いのちの風 bS20

6月9日(木)発信 石黒大圓(だいえん

 Eメール ishiguro@a1.hey-say.net

 

今回のテーマ 予約扱い/mixi/映画「with…」/祈り/非寛容/キリストの幕屋

 

 

いつもありがとうございます。 映画上映会がもうすぐやって来ます。 ご本人や知人がご来場いただくとのうれしいお知らせをいただいている方がおられます。 

 

できればお名前を應典院にお知らせいただけましたら、前売り予約扱いとさせていただきます。 200円安くなって1300円になりますので、どうぞ確約でなくてもいいですから、ご予約の電話をいただけたら幸いです。 應典院06−6771−7641

 

主催者側としましても当日の人数がだいたい把握できて助かりますので。 よろしくお願いいたします。 私も色々な所の人脈を頼ってお願いしたり、毎晩満席をイメージして成功を祈っています。

パソコンで人脈づくり時間泥棒

 

mixi(ミクシィ)というインターネット上の無料の「人脈作り」サイトを通信仲間から紹介されました。 そこに「自分のプロフィール」や「活動」、「日記」などを書き込むと、「mixi」内にいる私の知人の人脈に、私のことが紹介されます。 

 

また私がその知人のことについて紹介文を書くと、その人のことが私の人脈のなかで公開されます。 違う人脈のお互いに知らない者どうしが新しく交流できるようになるのです。 個人情報やメールアドレスは公開されませんので、個人の秘密は守れます。 

 

これは私の今度の映画上映会の宣伝に使えると思い、すぐに登録しました。 「いのちと出会う会」も登録。 

 

またある人に私の母校の2500人のグループがあることを教えてもらい、早速そこにも登録。 たぶん東京中心の若者のグループと思いますが、大阪から先輩面してイベント情報として「with」の宣伝を載せました。 

 

日曜日から「mixi」内に、誰か知り合いがいないか探したり、自分や知人の紹介文を書いたりしている間に、あっという間に24時間経っていました。 また送信が遅くなりました。 

 

雪のごと真白きこころただ祈らん

 

映画「with…の映画をまたビデオで見て、神戸淡路大震災のときのことを思い出しました。 突然の揺れの後、早朝のテレビを見ながら神戸の惨状に、私たち夫婦は声を上げて泣いていました。 

 

次男を亡くして7年目、目の前の人々が亡くなっていくさまに号泣していました。 我が家のマンションでも南北の揺れがひどく、観音開きの食器棚が開いて食器が流れ砕けました。 

 

妻の実家からの持参した形見分けのような大切な食器類や、家の前の四天王寺の市で少しづつ買い集めたものなど。 すべてが消えてしまいました。 

 

泣きながら捨てていた妻はこの年の終わりにガンと診断され、1年半の闘病の後亡くなりました。

ビデオを見ながらずーっと胸からこみ上げるものが来るのは、過去の私の記憶が呼びさまされるからです。

 

佐野由美さんの本「ネパール滞在日記 パターンの空より」にあった彼女の祈り

 

「どうか、どうか、この子たちが

       きれいな心のまま、生きてゆきますように。

この子たちが悪い大人に、

人をだましたりするような

人間になりませんように。

       お金に振りまわされませんように」

 

この祈りの響きはどこかで聞いたような気がしました。 宮沢賢治が唯一の理解者、最愛の妹トシさんを亡くした時に賢治が書いた挽歌に似ています。 

 

永訣の朝   (少々省略しました)     

 

けふのうちに とほくへいつてしまふ

わたしのいもうとよ

みぞれがふつて おもてはへんにあかるいのだ

      (あめゆじゆとてちてけんじや)・・・

ああとし子

死ぬといふ いまごろになつて

わたしをいつしやう あかるくするために

こんなさつぱりした 雪のひとわんを

おまえはわたしに たのんだのだ

ありがたう わたしのけなげな いもうとよ

     私もまつすぐにすすんでいくから・・・

 

ほんとうにけふ おまへはわかれてしまふ

     あぁ あのとざされた病室の

     くらい びやうぶやかやのなかに

     やさしく あをじろく燃えてゐる

     わたしのけなげな いもうとよ

     

この雪はどこを えらばうにも

     あんまりどこも まつしろなのだ

     あんなおそろしい みだれたそらから

     このうつくしい雪がきたのだ・・・

 

    (うまれてくるたて 

こんどはこたに わりやのごとばかりで

くるしまなよに うまれてくる)

 

おまえがたべる このふたわんのゆきに

わたしはいま こころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに 聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべての さいはひをかけてねがふ

 

【つらいこの世界にも清らかな白いこころは生まれてきます。 けなげな子たちよ、その心を大事にしてこの世を生きて抜いていってほしい、との由美さんからの遺言のようです。 

 

賢治はあの世でのトシさんの白い清らかな魂を心から願ったことでしょう。 彼女の死があったればこそ、その死が賢治の魂の中で昇華されて、あの美しい「銀河鉄道の夜」などの名作がうまれたのです。 

 

世界中の人々が幸せにならないうちは、私は幸せにならない」という心は仏教のこころであると同時に賢治の心からの叫びだったのです。

 

そしてあまりにも有名な次の祈りを彼女は知っていたはずです。 彼女の活動の底にはこの祈りがあったと思いました】 

 

聖フランシスの祈り

主よ、私を平和の道具としてください
憎しみあるところには、愛を、
傷あるところには、赦しを、
疑いあるところには、信頼を、
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を、

そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください             

聖なる主よ
慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれる
ことができるのですから

私がこのような祈りを紹介したら偽善と思われることでしょう。 特に共産主義に対する敵意をばらまいているくせに、と言われそうです。 

しかし共産主義は赦し、祖国とアメリカなどの自由主義陣営は赦さない人間にも同じことが言えます。 平和という名の下に敵への憎しみを植えつけようとしている人々。 

戦争による「人殺し」を否定しておきながら、国内で「人殺し」を続けていたフセインや、今も殺し続けている北朝鮮や中共は赦し黙認する人々。                                                        

戦争だけが人殺しではないのです。 「いのちの尊さ」というものを訴えるなら「えこひいき」をしては「平和」や「人権」の名が泣きます。 

マスコミで伝えられる残虐にだけ反応して声を上げるのなら、マスコミに踊らされているピエロです。 サヨク・マスコミから隠されているものこそ本当の悲劇です。 

自分の思想を自分のものと思っている人は幸いなれ。 真実は他人に刷り込まれた思想で夢うつつの幸せな人です。 日本の場合はその「他人」とはサヨク・マスコミや昔から進歩的知識人といわれる人々です。            
  

南京大虐殺記念館で頭がい骨の山を見た、と言って日本軍の残虐さと平和を訴え、日本を非難の標的にする人がいます。 その骨は本当に日本軍がやった、という科学的検証をしたのか。 

南京どころか全中国で中国共産党によって殺された4000万人の人々の骨ではないのか。 文化大革命で大虐殺された2000万人の無垢の人々の頭がい骨ではないのか。 

南京大虐殺の証拠写真はすべてニセものという研究結果も出ているというのに、中共の言いなりで信じる幸せな人。 オレオレ詐欺にだまされる祖父母と同じで、相手を無条件で信じることが「愛」だと思っているのです。       

本当の「愛」とは地球上にある全てのことを肯定することと思います。 差別、偏見、戦争、人権蹂躙、貧困、暴力、不幸、障害、すべてをあるがままに認め肯定する。 

神仏が作ったこの世界に無意味なものは1つもない。 すべて必要だから存在する。 それがイエスが言った「汝の敵を愛せよ」の真義と思います。 「どのような苦しみをも愛せよ」ということです。    

アメリカや日本には非寛容、共産国には寛容、ではこの言葉に反します。 「苦」をなくすることが正義だ。 「アメリカの戦争」をなくすることが正義だ。 平和こそすべてだ。 このように叫ぶ人に本当の神仏の「愛」を語る資格はありません。 

ただ政治的主張に平和を利用しているだけです。 私は共産国に非寛容、自由陣営に寛容です。 また「苦」をすべて肯定はできません。 だから愛など語る資格はありません。 

ただ目クソが鼻クソを笑っているだけという自覚はあります。 その自覚がなく「自分こそが正義だ」と疑わないのが「正義と平和の戦士」たちです。           

以下は最初に書きました「mixi」に「日記として載せた文章ですが、実物より少し変更しました。

死が生を輝かせる
        「日曜日の朝からキリストの幕屋へ行き、阿倍野ベルタで幕屋の読者集会があるというので、オートバイで旭区から阿倍野区まで暴走して到着。 2年前に縁があって以来、久しぶりの1日でした。 この日本でもっとも愛国的な宗教にはまっています。 

ここで歌う歌の中には「高天原の平安 大和に降りる時。 八紘一宇、イスラエル、日本」という言葉も出てきます。 礼拝会場である畳敷きの大きな座敷に、以前には「教育勅語」も張ってありました。       

『ユダヤ人であったイエスはローマの支配下で霊的に滅亡しつつあるユダヤ民族の姿を悲しんだ。 神国日本も霊的に滅亡しつつあることを悲しむ。  神は新しい人類として我々を霊的に練ろうとされている。 霊的目覚めを起こさなくてはならない。 

物質的なものが滅びても、滅びないものがあることを教えられていない日本は弱体化されている。 霊的な武装と霊的な復興をめざせ。 聖なる存在に変えさせられて、魂の乾きを癒し、霊的な潤いで人間を満たせ。 

人間本来の姿に立ち戻れ。  そのためには幼児のような心で神にすがれ。 でなければ神からの怒りがやって来る。 我々は執行猶予中なのだ』  

以上のようなことを、ルカ伝13章の最初の解説として、幕屋の聖日礼拝集会の指導者が述べられました。 真に日本的な新しいキリスト教がここには存在します。 

 

日本の先達の霊的に生きた姿を例にとり、人間の背後に存在する神は民族を超えて普遍的なものと教えられます。一方日本国民が感動する先祖の生き方は世界にも通用します。 

 

まず日本国民がそれを知って「人としての生き方」として実践しなければ。 イエスはそれをも超えてもっと普遍的な真理を生きた人。  しかし日本の武士道はイエスの道にもっとも近いもの。 

 

だから明治の多くの武士はキリスト教にのめり込んだのです。 内村鑑三しかり、「武士道」を書いた新渡戸稲造しかり。 日本の先人の生死を超越した生き方に学べ。 

 

日々死を生きていた武士こそすばらしい生の輝きを知っていた。 それが「いのちと出会う会」の究極的な目標です」。


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