いのちの風 bT05
平成19年5月9日(水)発信 石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ ソニーを生んだ障害児/幼児教育/野口雨情/しゃぼん玉/日本の童謡・唱歌
いつもありがとうございます。 連休はいかがおすごしでしたか。 私は皆と墓参りへ行ってきました。行く時に長男が「カーネーションをどこかで手に入れられるか」と聞いた。「おばあちゃん(妻の母)へは母の日に花束を送るで」と言うと「いや、お母さんの墓へ持っていくんや」と。 絶句。 やさしい子です。
前回の通信は皆さんからの評判がよくて多くの方から電話をいただきました。 ありがとうございました。 今回も障害児とその親の続きです。
障害児 ソニーを生みて 企業育てる
ソニーの創業者・井深大さんが授かったのは障害児の女の子でした。 これが縁で井深さんは障害児教育にたずさわり教育の大切さを痛感され、特に幼児・胎教教育に光明を見出されました。 「幼稚園では遅すぎる」「0歳児の驚異」など多くの著書がベストセラーとなりました。 私の子供2人が行っていた早期教育をする大阪天王寺区のパドマ幼稚園で、井深さんが作られた「幼児開発協会」の月刊誌や著書を見て、その事情を知ったのです。
井深大さん 障害児
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%BA%95%E6%B7%B1+%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E5%85%90&ei=UTF-8&fr=top_v2&x=wrt
井深大さん 著書
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%BA%95%E6%B7%B1%E5%A4%A7%E3%80%80%E8%91%97%E6%9B%B8&ei=UTF-8&fr=top_v2&x=wrt
天外伺朗氏
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C5%B7%B3%B0%BB%C7%CF%AF&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=17&y=13
ホロトロピック・ネットワーク
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%A5%DB%A5%ED%A5%C8%A5%ED%A5%D4%A5%C3%A5%AF%A1%A6%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A5%EF%A1%BC%A5%AF&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=20&y=12
マハーサマディー研究会
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%A5%DE%A5%CF%A1%BC%A5%B5%A5%DE%A5%C7%A5%A3%A1%BC%B8%A6%B5%E6%B2%F1&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=20&y=16
幼児教育だけでなく、彼は障害児がもつ超能力に気が付き、ソニーのなかに超能力を研究する研究所をつくり、多くの精神世界系の発言者を生み出しました。 その一人・天外伺朗氏はソニー重役としてCDやロボット犬・アイボを開発されました。 その天外伺朗氏が社外に作られたのがホロトロピック・ネットワーク(旧・マハーサマディー研究会)です。
ここでは人が自分の個我を離れて宇宙との一体感を感じ、魂と意識の成長・進化をめざしています。 そしてそのような精神世界系の死生観を伝えるために講演会などを企画し啓蒙している団体です。
井深大 超能力
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B0%E6%BF%BC%C2%E7+%C4%B6%C7%BD%CE%CF&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=25&y=18
ソニー 超能力研究
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%A5%BD%A5%CB%A1%BC%A1%A1%C4%B6%C7%BD%CE%CF%B8%A6%B5%E6&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=15&y=12
昔ここの講演会でお会いしたのが障害児養護学校の先生、山元加津子さんで、山元さんを高槻の障害児親子の会の渥美さんに、私が紹介して高槻での山元さんの講演会が数年前から始まり、そこから「たんぽぽの仲間たち関西」が立ち上がったのです。
ご自身と障害児の子供たちが主役のドキュメンタリー映画「1/4の奇跡」の中で、山元さんも障害児の子供たちがもつ超能力に言及されています。 しかしすでに井深さんは数十年前にそれに気が付いておられ、彼の思想に共鳴するソニーの社員たちが日本人に精神世界への目を開かせる活動を始めたのです。
井深さんは障害をもつお嬢さんを授かり苦悩しつつも、仕事のかたわら人間の秘められたすばらしい可能性に目覚め、それが原動力となって「世界のソニー」を生み出したのではないか。 そして井深さんの残された遺産が日本の多くの精神世界系運動の元となっているのです。
障害を持って生まれた女の子が「世界のソニー」を生み、日本の精神世界を切り開いてきたのではないか。 彼女はそのためにつらい、しかし井深さんという親を得て幸せな人生を、選んでこの世に生まれてきたすばらしい魂だったのではないかと思うのです。
なお「ソニー」の名はラテン語のSONUS(音)であり、英語のSONNYは「はつらつとした若者」や「かわいい坊や」を意味する。 坊やではあるが、お嬢さんのことが井深さんの脳裏にあって、この名を名づけたのではないかと思うのですが。
今回もパソコン検索した「井深大の教育論」という文章を転載させていただきます。
http://www.st.rim.or.jp/~success/ibuka_ye.html
「ソニーの創業者の隠れた素顔」
ソニーの創業者井深大(いぶかまさる)さんが、知的障害児の親だったことは、ほとんど知られていない事実だ。 昭和21年の東京通信工業株式会社(ソニーの最初の社名)設立以来、仕事一筋に励んでいたため、家庭はほとんど奥さんに任せきりで、生まれたお嬢さんは、知的障害児だった。 その為か、間もなく井深は離婚をしている。
彼の経済力からすれば、我が子の為に、専属のスタッフをつける位は訳のないことだった。 しかし彼はそれをしなかった。 知的障害児のための学校を見つけ、社会的に一人で生きていける人間に我が子をする道を選んだ。 忙しい中をぬって父兄会にも積極的に参加し、その学校が資金面で息詰まれば、新たな障害児の学校設立にも積極的に関与し、資金面や人事の面で努力を惜しまなかった。
彼は教育の大切さを痛感し、昭和44年幼児開発協会を設立し、自らその理事長に納まった。 特に彼は、幼児・胎児教育の大切さを強調し、次のように言っている。「母親の役目は何にもまさる貴重なものです。 母親こそ子どもをどんな人間にでも育てることができるのです。 言葉をかえれば母親は偉大な芸術家であり、医者であり、牧師でもあります。 そして何よりもすぐれた教育者であってほしいものです。
母親は子どもを授かった瞬間からその子の人間形成にしっかりした目的意識を持ち、できるだけの環境を整えて子育てを実行することが大切なことと言えましょう。 次の世代を担って立つ子どもたちがすぐれた人材に育つよう、世の中の母親一人ひとりに胎児から始まっている幼児教育の重要性をよく知ってほしいと思います」
井深の教育の根幹は、今日の知識偏重の教育とはまったく、違うものである。 彼の強調したことは、幼児の時期から始まる心の面の教育だった。 彼の持論は「心は頭になんかない」ということだった。そして親たちには「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない」と説き続けたのであった。
やがて彼の娘も立派に成長し、ソニーが知的障害者を雇用する専門の工場「ソニー太陽」の食堂で働くようになった。 そこで井深は、娘を特別には扱わなかった。 あくまでもその工場に働く一人の労働者として、井深は陰から娘さんを見守り続けた。 知的障害者の親の心配は、親が歳をとって、「この子の面倒を見られなくなったら、この子がどのように生きていくだろう」ということである。
井深はその答えを、自分のお嬢さんを一人の社会人として、見守ることでりっぱに示した。 彼のお嬢さん(現在58歳)は、今も先の工場で元気に働いている。 ある時、井深さんは、数も数えられない我が子が、みんなの食事の世話をてきぱきとこなしている姿を、そっと見た時、娘をかわいい、そして誇らしい、と思ったと、述懐している。
誰もソニーが、知的障害者の為の工場を持っていることなど、知らないはずだ。 このあたりがソニーが、単なる日本の中の大企業としてではなく、世界のソニーと言われる所以(ゆえん)なのである。 つまり井深の精神を企業化したのがソニーなのである。この文化がある限り、ソニーという企業は、ますます発展するに違いない。
平成9年12月19日、井深大は、天国に召された。 享年89歳。 見事な人生であった。 井深の墓石には、戒名はなく、ただ井深大とあり、そしてその横に自由闊達(じゆうかったつ)という言葉が掘られている。 もちろんこの言葉は、井深がソニーの設立趣意書に書いた次の言葉から採られている。
「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむるべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」
この言葉の意味をよくよく噛みしめよう。 ソニーだって、50年前は、20名足らずの品川の町工場に過ぎなかった。
童謡は こころ育てて くに栄え
もう一人は子供を亡くした体験から、つらいが深い人生を歩んで童謡作家として名をなした野口雨情です。 彼は2歳の娘が死を迎えたときに徳島にいたが、家に帰るには時間がかかり、死に目に会うことができなかった。 その娘を偲んで作った詩が「しゃぼん玉」です。 この詩に「消えた」とあるのは、親が子どもを無くした、悲しい心を表したものである。
「シャボン玉 とんだ 屋根まで とんだ
屋根まで とんで こわれて消えた」
わが子が生まれ元気に育ち、大きくなれず病で死んだ、という歌である。 この歌のことを私は以前に通信で書いたことがありますが、最近神渡良平先生も安岡正篤先生生誕110年記念講演会で、この「シャボン玉」について語られていました。
この歌の実情は悲しい歌だが、幼くして死んだ娘は決して無駄に亡くなったのではない。 彼女の死は父には地獄の苦しみを与えたが、それはかえって父の心のなかで美しく昇華され、日本民族が誇るべき童謡として永久に歌い継がれているのです。 そして彼女もまた永遠にこの歌のなかで生きつづけていくのです。
人の死は残されたものにとっては決して無意味なものではなく、その死は多くのことを教えてくれ、その死を積極的に受け入れることによって、残された者に輝ける人生を約束してくれるのです。 残された者、皆がいつかいい日を迎えるために多くの人々は亡くなっていくのです。 そう願ってやみません。
以下パソコンで検索した文章を転載させていただきます。
「野口雨情は明治15年生まれ。 作った童謡、民謡、校歌など、その数は2千に及ぶといわれています。
お母さんといっしょに子供がしゃぼん玉を飛ばしながら、必ずといっていいほど口ずさむ唄が『しゃぼん玉』。 この唄は作曲:中山晋平、作詞:野口雨情で大正11年に作られました。ぼくも何の気なしに唄っていた『しゃぼん玉』なのですが、なんとこの唄の詞には野口雨情の深い悲しみが込められているということは、以外に知られていないようです。
野口は幼い我が子と二度死別している。 ひとり目は生まれてすぐ、二人目は数え年で4才で病死。 この『しゃぼん玉』の詞はその二度目の死別の悲しみの中で作られたそうです。しゃぼん玉とは、はかなく亡くなった娘ということになるのですが、なんと悲しいというか、さびしい出来事なのでしょう。 考えるに、悲しみの中で生まれたこの詞が、たのしくしゃぼん玉を飛ばす子供たちの遊び唄として唄われるというのは、なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
「しゃぼん玉」 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
1
しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた
しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
生れてすぐに こわれて消えた
風、風吹くな シャボン玉飛ばそ
2 しゃぼん玉飛んだ 屋根より高く
ふうわりふわり つづいて飛んだ
しゃぼん玉いいな お空にあがる
あがっていって かえってこない
ふうわりふわり しゃぼん玉とんだ
1番のしゃぼん玉は生まれてからしばらく生きていた我が子を映しています。 このとき死んだ子は屋根まで飛んで、こわれて消えた。 最初の子は飛ばずに、生まれてすぐ死んでしまった。2番に出てくるしゃぼん玉はどういうわけか、もうこわれません。 こわれないどころか、空にあがってもう帰ってきません。 ここで映されているしゃぼん玉はおそらく、我が子の魂なのでしょう。
野口雨情は『しゃぼん玉』の他に『あの町この町』『雨降りお月さん』『兎のダンス』『赤い靴』『十五夜お月さん』『七つの子』『青い目の人形』『証城寺の狸囃子』などの童謡のほか『船頭小唄』といった歌謡まで、多くの詞を書いています。『しゃぼん玉』の背景を思うとその他にも野口の悲しさ、さびしさが託された唄が何曲かあるように思えてなりません。
わたしたちが子供のころ唄った童謡、唱歌。 おぼえやすく、親しみやすいメロディーもさることながら、意味は定かには理解できなくても、なんとなくその詞には深い共感をおぼえてしまう。 作詞家の極々個人的な事情ではあるけれども、それでもやはりすべての人に通ずる深い思いというものが、そのひとつひとつの唄に込められているのだと思います」
(抜粋・引用終わり)
しゃぼん玉
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/michinaga/bangai-6.htm
日本には世界にもまれなほどの多くの童謡・唱歌がある。 それを私たちは誇りを持って語るべ
きです。 日本人は昔から子供の心を育てることに熱心でした。 温かい心、神仏との一体感、宗教心を育てることの重要性が、庶民にまで浸透していた証拠なのです。
(完)
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(毎月3回知人300人へ送信している、いのちや野宿者、日本についての思いを書き綴っている通信。 政治論では愛国保守系の内容です。 bT00までのバックナンバーを更新・掲載)
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