3月8日(火)発信 bS07 石黒大圓

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今回のテーマ 野宿者/池間氏のビデオ/マザーテレサ/叔父の葬儀/共産党支配

 

 

いつもありがとうございます。 もう3月に入り春だというのに寒さがつづきます。 皆様いかがお過ごしですか。 

 

寝袋配りも終盤戦。 新たにカンパが入りましたので、再度注文して配布しています。 寒さで手が凍え身にしみます。 

 

家の前の商店街では昨年は私のところのブロックだけで10人も寝ていましたが、今年は3人ほど。 しかし心斎橋に行くまでの商店街には30人は寝ています。 

深夜になればもっと増えていることでしょう。 

 

大阪市や民生委員の調査では大阪市の野宿者は7〜8000人という数字です。 しかし深夜に路上に寝に来る人の数は数えられていないのではないかと思います。 

実質その倍はいるかもしれません。 

 

通信仲間に「心斎橋筋で寝袋のない人がいるよ」と指摘されて配りました。 このあたりはもう1つの寝袋配布グループ「ろくな者じゃの会」が配っていると思って任せていたのですが。 

寝袋を持っていない新しい野宿者がやって来て、どこでも交代が激しいのです。  

 

お互いの命ささえる思いやり

 

私の家のシャッターの前で寝ている人が時々います。 先日わずかなパンをほうばっている人がいたので声をかけると、30歳代のやせた眼鏡の青年でした。 

 

どうしたのかと尋ねると「病気で失業した」という。 貯金が底をつき、頼れる家族親戚もいないとアパートから追われ野宿に。 住所不定となり就職活動もできない。 

蒸したサツマイモやトマトの缶詰しかなく、それに暖かいカップラーメンを渡しました。 

 

次の日からはもう居なくなっていました。 物をもらえると思ったら毎日でも寝に来るだろうに。 食事を与えてくれた人の家の前で毎日寝て、迷惑をかけたくないという気が先に立つのでしょうか。 

 

それとも自分は乞食ではないというプライドがあるのでしょうか。 そんな彼の気持ちに心温かくなりました。

 

老人が震えていますこの寒空に 

 

この寒空に老人がダンボールのなかで震えています。 寝袋1個1000円です。 皆様の心を形にしてください」という看板が大阪駅前の炊き出し現場に掛けられました。 

 

とたんにカンバ箱にわずかですが金が入りだしました。 今までは「野宿は社会の責任です・・」いう抽象的で攻撃的な言葉でしたのでカンバはわずかでした。 言葉1つで人の心は動くものです

 

炊き出しに多くの通信仲間が参加してくれて野宿者との駅前清掃タイムのあと「ティータイム」の時間が恒例になりました。 

掃除が終わった後に通信仲間の女性たちが、「ごくろうさん」とお湯のポット持参で、コーヒーやお菓子などを野宿者たちに差し入れてくれるのです。 

 

女性的発想(これはジェンダー的発言だと批判されるのです)で私など考えもしなかったことで、ありがたいことです。 カトリックだけでなく大阪市民を巻き込んだ活動に進化しました。  

 

マザーテレサ光輝く神を抱く

 

野宿者はこんな運命を自分で選択してこの世に生まれてきた、と私の死生観では一見冷たく見ています。 しかし私が目の前の人と前世の因果でしょうか、会ってしまった限りは放っておく訳にはいきません。 

それが私の持論です。 

 

遠藤周作さんは「ある人が乞食を見てかわいそうと思い抱きしめた所、輝く神様に変わった」とある小話に書いています。 

 

聖武天皇の妃、光明皇后は千人の病人の体を清める奉仕の修行をしていて、満願の千人目の数の人が来ました。 その人は体中がうみただれた人でした。 

体中をなめて清めてくれといわれてそのようにすると、その人は光輝く仏様になられたと伝えられています。 

 

人のため身を投げ出せば心開く

 

池間さんの「アジアの子供たちに学ぶもの」のビデオのなかにもハンセン病患者とのふれ合いが語られています。 ミャンマーの奥地のマラリアが発生する死の地帯にハンセン病患者は棄てられています。 

 

何十人もの人々は隔離された病院でほとんど自給自足の生活をしています。 池間さんがそこを訪れた時、人々は今まで多くの人にいじめられて来てために敵意の眼差しを向けました。 

 

しかし彼がその手や足や指がとけたように無くなっている人々を抱きしめた時、皆泣き出しました。 こんな親切にされたことは病気になって以来今までになかったと。

  

ある女性は病いで手首の先がなくなり足も切断され、重症患者小屋で排泄物が流れっぱなしになって寝たっきりの生活をしていました。 眼球が飛び出したようになってむごい、生ける屍のようにやせ衰えていました。 

 

彼は彼女も抱きました。 その時彼女は「こんな病気になってから何十年も私は人間扱いされたことがない」といって号泣しました。 

 

次に行った時には皆にいる所へ彼女は化粧、口紅までして出てきました。 彼にキスされて頬を赤らめたそうです。 遠い外国から来た彼に生きがいを与えられたのです。   

  

カンボジアでは地雷で足を失って死にたいといっていた女性が、ある時生きることを決断し私は足を失ったことに感謝していますといった。 失って初めて本当の幸せの意味がわかったのです。   

 

池間さんは主に沖縄からの支援金で井戸を掘り学校も作っています。 「遠い日本からやってきた人が我々の仲間を助けてくれている。 我々もじっとしていられない」と現地の人に勇気と意欲を与えました。 

 

また日本がやるなら、と外国も同じような支援を始めました。 1人の1歩がまわりに大きな影響を与えたのです。

 

ボランティア一生懸命生きること

 

この池間哲郎さんの本がいま書店に並んでいます。 あなたの夢はなんですか? 私の夢は大人になるまで生きることです 致知出版社 1200円 

 

「3年B組金八先生で紹介! いま子どもに読ませたい本bP」 

 

子供たちの感想文「いかに私たちがゼイタクな暮らしをしているのかが、すごくわかりました。 ボロボロになりながらも懸命に生きている子どもたちを私は尊敬しました。 同時に自分も同じように命を大切にしようと思いました」。

 

「自分自身が真剣に、一生懸命に生きること、それが世界の人々への本当のボランティアなんだということに気づきました」。

「こんな幸せな国に生まれたから、一生けん命生きようとおもいました」。 

ぜひお読み下さい。 

 

ビデオ250円のビデオ講演録小冊子も私の手元にあります。 購買販売して池間さんを支援しています。 また池間さんの「NGO沖縄アジアチャイルドサポート」のホームページもご覧下さい。  

 

マザーテレサは路上で息絶えそうになっている人の中にイエスを見るといわれます。 イエスが私たちのために十字架にかけられるほどの愛を示された。

私たちもそのような愛を路上のイエスに捧げようといわれます。 

 

そのマザーテレサのお話が来週の17日の「いのちと出会う会」で

是枝さんから聞かせていただきます  

皆様どうぞお越し下さい。

 

共産党かって日本に君臨す

 

先週に叔父・石黒英一の葬儀がありました。 新聞業界をずーと歩んできて年老いて病いに倒れ、亡くなる前に葬儀場も葬儀用写真も決めて逝ったそうです。 

 

奈良の富雄で葬儀があり、その時同僚の方が読まれた用紙8枚にもおよぶ弔辞がすばらしかった。 家族の方々も叔父がそんなすごい仕事をしているとは知らず驚いておられました。 

 

私たちの前では物静かな人でしたから。 さっそく皆でその弔辞をコピーしてもらい、叔父の生涯を感慨をもって見つめなおしました。

 

その弔辞の中で特に驚かされたのは 「(略) 共産党からの言いがかりで始まった13年にわたる産経新聞対共産党の『言論、表現の自由を守る闘い』も石黒さんの編集局長の時からでした。 

 

当時は左翼の専横、いまでは想像もできない共産党批判をタブー視する厚い厚い壁がありました。 その思いあがった共産党の要求を一蹴されたのが、のちのちこの壁をみごとに打ち破る大きな第一撃となりました。

 

産経新聞がなければこの日本は一体どうなっていたか』という声をしばしば耳にします。 その『正論欄がスタートしたのは昭和48年6月。 

 

『正論』の名づけ親は時の編集局長石黒さんでした。 いま日本列島はもとより海外にもなりひびく産経の『正論路線』。 

そのいしずえを築かれた石黒さんのご功績を私どもは高く高く評価するものであります。 

 

4年間にわたった産経新聞の長期連載『蒋介石秘録』も石黒さんの発案。 (中略) 取材準備局となった台湾の台北支局には、優秀な記者を配置して拡充され、今日の産経を背負う人材を育てられました。 

 

(産経新聞記者であった)司馬遼太郎さんの『街道をゆく』台湾編の取材にも、大きく貢献したことはよく知られています。 (中略)

 

闘いの使命たくして叔父は逝く

 

もう何十年も前になりますかー。 クロちゃんに合わせて大声をあげて歌っている仲間、楽しいあの頃の情景がいま目の前に鮮やかに迫ってまいります。

 

北風吹き抜く寒い朝も、心ひとつであたたかくなる・・』 あの頃教わった吉永小百合の『寒い朝』が忘れられません。 何だか石黒さんの強い意志と暖かい心を歌っている気がします。 

 

思い出は尽きません。 感謝の思いでいっぱいです。 

ありがとうございました。 安らかにお眠りください。 

平成17年3月3日  吉田時雄 」

 

会場ではむせび泣きの声があちこちで聞こえました。 若いころ痛めた足でいつもビッコをひいていた叔父。 その不自由な体の双肩に日本を背負い、孤軍奮闘していた知られざる姿があったのでした。 

 

あの弔辞には、後に来る者に対して叔父の意志を継いでふたたび日本を立派な国に再建してほしい、との思いが込められていたと感じました。 ときに胸に熱いものを感じ心ふるい立ちました。 

 

そして弔辞に対して、叔父の人生に対しても心の中で拍手し、叔父の意志を継いで行くことを霊前で誓いました。 

 

司馬史観、共産党も舌を巻く

 

司馬遼太郎さんの奥さんの福田みどりさんからも供花が来ていました。 あの世で2人は現役の時のように酒を酌み交わしながら、日本の将来について一緒に語り合っていることでしょう。 

 

司馬さんも共産主義者の歴史史観とは異なり、歴史の中で果たす個人の役割を重要なものと考えました。 マルクス主義歴史学者からは「英雄史観」だと批判されていますが。 

 

しかし坂本龍馬や東郷などの卓越した人物の活躍を無視して幕末や明治の歴史は語れるでしょうか。 司馬さんは「歴史は無味乾燥な経済や政治の動き、そして人民の闘争で展開する」というマルクス主義的な見方から日本国民を遠ざけてくれた恩人でもありました。 

 

そして多くの日本のビシネスマンに青雲の志を抱かせ、人間の可能性を夢見させてくれたのです。

 

教科書が子の魂を鬼にする

 

マルクス主義歴史観は、人間の存在を経済の動きの中の単なる1つの歯車のように見なし、人に無力感を感じさせるものでした。 

司馬さんは人間に歴史を動かせる力があると幕末明治の人々の姿を描くことで日本国民に夢と希望と勇気を与えてくれたのです。   

 

この気持ちを失わせているのが現在のマルクス主義歴史観で書かれた日本の歴史教科書です。 日本人の若者の心に精気がないのは、日本という自分の寄って立つ精神的基盤に誇りを感じられないためです。 

 

スポーツの試合で常に日本が連敗を重ね、ぶざまな姿を見させられ続ければ、若者に元気が出なくなるのと同じです。 日本の歴史は恥ずべきものだと洗脳されている限り、日本の子供たちの心に青雲の志は生まれて来ません。 

 

それがサヨク革命には好都合だから日本をおとしめる活動を彼らは精一杯やるのです。 


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