いのちの風 bS16

5月11日(水)発信 石黒大圓(だいえん

 Eメール ishiguro@a1.hey-say.net

 

今回のテーマ いのちと出会う会/大いなるいのち/苦にしない人生/ビハーラ僧/霊的対話

 

いつもありがとうございます。 連休はいかがお過ごしでしたか。 

 

今度の5月15日の「いのちと出会う会」50回記念会には、谷荘吉先生(大阪生と死を考える会会長・はやしやまクリニック「希望の家」院長)入佐明美さん(大阪釜が崎建設労働者生活相談員)が来られて一緒にお話しする時間を持ちます。 

 

私の開会の挨拶の内容の概略は以下の通りです。 

 

人の死で自分と向き合う不可思議さ

 

妻子の死に直面し「2人の人生は何だったのか」「2人の苦しみは何か意味があったのか」「次の世で2人は元気に暮らしているのか」などの問いがかけめぐりました。 

 

第1回の「いのちと出会う会」に来ていただいた南吉一先生と、幸いにも6年前にご縁ができました。 南先生は枚方で「在宅ホスピスあおぞら」を主宰され、「終末期患者の在宅ケア」の支援を開業医としてされていました。 

 

そして「あおぞら」の事務所で「終末期医療」などの勉強会を谷先生たちとされておられ、私も参加したのがすべての始まりでした。 

 

ある時に南先生から「石黒君、大阪でもこのような勉強会をしてはどうか」と問いかけがあり、既にご縁があった應典院の秋田住職さんに相談しました。 

秋田さんもそのような会を作りたいと思っておられて意気投合しました。 「いのちと出会う会」の命名は秋田住職でした。  

 

当初は「生と死を考える会・天王寺支部」のような内容にするつもりでした。 昔は死を語ることはタブーでした。 

しかしE・キューブラ・ロスの著書「死の瞬間」が出版され、「生と死を考える会」のアルフォンス・デーケン教授の「死の準備教育」などによって、死を語ることが市民権を得ました。 

 

もう死について考えない、縁起が悪いという時代ではありません。 人は死に向き合った時に真に自分の人生の意味や生きがいについて振り返り見るのではないでしょうか。                                

 

現在では死は病院死が圧倒的になってしまい、日常生活で大事な死を見る機会が隠されています。 今回のJR事故を見ても、人生いつ何が起こるかわかりません。 

 

まさかの時の人生での危機管理の心構えとして死を考えることは、自分の人生観や死生観を築く上で大事だと考えます。 愛しい人の死と向き合うことで自分自身と向き合うことになるのです。 

 

この趣旨で始まり最初は、医療や生と死の問題が多かったのですが、この会を通して釜が崎や野宿者支援に関わりだしてから幅が広くなってきました。 そして国内外で社会活動をされている方々もお招きしました。 

 

この会で皆と本来の「生老病死に関わるいのち」について考えました。 また今このように日本国民として恵まれた生活をさせてもらっているのは、過去の日本の父祖のおかげと思い「日本のいのち」へも関心がわきました。 

 

またこの恵まれた生活は自然の恵みの中で生かさせていただいていることから「自然のいのち」にも感謝する姿勢となりました。 

 

日本は世界の中で孤立して生きることはできません。 世界の運命は日本の運命でもあります。 恵まれている日本と恵まれることの薄い国々やそこに住む子供たちの運命。 その「世界のいのち」にも深い一体感を感じます。 

 

大いなるいのちが響く人の心に

 

私たちが生かされている陰には多くの「いのち」があります。 私たち一人の「いのち」を超える「大いなるいのち」への目覚めが大事ではないかと考え始めました。

 

今まで「いのちと出会う会」で話された49名の話題提供者の方々の「いのち」。 その話の中で語られた多くの「いのち」の姿。 そしてそれらを聴かせていただいた参加者という多くの「いのち」。 

 

様々な「いのち」の交響曲が「いのちと出会う会」の中で奏でられてきました。 これからもこの響きを日本中の人々に伝えていきたいと思っています。

 

またここで死の準備教育や死生観といったものを学ぶうちに、私はますます自分の存在の意味を考えるようになりました。 

 

「妻子を失ったことの意味するものとは?」「私は誰?」「私はどこから来てどこへ行くのか?」「なぜ今ここに生きているのか?」「今この時代、この国に生きている意味は何か?」・・。  

 

そのような問題意識を日本国民の多くが心に持ち行動すれば、この国をすばらしい国に再建できると思い始めました。 またそのような思いを伝えるために「いのちの風」という通信を全国に発信し始めました。 

 

またこの会を発信基地として「国直し」しようと呼びかけています。 妻が亡くなる5日前の日記に震える手で「元気になったら、お世話になった方々に恩返しをしていくんだ!」とあります。 

 

私の活動は妻の代わりに世間に恩返しするものです。 そして2人が後ろから押してくれていたおかげで、ここに到れたと感じ、心から妻子に感謝する次第です。

 

苦しみを苦にしない人苦にさせる人

  

妻の命日の日、寝る前にストレッチをしながらテレビを見ようとして、スイッチをつけたら「DEARフレンズ」という米映画をやっていて途中から見ました。 

 

やんちゃな男の子グループの青春映画はよくありますが、これはおてんば娘4人組の映画。 若くして亡くなった子供の墓地の前で交霊術をする4人。 何故早く亡くなったのかを突き止めようと4人が調べ始め、推理小説風に話は始まります。 

 

彼女たち12歳の時の夏の思い出、甘い恋あり、恐怖あり、家族愛あり、友情あり。 なかなか目が離せなくなって深夜、最後まで見てしまいました。 

 

最後に、昔、妻と子を強盗に殺され、後悔の念で一生を過ごし毎晩墓にたたずむ老人。 その彼に以前命を救われた女の子の1人が、花を手向けに彼にそっと近寄り語る。 

 

「私の両親が離婚するの。 怖い」 老人が言う。 「人生は思い通りにはならないが、逃げないで」 「良いことも悪いことも人を育てるんだ」。 何か妻からのメッセージのようでした。   

 

お釈迦さまは「この世は苦の世界」といわれました。 この「苦」とは「思い通りにならないこと」の意味。 すべて思い通りにならないこの世で、思い通りにしようとするから「苦しみ」が生じる。 

 

あれもほしい、これはもっとほしい、地位、名誉、財産、そして死んだ家族を返して・・・所詮は手にできない限りなくふくらむ願いの中で苦しみもがく日々。 

 

ある人が言いました。 「苦」を「苦にしない」生活こそ「苦の世界」から逃れられる唯一の方法だと。 お釈迦さまはそれが言いたかったのではないでしょうか。 

 

しかし苦しみを他人のせい、社会のせい、国家のせい、だと批判することが宗教の役目だと誤解して社会批判活動をする宗教者がいます。 苦しみを生み出すものをこの世から取り除けば幸せが手に入る。 

 

苦」とは人にとって「悪」だと。 まるで人を抑圧している社会体制を破壊すれば、自然に極楽、天国が招来すると考えている。 共産主義者と歩調を共にして政治活動をしようとする宗教者が仏教界にもキリスト教界にもいます。 

 

とくに上層部の過激派に洗脳されて、同和問題や在日問題に取り組んでいる浄土真宗やカトリックにその傾向があります。 各宗派の宗教新聞を見ていてそれを強く感じます。

 

霊的な目覚めを求む人の魂

 

先日「あおぞら」で私が語ったことの最初の部分の1つは「ビハーラ僧」についてでした。 終末期患者の心のケアをする役割をもってホスピスで働く神父や牧師をキリスト教では「チャプレン」と言います。 

 

日本では同じ役割を担う仏教僧侶を「ビハーラ僧」といいます。 日本でもやっと多くのホスピスが設立され始めました。 しかしビハーラ僧が心のケアをする「ビハーラ病院」は日本ではまだわずかです。   

  

ある宗教講座で行われた「ビハーラ僧」について語る集いでのことです。 ビハーラ僧の1人が発言されました。 

「色々な考えの患者がおられるので来世のことなどはあまりしゃべりません。 それは宗教活動になるからです」といわれました。 私はその言葉を聞いて敢然として怒り、質問として反論しました。 

 

スピリチュアルケアをすべき人が霊的対話をしないならば、ビハーラ僧などという肩書きをつける必要はないです。 宗教活動とは日蓮さんや親鸞さんの教えを伝えることばかりではありません。 

 

日本人の心の底には伝統的な来世観があります。 また日本には膨大な数の神社仏閣があります。 新興宗教もゴマンとあります。 この世以外に目には見えない別の世界、あの世があるという信仰が、日本国民の中にあるから神社仏閣は存在し続けられているのです。 

 

多くの患者さんやその家族はその信仰から切り離されて苦しんでおられる。 日本人がかって持っていたその信仰によって苦しみの淵から救い上げられるはずです。 

 

病気という縁に触れられた患者さんの心を揺り動かして目覚めさせるのが、ビハーラ僧の役割でないかと思うのです。 

 

「なにごとがおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙あふるる」。 このような西行法師の言葉に感動する感性をもつのが日本国民です。 そのような感受性を失っている人に霊的目覚めを起こさせる勤めが宗教者にはあるはずです。  

 

また来世で会おうね」という言葉が患者や家族にとっては最大の癒し、生きがいになると、遠藤周作さんの奥さんの遠藤順子さんが言われました。 

 

そのような言葉を遺族に対して封じ込めるのは、遺族に対して「これから生きていく上の人生観、死生観」の選択の幅を狭めている気がします。 日本人の心には霊的な魂が潜んでいるはずです。 

 

それを拾い上げて生きがいを生み出してあげるのが宗教者であり、ケアする立場の人と思っています。 それを怠ってはビハーラ僧としての肩書きは不要です。 僧衣を脱いで一般ボランティアとして働けばいいのです。 

 

一般の人でも霊的対話をする人がいるのに、宗教者がそれに対して遠慮するなど、宗教を何か腫れ物扱いしているようで釈然としません。 なにか現代の仏教僧はサヨクの科学的社会主義とやらに、たぶらかされて「来世がない」というのが科学的仏教だと勘違いしているようです。 

 

唯物的講釈仏教と成り果てて、霊的なものを語ろうとしなくなっている気がします。 宗教者であればあるほど積極的に霊的対話をすべきです。 その使命感がないから逃げ腰になってしまって対話しようとしないのです」  

 

このようなことを言いたかったのですが、気持ちは一杯、しかし言葉は半分も伝えられませんでした。 その代わり私の意見に会場は沸騰して意見が飛び交いました。  

 

論争ではなく私の意見を述べたまでですが、ケアする人や宗教者までが唯物思想に対する危機感をもたないままでは、遺族や患者に唯物思想が蔓延してしまいます。 それが日本の危機につながると私は思っているのです。


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