縁の花

                  (魂が成長する正直な心と心のネットワーク)

第84号

河内宏紀

 縁の花で何を書くかは正直言って決まってはいません。

 何かをかならず書かないといけないなんてありませんし、誰かにこれを書きなさいと指示された事も一度もありません。

 ただ紫陽花が日々の本物活動をしているなかで、感動した事や書かないといけないという使命を感じた事を書いているだけです。

 紫陽花はそんな中で気が付いたらもう第84号も書いている事になりますし、これからもずっとその基本方式は続けるつもりです。

 しかしそうはいっても紫陽花もバランスは考えています。

 現世の事である個性学やMGの事とそんな現世とは離れた笑顔共和国や知花先生やちょっと変わった河内先生の霊の事、それをバランスを考えて書きたいと思います。

 特に河内先生の事はまったく興味のない人も皆さんの中には多いと思うので、そればかり書かないようにしたいと思っていますが、今回は別です。

 第82号済度に続いて、河内先生の事を書きたいと思うのです。

 というのも平成9年2月25日に、河内先生のグループで大変な事がありました。

 河内家の長男である宏紀君が霊界に帰ったのです。

 まだ18歳と4ヶ月の短い命でした。

 正直言って紫陽花も少しショックを受けています。

 宏紀君と紫陽花の縁は、金沢に行く時に顔を見るぐらいで、一度も二人で何かを語るという事はありませんでしたが、それでも宏紀君の存在は印象に残っていました。

 今からそんな宏紀君のレクイエムといえば大げさですが、この縁の花で、宏紀君の事や、紫陽花が経験した2月25日から、2月28日までの出来事を書きたいと思います。

 是非一人の男性の短い生涯だけど、本当に凄い人生を過ごした宏紀君の事を知って下さい。

 お願いします。

 

 実は紫陽花が、宏紀君が霊界に帰った事を知ったのは2月27日(木曜日)の晩でした。

 その日紫陽花が家に帰ると、京都済度の仲間から悲しい知らせ、宏紀君が突然2月25日に霊界に帰ったという事や27日に葬式をするという伝言が留守番電話に入っていたのです。

 しかしこれは紫陽花には二重の意味でショックでした。

 一つは宏紀君が死んだという事です。

 紫陽花はまったく予想もしていなかったので、ショックを覚えたのです。

 が、それと同時に宏紀君が火曜日に亡くなった事に、紫陽花は何ともいえないものを感じました。

 というのも紫陽花は二年ぶりぐらいにその日、体調を崩していました。

 朝起きた時から何かしんどくて、会社を昼から休んだのです。

 だから紫陽花は「もう風邪を引かないと決めているのに、久しぶりに引いてしまったかな」

 と思って、岸和田ではなく、両親が住んでいる自宅の泉大津に帰ったのです。

 でも風邪にしては、本当に変わった風邪でした。

 何故なら帰ってから熱を計ったら38度ぐらいあったので、紫陽花は医者に行って薬を貰って来ましたが、注射もしていないのに、その日の晩には熱は下がり、咳も出ず、殆ど風邪らしい症状がなかったからです。

 紫陽花が風邪を引くと熱は一日から二日は引く事はないので、本当に今回は楽な風邪だなと思っていたのです。

 ですから翌日の水曜日には安静の意味で会社を休みましたが、木曜日にはそのまま自宅から仕事に向かったのです。

 だけど紫陽花はこの時期に何故体調を崩したのかは分かりませんでした。

 自分に起きる事はすべて必要であり、必然で、ベストの状態だという宇宙法則を理解している紫陽花は、木曜日、仕事をしながらどうして体調を崩したのか、天は何を紫陽花に伝えたかったのか。紫陽花の心の何が原因で、何がいけなかったのか。

 ずっと考えていたのですが分からなかったのです。

 でも宏紀君が亡くなったという留守番電話の内容を聞いて、紫陽花にも原因は分かりました。

 その本当の意味はこれから紫陽花自身が真剣に探さないといけませんが、金沢で宏紀君が苦しんでいた同じ時間、紫陽花も大阪で、宏紀君の何分の一でも肩代わりして苦しんでいた。

 多くの「有縁の死者霊」の訴えを引き受けていた。

 だから宏紀君が亡くなった翌日にはもうけろっとしていたんだ。

 やっぱりあれは風邪ではなかったんだと納得したのです。

 しかしそれが分かってももう後の祭りです。

 紫陽花は残念ながら葬式さえ出られなかったからです。

 ただそれでも紫陽花は皆さんに、その内容を報告する事はできますが、大変素晴らしい葬式だったみたいです。

 花輪や弔辞として、今まで河内先生との縁がある自民党の有名な代議士さんや芸能人では丹波哲郎や五月みどりなんかもくれましたし、笑顔共和国の福田純子大統領も送ってくれました。

 つい最近河内先生と縁が出来た神園さんはそんな葬式に参加され、

 「今までいろんな葬式を見てきたけど、一番感激しました。最後には全員で宏紀君が生前好きだった乾杯の歌を歌ったりして、さすがは河内先生の所の葬式です」という感想をくれましたが、紫陽花も死者に対して、明るくもてなして、喜んで霊界に帰れるような葬式、河内先生や知花先生が日頃いっている、黒沢監督の映画、夢に出てくるような葬式をされたんだと思います。

 でも紫陽花が皆さんに知って欲しいのは、そういった事ではなく、あくまでも宏紀君の短い人生です。

 それがどんなに過酷な人生だったかを是非皆さんに知って欲しいのですが、たぶん皆さんもびっくりすると思いますので、ここで一つ深呼吸して、心を落ち着けて読んで欲しいと思います。

 では今から話します。

   

 

 そもそも紫陽花が宏紀君の存在を強く認識したのは忘れもしません、去年の正月、1月3日でした。

 紫陽花は前から河内先生にお願いして、その日から2日間、河内先生の家に泊めて貰ったのです。

 しかし紫陽花がこんな事をしたのには大きな理由がありました。

 それは河内先生が本物かどうか、最終的に確認をしたかったのです。

 というのも今、紫陽花はどんどん河内先生の事を書いていますが、ここまで来るのに長い年月がかかりました。

 始めて河内先生の事を準備第  号、河内哲という題名で書いたのさえ、河内先生と知り合って、縁が出来てから1年半はかかったと思います。

 河内先生の事を縁の花で紹介する事については、もの凄く慎重だったのです。

 はっきりいってそれぐらい河内先生の教えは、紫陽花が今まで出会ってきた多くの本物とは違いました。

 まずその一つにどうしても何かの新しい宗教に見えるという事です。

 紫陽花は決して宗教はやらない主義だし、断じて河内先生のグループは宗教組織ではないのですが、最初はどう見ても、何かの宗教としか思えないし、実際「縁の花」の読者の中でもそう誤解している人が多いと思います。

 そんな誤解をされ易いのです。

 又紫陽花自身がはっきり分からない事もたくさんありました。

 河内先生が佛の生まれ変わりとか、創造主の魂を持っているといっている事や、たった1回の済度で本当に多くの有縁の死者霊が救えているという事です。

 これらの事を紫陽花は、否定はしませんが、さりとて証明する事もできず、その当時の紫陽花はどちらかといったら疑ってみていたのです。

 しかもその上に、河内先生の教えを受けている多くの人達は、やたら「先生といって」河内先生の事をあがめようとしているし、紫陽花の求めている本物に対しては、まったく縁のない人ばかりでした。

 船井先生とか、知花先生、中村天風さえ聞いた事がない人ばかりで、紫陽花は正直いって河内先生はともかく、河内先生のグループの人達は本物とはいえないと思っていたのです。

 しかしその反面、紫陽花はもの凄く河内先生の教えに惹かれていました。

 河内先生の人柄は、本当に凄くて、今まで習ってきた本物の先生の中でも一番の暖かみ、安らぎを感じましたし、紫陽花が活躍できる何か大きな舞台を感じました。

 やたら縁があるというか、河内先生自身が紫陽花の活躍を求めているという気がしたのです。    

 が、そんな事よりも紫陽花が河内先生に惹かれたのは河内先生の隠れた教えの中に、紫陽花が長年求めていた今の人類を救済できる究極のものをみたからです。

 その為に紫陽花は河内先生の縁から離れなかったのです。

 そしてそんな紫陽花が河内先生の事で、いつまでもこんな状態ではいけないので、最終的に決断したのは、一度河内先生の家に泊まって、河内先生の事をじっくり観察しようという事でした。

 河内先生の家や家族をみれば、河内先生が本物か、そうでないか分かるかもしれないと考えたのです。

 それが去年の正月だったのですが、この時の体験は紫陽花にとっては忘れられないものになりました。

 河内家の生活はとにかく凄かったのです。

 紫陽花はその事に心から感激しましたが、何が凄いかといったらまず河内家の質素な生活です。

 部屋がキッチンを入れて4つしかない中で、子供が8人もいます。

 その内長女の由佳ちゃんは正月なので帰っていましたが、普段は東京に居たとしても、おばあちゃん(去年亡くなった)を含めて狭い部屋でみんなが寄り添うように寝ています。

 自分の部屋を持っている子供なんか居ません。

 紫陽花は河内家のお客さんが泊まる部屋で寝たので、一人でしたが、大変申し訳ない気がして恐縮した事を覚えています。

 しかも食事も質素そのものです。

 河内先生を慕う人が持って来るものを感謝して食べたり、河内先生の奥さんが一人ですき焼きなんかを作って、家族全員で食べましたが、およそ先生と呼ばれている人の生活とは思えませんでした。

 風呂も何日かに一度しか入る事がなく、紫陽花は心から感激したのです。

 でもそれよりも紫陽花がもっと感心したのは河内家の人々が、河内先生の事を理解し、一丸でやっている事です。

 これには紫陽花は正直びっくりしました。

 いくら本物の先生といっても、なかなか奥さんや子供さんが理解してやっているとはかぎらない中で、河内先生の一家は一致団結していたのです。

 しかしその中でも紫陽花が特に感心したのは、実は宏紀君や由佳ちゃんの姿でした。

 この二人は大きくなったという事で、河内先生の済度のお手伝いをしていました。

 朝の4時20分と朝の10時半には河内先生のお母さんと奥さん、宏紀君、由佳ちゃん、河内先生の5人でいつも行動しているのです。

 紫陽花はたった二日、それを経験しただけでも、この大変さは理解できたので、本当に感動しました。

 朝の3時40分頃に起きるのがどれだけ大変か。

 皆さんにも想像できると思います。

 紫陽花はそれをたった2回経験しただけで、その大変さはよく理解できましたが、河内先生の一家は、それを毎日しているのです。

 これは言葉では表せない感動でしたし、紫陽花はそれを河内家の長男として、決して目立たないけど、黙々とやっているその当時17歳の宏紀君に注目しました。

 普通こういった事は、両親が熱心にやればやる程、男の子供はどうしても反抗するはずなのに、宏紀君からはそんな態度が見えません。

 むしろいっさい仕事もせずに、ずっと済度に毎日賭けている河内先生の長男だという事に誇りを覚えていました。

 さすがに「お父さんに顔や姿がそっくりだ」といわれるのはいやなのか、髪の毛を金髪に染めていましたが、発表の時は父親を尊敬していました。

 今でも覚えていますが、宏紀君は済度の時の発表で、自分が生まれた時に、父親である河内先生がどんなに感激したかなどを話してくれました。

 命の尊さや、河内先生の人柄を紫陽花に教えてくれたのです。

 ですから紫陽花はそんな宏紀君や由佳ちゃんの姿を見て、初めて河内先生を信じる気になりました。

 奥さんや河内先生のお母さんだけでなく、子供達さえ、世間から見たら異常としか思えない事を十何年もしながらも、ちゃんと育てられる河内先生はやはり本物だ。  

 紫陽花はそう判断すると、縁の花でも100パーセント自信はなかったけど紹介する気になったのです。

 だから宏紀君の存在は、紫陽花に取っても実に大きいのです。

 でも今から考えたら、その頃が宏紀君に取っては一番幸せだったと思います。

 というのも紫陽花がそんな河内家に再度おじゃましたのは、確か、半年以上経過していたと思いますが、その時には河内先生のお母さんは亡くなり、宏紀君の様子が変わっているのにびっくりした事を覚えています。

 咳き込んだり、アトピーで顔がかゆいのか、爪で掻いた後が鮮明に残っており、紫陽花は正直いって最初何故こういった事になっているのか理解できませんでした。

 京都の大平さんに説明を求めた時、「殆どの人が河内先生の教えを心から理解できない為に、どうしても済度をしても沢山の救い残しの有縁の死者霊が居て、河内先生と身近の縁がある宏紀君を頼ってくるの。それを宏紀君が有縁の死者霊の苦しみを何百分の1に縮小して引き受けているからこんな状態になっているの。また河内先生も、息子の宏紀君には強くなって欲しいから、何もしないの。これで計画通りに済度、有縁の死者霊を救えていない事を多くの人に分からせているの」という返答を貰い、紫陽花は、獅子は我が子を谷底に落とすというけど、河内先生は自分と本当に縁のある身内には、厳しいなあと心から思いました。

 と同時にそんな過酷な運命にも、文句もいわず、ただじっと耐えている宏紀君の姿に感動しました。

 普通なら親に逆らうとか、家を出ていくとか反抗するはずなのに、宏紀君は、河内先生の教えをじっと守って、毎日の済度にも出ていましたし、米一粒にも魂があるという事で決して残さず、どんなものでも本当に大切にしていたからです。

 紫陽花はそんな宏紀君の姿に、とても18歳の若者とは思えず、こんな過酷な人生を選んで生まれてきた宏紀君は、凄いなあと感心していたのです。

 が、紫陽花にはそんな宏紀君に対して何もしてあげる事はできませんでした。

 金沢に行く度に宏紀君の状態は悪くなる一方だったのにです。

 だって宏紀君の病状は夜寝る時も無意識に顔を掻いてしまうので、段ボールの箱をかぶって寝たり、咳で本当に苦しそうにしたり、何より顔の半分がアトピーでとても状況を知らない人には見せられないぐらいになっていたのですが、紫陽花には宏紀君の背景の「有縁の死者霊」を祈る事しかできなかったのですから。・・・・

 いえ、正直いうと紫陽花自身、この頃はもう慣れっこで「いつか何とかなる」仕方がないと諦めていたのかもしれません。

 しかしそんな宏紀君が霊界に帰る事になるとは紫陽花は夢にも思いませんでした。

 宏紀君には河内先生の長男としてやらないといけない事がまだまだ沢山あると聞いていたからです。

 でもそんな紫陽花の考えは甘かったみたいです。

 というのも第82号済度の中で紹介した、河内先生のグループの霊言で、宏紀君の魂自身が現れ告白しているので是非読んで欲しいのですが(本物ご案内コーナーに載せます)宏紀君の魂は、金沢の人達が済度できずに自分に頼って来た多くの有縁の死者霊をかわりに喜んで引き受け、アトピーの病気も、どのような国難や難病といわれる方にも、自分の姿を通して希望を与える計画で自ら志願していたのに、残念ながら宏紀君の肉体意識ではそこまで耐えられなかったのです。

 それを皆さんに分かり易くいうと、宏紀君の肉体意識とは、魂とは違って、人間としての意識の事ですが、宏紀君の人間としての意識ではそんなにたくさんの有縁の死者霊を抱えられず、こんなアトピーで家の外にも出れない、自分の過酷な人生から逃げ出したい、この苦しみから逃れる為に「死にたい。死にたい。霊界に早く帰りたい」と毎日願っていたというのです。

 紫陽花は正直いってそれが人間なら当たり前だと思います。

 それぐらい宏紀君の人生は18歳の若さからいえば過酷すぎますし、河内先生の教えを信じ切るという事は、魂では誰もが分かっていても、肉体を持っている人間という意識、肉体意識では例え身内といえども難しいのです。

 ですから宏紀君自身の意識が途中から計画していた方向からずれた為に、こんな結果になったみたいです。

 ただだからといって宏紀君は決して無駄死ではありません。

 この世に起こる事はすべて必然であり、必要であり、ベストの状態という宇宙法則があるように、霊界が何度も会議をして、今の河内先生のグループに取ってよかれという事で、全部計画した事だからです。

 はっきりいって宏紀君は河内先生のグループの人達に、済度の遅れを身を持って人柱となって示したのです。

 しかしそうはいっても、この事は多くの人達にショックを与えました。

 宏紀君の霊言にあるように、河内先生の身内以外の人が人柱になったら、みんな怖くて済度できませんが、それでも自分がかわってあげたかったという人ばかりですし、何よりも河内先生も覚悟はしていたそうですが、もの凄いショックを受けていました。

 河内先生自身、宏紀君の霊を感じられるので、普通の人のような息子が死んだという悲しみはありませんが、宏紀君が予定の数の100分の1しか有縁の死者霊を救えず、今、肉体がない為に、済度したくてもできないと嘆いている姿は本当につらいみたいです。

 我が子にもっと計画通りの事をさせたかった。

 後悔させたくなかったと河内先生も宏紀君の葬式で泣いていたのです。

 が、紫陽花が河内先生の事で、皆さんに知って欲しいのは、その後の「河内先生のグループ」の人達の行動です。

 宏紀君が死んで悲しいのに、宏紀君の霊言の最後にあるように、「少しでも私の為に涙を流すならば、その涙を汗にかえて、情熱と憧れを持って済度の為に流す汗に変えて下さい」という言葉を実行して、朝の4時20分の済度はかかしませんでした。

 葬式の日も済度したのです。

 又河内先生は葬式が終わった翌日の2月28日には、姫路で大きな済度をしました。

 笑顔共和国の小川さんによる済度ですが、昼には姫路城を黒田美江子さんの案内で訪ねて、紫陽花や娘の由佳さんを含めた7名で戦国時代になくなった多くの有縁の死者霊を霊界に帰しましたし、夜には小川さんの家で、20名以上の人に一念帰命をして、その人達と縁ある多くの有縁の死者霊も救いました。

 河内先生は葬式できっと疲れているのに、そんな表情を一つもみせず、多くの人を感激させたのです。

 しかもそれは河内先生の奥さんや長女の由佳さんや他の6名の子供も一緒です。

 本来なら長男が死んだ事で、今までやったきた、済度に対して疑問を感じたり、済度の遅れで結果的に宏紀君が人柱になった事に、嘆き悲しんでもいいのに、奥さんにしろ、由佳ちゃんにしろそんな姿をみせません。

 むしろ宏紀君の悲願である済度を、宏紀君が悲しまないように成就させようと必死です。

 家族が一丸となって済度しており、紫陽花はそれだけでも本当に凄いと思います。

 出来たら皆さんにも是非宏紀君が生きている間に、合わせたかった、縁を作りたかったです。

 では皆さん南 阿弥陀佛

    平成9年3月16日 

 

 追伸、河内宏紀君の最後の言葉は、済度をする為に、河内先生と一緒に車に乗っていた時に、突然、車を運転している先生の前に後ろから姿を見せて「お父さん、苦しい・・・・苦しい・・・・もう限界!お父さん!ごめんなさい。許して下さい!!」というものでした。

 死因は窒息死。

 食べたくても多くの有縁の死者霊にのっかかられて、この頃は殆ど食べられず、体重も35キロぐらいで女性の体重もなかった宏紀君が不思議と食べた後だったそうです。

 ちょっと苦しんだそうですが、今は、紫陽花達河内先生のグループの多くの人達を霊界で見守って、助けてくれています。

 皆さんには、この宏紀君の霊言も公開します。

 それが宏紀君の今の意志のような気がするからです。

 でもきっと皆さんには、理解できない部分が沢山あると思います。

 信じられないという人も多いでしょう。

 しかし本当でなかったら、誰もカセット起こしをしてまで、ワープロに出しません。

 それがどれだけ大変か、きっと皆さんも想像したら分かります。

 紫陽花はそんな皆さんなら真剣に、若くして、何も楽しい青春を送れず、済度のためだけに生きた人の霊界からのメッセージを、河内先生のグループだけでなく、自分にも当てられたメッセージとして聞いていただけると信じています。

 どうかよろしくお願いします。

 

       

     

 

読者の皆さんにご報告

追伸
2007年7月7日、七夕の日、まったく意識していなかったのですが、縁の花のHPを見たある人と、大阪で初めてお会いする事になりました。
昔、菊がやっていた済度のご縁の人です。
その人と、空海さんが、嵯峨天皇から賜った、世界遺産でもある、京都の東寺に行きました。
ここで空海さんは、多くの弟子と共に、密教をしていて、東寺は、真言密教の根本道場となっていたのです。

しかもそこでは、偶然にも、夜から、環境問題に関わる大きな世界的な行事をするということで、忙しくしていました。
何と、世界で見れば、20億人が参加した行事です。
これも、何か大きな意味がある気がします。

また、その後、久しぶりに、京都の河内先生の講演会に参加して、河内晢先生のお話聞きました。
河内先生のご縁は、21世紀になってから活動はしていませんが、情報は得ていました。
相変わらずお元気でした。

でも、河内晢先生も、7月1日が誕生日なので、もう60歳、還暦になります。
いよいよ河内先生の活動も最後の仕上がりになるそうです。
菊自身、それが成就するのか、しないのかは分かりませんが、以前、追伸として書いた文章は、消すことにします。
ご迷惑をおかけした済度の仲間には、申し訳ないと思います。

しかも驚くことに、その追伸の最後に、「2007年頃、河内晢先生が、本当の阿弥陀如来だと、紫陽花自身が思えたら、その時には、紹介したいと思います。」と書いています。
正直言えば、河内先生が、本当の阿弥陀如来だと思えたのと聞かれたら、思えていませんと答えますが、菊自身、2007年頃、済度のご縁を、再び、紹介すると書いていたこと、忘れていました。
京都の講演会で、済度の仲間に、お会いして、その事を言われて、驚きです。

自分でも、まったく無意識に、2007年と書いたのかもしれません。
菊の魂が、そう望んでいたことなのかな。
確か、2005年と書いて、まだ、その時期になっていないので、2007年にした記憶がありますが、2007年7月7日に、再び、済度のご縁についたことは、何か、天の大いなる意志、河内先生の願いを感じました。

ということで、昔書いていた追伸の文章は消すことにしました。
河内先生の済度のご縁に関心ある人は、菊にメール下さい。
済度を今も、実践している人をご紹介したいと思います。

  2007年7月9日

 
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