2000年1月1日 冬麻は星になった〜から
私の最愛なる3番目の息子、冬麻は、2000年の元旦に光へと帰りました。
何故、2000年の元旦を選んで逝ったのだろう、これは冬麻のメッセージなのではと、随分考えました。当時のことは、あまり記憶にありません。その時、何をしていたのか子供達に何を食べさせていたのか…。冬麻に続き、2000年の8月9日には父・信勝も肺ガンのため、私の前からいなくなりました。私は、一人っ子で、しかもお父さん子だったので大変なショックでした。
そして、3年が経ちました。1999年から(厳密には98年の自立の年から)2003年にかけて、まるで駆け足の如く、月日は過ぎていきました。一呼吸する間もなく、忙しかった記憶があります。これまでも、自分の心の整理をするために、何回となく原稿を書いてみましたが、一つとして完成はしていません。どうしても、途中で辛くなり手が止まってしまっていたのです。
今回、紫陽花さんのご好意により「息子さんとお父さんの供養にもなると思うので書いてみませんか」という温かいお言葉を頂きました。思い出すのは、とても辛いことではありますが、やはり、どこかで人々に伝えたいという気持ちがありました。障害児を二人も持ったこと。脳死移植医療に対する考え等、社会的にも何かの形で関わりたいと思ってもいましたが、社会一般の考え方と私の考え方が、あまりにも違うため、輪の中に入っていくことは出来ませんでした。変わり者と言われてしまえばそれまでですが、何か、ふに落ちないものが今も残っています。そして、紫陽花さんのご好意にこたえるべく、忘れてしまった記憶を頼りに溢れ出てくる気持ちのままに、書いてみることにしました。
ここに書くことは、ばかげていることかもしれませんし、信じられないこともあるかもしれません。しかし、全ては事実であり、嘘偽りのないことを、ここで宣言いたします。私のこれまでの半生の全てを書くと、多分何冊かの本になってしまうほど私は色々な人生経験をさせて頂きました。ここでは、紙面の限度もありますし、目的は武田家に関わる出来事です。まずは私の体験を箇条書き風にしてみたいと思います。始まりは今から遡ること、34年前になります。
1969年… 理科の授業で高山植物のスライドを見る。霧が峰という所のニッコウキスゲが美しく、印象的だった。当時、長野とは知らなかった。
1973年… 学校を休んでいた私の所に来た、ある霊能者。
私を霊視して「貴女は武田城のお姫様でした。水の神様がついています。
三本杉が見えます。財産の鍵を握っているのは貴女です。」と、訳の解らぬ事を言って帰っていった。そして、そんなことはすぐに忘れた。
1979年春… キャンピングカーを借り、憧れの霧が峰へ、友達カップル3組で行くことに決定。長野県だと初めて知る。行った先は、霧が峰・女神湖・白樺湖・美ヶ原。山頂から見た素晴らしい景観に、思わず「永住したい」と思ってしまう。何故か、私だけサンダルを無くす。松本市で買う。友達曰く「又、戻って来るかもよー」意味深な言葉であった。
1989年冬… 安曇野穂高に従姉妹が家を建て、初めて泊まりに行く。その日、バシャールというチャネリングテープを聞き、シャーリー・マックレーンの本のことを聞く。Kさんという従姉妹の友人の背後にオーラと呼ばれる発光を見る。言葉を聞くのも初めてのこと。この日から、精神世界に足を突っ込んでしまったようだ。
瞑想していた或る日、身体が宙に浮いた感があり、まぶたの先に強い光が感じられた。
その光は、真直ぐ私のお腹に入った。まさに、冬麻が魂として宿った瞬間だった。だから今でも冬麻は、私一人の子ではないかと思っている。
1990年11月15日… 第3子、冬麻が生まれる。しかし、胆道閉鎖症という先天性の病気であった。生後60日までに手術をしなければ命の保証はないと言われる。友人の紹介で順天堂大学病院にて、61日目ぎりぎりに手術。その後、再度行なわれた。それでも、余命一年と言われる。
1991年7月… 生体肝移植が行なわれている信州大のことを知り、移転を考える。もうすでに子供達の父親とは価値観もちがってしまい、離婚。励ましてくれていたKさんに迎えられて住居をひとまず穂高町へ。冬麻は、このころまだ東京の病院だった。冬麻が普通の生活ができるようになり、こちらが落ち着いたら向かえに来るということにして、引っ越してからも2週間に一度は東京へ通った。望みは決して捨てないこと。Kさんからは色々なことを学んだ。その想いが通じてか、冬麻も悪くなったり良くなったりをくり返しながら頑張った。彼も子供達の父親になろうと努力していた。
1992年5月…Kさんと子供達と共に九州旅行に出る。九州に移り住んでいた、母方の叔父さんに会う。叔父さんは、長谷部(母方の旧姓)家のルーツを調べたという。閉じこんだ資料がたくさんあった。見ると、長谷部家の先祖は武田家だった。武田の姫を思い出す。そういえば、母方の親戚は、山梨の韮崎にいるらしい。母も、山梨県に疎開していたと聞いたことがあった。
九州の帰り、京都の広隆寺に寄る。大好きな弥勒菩薩様に会う。帰り際「もう、ここまで来なくてもよい。私はいつも貴女の中にいる」という声を聞く。
帰って、再婚。私は、「江戸っ子」というミニコミ誌を穂高の友人と始める。その取材で東京の霊能者の方に会う。「貴女、弥勒様がついてるわねー。何か思い当たる?弘法大師様も一緒だわ」と言われる。あと、二人の方から同じことを言われた。「冬麻君は大丈夫よ。でも、貴女次第」とも言われる。
19993年5月… 冬麻退院!!2歳になっていた。黄疸も少しずつ消え、わりと順調なスタートだった。家に帰ってからは3日間、何も喋らなかった。病院ではよく話すと聞いていたが、私はまだ、冬麻が話しているのを聞いたことがなかった。3日後、突然喋り出す。どうやらじっと観察をしていたようだ。とてもお喋りで起きている間中、何かを喋っている。不思議な子で、色々なことを教えてくれた。冬麻は本当に可愛く、人々に好かれた。県立こども病院が設立され、冬麻は、ここで見てもらえることになった。
1994年初春…東京に住んでいる友人の実家が韮崎で、遊びに行く。偶然、近くに武田神社があった。丘の小高いところにあるその神社の鳥居から振り向いた時、丘より武田の軍政と思われる、馬に乗った人々が駆け下りて行く光景を見る。(幻?)
1994年12月… 導かれるように冬麻を先頭にネパール〜インドへの旅を家族でする。
インドでは、冬麻の念願だったサイババに会う。この時のことは、バルドゥーの旅として地元誌に掲載。抵抗力の無い冬麻を連れ、神に全てを委ねた大変な旅だった。
この時を機に、冬麻をどんどん外へ出せるようになった。順調だった。
1995年… 地元の知人と共に「ガイアシンフォニーU」の自主上映をやった。
スパイラルネットワークの立ち上げ。他に山川鉱矢・亜希子さんの講演会・ワークショップなど、様々な活動をする。そんな中で出会った方に、諏訪家の末裔であるというお坊さんがいた。初めて会う私に「やっと来て下さいましたね。貴女、湖衣姫でしょう?」と言われる。何が何だか解らなかったが、湖衣姫とは、武田信玄の側室だと教えてくれた。武田には姫がいないと聞いていたが、やっと理解できた。側室だったとは…。
9月。 有明地区で、友人の土地を借りてヒーリングショップを始める。まだ、このあたりでは珍しかった。11月、近くでヒーラーをしている小林氏と知り合う。この時に東京在住のS・Aさんとも出会いがあり、彼女からはレイキのイニシエーションを受ける。
後に、私もレイキ・マスターの認定書を頂く。
1996年…4月。 冬麻、小学校入学。私の両親も東京から安曇野へ越して来る。そして、私のお腹には、4番目の子が。冬麻の願い「弟がほしい」という言葉で生む気になった。冬麻、元気よく楽しい学校生活。担任の小林先生が大好きで、「日曜日はいらない」が口癖。
9月。 第4子・冬麻の念願だった弟、大悟が生まれる。しかし、先天性のダウン症であった。1ヵ月の入院の後、退院。毎日、2時間おきの浣腸(現在も続いている)とガス抜き(自力で出せない合併症がある)、胃にチューブを挿入しミルクをあげる。私の睡眠時間はほとんど無かった。でも子供達は、色々協力してくれた。冬麻は特に大悟を可愛がった。小さい体でおむつ交換もしてくれた。とてもとても、大事にしていた。
この頃から、もう経済的にやっていけないと感じていた。Kさんは、それなりに頑張ってくれていたが、私も働けない状況のなか、ますます悪化していった。Kさんは、私と一緒になったことで両親から勘当をされていたし、近くに住んでいた従姉妹Mさんとも色々あって縁を切っていた。頼れるのは私の両親だけ。(一人娘とはいえ、本当に世話をかけました)
そんなこともあってか、うまくいっていたKさんとも気持ちが次第にすれ違うようになっていった。
1998年… 5月。 「ガイアシンフォニーV」友人に力を貸してほしいと言われ、スパイラルネットワークの仲間と、穂高町で上映。この頃、4番目の大悟、腸の手術。この頃には、母乳を口から飲めるようになっていた。(母乳は3歳まで頑張った!)
6月。 予てから心の中で考えてた離婚の決意。母子家庭でやっていくことにする。
離婚後、近くのペンション(シャロム・ヒュッテ)オーナーのご好意で、敷地内の家を丸ごと間借りさせていただくことに。私たちが越してきて3日後から、不思議なことに、地震などこれまでに感じなかった安曇野に、毎日地震が起きた。群発的に地震は起こり異常としか思えなかった。一体、日本の中心である安曇野に何が起こったのか。このあたりはフォッサマグマが通っており、その影響だとしたら、大変な事になると感じた。
地震はこのとき、2週間くらい続いただろうか。その後はぴたりと止まり、以後はまた静かな安曇野へ戻った。(この頃、世界規模で異変と言われる出来事が始まりました。宇宙では惑星直列や、グランドクロスなどがありました。)
そして、この頃から家庭がバラバラになっていく。長男(当時中1)の登校拒否。閉じ篭りは、この後2年ほど続く。
長女の学校への送迎。冬麻の不調。大悟の夜泣き。それでも、離婚したためか、私の心は安定していたと思う。考えすぎて、水も飲めないほどだったが、少しずつ回復。
8月頃。 両親の家にある、山之内の祖母の写真に異変が…。東京のお坊さんを紹介して頂き、ご先祖様のために100日供養をさせてもらう。この時、祖母はきっと冬麻や父の病気を知らせていたのかもしれない。今となっては…。あまりにも毎日が忙しく、父のことも気遣ってあげることが出来なかった。
9月頃。 シャロムの朋子さんと一緒にインドカレーを食べに諏訪へ行く。諏訪神社にも寄る。秋宮は、湖衣姫と信玄が出会った所だと聞いている。そこでは何も感じなかった。だが、初めて行く上社で不思議な体験。私がお祈りを始めると、それまでいた人たちが去り私一人に。そして、まっすぐ頭の上から何かが降りてきたような感じだった。
ちょうど、以前にサイババ・センターで受けたショックに似ていた。
10月。冬麻、インフルエンザでダウン。その後も治りが遅く黄疸が強くなった。
1999年… 1月。年明け早々、私と長女もインフルエンザ。久しぶりのダウン。
冬麻も益々黄疸が強くなる。学校を休みがち。
3月。こども病院の主治医に突然、「冬麻君の命はあと半年でしょう」と言われる。それから、脳死移植の募金のことも考えた。ある友人に話すと、「みんなに話してみる」という事だったが、それきりだった。募金は、家族か゛率先して出来ない。まんじりとした時間だけが過ぎていった。東京の子供の父親に相談。しかし、仕事で行き詰まっており、冬麻のことを考える余裕はなさそうであった。誰ひとりとして、移植に賛成してくれる人はいなかった。友人・知人が多いはずだったが、私は何故か孤独だった。
この頃は、冬麻は他の子とは違う。絶対死ぬわけがないという思いもあった。でも、本当は何処かで、冬麻は、来年の今頃はもういない・・と、考えている自分がいた。
自然を愛する人たちは、脳死は死ではない。そこまでして医療に頼って命をつなげることもないのではないか。という思いが強かったのだろう。そういう意見を聞くと、私も納得したように頷いていた。オーストラリアに行くには、400万のお金がいる。今からでは到底無理だろうと思った。一瞬、閃いた。それなら、インドはどうだ。サイババの病院なら無料で手術してもらえる。移植もやっていると聞いた。何もしないでいるよりはましだと思った。冬麻もインドへもう一度行きたいと言うので決心し、ツアーに申し込んだ。これが最期の旅になるかもしれないけど、悔いは残らない気がした。しかし、何処から手が回ったのか、ツアー会社の人がこども病院に電話をかけ、主治医から現状を聞き、断ってきた。今の状態で旅行は無理だと。以前のインド旅行も無理を承知で行った旅だった。なのに、今回、サイババは呼んでくれなかったようだ。冬麻もがっかりした様子だった。
向こうで合流するはずだった大阪の友人は、私たちの変わりにサイババのアシュラムに寄って祈りを捧げてくれた。この友人は森ちゃんと言って、以前インド〜ネパールへ旅した時に知り合った。それ以来、毎年、大阪から長野へ遊びに来てくれていた。子供達をとても可愛がってくれていた。インド旅行を決心したとき、森ちゃんに伝えた。冬麻の命があとわずかだということも。暫くして彼女から手紙が来た。
「aiちゃんへ。如何がお過ごしですか?一度温かくなったと思ったのに、寒さが又ぶりかえしてきました。風邪ひいてませんか?
冬麻の症状も、そんな自然のバイオリズムを受けた、登り降りの一点のように感ぜられます。いい感じと思えば、悪くなったりもするー。
大変ショックでした。ただ、無償に腹が立つ、そんな時間が続きました。すぐに電話をと思いながら、ためらい―手紙にしました。
思い返せば、ネパールで会った時、冬麻は5歳で、余命を半年と宣告されていました。その冬麻も今は8歳。勝手に何かを信じていました。
奇跡―?いえ、そんな非現実的なものではなく、私が信じたものは冬麻の生命力です。
生肉をつまみ食いしようとし、怒られてる冬麻。
雪玉を屋根の上めがけ投げ続ける冬麻。
冬麻のクリアなはっきりした声。
そう、私は冬麻の声がすごく好きでした。
通るのです。「確か」なのです。
そんな事を友への手紙に書いたことがありました。
私は冬麻に「命」をとても感じてました。
先の事を予言する力は私にはありませんが、
冬麻が生きつづける可能性は1/2あります。
いえ、なぐさめで言ってるのではなく、私たちにしたって、明日死ぬかもしれない1/2の生死の可能性の中で生きています。
私は冬麻の「命」を信じたいと思います。
インドでぜひ合流したいと思います。
―中略―
先週、黒澤明の「生きる」のビデオを借りて見ておりました。
一日一日を―そんな言葉を思い出していた今日この頃でした。
「生きましょう!」
私は、冬麻の「生きる」を信じます。 ―後略―」
同じく、ネパールで一緒に友達になった岐阜のちずちゃんも、森ちゃんと一緒によく泊まりにきてくれた。
森ちゃんもちずちゃんも、時々しか会えないし、頻繁に連絡を取り合っているわけでもなかった。でも、二人とも年が近いということもあってか、何かお互いに感じるものがあったのだろうか。単なる友人というよりは遠くて近い心の友という感じだ。
二人とも、フリーなので、ネパール・インドから帰国しても日本で仕事をして旅費を貯め、又どこかの国に旅に出るといった自由な生活をしていた。そして又帰国すると、旅の報告も兼ねて遊びに来てくれていた。
二人は、遠い地にいたが、いつも私たち家族を見守ってくれていた。
今度の森ちゃんの旅は3年間にも及ぶという壮大な計画だった。行き先はアフリカ。その旅の始めにインドで私たちと落ち合う予定であった。それが、私たちが行けなくなったので代わりにババのアシュラムに寄り、祈りを捧げてくれたのだった。
「インドより来た森ちゃんのエアメールから〜
あいちゃんへ
お元気ですか?この前は真夜中の電話ごめんなさい。時差を計算違いしておりました。
太陽の進む方角、西と東を間違うなんて、まったくごめんなさい。
小学生でも そんな間違いしませんよね。でも、たとえ一瞬でも、そんな奇跡が起こればそれはそれで素敵だと思いませんか?
4年前の日蝕の日、10/24(その日は私の誕生日)友は、空が真っ暗になった瞬間
海の波が逆流するのを見たらしいです。太陽が西から東に逆まわりする事も起こりうるかもしれません。
―いえ、夜中に起こしてしまった言い訳なんですが―
さて、サイババのところへ行って来ました。どうしようかと一日迷ったのですが「とにかく行ってみよう」というのが結論でした。たまたま乗ったゴラプール、バンガロール行きの列車は、一車両まんま、ネパールからのホワイトヒル行きの人で埋められ、朝はお祈りの唄で始まる、そんな巡礼列車。ルンビニの村人150名プラスアルファ200名くらいが同じ地を目指したのでしょうか。村と化したその車両の中で、埋もれ、53時間の時を過しました。ホワイトヒルに着いた時には、日本人より彼らのほうが近い存在となっていました。そうやって着いたホワイトヒルは、全くストレンジ。私にとっては、異国よりも不思議な空間でした。「アシュラム」という所にかなりとまどっていました。
とりあえず、一生懸命祈ってみよう。一心に祈ってみようと、ダルシャンとバジャンの、その場に入り目を閉じ手を合わせました。
作法も教えも、何も知らない私ですが2日という短い期間でしたが、私が居合わせたことにより、あいちゃんや冬麻の念が少しでも伝わりますように。―中略―
私はサイババについては何も知りませんが、ひとつだけ以前にとても納得する言葉を教えてもらいました。「すべての生きる物は神である。私が皆と違うのは、私は私が神であることを知っている」そんな内容だったと思います。―中略―
冬麻の「生きる」と信じる力が「生きる」を産みますように。あいちゃんの「愛」が
「力」となりますように。―中略―
次の地はラーメシュワラム。そこで今一度プジャをするのが目的です。私なりの方法ですが、東に向かい、お祈りしたいと思います。
冬麻へ― ずっとずっと元気で― あいちゃんたちも― 皆、いつも笑っていますように― そんな思いを込めたいと思います。そして、私の罪、友の喜びの事、母の幸せ
皆の幸せ。そう、皆変わらず元気でいて下さい。又、長野で会いましょう。」
その後も、冬麻が森ちゃんに手紙を出し「動物の写真が欲しい」という願いに、動物の絵葉書を送ってくれたり、何度も励ましの手紙とホットメールをくれたりした。
森ちゃんの「生きて!!」という声が今でも聞こえる気がする。
ここまで、友人が想っていてくれているのに私は全く馬鹿な母親だった。
私は冬麻の命を冬麻自身の責任において任せていた。
(森ちゃんは、その後、冬麻の死を旅の途中で知ることになる。そして、最初の計画を変え別のルートで旅を続けた。そして、2001年10月。アフリカのナイジェリアで亡くなった。遺品に、冬麻が出した手紙と一緒にサイババの写真とアフリカの動物達の写真が入っていた。冬麻との約束、動物の写真を大事に持っていてくれた。
そして、森ちゃんの残して行った日記帳を見せて頂いた時、森ちゃんには森ちゃんの辛い想いがたくさんあったことを知った。あれほど、人の事を思いやり自分よりも友達等を大切にしていた森ちゃん。旅の間にも自分との葛藤を乗り越えようとしている姿が書かれていた。私は、泣けて泣けてしかたがなかった。冬麻の死を知り、行き先を変更した森ちゃん。冬麻の死を知らなかったら、死ぬことはなかったかもしれない。そう想うと胸がしめつけられるようだった。森ちゃんは人望があり、多くの友人を持っていた。その方達が1つになって、残された手紙・メール・日記などから原稿を起こした。そして今年の10月、ご家族の望みどおり一冊の本が出版される。ここにも、一つの大切な人生がある。)
5月…一時期、シャロムから隣り町の両親の家に転がりこんだ。借りていた家が改造されるという。最初は半年の間借り約束だったが、次の家が決まらずのばしてもらっていた。でももう、明渡す時がきた。両親のところに暫くいたが、運良く穂高町の県営住宅が当った。5月の終わり、引っ越すことが出来た。
7月…この頃冬麻は、寝ていても唸ることが多かった。苦しそうで、何度も揺り起こした。入院しようと言っても、「絶対嫌だ!!」ときかなかった。私が買い物や長女の送迎で留守をすると、不安そうだった。「ママ!ママ!」いつも呼んでいた。
一人で四人の子を育てることは容易ではなかった。冬麻の一日が、どんなに大切な一日なのか、頭でわかっていても現実には何もしてあげられなかった。
そんな折、山梨からシータ・マータという力のあるヒーラーが冬麻のことを聞き、来てくださった。シータは、後一週間の命と言われた子供も回復させたこともあり、実績のある方である。実は、この方には以前、冬麻を見て頂いたことがある。シータも、覚えていてくれていた。その時には、「この子は大丈夫よ」と太鼓判をおしてくれた。
シータは、家に入ってくるなり、「あなた、移動したでしょう。何があったの?」と言う。私は離婚したことや引越したことなどを話した。「この子は、81歳まで生きるって上で言ってるわよ。大丈夫よ。でも貴女次第よ。」そう。誰もが、冬麻のことは私一人にかかっていると言うのだ。
ある友人に、「冬麻は、亜衣さんのためだけに生まれて来た子だよね。亜衣さんの幸せを願って」と言われたことがある。冬麻は、私が悲しむこと、困ることは絶対しない子だった。小さいながらも人の考えてることがわかるようだった。突然、魂の話をし出したり何か質問をすると、子供ではわからないことも答えたりした。こんなことがあった。冬麻2歳の時、「冬麻は何処から来たの?」という質問に「太陽から」「えーっ太陽?どうやって?」
「歩いて」「ふーん。大変だったね」「あのね。太陽って本当は熱くないんだよ」
ネパールを旅した時に王宮を指さし「僕、ここ知ってる」と言った。周りを見ると、岩や壁に赤いペンキで太陽のマークが、あちこちに記されていた。太陽とは、太陽そのものではなくて、もしかしたらネパールかインドのことだったのかしらとも思った。
インドでは、リトル・ブッタと何故か呼ばれていた。
日本のある高僧の方は、冬麻を見るなり「この子は将来、坊主になったらいい」と言った。冬麻の何かが、人をひきつけている。そんな感じだった。
シータは、何度か山梨から足を運んで下さり、ヒーリングをしてくれた。
その時は、冬麻は気もち良さそうだった。冬麻はシータが好きだった。
シータは、冬麻亡き後も、最後まで関わってくれた尊い方である。
8月…穂高の友人、小林さんと共に冬麻たちを連れて美ヶ原に行った。
シーターに「3000メートルの山・馬か駒の着くロープウェーで登れるようなところに行くとお母さんに力がつく」と言われたからだ。でも、その条件に当てはまるところへは行けない。せめて2000メートル級で、ということで行った。美ヶ原は、思えば私が19歳の時に初めて長野へ来て、「永住したい」と思ったところだ。
別の日に小林さんは、冬麻と一緒に一日ゆっくり川原などへ行ったりして遊んでくれた。
父親のいない冬麻にとってはとても嬉しい一日だったようで「明日も行きたい」としきりに言っていた。彼のことも冬麻は信頼し、慕っていた。
その後、9月1日、とうとう我慢の限界にきた冬麻は自分から「病院に行く」と言いだす。極度の貧血・黄疸・腹水…。一度こども病院に入院し輸血したが、どうしても帰ると言い張り、でも結局 家にもいれず、2歳までいた東京の順天堂病院へ入院した。
「どうしてこんなになるまで放っておいたんですか」と言われた。もっと早ければ、順天堂に駆け込んでいれば、オーストラリアに行けたかもしれないのだと。
再三電話して、やっと父親が来た。主治医からの説明を聞く。まだ、望みはある。父親の肝臓の一部を移植すれば。しかし、もう離婚して何年もたっている。今でも時々連絡を取っていると言っても、向こうも再婚して奥さんがいる。すぐに決断は無理だろう。でもー。
結局、その後の向こうの家族会議で肝臓はもらえないことになった。奥さんに、子供の病気のことは話していなかったそうだ。その時から、つながっていた糸が切れたと感じた。体のどこかでプツッと音したようだった。
冬麻は、肝臓移植をずっと拒否してきた。しかし、「他人の肝臓はいらない。でもパパのならもらってもいい」と言っていたのに。「パパの肝臓はもらえないって」そのことを伝えると冬麻はあきらめたようだった。東京に行きたいとわがままを言ったのも、パパ達家族に会いたかったからと思う。父親が病院に来たのは、入院した日、その日だけだった。おばあちゃんも妹さんもとうとう病院へは一度も来なかった。
でも、私は今はもう、子供の父親を怨んではいない。
実は、父親であるS氏のご先祖は「木曽の義仲」らしい。結婚式の時にご親戚の方がスピーチで話されていた。私とは縁があっても続かなかったのは、そのあたりに関係あるのか。不思議なことに、長男の今の彼女は、母方の実家が木曽であり、父方の実家は諏訪なのである。木曽義仲の供養は、長男がすることになるのかもしれない。
とにかく私は、三人の子を産ませていただいた。そのことだけは、感謝している。
順天堂大学病院に入院し、この時も穂高から小林さんが行ってくれて、一週間ヒーリングをしてくれた。実は、後から知ったのだがこの時、シータ・マータも来てくれて、小林さんが帰ろうとした時に腕をつかみ「貴方が一週間ヒーリングをすれば、冬麻は良くなる」と言われたそうだ。ところが、一週間まで後一日というところで、小林さんと冬麻がケンカ?をしてしまった。ケンカというと変だが、病気も悪化して色々我がままになっていた冬麻に、少し注意をしたみたいだ。そして興奮してしまった冬麻は面会謝絶となってしまった。あとからその事を聞いたシータは、がっかりしていた。「あと、一日だったね。」
小林さんは、冬麻が退院できるくらいになったら、また行くよと言ってくれた。
その後、色々検査などをした或る日、冬麻はもう後2週間だと言われた。
2週間…。まさか…。
「でも、血漿交換をすれば、移植まで時間を稼ぐことが出来ます。ただし、とても危険な治療なので、今の冬麻君の心臓が持つかわかりません。どうしますか?」
決断をするにも相談できる人がいなかった。私一人で答えを出すしかない。考えに考え、危険を承知でかけてみることにした。何もしなければ2週間。でも成功すれば…。これまでも、何度となく危ないときもあった。でも一つずつ乗り越えて来た。冬麻にも話し、承諾を得た。その日は一旦穂高に帰り、またトンボ帰りで子供達を連れてきた。治療中に亡くなる可能性もあるということで、個室の中に皆を入れてもらえた。治療が始まると、冬麻は「痛い!痛い!もうやめてー嫌だー!!」叫びにもならない声で耐えている。後で聞くと、大人でも失神してしまうほど痛いのだそうだ。そんなに痛いとは知らず、とにかく私も子供達も、恐くて冬麻を言葉で励ますことしか出来なかった。
何時間たったか、血漿交換は成功した。冬麻は、最高の痛みに耐えてくれた。
次の日、病室に行くと、なんと冬麻はベットに座っていた。しかも、ほっそりとして顔も変わっていた。先生に聞くと、血漿交換のおかげで今まで浮腫として溜まっていたむくみが取れたということだったが、あれほどの痛みに耐えたのだ、顔つきが変わってもおかしくない。でも、元気になった。食欲ももとに戻っていた。一夜にして、こんなに変わるなんて驚きだった。黄疸は強いが、それまでの冬麻とは全然違っていた。
私は、単純に(もう、大丈夫だ)と思ってしまった。
急に大人びた顔になった冬麻。それまでは、ただの甘えん坊だったのに。何かが吹っ切れて腹が座ったような感じを受けた。血漿交換は何日か続けられた。痛みがあったのは一日だけで、あとはスムーズに行なわれホッとした。
あと、2週間と言われたときに、東京の友人S・Aさんが、お見舞いに来てくれて大悟を預かってもいいから冬麻の側にいてあげてと、言ってくれた。冬麻も信頼を寄せていた。「いい!亜衣さん。貴女がしっかりしなくちゃ!貴女が冬麻君を救うのよ。」確か、そう言われた。全ては私にかかっている。皆そう言う。わたしはその頃、そんなプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。東京の病院と穂高の家を何度も往復した。2日家にいては2日東京に…。家に帰ると冬麻から「来て!」と連絡が来た。大悟の母乳のこともあり毎日の浣腸のこともあり、ずっと冬麻のところにいてあげる事が出来なかった。愚かだった私は、自分ではなく外に助けを求めていた。西洋医学以外のものに。世の中には科学で証明できない不思議なことは沢山ある。だから、奇跡をどこかで求めていたのである。冬麻は、特別の子なんだ、こんな病気で死ぬ子ではない、と何処かで信じていたのだ。
それから暫く経って友人のご親戚に霊能者の方がいて、相談に乗ってくれた。(何故かこういう方に縁がある) ご先祖供養をすればよいという。又か…と思ったが、とにかく何でもやってやれという気で、三つの菩薩様のマンダラと、般若心経を108回、毎日唱えた。病室でも何をしているのかと思われたら困るので「母乳を搾るので、しばらく部屋に来ないで下さい」とお願いして一心に唱えた。すると、不思議なことに、冬麻はしだいに力を回復してきた。
これなら、脳死移植の順番を待ってられるかもしれない、という希望が出た。
それから、主治医の先生から「やっぱりお母さんの近くにいさせてあげたいし、信州大へ転院された方がいいかもしれませんね」というお話があり、(脳死移植ができるのは、この頃は信州大と京都大くらいだった)冬麻とも話し合って、そうさせて頂くことにした。転院は、ヘリコプターで移送となった。私は標高の高いところが苦手だったので(呼吸が出来なくて苦しくなってしまう)恐かった。でも、私の変わりはいない。乗るしかない。当人の冬麻は、インドへ行ったときもそうだったがヒョウヒョウとしたもんだった。「大丈夫だよ、ママ。僕はちっとも恐くないよ」私が反対に冬麻に勇気づけられていた。かくして赤い専用ヘリは、冬麻と私。そして主治医と研修医を乗せ、東京から富士山や八ヶ岳を目の前にして、信州へと旅をした。山と並んだ私たち。これでシータが言っていた、3000メートル級の山を制覇したことになったかもしれなかった。
11月11日。 信州大に入院してからは、黄疸値はまだまだ高かったが、点滴も取れてなんと退院の運びとなった。奇跡だった。絶対に奇跡だった。あの血漿交換が良かったのはいうまでもないが、冬麻の家に帰りたいという気持ちが強かったのだと思う。
(以下に書かれた文章は、地元誌に連載していたインド旅行記「バルドゥーの旅」の続きで、冬麻の様子をお知らせしていたものです。移植医療のことも書いています。)
『頑張っています
10月13日に信州に帰ってきたトウマは約1ヶ月、信大付属病院でお世話になりました。帰ってきてからはぐんぐん回復。安定もし、念願の退院になりました。平成11年11月11日。空は快晴。その日、長女が持久走で6年間一位制覇の記録をだしトウマの退院とお祝いがダブルになりました。病室で、料理番組ばかりを見ていたトウマ。将来は板前になるという夢ができました。退院の日、「きようのよるのメニュー」と題したメモ用紙を私に渡しました。「おふたまあんかけとはるさめのいためとさといものにものとシジミのみそしる」なんとまあ、丁寧に買う材料まで書いてあります。そして、もちろん料理するのはトウマです。すっと台所に立ち、なべやフライパンを用意し作ってくれました。長い病院生活で退院したら一番にしたかったことです。味は?とてもおいしかった!!そして11月15日はトウマの9歳の誕生日でした。ここでも料理人の腕をふるい手巻寿司を食べました。ケーキは長女の手作り。愛情がたくさんこもったバースデーにトウマは大満足の様子でした。食事が終わって台所で片付けをしていると、そばにトウマが来て「ママ、こんな幸せがずっと続いたらいいね」と一言云うと部屋にもどりました。4人の子供達を私の背中に感じます。ただ黙ってテレビを見ているのですが、その様子がわかるのです。ああ、私の子供は4人で一つなんだ。これで完璧なんだという思いがあふれてきました。
その日からトウマは微熱が出始め次の日には高熱となり、又入院生活に戻りました。たった1週間の自宅生活でした。今、こども病院にもどり治療をつづけています。脳死からの移植待ちではありますが、私は基本的にこの治療法に対し絶対の賛成者ではありません。それは家族として複雑きわまりないおもいです。脳死も人の死です。一つの命が無くなり一つの命が生まれる…命のリレーは多くの社会的問題と医学的問題を今もなお残した中で、まだ現実的な医療手段としては確立されていないのが現状です。米国では年間5000例、世界全体では毎年一万例近い脳死からの肝臓移植が行われています。移植医療の問題はドナーのことばかりではありません。ネットワークの整備、移植専門施設の問題、法的問題、医療費の問題(現時点において生体肝移植は保険適応だが脳死肝移植の場合、移送費だけで200万もの大金がいる)それに加え、医療側にもさまざまな問題を抱え、レシピエントの家族としては毎日が複雑なのです。トウマに一日でも生きていてもらいたい。しかし、この今という時を全うするというのも人の道ではないかと…考えるこのごろです。
「ママ、こんな幸せがずっと続いたらいいね…」トウマの声がわたしの耳に囁きます。』
今、読み返すと、恥ずかしいかぎりです。なんて傲慢でエゴイストな母親だったのか。誰が何を言おうと、何がなんでも移植に踏み切って冬麻を助けるべきだったではないか…。
「ママ、こんな幸せがずっと続いたらいいね…」その言葉をもっと心に留めることが出来ていたら…。
まだ信州大にいる時、こんなことがあった。
(これは、何時か、どこかで言いたかった事です。)
「僕がオネショばかりして、ベットのシーツを汚すでしょ。そしたら、看護婦さんが『まったく汚してばかりいて!弁償してよね!』って言うんだ。僕もう、ここにいたくない」
冬麻は、起きている時は自覚があるので漏らすことは無かったが、利尿剤も使っているし熟睡してしまっている時のおもらしは、量が多いのでオムツをしていたが、もう仕方がないことだった。家でも、病状が悪化してからは何度となくやられた。私もいささか少し参ってはいたが、それにしても、何と言う嫌な言葉だろう。
まだ9歳の子に弁償してよね、はない。
そのことを病棟の主治医と婦長に話した。二人は私に謝っていたが、その後、その当人の看護婦からは何の謝罪も無かった。返って、ナースステイションの看護婦達の視線が冷たくなった。邪魔者扱いをうけていたようで何だか嫌な感じだった。本当だったら、退院して自宅療養など出来る状態ではなかったのではないかと思う。
でも、退院出来て、一週間でも家にいることが出来、少なくとも家族は一つになれた。
すべての出来事には意味がある、と今は思うが。
以下は、最後に入院した県立こども病院での最期の様子です。
亡くなってしばらくしてから書いたものです。
『2000年の幕開けは、寒々とした雪空に始まりました。大晦日の空は確か満天の美しい星空であったのに、日の出を見ようと思ってカーテンを明けた私はがっかりしました。と、同時に何か不安がよぎりました。
本当は31日の大晦日、外泊許可がでていたのに調子が悪くなって帰れなかったトウマが気になりました。
遅い元旦の朝食を終え、有明神社にお参りをしトウマへお守りを買いました。その足で病院に行きました。朝からずっと元気がなく食欲もなくゴロンと寝ていました。「トウマ、2000年だね。カウントダウンした?」と聞くと「何それ」という返事。うとうとしていました。「こんなに具合悪いなんて、昨日のお風呂のせいじやない?」
そう言うと、「そうじゃないと思うよ」と答えました。
先生からのお話がありました。暮れはお会いできなかったし・・とさほど気にはなりませんでした。しかし、お話の内容は「もう、終わりは近いです」というものでした。それまでき然としていた私ですが、とうとう先生の前で涙が止まらなくなってしまいました。今まで張り詰めていたものが切れてしまったような感覚に陥りました。病室に戻り、横になりボーットしているトウマに言いました。「トウマ、ゴメンネ。ママの肝臓あげられれば良かったのに。何もしてあげられなかった。トウマ、どっちでもいいよ。逝きたければそれでもいいよ」とっさにそんなことを言ってしまいました。泣いていたのを悟らせまいと鏡の方を向きトウマの顔は直視できませんでした。とにかく 子供達を連れに帰ろうと思い、トウマに声をかけました。「トウマ、ママ一度帰るからね。豪君達呼んでくるから」すると、「今度、何時に来るの?」というので「夕方までにくるよ、待っててね」「うん、わかった」そう言って又うとうとし始めました。
子供達と私の父と、病院に戻ったのは4時過ぎでした。病室の中は何人かの看護婦さんがバタバタしていました。トウマはもう意識が混濁していて呼んでも返事が出来ない状態でした。鼻からも口からも出血しており、病室は汚れたタオルが山積みになっていました。でもなんとか私達のことがわかった様子でした。首を振りうなりながらトウマは苦しんでいました。そして「ママ・・」と呼ばれ「何?」と聞くと「ティッシュちょうだい」といいました。出血して気持ち悪く、鼻をかみたいのだなと思いティッシュを渡すと、小さな声で「ありがとう」としっかりした声で言いました。それがトウマと交わした最後の言葉でした。そのあと又意識が遠のき、もがきはじめました。
体温が下がり脈も落ちてきて血圧も計れなくなりました。
時々、瞳をカッと見開き何か宙を見ているようでした。一度は私の手を握りましたが、2度目にトウマが手を前に出した時、私の手と握り合うことは有りませんでした。そして、背中にまわりさすってあげました。苦しむトウマの姿にもう私も耐えきれず、思わず「トウマ!もういいよ。逝ってもいいよ、楽になっていいんだよ」と叫びました。その瞬間、胃の内容物を吐き、私からのその言葉を待っていたかのようにトウマは呼吸を止めました。トウマのゼーゼーという呼吸が聞こえなくなった病室は、一瞬シーンとなり、後は吸引の音がするだけになりました。一時、子供達は何が起きたかわからなかったようでした。静かになったのでトウマが治ったのかと思ったと後から聞きました。
トウマが動かなくなってしまったのをみて長女の美優が泣きくずれ手のつけられない状態でした。豪は頭を抱えたまま下を向いたきりでした。父はボーゼンとし、私は事の真相を把握しきれずにいました。
私はこの6年間の間に様々な医療の勉強をしたつもりだったけれど、結局は何にも頭にはのこっていない気がする。中身のない表面だけの学びだったように思う。トウマのことにかこつけて自分のからだをどうにかしたいという気が内にあったのだ。実際、いつも不調だった。自立神経の不調。呼吸器にくるからそれは苦しかった。一人で買い物ができない等…。どうにかしてこのからだを健康にしたい、それが私自信の望みだった。その延線上にトウマがいた。あの子を通して健康に関する本を読み漁り、健康食品、器具に走った.何が良かったかは定かではない。ただ、私が健康を取り戻したとき、トウマの具合が下降した。私がやっと動けるようになったとき、トウマが動けなくなった。
これはどういうことだろう。
トウマのパパの会社が倒産寸前でトウマの相談もできなかった。家もなくなり、やっと少し落ち着いたところで、待ってたようにトウマの具合が悪くなった。これはどういうことだろう。すべて、あの子は見とおしていたに違いない。こうなることを。そして、少しばかりの余裕ができたときだったから、本当はあの子を助けるために私達両親が全力をかけていたら、多分、あの子の命はつながっていたのだと思う.それぞれの大人の都合という壁があった。それぞれに家庭があり、突き進むには困難な状況だった。それでもトウマは期待してみた。東京の病院へ移りパパの出方をまった。でも結局、トウマの願いはかなわなかった。それは私のわがままから始まった。勝手なわがままから始まった。離婚という安易な考えの犠牲となったのだ。本来ならば、こういう病気の我が子をもったならば、両親が必死になって心を合わせていかなければならない。でも私達はそれを放棄した。もう、そのことが罪である。
トウマがよくいっていた。「どうせ俺の事なんてどうなってもいいと思ってるんでしょ」「どうせ俺なんてかわいくないんでしょ」
それは日頃の私の態度からあの子が感じ取ったのだろう。「そんなことないよ」といいながら、半ばめん度くさかった。ずっとそばにいたトウマがわずらわしいと思うこともあった。正直な話、「入院したほうがいいよ」と何回もいった。
トウマの気持ちなんかちっとも考えてなかった。トウマのためにと漢方を飲ませてみたりいろいろはやった。だけど心の中では「早く、どうにかなってほしい」白か黒か・・という思いがあったのだ。それはいなくなってほしいということではなく。元気になって学校へ又、通えるようになればいいということだ。
「トウマの性格は数秘によくあらわれている。
軌道数 9・理想主義
キーワード 許す愛 達成
シンボル 虹
あなたの心の豊かさや他人への思いやりは、あなたが全ての人のエネルギーに共鳴することから生まれるものです。他人の長所や悲しみを直感的に感じ取ることの出来るあなたは自分だけの幸せよりも、先にみんなの幸せがあり、その上で自分も幸せになることを望むのです。そんなあなたはトラブルが起きると自分が責められているように感じたり、センチメンタルな気分に飲まれやすいのです。」
何から書いたらいいのかわからないが、少し頭の中を整理してみなければならない。いろんな人と出会わせてもらったよね。トウマ。健康ってなんだろうって本当に考えた。でもみんな、真剣になったのはおまえがいなくなってからだ。生きているうちにもっと真剣におまえと向き合わなければならなかった。散々S子さんに言われたのに、馬鹿なママは気づかなかったよ。
だからこうして書いて書いてママの中のことを書いて皆に懺悔するよ。
あなたの死が無駄にならないように、もうあなたみたいに苦しむ子がいなくなるようにという願いを込めて。』
冬麻との物語はここまでで終りにさせてください。
とても苦しんであの子は逝ったのです。ここで書いたように、私は私のエゴで、あの子の運命を狂わせてしまったと今でも思っています。でも、それはもう、私が一生忘れてはならないことなのです。
それでも、私は前に進まなければなりません。
176号では、紫陽花さんが、とてもご丁寧に私を紹介してくださいました。
でも、私は(当たり前ですが)ごく普通の人間ですし、何一つとりえもなく、ただ、言えることは、今まで友人・知人・そして何人かのパートナーに恵まれてきたことが、私の大きな成長につながっているということです。決して私一人の力で生きてこられたのではないと痛感致しております。
この地球上には、数々の民族があり、十人十色という言葉があるように、一人一人がその人にしかわからない大変さがあり悩みがあり…とにかく、人の数だけの人生があります。
私が書いた半生の一部は、その中のちっぽけな1粒であります。それをこの紙面を通して大勢の皆様に知って頂ける事は無上の喜びです。この私の半生を読み、何かを感じて頂けたら幸いです。
ここに書いた事は全て事実です。しかし、前世がどうのとかは、実体の無いことなので、真実かどうかなど誰にもわからないことです。私自身は、冬麻が信玄だったとは思っていません。紫陽花さんはそう、思っていらっしゃるかもしれませんが…。しかし、私が冬麻の事を話すとき、どうしても色々あった出来事・出会った人たちとの関わりを避けることは出来ません。全てがつながっており、全てが大切な縁だからです。「今更、前世だなんて・・」と思う方もいらっしゃるとは思います。私は、そのことに執着してもいませんし、今はもう
湖衣姫のことも、そういう人がいたくらいにしか思っていません。
もう、私とは関係のない歴史上の人物だと思っています。
全ては光へと回帰したのですから。
こんなことがありました。
冬麻が最期の入院先にいる時のことです。
友達が「今は何でも、出来ることをしたらいい」と言ってくれて、茅野市にある湖衣姫のお墓へと一緒に行ってくれました。その日、行きの高速では曇り空。役場で場所を聞いてお墓へ着きました。そこは小高い丘の上にある、湖衣姫が病気に倒れ、最期を過したという尼寺でした。なんと、庭からは諏訪湖が一望でした。湖衣姫のお墓でお祈りを始めたら、それまでチラチラと降ってきていた雪が本降りになりました。あっという間にすべてが真っ白になりました。私には不思議と雪がかかりませんでした。そして、お祈りが終わったら、パッと雪は止んだのです。そして、帰りの高速で、大きな虹がかかり、湖衣姫の魂が喜んでくれたのだと…供養は終わったのだ…と思いました。
冬麻亡き後に、シータ・マータと一緒に武田の供養にまわりました。どこへどのように回ったのか、今はもう忘れました。とにかく、終わったのです。そして、紫陽花さんが言うように、今は武田家の魂たちも他の魂も、冬麻も父も、みな光となって私たち全てをサポートしてくれているのだと思います。冬麻が亡くなった翌日、1月2日にも、大きな虹が出ました。2000年はずっと虹が出ていました。まさに、虹は冬麻なのだと思っています。
私が言いたかったのは、冬麻という子供がいて、私という母親がいたこと。皆さんには、私のような人生を生きて欲しくないこと。
そう、一人一人が幸せになっていただきたい…。
そんな思いから、この場を借りて暴露する気になったのです。
本当はとても恥ずかしいですし、とても、声を大にして語れることではありません。そのことを踏まえた上で、何か感じてくれましたら幸いと思います。
長い長い文を読んで下さった方、本当にありがとうございました。
(尚、文中に出てきた友人、小林さんは、後に私のパートナーとなり、私を支えてくれています。父の臨終時にも側にいてくれました。冬麻と父が結んでくれた縁です。)
「光になった冬麻へ〜 ママは今、とても幸せに暮しています。
ありがとう。生まれてきてくれて本当にありがとう。」
今私は、これらの経験を生かし、現在は、セラピスト・カウンセラーとして、障害の子を持つ親御さんへのサポートや、食についての相談にものっています。
最後に、私の好きなE・キューブラー・ロスの言葉を添えます。
「教訓を学んだとき、苦痛は消え失せる」
「私が知る限り、人々を癒すものは無条件の愛しかない」
紫陽花さんにも、この場を作って下さったことを深く感謝いたします。ありがとうございます。
2003.9.6
山之内亜衣
紫陽花からのお願い
皆さん、山之内亜衣さんの原稿読んで頂いて「ありがとうございます」
本当に感謝しています。
また、すばらしい原稿を書いてくれた山之内亜衣さんにも、心から感謝しています。
ここまで書いて頂く事、大変だったと想います。
縁の花 第176号が誕生したのは、今から考えても、自然の流れなので、こんな形で生まれる事になるのはずっと前から決まっていた事のような気がしますが、山之内亜衣さんには、忘れようとしているいろんな事を思い出させたような気がして、紫陽花も少し反省しています。
「お母さん、ごめんなさい。冬麻君ありがとうございます」
だけど、この山之内亜衣さんの文章には、何か大きな役割があると想います。
だから山之内亜衣さんも好きな背景の画面を紫陽花の花にして、縁の花として大切にお預かりしたいと想います。
それと山之内亜衣さんも、僕個人はいつまでもお母さんと想ってお付き合いしたいと思いますが、以後は縁の花としては、前世湖衣姫の山之内亜衣さんではなく、長野県に住んでいる山之内亜衣さんとしてお付き合いできるようにできるだけ配慮したいと想います。
是非、皆さんも、そう想って、お付き合いお願いします。