思います。
が、今、紫陽花はこういった事で、ちょっと困っています。
というのも、紫陽花もこういった小説が好きで新しい本が出るとよく読むのですが、読むだけでなく頭の中で自分なりに考えています。
紫陽花が太平洋戦争の指揮をまかされていたら、一体どうしただろう。
国力が圧倒的に違う米国と戦っただろうか。
ABCD方位網などで、米国が石油を一切日本に渡さないといっても、それでも戦争は米国のルーズベルト大統領に土下座しても避けただろう。
でも万が一戦わないといけないとしたらどうしただろう。
どんな作戦をたてただろう。
紫陽花も男だからかもしれませんが、仕事中にもすぐにそんな事を考えてしまうのです。
でも本当はこういった事は考えたくありません。
何故ならそういった事は本物という観点から見れば、決していい事ではありません。
太平洋戦争でも、戦国時代でも、ようは紫陽花は心の中に戦いを好む心を持っている事です。
実際に戦う訳ではありませんが、すぐに戦争をしているシーンを思い浮かべるという事は、紫陽花の心の中に争いを求める心があるからかもしれません。
そういった紫陽花の心が、現実の世界でもあらわれて、人と争うような事になったら嫌だなあと考えているのです。
しかしそう思ってやめようと思うのですがなかなかやめられません。
思った後から、そんな雑念のようなものが、どんどん出て来るのです。
ですから紫陽花もこの頃はあきらめてしまいました。
本当は今度知り合った野崎友 香さんのように、毎日イルカの事ばかり考えていたり、恋人との楽しい姿ばかり想像できる女性なんか本当に羨ましいのですが、紫陽花でしたら縁の花の文章を考えたり、MGが大成功して皆が喜んでいるシーンや家族と清里の知花先生の所にいって両親が喜んでいる姿ばかり思い浮かべていたいのですが、ちょっと無理なんです。
でもそんな紫陽花もこの頃開き直ったというか、少し考え方を変えました。
そういったシミレーションを考えるのも悪くないと思い出し始めたのです。
というのも準備50号あしたで、少し書きましたが、紺碧の艦隊とという素晴らしいシミレーション小説を書いている荒巻という作家がいます。
この荒巻さんと檜山さんはこういったシミレーション小説の草分け的な存在なのですが、本当に凄い小説を書きます。
日本が影の組織の罠に、はまって太平洋戦争を始めたという仮説に基づいて、その時死んだ人達が前世の記憶を持ったまま、もう一度別人として生き返り、やり直すというものです。
日本軍が今度は正しい方針の元で米国やドイツと戦うのですが、もう17冊ぐらいシリーズ化して書いているのですが、まだ終わりません。
しかもその小説で荒巻さんは主人公の大高首相に自分の理想としている国家まで創らせています。
それが50年後の現在の目から見ても、素晴らしい日本国に成っています。
政治・経済・教育など学ぶ点があります。
だから紫陽花はこういった小説も本物だと思うのです。
また紫陽花はこういったシミレーション小説が、今、どんどん出て来るのは何か意味があるとも思います。
ほんの20年前迄は歴史上の人物がやった小説を書いても、シミレーション小説なんかありませんでした。
そういった小説が急に出て来たのは、もう歴史上の有名な人物は、いろんな作家が書ききってしまったからだとは思いますが、それだけではなく別な意味もあると思います。
もしかしたら荒巻さんがいうように、戦争で無念でも死んでしまった多くの魂が、こういった小説を書かせるのではないか。
何かを今生きている紫陽花達に伝えたかったり、自分の無念の思いをこういったものを書かせる事で、欲求を解消するというか、無念な思いを取り除いているかもしれないと思い出したのです。
が、そうはいっても、紫陽花はそんな死者の霊というか、あの世に帰られなかった人達の霊魂なんか見た事もありませんし、はっきりいってそんな考えも嫌いです。
紫陽花自身はお金や物に未練を持ったり、何よりも生きる事に執着を持ち続けて、あの世に帰れないような事があるのなら気を付けたいですが、そういった帰れない幽霊がうじゃうじゃいるという話は信じたくないのです。
しかしその反面、紫陽花の知っている本物の先生の中にそう教えてくれる人がいるのも事実です。
特にその中でも金沢の河内先生は、そういった幽霊を有縁の死者霊と名付け、いろんな人が連れて来た有縁の死者霊を一気にあの世に帰す事ができる能力の持ち主だといいます。
これは知花先生やサイババでもできないそうですが、紫陽花にははっきりいってよく分かりません。
ただ船井先生や原先生もそういった死者霊がいるといいますし、よくテレビのドキュメンタリー番組で出てくるのですからいるのは本当かもしれません。
そういった有縁の死者霊が、生きている人達に思いのたけをシミレーションの形でぶつける事で気が済むのなら、生きている人の責任として好きなようにさせてあげたらいいと思うようになったのです。
何だかこの事は紫陽花のこじつけかもしれませんが、そんなふうに紫陽花は思いたいのです。
だから紫陽花は、紫陽花の心の中でいろいろ浮かぶシミレーションのアイデアにも気にしない事にしました。
いえ、むしろ一緒に考えるというか、楽しむようになっています。
もし有縁の死者霊が、紫陽花の心の中を使ってシミレーションゲームのような形で小説を書きたいのなら書いたらいいよ。
その代わり、紫陽花達が今、命を掛けてやっているMGも成功するように、戦略も考えて紫陽花に教えてね。
これは本当に人類や地球の為になる事だから頼んだよと心の中でいっているのです。
ですから紫陽花は、今、本当にいろんなシミレーションゲームを、心の中でして楽しんでいます。
ある時は戦国時代の武将、ある時は幕末の志士、ある時は日本の連合艦隊の司令長官になったつもりで、いろいろ過去の事を考えていますし、現在でも日本の首相や、紫陽花がMGの森宮シニアならどうするだろうかなんていう事も考えています。
皆さんはどうなのか分かりませんが、紫陽花は少し変っているのか、そういった戦略のアイデアも次々浮かんで来るのです。
でもその中でも一番紫陽花の脳裏に浮かぶのは、戦国時代に活躍した武田家です。
紫陽花はもしかしたら前世で武田家とつながりがあるのではないかと思えるぐらい武田信玄が好きでして、紫陽花のMGでの会社名を風林火山と名付けています。
それぐらい武田信玄にかぶれているのです。
だから武田信玄の事をよく考えます。
後2年信玄が長生きしたら信長を破って、天下を取ったのではないか。
武田家が天下を取ったらどんな政治をしただろう。
紫陽花が信玄ならきっとこう戦っただろうなんていう考えが一番出てくるのです。
ですから今回の縁の花は、皆さんに武田信玄の天下取りの紫陽花のシミレーションを読んで貰おうと思います。
もし紫陽花の脳裏に浮かぶシミレーションが、有縁の死者霊という戦国時代に戦った武田家の人が送っているものだったら文章にしてあげたら喜ぶだろうし、紫陽花はこの縁の花を金沢の河内 先生にも送っているので、この縁の花を通して河内先生の所に連れって行ってあげる事もできます。
そうすれば河内先生が、もう何百年もこの世にいる可哀想な霊を、あの世に帰してあげてくれると思うのです。
ですから皆さんの中には馬鹿らしいと思っている人もいると思いますが、そんな紫陽花の遊びというか、男のロマンにお付き合いをして頂けたら幸せです。
武田家の天下統一
さて、随分と皆さんに説明しずらい事を書いてやっとここまで来ました。
今から戦国時代最強といわれていた武田の騎馬軍団の天下取りにはいるのですが、その前にちょっとだけ時間だけを設定したいと思います。
というのも武田家が天下取りにも、何度かチャンスがありました。
よくいわれているのは、信玄が死ぬ直前になる、唯一徳川家康が惨敗したといわれている三方の原の戦を含めた上洛戦です。
が、実はこの時の信玄の狙いは、織田信長の同盟国である徳川家康を叩き、家康の国、三河、遠江を占領するのが目的ではなかったかといわれています。
翌年信長の本国尾張、美濃に進出し、信長と決戦する予定だったといわれているのですが、はっきりした事は分からないのです。
ただ、それでももの凄いチャンスだった事は間違いありません。
近江の浅井、越前の朝倉、伊勢長島や摂津の石山本願寺、大和の松永久秀などの信玄が作った包囲網によって、信長は四面楚歌でした。
同盟国の家康にも3千人しか応援できない状態で、もし信玄が病死しなければどうなっていたか分かりません。
武田の旗が京都に昇った可能性は十分ありました。
何故なら信玄という人は慎重な性格で、決して負ける戦をする武将ではありません。
その信玄が動いた以上、紫陽花は勝つ自信は相当あったと思うのです。
しかしこれはいっても仕方がない事です。
信玄が念願の天下取りの後一歩の所で、死んだというのはどう考えても天命です。
天の意志です。
だからどうやってもあの時期は信長が勝つようになっていたと思うのです。
それが日本に取って長い目で見ればよかったのです。
が、シミレーションゲームは、それで終わったらゲームにはなりません。
信玄の為に命を掛けて戦った部下もそれでは報われないと思うのです。
ですからこの上洛戦を書いてもいいのですが、紫陽花はあえてこの時期を選ぶつもりはありません。
この時期に信玄が天下を取った小説なら何冊もありますし、何より信長を倒した後、信玄がすぐに死んでしまったら、全国制覇ができません。
時間がたりないのです。
といってじゃその後も、信玄が長生きをしたというのはどうやっても無理があります。
やっぱり人間に与えられた時間、寿命を無理に伸ばす訳にはいかないのです。
だから紫陽花は他の時期にしましたが、他にもいくつかチャンスが考えられます。
例えば有名な川中島の合戦です。
結局信玄と上杉謙信はここで5回戦っていますが、決着がつきませんでした。
でもこれが歴史と違った事があって、信玄が謙信を運良く討ち果たす事ができたら、紫陽花はかならず信玄は天下を取ったと思います。
というのも信玄が天下を取れなかった最大の理由は謙信というライバルと死ぬまで争わないといけなかった事です。
これで信玄は貴重な年月を費やしています。
しかしその謙信を川中島の4回目の日本の歴史史上最大の激戦といわれるもので首を取っていたら、事情はいっぺんに変ります。
謙信亡き後の越後を取るのは簡単です。
あの当時日本最強といわれていた甲斐、信濃の兵と越後の兵が交わると思うだけで、どんな戦国の武将でもわくわく、どきどきすると思います。
まず戦をやっても負ける事はないからです。
が、それよりももっと凄い事は経済力が付く事です。
佐渡の金山まで手に入るのですから、日本でも有数の金持ちになれます。
それだけの実力を持って、信玄が天下を目指せば、越中や加賀の北陸方面にしろ、今川家の駿河や遠江の東海道方面にしろ、紫陽花は向かう所敵なしだったと思います。
天下を取る確率は十中八九間違いなかったと思うのです。
でも紫陽花はこの時期も採用するつもりはありません。
何故なら結局を謙信の首を取れたか、取れなかったかなんていうものは運しだいです。
しかし紫陽花はこの運しだいという考えは好きではありません。
あくまでも戦略で天下を取りたいのです。
それがシミレーションゲームの醍醐味であると思うからです。
それで紫陽花もいつにしようかと随分悩んだのですが、今までのシミレーション小説では一度も書かれた事がない時期にしようと思います。
時期でいえば永録3年頃にしようと思うのです。
というのもこの年、中部・関東地方では激震が走りました。
戦国時代最大の奇跡といわれている桶狭間の戦いが起こり、何と2万5千の大軍を持っていた今川義元が、5千の織田信長に負け、首を取られてしまったのです。
これは縁の花の女性の読者でも知っていると思います。
しかしそれはただ織田家と今川家だけの勝つ負けではありませんでした。
もっと大きな意味がありました。
関東では武田・今川・北条の三国同盟の一角が潰れた事を意味し、上杉謙信を中心とした関東の多くの武将がこれをチャンスとして、何万もの大軍で、北条の本拠地小田原城を攻めましたし、武田信玄に取っては天下取りへの道が始めて開かれた事を意味します。
今川義元の嫡男氏真は武将としてはまったく駄目な人間で、駿河・遠江を取れば、東海道から京都を目指す事ができたのです。
だからこの時から信玄の野望は一気に脹れ上がりました。
長年川中島で戦っていた謙信とも始めて、本格的に戦って決着をつけようとしましたし、駿河の今川も攻め、今川家を滅ぼしてしまったのです。
でもその反面信玄は大きな犠牲も払いました。
信玄の嫡男義信は今川義元の子供を妻にしていますので、あくまで駿河攻略を反対しますので、殺す事になりましたし、三国同盟を破棄して駿河を攻めた事に怒った北条家とも争い、貴重な時間を潰してしまいました。
その為信玄は天下を取れないばかりか、武田家を潰してしまいました。
特に長男義信が死んだ事で後の跡取り問題でしこりが残り、結局四男勝頼が継いだのですが、最後まで信玄の時にあった武田家の団結力が生まれませんでした。
最後は信長に大軍で攻め込まれ、勝頼や跡継ぎの信勝が殺され、武田家は滅んでしまったのです。
しかし紫陽花は、この時期にこそ、もっと別な戦略がなかったと今、思っています。
弱肉強食の戦国時代では弱い今川を滅ぼすのは当り前だったのかもしれませんが、別な道がなかったか。
そうすれば嫡男義信を殺す事もありませんでした。
戦国時代ははむかうものは子供でも殺す事が常識だったのかもしれませんが、紫陽花はこの時期にこそ紫陽花がいつもいう本物という考えを持って望みたいと思います。
紫陽花のいう本物の考えで戦略を持てば、簡単に天下を取れたのではないか。
むやりに敵の領土を取ったり、戦を好んだり、同盟国との信頼を裏切るべきではなく、もっと別な本物の生き方があったと思うのです。
ですから紫陽花は今から本物として、この人と人が争う戦国時代という一番本物の考えとは違う時代に望みたいと思います。
折角紫陽花が書くのですから、戦を好ばず、できるだけ人を殺さずにやっていきたいのです。
では今から始めましょう。
紫陽花の側にいる有縁の死者霊が早くしてくれ、早く書いてくれといいますから。
時は永録4年です。
この年、甲斐の虎と恐れられている信玄は、始めて大きな野望に取り付かれていました。
自分より先に天下を取ろうとした、海道一の弓取りといわれていた今川義元があっけなく消えてしまったのです。
しかもその後を継いだ氏真は父の敵である織田信長を討とうともしない、ていたらくです。
今なら今川の本国駿河を取るのも難しくありません。
駿河から遠江へと進み、三河、尾張まで取ったら、もう武田家に対抗できる勢力はありません。
一気に天下が取れるのです。
しかしその前に信玄はどうしてもやらなければいけない事がありました。
長年争って来た越後の龍と恐れられていた謙信と決着をつけないといけません。
謙信がいるかぎり、信玄は動きがとれません。
今川を襲っても、謙信に信濃を襲われたら、何も意味もないからです。
だからここで謙信を討ち取れないまでも、上杉軍が二度と信濃に来ないように、完璧にやっつける必用があります。
というのも今まで信玄は川中島で3度争っていましたが、決して謙信とは本気で戦いませんでした。
戦の天才謙信と戦えば、負ける可能性がありますし、戦わずとも雪が降る冬になると上杉軍は越後に帰ります。
信玄はじっとしていたらよかったのです。
が、今回は違います。
謙信め今度こそ許さんという意気込みで信玄は武田の総兵力2万を引き連れて、謙信の待つ川中島へと向かっていたのです。
が、そんな武田軍の中で嫡男の義信の考えはちょっと違いました。
謙信を討つ事に依存はありませんでしたが、その後父信玄の目が今川に向かうのではないかという不安を義信は持っていたのです。
信玄はそんな事は一言もいいませんので確証はありませんが、武将としての父の性格を知っているだけに、そんな予感は否定できません。
義信と義元の娘との仲は非常にいいだけに、そんな事は義信には許せない事でした。
血で血を争う戦国時代とはいえ、隣の国との信頼関係を裏切っていたら、武田家を信用する所は出て来ないというのが、義信の考えですし、今川家が義元の敵を討てないというのなら、むしろ同盟国として武田が応援して、織田を討つべきではないか。
義信はそういった事を考えていました。
父信玄が駿河に向かうのなら一命を落としてでも、諌めようと決心していたのです。
が、時代はそんな親子のしわくなんか関係なく動いていきます。
そして武田軍は、上杉軍、1万2千が待つ、川中島へと進み、にらみあいに入りました。
ここで膠着状態にじれた信玄が動き、軍師の山本勘助の意見を受け入れて、キツツキの作戦を採用しました。
妻女山にこもっている上杉軍を夜中に霧を利用して密かに海津城を出た1万2千の別働隊が叩き、それで謙信が慌てて妻女山を出て、八幡原に出たら、上杉軍を叩く為に、前もって 八幡原に移動していた本体8千が叩くというものです。
丁度鳥のキツツキが、木の中に隠れている虫に対して、木を叩く事で驚いて出てくるのを待って食べるという事から名前を取った作戦ですが、信玄はそれを採用しようとしたのです。
が、そこで一つの奇跡が起こりました。
いつものように、自信まんまんの冴えがなく、何か不安そうに作戦を説明する軍師山本勘助に嫡男義信が軍議の場でいったのです。
「軍師どの、一つ伺ってよろしいでしょうか」
「はい・若殿、何なりと」
「キツツキの作戦見事ですが、もし謙信が裏をかいて、先に妻女山を降りて、八幡原で我ら武田の本軍が来るのを待っていたらどうなりましょう」
「何と謙信がこの勘助の作戦を見破ると」
「そうはいっていませんが、相手は謙信これが他の武将なら心配がありませんが、謙信である以上、念には念をいれる必用があろう」
義信はまるで人が変ったかのような発言をし、他の回りにいる武将さえびっくりさせました。
勘助はそんな義信に戸惑いながらも、信玄を見つめ、発言の許可を貰うと、
「確かに若殿のいう事も考えられます。この勘助感服しました。もしそうなった時は、本軍は守りを固め、別働隊が到着するまで待たねばなりなせん」
「相当厳しい戦いになるな」
「謙信が我らの裏をかけばそうなりましょう」
「その時は謙信は父上の命を狙うだろう。それを防ごうとすれば、叔父上や他の武将の何人かは死ぬ可能性も出て来よう。別働隊が来るまでの最初は苦戦する覚悟もいるだろう」
「いります。しかし戦はそういったもの。危険を考えていれば何もできません」
「その通りだ。義信危険は覚悟の上じゃ。だが、それを恐れていたら何もできん。本軍が心配なら後2千増やしたらいいだろう」
二人の発言を聞いていた信玄が発言しました。
が、その発言の中には嬉しさがありました。
今まで軍義でもあまり発言をした事がなかった義信が、始めて凄い意見をいったのです。
義信の力量に少し不安を持っていただけに、信玄は本当に嬉しかったのです。
しかし義信はそんな信玄の態度に満足をせず、次に持論をいったのです。
「確かに父上のいう通り、本軍を1万にすれば上杉軍と五分と五分。別働隊が来れば挟み撃ち、武田は勝てましょう。でもその損害は馬鹿にはなりません。1千か2千は亡くなりましょう。武田が天下を取るのは十年は遅れましょう」
「何、天下を取るのが遅れるだと」
信玄はまわりの武将の誰もがいわない天下取りの事を義信が発言した事にびっくりしました。
「遅れます。この戦で謙信を討ち取る事ができたら武田は天下を取れましょう。しかしそれは難しいでしょう。謙信もひとかどの人物、そうやすやすと討てません。討てなかったら武田は死者、負傷者を合わせて5千の損害を受けます。上杉はもっと損害を受けましょうが、それで上杉家がなくなる訳ではありません。5千の損害を武田が快復するには最低5年はかかります。
5年武田は動けません。その間に織田信長が出てきましょう」
「何、信長、あんな小国に何ができる」
「信長はもう小国ではありません。義元殿を破って尾張全土を支配し、石高も50万石を越えております。この信長ただのうつけで今川殿を破ってはおりません。おそらく父上の最大のライバルは信長になると私は見ています」
義信はそう自信ありげに、今までの自分の考えをいいます。
信玄はまさか信長が自分のライバルになるとはとても思えないのか、
「信長ごときに何ができる。たまたま、運がよかったから義元殿を破ったにすぎないではないか」
「運ではありません。信長は義元殿を討ったにもかかわらず、その領土である三河、遠江を目指さず、美濃を狙っております。これは天下を狙っている証拠です。普通なら領主のいない今川を狙いましょう。相当な器量と思います」
「義信、今日の会議は謙信を倒す会議じゃ、信長の器量を聞いているのではない」
信玄はそんな義信にたまらずにいいました。
義信の考えにも一理あると思っただけにそういったのです。
しかし義信は、そんな信玄にも怯まず、
「だからもうしております。何も戦で勝たずとも上杉には勝てます」
「一体どうしろというのだ」
「上杉はこのままやり過ごし、雪が降れば、この軍団を率いて、一気に三河の徳川をつきます」
「何、徳川、そんな要請は今川家から受けていないぞ」
信玄はそういいました。
義信がこんな事をいい出したのは、今川家から依頼された事ではないか。
領主である自分を無視しての事なら、ゆいしき事だと思ったのです。
が、義信はそんな信玄に、
「受けておりません。こちらから今川家に出す必用もないでしょう。すれば、かならず徳川にしれましょう。上杉が去ったら、このまま一気に三河を付くのが肝心。ならば不意を付いて10万石、三河の北側は武田の領土になりましょう」
「が、それで今川が納得するか」
「納得するも、しないもないでしょう。取った後で、三河を両家で分けようといえば、かならず今川は我らの味方になりましょう」
「何、今川と組むのか」
信玄は少し不満気にいいました。
義信はそんな信玄を無視すると、
「組みます。組まなかったら、取った三河の領土を保てません。再び、上杉が来年川中島に来た時どうします。武田は三河に兵を置けません。それに何よりも信長を討てません」
「信長を討ちのか」
「討ちます。まず今年三河の半分を取り、来年三河全土を武田、今川で分けると、再来年には尾張も手に入るでしょう。そうすれば、三河の15万石と尾張半国の25万石、合計40万石が武田の新たな味方になりましょう。兵数でいえば1万。いくら尾張の兵が弱いといっても、今の2万の我が軍に新たに1万が加わり3万になれば、上杉も尻尾をまいて逃げましょう。上杉には兵力で対抗すべきだです。その後、今川家をどうすべきかは、こちらしだい。三河・尾張を全部武田のものにすれば、武田は150万石の大大名で天下を取れますし、今川を味方にすれば、両家で200万石、どの大名も敵ではありません。4年で京都に武田の旗を並べる事も夢ではないでしょう」
「なる程、京都に武田の旗を並べるか。大きくでたな。しかし義信、そちは今川家と武田家が争う事に不満はないのか」
「ない事はありませんが、親の敵も討てない氏真殿では今川家をこの戦国時代に守れますまい。なら武田が属国にしてあげるのが今川家の為というもの。あくまでそれに反対するのなら滅ぼしたらいいのです」
義信はそういいました。
今川家を滅ぼす事自体決して義信の本心はありませんが、父を説得するにはそういった方がいいと判断したのです。
またその義信の狙いは成功しました。
義信が謙信のように日頃、信義というような言葉を吐く事に、不満を持っていた信玄はほっとしました。
謙信と戦いが終わった後、いつか今川家を滅ぼす事で嫡男の義信と争う事になるかと内心恐れていた信玄は義信の本心を聞いて安心したのです。
それがいつになく義信の信頼につながり、信玄は、親子の会話をじっと聞いていた他の部将に
「義信には義信なりの考えがあるの。みなのものはどう思う」
「その義信様の考え、素晴らしい考えだと思います」
「武田の天下も後5年の辛抱。おめでたいと事だと思います」
義信のもり役の飯富虎昌を筆頭に次々と他の部将が賛成の意見を述べました。
彼らも死ぬかもしれない戦いはできたらしたくなかったのです。
ここで戦場の雰囲気が激変し、信玄もこれでは戦えぬと判断すると、軍師の勘助を見ました。
勘助も黙って肯き、これが後の世に武田の天下取りといわれる歴史上有名な会話になりました。
信玄はキツツキの作戦を止め、結局川中島の4回目の戦いも、それまでと同じ膠着状態のまま終わりました。
謙信も海津城に閉じこもる信玄をどうする事もできなかったのです。
が、この結果はこの当時の信玄には分かりませんが、大吉と出ました。
もしこのキツツキの作戦をした場合、義信のいった通りの結果になりました。
8千の武田本軍を1万の上杉軍が付き、武田軍は別働隊が来るまで、苦戦をしました。
弟で片腕の副将でもある信繁や山本勘助を含めて、2千人以上の戦死者が出る大激戦になりました。
確かにこれで一様、川中島での戦いの決着は付きましたが、これで上杉との決着が完全に付いた訳ではありません。
3千以上の戦死者を出した上杉軍に勝ちましたが、武田軍の損害も大きく、結局今川に侵攻するのに5年以上遅れたのです。
でもそんな戦がありませんでしたので、弟の信繁も山本勘助も顕在です。
しかも上杉軍が雪が降る、最後の最後まで川中島で粘っていてくれた為に、三河侵攻は完全な不意討つになりました。
三河の野田城や足助城などは次々と、突然攻めて来た義信とその補佐を担当した勘助の率いる8千もの武田軍に攻められあっという間に落ちてしまいました。
その後、義信は今川の氏真に共に義元の敵を討とうと呼び掛け、今川を引き出す事に成功しました。
氏真も武田が動いた以上、徳川に勝てると確信した今川の家臣の突き上げもあって、三河の吉田城に侵攻し、三河の半分を武田に与える事を認めました。
信玄自らではなく、嫡男の義信が来た事で、今川の信頼を得る事ができたのです。
氏真は武田が三河を自分のものにするつもりではなく、義信の親戚に当たる義元の敵を討つ為に、参戦してくれたと思ったのです。
ですからこの戦は武田・今川連合国のものでした。
三河の徳川は10万石を取られ、動かせる兵は総兵力の20万石で5千です。
しかし武田は8千と今川の1万2千で合計2万です。
家康は慌てて新たに同盟を組んだ織田信長に援軍を頼みましたが、信長も乗り気ではありません。
まさか武田がこの時期に徳川を義元の敵を口実に攻めて来るなどとはまったく考えておらなかったのです。
でも信長としてもほっとく訳にもいきません。
徳川の次は自分だという事は目に見えています。
結局信長は5千を柴田勝家に預け、徳川の援軍に出しました。
信長自身が援軍に駆けつければ、かえって今川の復讐の心に火を注ぐだけだという口実で、控えたのです。
が、徳川、織田両家で1万では武田・今川の2万に対抗する事はできません。
柴田勝家自身、信長から絶対に武田とは争うなと厳命されており、どうしても消極的です。
吉田城を2万の大軍で囲む武田・今川軍に対して、何もできず、2ヶ月後には吉田城が落ちました。
義信はその吉田城を今川氏真に約束通りまかせ、吉田城で、氏真と今後の方針を話し合いました。
来年の冬、上杉が攻めて来れない時期に、武田・今川両軍でまず三河の徳川軍を完全に叩き、再来年には織田に攻め込むという約束ができました。
氏真も喜んでその条件を飲み、担当する地域まで決りました。
徳川の岡崎城は武田、織田の清洲城は今川となり、両家で三河、尾張を分ける事が事実上決定したのです。
ここに事実上武田・今川という強力な連合軍が誕生したのです。
しかも義信は、今川軍を完全に取り組む事に成功しました。
義信とは氏真の妹を嫁にしている上に、年もさほど変りません。
同じように偉大な父を持った嫡男どおしという事もあってすぐに親しくなりました。
しかも義信は氏真の性格を見抜いており、大きな餌を与えました。
氏真の京都に憧れている気持ちを利用して、共に京都を馬を並べて進もうと誓いました。
氏真は義信を完全に信頼したのです。
が、それよりももっと大きい事は今川の重臣の気持ちをしっかりと握った事です。
今川の家臣達も、父義元の敵を討とうともしなかった氏真を見切り始めていました。
氏真には今川家を動かしていく力量はありません。
そんな氏真の率いる今川を守るには武田に頼る事だという事に気が付き、義信に頼り始めたのです。
こうして最初の義信の三河侵攻は大成功しました。
春になる頃、義信は守りの為に武田の兵を2千残すと甲斐に帰りました。
新たに取った三河、10万石で、2千5百、今川の援軍2千、合計6千5百が野田城や足助城で守りを固め、氏真が、武田が来るまで、徳川・織田軍を決して武田の領土、信濃に入れないと確約したので安心して帰国する事ができたのです。
しかしこれでおさまらないのは信長と謙信です。
二人は正確に義信や信玄の狙いが分かっていました。
それで同盟を結ぶと、春に成ると今度は攻めて来ました。
謙信はこのまま武田が三河・尾張を取って強大になる事を恐れ、今度こそ武田を潰そうと1万2千で川中島にやってきました。
また織田信長もこれに合わせて、三河の足助城に徳川軍5千と一緒に、1万3千で攻めてきたのです。
が、信玄はそんな二人に対して決して負けませんでした。
上杉軍に対しては今川からの援軍3千を含めた1万5千で川中島に来ると、いつものように戦おうとしませんでした。
謙信の焦りを待ったのです。
これで上杉軍を防ぎ、織田・徳川軍には、吉田城にいる今川軍、5千でにらみを聞かせて貰いました。
もし信長が信濃を攻めて来た時には、今川軍と武田軍がはさみうちをするので、信長も足助城より前には進めません。
義信はそんな織田・徳川軍に対して信濃の吉岡城で勘助と共ににらみをきかせており、見事に防ぎました。
信長の尾張の兵は弱く、山岳戦にはなれていません。
二度軽く信濃に兵を入れましたが、義信の率いる2千の兵で見事に防がれたのです。
さあ、こうして二人の試みは成功せず、夏になる頃には上杉軍も越後に引き上げました。
北条氏が関東の松山城を攻め、信玄が手をまわした越中の石山本願寺が、越後を付いたので、もどうする事もできなかったのです。
そして冬になると武田・今川連合軍は再び三河を襲いました。
今度は信玄自ら1万の兵を率いて来たのです。
これと今川の1万3千の兵を合わせて、一気に三河の南側を襲いました。
三河の南側の小城は次々と落ちていき、信玄はそれを今川に任せると、岡崎城の家康を攻めました。
岡崎城を猛攻で落とし、織田の領土まで侵攻するつもりだったのです。
が、そんな信玄の予定も、家康の奮闘でくるいました。
家康は家臣をまとめ、あくまでも防ぎます。
岡崎城に2千で閉じこもる徳川軍を武田軍も攻めきれなかったのです。
だから信玄は家康に対しては、和議で開城させました。
義信の勧めで、徳川に岡崎城を与える形で、家臣にしました。
信長も家康を救援する為に、1万の兵を率いましたが、野戦で武田・今川軍に敗れ、もう兵を向ける事はできません。
家康も武田に自分の力を十分見せ付けたら、家を守る為には武田に降伏するつもりだったのです。
こうして三河の半分は武田のものになりました。
義信は家康を信玄から任され、家臣にしたのです。
でも信玄の猛攻は続きます。
信玄はその後、弱っている織田を攻め込む為に、越中の石山本願寺に越後の上杉領を攻めさせました。
北条氏にも依頼して関東にも戦を起こし、謙信が信濃に攻め込めないようにしました。
この作戦は見事に成功し、謙信は動けません。
信玄は念の為に1万の兵を信濃に置くと、今川軍と共に織田の尾張に攻め込みました。
義元の敵を討とうとしたのです。
が、これに対して信長は桶狭間のようには抵抗できませんでした。
慎重に兵を動かす武田・今川軍・2万5千にはまったくすきがなく、清洲城に籠城するしか方法はなかったのです。
しかしそんな信長に対して、復讐の念で凝り固まっている今川は容赦しません。
徳川でも織田に対しでも氏真は過酷な態度で望みます。
信長の家臣でも決して許るそうとはしないのです。
でも武田は違います。
徳川を許したように、織田の家臣も許して、自分の臣下に加えます。
ですから織田の家臣もそれが分かると、武田が来るとあっさり降伏しますが、今川が来ると戦います。
武田は次々と織田方の城を開城させていき、残るは今川が攻めている清洲城だけになりました。
今川が信長を清洲城に閉じこめている間に、武田が他の城を次々と落とす作戦が成功したのです。
信長はこうして尾張に味方が一人もいなくなりました。
あくまで信長と共に抵抗した柴田勝家や丹羽長秀は城を枕に討ち死に、5千の兵と清洲城にいたのです。
が、そこから氏真と義信では考え方が違いました。
あくまで親の敵といって織田一族を根絶やしにしないと気がすまない氏真に対して、義信は、信長を評価していました。
信長が有能な家臣なら百姓でも登用したりする所も気にいっていましたし、何よりもどんなふうに天下を取るつもりでいるのかも興味を持っていました。
本心をいえば、家康同様、信長を家臣にして、その考えを聞いてみたかったのです。
でもそれは今川の手前絶対に許されません。
義信はその為に、織田を攻めると決った時に、三人の有能な家臣を密かに清洲城に派遣して聞きだそうとしました。
「織田を攻める前に、我が主人が、天下を治める為にどうしたらいいか、是非意見を聞きたいといっていた」といわせたのです。
でも信長は自分の考えは述べませんでした。
ただ自分以外の織田一族の事を頼み、あえて武田の攻める城に、妹のお市などを住まわせてのです。
ですから義信はそんな織田一族のお市などを保護しました。
お市の美貌にはさすがの義信も参りましたが、父信玄に頼んで命は助けました。
義信はこのように織田に対しても優しく接し、清洲城が落ち、信長が自害した後も織田の家臣も重用しました。
秀吉は信長と共に死んでしまいましたが、前田利家や河尻秀隆などを新たに自分の家臣に加えたのです。
こうしてここに義信が最初に川中島でいった戦略は見事に実現しました。
武田は尾張と三河の半国ずつ、40万石を領土にし、欲しかった海を手にいれる事もできました。
今川との約束で、尾張の海側を武田の領土にしたのです。
が、何よりも信玄を喜ばせたのは、経済力が持てた事です。
尾張は甲斐、信濃よりも豊かで、海で貿易している商人から膨大な税金が入ったのです。
ですから信玄も上機嫌でした。
氏真に対しても亡き義元の代わりに親になったつもりで面倒を見る。
織田家に対する処置に不満のある氏真に対しても上手に説得してくれたのです。
だから信玄も今川家をこのまま利用する事にしました。
今川の家臣も、もうすでに何人も取り込んでおり、90万国にもなった今川家は、扱い易い同盟国です。
武田の110万石と合せ、両家で200万石、5万の大軍を動かせる勢力になったのです。
そしてそんな武田家にはさすがに謙信もうかつには攻め込めないようになりました。
翌年謙信が川中島に攻め込んだ時、武田は尾張・三河で5千、今川が1万、本国甲斐・信濃で1万5千という合計3万の3倍の兵力で望みました。
謙信はそんな兵力の前に慌てて越後に引き上げ、6度目にして信玄は一人も失わずに戦に勝ったのです。
しかも信玄は勘助の案で、信濃に1万の兵力を残し、後の2万で、上杉陣営の西上野を攻めます。
上杉に失望した西上野の部将はそんな武田軍に対して、次々とあっさり降伏し、関東管領 としての上杉の権威は地に落ちました。
信玄の要請で北条も2万の兵力で集まり、東上野の沼田城に来た謙信は一歩も動けないありさまです。
信玄はそんな謙信に対して、箕輪城の長野氏を降伏させると20万石を新たに領土に加えました。
関東でも武田に対抗できる勢力はなくなったのです。
さあ、天下取りの為に京都を目指すのも、後わずかです。
信玄はその為に背後の北条氏と新たなきずなを深くしました。
次男の勝頼と北条氏康の娘、 と婚約させました。
北条家100万石が、武田が京都に行っても、背後を付かないようにしたのです。
こうして信玄は漫然の体制を整えて、美濃の斎藤家をあっという間に攻略しました。
尾張からは武田・今川2万・信濃からも武田が2万の合計4万で攻められたら、家臣との結束力の弱い斎藤家ではひとたまりもありません。
2ヶ月もむせずに斎藤竜興は稲葉城を開け渡し、信玄は美濃57万石を支配しました。
援軍に駆けつけてくれた今川家には約束通り、三河の半国を与えましたが、それでも武田は170万石にはなり、一人で天下を取れるぐらい大きくなったのです。
しかしここで信玄と義信は、京都をすぐに目指さずに、まず本拠地を甲斐から美濃の 稲葉城に移しました。
甲斐から京都は遠いからです。
でもそれだけではなく、信玄は外交で味方を作ります。
北近江の浅井長政には信玄の娘、菊姫と婚約して味方にしました。
浅井も越前の朝倉と、将来戦う時には事前に知らせて欲しいという条件を付けて、喜んで味方になったのです。
が、信玄が後の世に評価されたのはそういった事だけではなく、戦国時代の常識になっていた恩賞のシステムを美濃を占領した時点で変えた事にあります。
義信の勧めで、信玄は部将達がむやみに競争しないようにしました。
美濃を取った時の一番の恩賞を長年海津城で、上杉謙信から川中島を守っていた高坂 に与えました。
高坂に信濃の北側を与え、単独で謙信と対抗できるようにしました。
信玄はこのように美濃に取るには何の手柄もない高坂に褒美を与える事で、今後新たな領土を取った場合は5分の2を武田本家に、後の5分の3を部将達にできるだけ平等に与える方針を示しました。
留守を守っている部将にも褒美を与え、武田の部将達が競争しないようにしました。
戦で手柄を与えたらもちろん褒美は与えますが、できるだけ多くの部将に土地を与え、団結力がつくようにすると、すぐに次の戦、北伊勢の北畠家を攻略した時から実施しました。
これで特定の部将の力ではなく、これからは武田家全体の力で勝つ事を教えたのです。
しかしこれは義信が信長のやり方を家臣から聞いて反省して考えた方法でした。
信長の家臣から信長が家臣をむやみに競わしていた事を聞き、義信はそのやり方では家臣同志の仲が悪くなって最後には家を滅ぼすと思ってやめたのです。
が、他の信長がしたかった楽市楽座の制度や本拠地を次々と移したり、土地に新しい名前をつける事は義信は採用しました。
信長は義信の為に、何人かの家臣に自分の考えを伝えていたのです。
その為武田軍は急速に近代化していきました。
また美濃の稲葉城を、信長の意志通りに、新しく岐阜城と名付けた城下町は繁栄し、義信はこれを機会に、何かとうるさい穴山信君や小山田信義を甲斐や信濃に留めて置く事に成功しました。
信玄も義信の同じようにしたかったのです。
しかも武田軍は従来の農民を兵にするのを止め、信長が伝えた兵農分離制度を採用しました。
農業が忙しい時期でも戦えるようにしたのです。
さあ、これで準備は整いましたが、後一つ信玄は天下をあっといわせる事をしました。
信玄自身を今川義元の代わりの副将軍とし、嫡男義信を将軍代理としました。
正式の足利家の将軍義輝は松永久秀に殺され、弟である義昭は越前朝倉家にいますが、それを無視して将軍家という新しい名字のない家を作ったのです。
その誰がなるかも決っていない将軍家の為に、天下を統一し、戦のない世の中を作ると誓言し、それを口実に京都に昇ろうとしました。
家柄からいってもそんな武田が副将軍になる事に表立って反対できる大名は、上杉謙信ぐらいしかいなかったのです。
こうして大義名分は出来ました。
信玄はその事を同盟国の浅井や今川、北条に認めさすと、次に再び世間をあっといわせる思い切った事をしました。
天下を治めるのに将軍家にはまったく領土がないのは問題なので、将軍家に臣下を取る家は領土の3分の1を将軍家に家臣と共に渡すように命令しました。
信玄はそれをまず自ら実行するといって、西上野と尾張半国と川中島を将軍家の領土しました。
こうすれば上杉謙信は簡単に攻められませんし、他の家が領土を減らさずに簡単に降伏するのも防げます。
領地の3分の1を献上するか、さもなくば戦うかどちらかを選ばせたのです。
が、それは他の家に取っては素直に従う事のできない命令でした。
信玄は今川や北条に対しては一切そんな事は求めず、畿内の六角や松永久秀や三好にだけ求めました。
特に将軍を殺した松永久秀には、領土のすべてを取り上げるという過酷な条件を突きつけ、問答をいわさずに武田2万5千、将軍家1万、今川2万、浅井5千で、畿内を占領しました。
南近江から大和、山城、泉州という国が瞬く間に手に入り、京都に武田は旗を上げる事ができました。
義信は約束通り、氏真と馬を並べて京都に入り、信玄も天皇に挨拶する事ができました。
もう半分以上天下取りは成功したのです。
しかも信玄は実質上将軍家を握っている義信に、取った3分の1の領土、大和、山城を与え、残りの領土から泉州とと近江の国友村がある地方を取りました。
後の領土を今川と浅井に分けたのですが、その領土も将軍家に3分の1を献上するという名目で取り上げました。
浅井、今川も自分の土地を取られる訳ではないので素直に従ったのです。
というのもこれは両家にもメリットがありました。
3分の1の領土をすべて家臣に与えれば、実際の家の実質の領土が減る訳ではありません。
うるさい家臣などはこれ幸いと将軍家にやっかいばらいをして、自国の領土を完全に支配できると考えれば、本来の家の国石が減る訳ではありません。
義信がそうやって今川、浅井を説得したのです。
これで武田家だけではなく、将軍家も大きな力が付きました。
領土も120万石になったのです。
でも本当にメリットのあるのは武田家でした。
信玄は国友村という鉄砲の生産地と貿易港の堺を押さえました。
京都は氏真を任せ喜ばせましたが、経済力のある地域は武田が占領したのです。
実はこれも信長が義信に伝えた方法だったのです。
そしてこれを機会に畿内のいろんな勢力が将軍家に臣下を求め始めました。
南伊勢などの各小大名は争って、将軍家に3分の1の領土を渡し、無能な家臣も渡します。
領土を取られるよりはましだ。
将軍家に献上するのならいいかという事になったのです。
が、それでおさまらないのは越前にいる将軍と名乗っている足利義昭です。
その将軍家には自分が座るべきだ。
当然自分が貰う領土だと言い出したのです。
しかし義信は義昭の性格は最初から分かっており、始めから無視していました。
将軍家には何の権力も実力もないものより、誰もが認める人物がなるべきだといってはなから相手にしません。
朝倉家にも依頼して、決して朝倉家から出られないように、封じ込めていたのです。
だから義昭は越前から一歩も出れず、何もする事はできませんでした。
義信はちゃくちゃくと将軍家を固め、高坂や山県、馬場などの信用のできる武田家臣団で、自分の回りを固めていきました。
織田の家臣と武田の家臣を上手に利用し、立て札を使って広く家臣を募集しました。
もうすぐ天下が統一する事を睨んで、戦の好む部将より、数学などができて、上手に土地を治められる人材を求めていったのです。
そしてそんな中で待望の跡継ぎが義信に生まれました。
なかなか子供ができない義信は今川家とかかわりのある側室を3人程2年前から持っていたのですが、その一人が身ごもったのです。
信玄もそれに上機嫌になると、義信の子供が男なら将軍に推薦する事を誓言しました。
男が生まれるという事は、天や仏が将軍になる子を与えてくれた証拠だとしたのです。
これなら他の大名も文句はいえないと思ったのですが、その信玄の読みは当たりました。
どの大名からも反論は出ず、信玄は全国制覇へと乗り出しました。
義信の勧めで摂津の石山本願寺だけは絶対に争わないようにして、中国の毛利氏へ戦いのほこさきを向けたのです。
しかし大国毛利も今や強大になった武田家や将軍家に対抗できません。
毛利を応援してくれる所もなく、結局毛利氏は家臣と1か月討議して、義信の子供が男で将軍になるのなら、それに従うという返事をよこしました。
それで家臣の反対を押し切ったのです。
だから義信の子供は男か女かは、天下の注目の的でしたが、無事に男の嫡男が生まれました。
信玄はその子に今までの武田家にはない光と一字を与えました。
光将軍と呼ばせたのです。
が、これに一番ほっとしたのは毛利家です。
さっそく毛利は因幡、美作、備前、微中などの60万石を将軍家に与え、家を守りました。
その後は四国の長宗我部家や九州の島津家などの家も将軍家に従い、一兵も損なう事なく、信玄は日本の西側を押さえたのです。
さあ、後は関東、東北だけです。
が、ここで思わない事が起こりました。
信玄が病の為に倒れてしまったのです。
でもそれで武田家がびくともする事はありません。
嫡男の義信は将軍家を守り、武田家は次男の勝頼が継ぐ事で決っていたからです。
義信と勝頼の仲も決して悪くはなく、信玄は安心していたのです。
ただ信玄はそれでも用心をして、自分の娘、松姫と家臣の真田の3男、昌幸を婚約させ、 昌幸を武田の一門に加えました。
有能な部将は将軍家に与え、勘助が病気でなくなった後、武田家に人材がいない事が気がかりだったのです。
それで近江の10万国を昌幸に与え、勝頼と義信の繋ぎ役にしました。
昌雪も甲斐一の美人といわれている松姫を大切にし、その任務をまっとうしました。
義信と勝頼の仲をますます結び付けたのです。
そしてその後、信玄は何と病気のまま、上杉謙信のいる越後に2万の兵を率いると向かいました。
今の武田家が本気になれば、謙信にさえ単独で勝てます。
しかし信玄は謙信を滅ぼしたくありませんでした。
謙信の考えは今の将軍家に取っては大切な考えです。
この謙信の考えが残る上杉家なら、孫の光の将軍家を支えてくれる重要な家臣になってくれると信じていました。
信玄は自分のライバルであった謙信を滅ぼしたくはなく、自分が頼めば分かってくれると信じたのです。
またその信玄の誠意は謙信に通じました。
謙信は信玄亡き後の福将軍の地位を引き受け、光を将軍として認めました。
東上野を光の為に進呈し、有能な家臣をくれました。
信玄はそんな謙信と春日山城で十日間、一緒に酒をくみかわし、足利義昭の事も頼みました。
越前朝倉にいる義昭を、越後に引き取って貰ったのです。
謙信なら義昭を粗末に扱わないだろう。
義昭にも、時勢を説いて、足利氏が将軍になるのをあきらめさせてくれるだろうと思ったのです。
こうして信玄はもう何もやり残す事がなく死にました。
生まれ故郷の甲斐で死に、その葬式は盛大を究めました。
日本全国の大名が葬式に参加したのです。
しかもこれをきっかけに関東や東北の大名も、北条氏を除いて将軍家の臣下になりました。
戦の天才謙信が将軍家を率いて戦うという事に対抗できる自信のある大名など一人もいません。
佐竹、伊達、最上など次々領土の3分の1を渡し、将軍家の領土は300万石を越えました。
後は北条氏だけになったのです。
しかし氏康亡き後の北条に、将軍家に対抗する力などありません。
武田とつながりの深い北条氏も時勢はよく理解しており、結局、武蔵の国を将軍家に渡し、全国が統一されました。
この年、義信には2番目の男子も登場した事もあり、将軍家にとっても素晴らしい年になったのです。
しかし義信にはまだまだやらないといけない事がありました。
治世をどうするかです。
義信はそれに取り組み始めたのです。
が、この将軍家の特長は、まず大きな城を持たない事でした。
武田の人は城、人は石垣、人が掘りという言葉を実践し、義信は将軍家の領土にあえて城を置かないようにしました。
どの領土も館にしたのです。
また将軍家の軍隊を鉄砲を中心とした近代の軍隊に育て、他の戦国大名の領土からも兵を無くすようにしました。
将軍家だけが軍隊を持てるようにし、最後の戦として、摂津や加賀などの北陸の石山本願寺をもの凄い量の鉄砲で攻め落としたのです。
こうして義信は宗教との政教分離を果たし、日本を近代化しました。
その後、摂津の石山本願寺の根拠地を義信は将軍家の本拠地にしたのです。
そして最後に、義信がやった事は、代行制度を採用した事でした。
将軍家からは7人の代表を家柄ではなく、家臣達の選挙で選ばし、武田家からは3人、今川家からは2人、後の島津、毛利、北条、上杉からも一人ずつ藩主ではない代表を選ばせる事にし、これと残った他の大名達の中から選挙で選んだ3人の代表、合計19人の代表達で治世を多数決で決めるようにしました。
そういったちょっとした民衆制度のようなものを採用し、将軍にもその決定に従うように遺言しました。
後の世、200年後から300年後には、この制度をもっと広め、すべての日本人が治世にかかわれるようにしろと遺言して40才で、嫡男の光が8才の時に死んだのです。
しかしそれでも将軍家はびくともしませんでした。
義信は将軍家の家臣の間にも、決して競争の概念を入れませんでしたので、家臣の団結力は決してなくなりませんでした。
家臣は8才の光将軍を補佐したのです。
また将軍家は他の大客に武力で驚かすような事はしませんでした。
大名に対しても決して取り潰しはせず、石高を減らす以上の事はしませんでした。
将軍家はそんな和の政治を試みたのです。
しかも将軍家は美濃の斎藤家のように、滅ぼした家に対しても最後までひっそりと面倒を見ていました。
石高でいえば300石程はずっと出し続けており、それは最後まで続きました。
明治維新を迎えた時に、政権を国民の選挙で決めた人物に任せて、将軍家はなくなったのです。
終わり。・・・・・・・・・・・・・
さて、こうして武田家の天下取りの物語は終わりました。
きっと武田の為に死んでいった人も、これできっと満足してくれたと思います。
皆さんもどうもご協力ありがとうございました。
では皆さん今後も合縁で。・・・・
平成7年11月19日
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