いのちの風 bT04
平成19年5月1日(火)発信 石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ 障害児/大平光代さん/ダウン症/小林正観さん/争わない/喜ばれる存在
いつもありがとうございます。 連休は皆さんいかが過ごされる予定ですか? 私は久しぶり、5年ぶりに長男と親子一緒の生活に戻りました。 長男が神戸の大学を卒業して、先週我が家へ帰ってきました。 それまでの一週間は彼のため部屋を一つあけるのに、パンツ一丁になって汗かき動きまわって、荷物の整理と移動をしていてバテました。
彼は就職先の職場配置が決まったら出て行くかもしれませんが、それまでの半年ほどは生活をともにします。 これから毎月の墓参りも一緒に行ってくれるでしょう。 今日は妻の祥月命日、明日には妻の母と妻の親友たち、長男と一緒に墓参りに行ってきます。 妻も次男もご先祖さんも喜んでくれることでしょう。
母子草 救い救われ 世の光
先日ラジオの欄を見ていたら「ともに生きる」の時間に「大平光代」とあったので聞いていました。 彼女が高齢で結婚してやっとできた子供がダウン症児だった。 神様はこの人にいつまで試練を与えるのでしょうか。 しかし彼女の言葉を聞いて胸が熱くなりました。
「今日までは
明日のために今日を犠牲にしていましたが、この子を産んで、今日を無事に過ごせたこと、今日起きた出来事、今日生きていることのすべてがうれしくて。 人生を行き直すきっかけをくれたこの子は、私の女神です」 以下はパソコンで検索して出てきた文章から抜粋しました。
『あなたならどうしますか?
〜大平光代さん
http://nicoreco.jugem.jp/?eid=6
先週発売の「女性自身」に 大平光代さんの記事が載っていました。
太平さんは、中学校2年生の時、いじめに耐え切れず割腹自殺。
非行の道へと入り、背中に刺青を入れ16歳で暴力団組長と結婚。その後、のちに養父となる大平平三郎氏と出会い更正の道へ。
学校にも行かず勉強なんて全くできないにも関わらず、分からない言葉は辞書で引きながら、睡眠時間も殆どとらずに必死の勉学。 29歳にして司法書士の試験に合格!31歳で弁護士となり平成15年には大阪市助役として、関淳一市長と共に、市政を正した1人です。
そんな彼女の不屈の努力を綴った著書「だから、あなたも生きぬいて」はベストセラーとなりました。司法書士を目指した数年間の血のにじむような努力。大平さんを思い出しては、「これくらいのしんどさがなんだ!!」と多くの人々を奮い立たせました。 そんな大平さんには国政に転向、という噂もあったのですが、政治・弁護士業務などの一線からは身を引かれ、去年、先輩の弁護士とめでたくご結婚されました。そんな太平さんの近況が「女性自身」に載っていました。
その後彼女は出産をされた。 しかしその赤ちゃんの顔を見ると目が釣りあがっている。「ダウン症の娘」とありました。
生まれつき染色体が1本多いため、知的障害をもたらしてしまう病気です。 神は、どこまでこの人に試練を与えるんだろう。 いらだち、憤りました!
同級生にいじめられて いじめられて
死んでやる!と腹をかっさばいて、それでも生きて、生きていく術として極道の妻となり、血のにじむような必死の思いで弁護士となり、「自分と同じ人を救いたい」と、若者の更正に取り組んできた彼女を、まだ苦しめるのですか! でも、記事を見ると
太平さんは こう語っていました。
『夫から 「報告がある…実は僕らの子はダウン症なんや」
といわれ、すぐさま何も考えずに、「あっそうか。 じゃあ、精一杯育てよう!」そう答えました。 精一杯そだてよう。この子は
この子なんだから。』
なんて強い人なんでしょう。 言えますか? この一言。
ダウン症に関する文献を幾つか読んだ時に、ある書籍にこのように書かれていました。
「ダウン症の発祥確率は1千分の1です。 ダウン症の子どもが生まれてくるコトは
決して不幸ではありません。 誰かの元に必ず生まれえる子どもなのです。 あなたの元にダウン症の子どもが生まれたということは、何度も言いますが
決して不幸ではありません。 それは神様があなたならこの子どもを一生懸命育てられる。 そう託してくれているのですよ」
神様は大平さんならこの子どもを育ててくれると思ったんでしょうね。 そして、大平さんならこの子を一生懸命、育ててくれるでしょう。
「女性自身」の記事の最後に大平さんがこんなコメントを残しています。 これが最初に書いた「今日までは
明日のために今日を犠牲にしていましたが・・・・」です。
みなさんは
生まれてきた子どもが障害を持っていたら、一生懸命 愛せる自信がありますか? 胸を張って 「もちろん!」と答えられますか?
もし、いつか僕が親になった時、生まれてきた子どもを一生懸命愛してあげよう。 僕は決して頭のいい親ではないけど、どんなバカな子が生まれたって、たとえ
障害があっても、僕の子は僕の子だから、死ぬまで愛してあげよう!
なんか そんな事を感じました。 大平さん
頑張ってね! いつか成長したお子さんのこと また、本でも書いて 教えてね☆
大平さんと、大平悠ちゃん(ゆっくり育っていいよ というメッセージをこめて悠と名付けたそうです)の健やかな成長を、心よりお祈りしております』
(抜粋・引用終わり)
この子は幸せものです。 こんな母親の元に生まれたのですから。 お二人のお幸せを祈ります。
大平光代さんと悠(はるか)ちゃんを山元加津子さんの映画「1/4の奇跡」の続編があるならば、そこに登場してほしいです。 悠(はるか)ちゃんは、悠(はるか)ちゃんのままで、すばらしい存在。 彼女も意味あってこの世に生を受けたのです。
映画「1/4の奇跡」EEプロジェクト
http://www.ee-pro.net/index.html
映画「1/4の奇跡〜本当のことだから〜」制作ブログ
http://eekakkoteam.blog70.fc2.com/
そして悠(はるか)ちゃんという魂は、他の子がダウン症となる代わりに自らがダウン症となる運命を背負ってこの世に生まれてきた優れた魂。 目に見えない大きな力が彼女をこの世になんらかの役に立つように送り込んできたはず。 世界のどこかの誰かを救うために、将来の人類を救う役割を持ってやってきたのかもしれない。 そして大平さんの魂を一番救ってくれることでしょう。
障害を 選びし魂 高貴なり
小林正観さんは10年以上前から「ありがとう」を唱えつづけることの功徳を、全国へ行かれる講演会でされています。 「ありがとう」を何千何万回唱えることで人生が変わってくる。 いい人にめぐり合い、人間関係が良くなり、仕事の業績も上がり、病気も治る、人生に善循環が起こってくると。 私も妻を失って「空気の抜けたタイヤ」状態の時に、このことを聞いてパンクしたタイヤに、ポンプで空気を送り込むように日々「ありがとう」を唱え続けていました。 何度も彼の講演会へは足を運びました。
そして知ったことは、今日彼があるのは彼の始めての女のお子さんが障害を持って生まれてきたことでした。 彼の講演のテーマはその子、慶子ちゃんとの日々から学んだことが最初だと思います。 今ではどこの書店でも色々な方が書かれた「ありがとう」の本が山積されていますが、最初に「ありがとう」を言い始めたのは正観さんでした。
障害をもって生まれてきた慶子ちゃんは正観さんを通して全国の人々に「ありがとうの言霊」を伝えてくれて、多くの人々を救ってくれているのです。 そんな使命を与えられて小林家に生まれた慶子ちゃんは、神仏から送られてきた観音さんだと思います。 そしてすべての障害をもつ子供たちは観音さんなのです。 障害をもつ体を選んで生まれてきて、その親にはつらいが、尊い経験を与えてくれている。
また私たちすべての心の底にも観音さんが住んでおられることを、障害をもつ子供たちはその身をさらけ出して教えてくれているのです。 そのことに感謝せずに、何に感謝するというのでしょうか。 彼らほどの勇気あふれる魂はない。 わざわざ不自由な身を選んで生まれてきて多くの人々に、神仏からの教えを伝えてくれているのです。 インカの人々が障害をもつ人を崇め奉った理由がそこにあります。
パソコン検索の「小林正観氏インタビュー」から抜粋引用します。
http://members.at.infoseek.co.jp/y_pine/genki/news/seikan_k.htm
「33歳の時、やっと子どもに恵まれました。うれしくて「慶」という文字を用意して慶子という名前にしました。 その子は知的障害児でした。 そう聞かされたときはショックで頭の中が真っ白になりました。
でも結果として私は彼女に感謝をするようになり、そして本当に多くのことを学ぶことができました。 まるで彼女が私に教えてくれるために、私たち夫婦を選んで、やって来てくれたようなのです。
彼女を通して「争わないこと」の大切さを教えてもらいました。 彼女の1歳下には次女がいますが、妹は健常児です。慶子は筋力も普通の子どもの3分の1くらいしかありません。 ですから、彼女がおもちゃで遊んでいると、妹がそれを容易にとることができる。 でも慶子は決して怒ったり、奪い返そうとはしません。 何も気にせずに次のおもちゃをもって遊んでいる。
それを見た妹は、またそのおもちゃがほしくなり、取ってしまう。 慶子は、また怒りもせずに、また次のおもちゃをもって遊びます。 これを3回繰り返し、4回目になったときのことです。 妹はもう、おもちゃをとりあげませんでした。 近寄っていって慶子と一緒に遊び始めたのです。
私は、2人が仲良く遊んでいる姿を見たときに、いっさい争わないことのすごさを知りました。 争わないで闘わないで問題解決してしまう、そのすごさを実感しました。争うことや闘うことは意味をもたないのではないかと思ったのです。争わずに受け入れ、分かち合うことの大切さを慶子に教えてもらいました。
慶子が小学校6年で12歳の時でした。 運動会で、徒競走がありました。 4年生までは50メートル走、5,6年生は100メートル走ですが、彼女は筋力が普通の子のようにはないので走るのも遅く、いつもビリでした。ところが、その年は捻挫した友達がいました。 その子も走りたいと。 先生は、それならば慶子ちゃんと同じ組で走らせようと考えたのです。
妻がそれを聞いて「「慶子がはじめてビリじゃないかもしれない」と笑顔で出かけて行きました。もちろん何番でもいい。 ビリでもいいんですが。
妻がにこにこして帰ってきました。 それで、慶子ちゃんが初めてビリでない徒競走ができたのかと思って聞いてみました。 すると、彼女は「それがねえ、またビリだったのよ」とうれしそうにいうのです。
「よーいどん!」で、慶子はいつものように走り始めましたが、後ろには捻挫をした友達が走ってきます。 彼女はその子の姿を気にかけて、心配そうに、振り返り振り返り後ろを見て、走り続けたようです。その子が足をかばいながら走ったためにキャッと叫んでころんでしまった。 慶子は急に回れ右をして走り出し、その子のところにいって手を引き、一緒に走り始めたというのです。 2人の走っている姿を見て、生徒達はもちろんのこと、父兄達も総立ちになって慶子とその子に声援を送ったといいます。
2人で仲良く走って、最後にゴールの前にきた時に、慶子は、その子の肩をぽんと押してあげて、その子をゴールに入れてから自分が入ったというのです。
この話を聞いたとき、私は最初、にこにこ笑って聞いていましたが、そのうち顔が真顔になりました。
今まで競争社会の中で、生きてきたように思います。それが当たり前のように思っていた。でも慶子は、人間とは、競争する存在なのではなく、「喜ばれる存在」であることを教えてくれたのです。
人間の生きる目標というのは、決して人を蹴落として一番になることではなく、喜ばれる存在になることではないかと思ったのです。
「人間」とは、人と人との間で生きています。 だから「人間」と書く。頼まれて初めて、その人の存在感があるのです。 人生の目標は何かを達成することではなく、喜ばれる存在になることなんですね。
喜ばれる存在とは頼まれやすい人。 頼まれやすい顔をしていることです。」
(完)
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