いのちの風 bS18
5月26日(木)発信 石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ 花金夜市/遺族への心のケア/社会活動をする国民/ホスピス/炊き出し
いつもありがとうございます。 やっと3つも4つも重なっていた仕事に片が付きそうになって
来ました。 まず一つ、商店街イベント『せんば花金夜市』が「お待たせしました。 今年もやりまっせ」と銘打って、今年第1回目が明日、27日金曜日にあります。
16時50分から19時すぎまで。 南久宝寺通りと博労町通りの間の船場エプソンビル前広場にて開催。 主催・せんば心斎橋筋協同組合。 多くの知人の紹介で沢山の芸達者がボランティアで来てくれます。
花金で浮かれて踊るアホなれば
紅萬子さんのいつものおもろい司会で開始。 ハワイアン・フラダンスに始まり、我らが「船場
いとはん、ぼんぼん踊り子連」のよさこいソーラン踊り(「よっちょれ」「メチャハッピー大阪万歳」の二曲)そしてオークション(商店街の店から寄付された商品を売って、あしなが育英会へ寄付)。
知人の桑田守喜さんのクラシック・ギター演奏、また知人の西俣稔さんの紹介でチベット音楽&オーストラリア先住民の長大な木管楽器ディジュリドゥ演奏(世界最古の木管楽器)。 そしてまたオークション。
最後に西俣さんによる韓国伝統打楽器チャンゴ演奏と、バンド「Eふれんず」10人によるチューバ管楽器大演奏会。 今までにない盛りだくさんの内容で開催。
お時間がありましたら、ぜひご来場ください。 無料です。
我が踊り子隊は夜に商店街の道路に出て練習を始めました。 鳴子を鳴らして踊る私たちを見て、道行く人がえらいものを見てしまったと苦笑しながら通り過ぎて行きます。
踊り子募集の紙を張って期待しながら、そろわぬ踊りを見てもらっています。
母は知る亡き子は生きて胸のなか
先日の50回記念集会に集まっていただいた方の中には、島根の方で名古屋からの帰りに途中下車して参加しました、と言う方もおられたようです。
ご主人を亡くされて半年間心の整理が出来ず辛いですと、おっしゃっておられたそうです。
ご自分の気持と向き合いながら悲しみを表に出さないよう心がけて居られるようだった、と知人が教えてくれました。
その方があの日に隣に併設されていた「お寺の出前」の、仏教紙芝居で癒されたと言われていたそうです。 5年前から仏教説話や故事を紙芝居にして、心の癒しをされている2人の仏教僧の画期的な試みです。
枚方の「在宅ホスピスあおぞら」で知り合った方々です。 ハーモニカを吹いて情緒をかもし出し、病院の患者や老人、子供たちなどに静かに語りかけて、心洗われる時間を届けられています。
まさに本来の「お寺の説法」を斬新な形で出前されているのです。
レパートリーは70種あまり。 芥川龍之介で有名な「蜘蛛の糸」や仏教説話「子供を亡くしたゴータミー」「幸福の王子」「泣いた赤鬼」「十二支物語」など東西の逸話から作品を作っておられます。
その紙芝居のうちの絶品の1つは「ゴータミー」。
子供を亡くして悲しみのあまり死んだ子どもを抱いたまま、町をさまよう若き母ゴータミーはお釈迦様に出会う。 お釈迦さまは彼女に「1度もお葬式を出したことのない家からケシの実をもらってくるように。 そうすればなんとかしてあげよう」と言われる。
彼女が行く先々では葬式を出したことのない家などどこにもなかった。 そして多くの人々からそれぞれの死別の悲しみの話を聞いたのです。
「悲しい別れは私だけではなかったのだ。 みんなつらいのだ。 そして人は必ず死ぬものなんだ」と彼女は知ります。
ゴータミーは「当たり前だが誰もが気づきたくない真理」そして「人への共感の心」を子供の死を通して学びました。そしてお釈迦様の弟子になられたのでした。
人が人生で学ぶべき普遍的テーマを題材にされているが故に、誰もが心動かされるのです。 これこそ仏教が人の心を揺さぶって、人生に再び立ち向かせる力をもつゆえんです。
涙さえ枯れ果ててなお人を呼ぶ
50回記念会での分かち合いの集まりで、涙ながらに体験を語っている多くの遺族女性たちの姿や、大事な人を失って落ち込んでいる人の姿をみて義憤を感じました。 大阪でそのような人々をケアする所が何故もっとないのか。
遺族の方々のために何とかしなくては、と思いました。 「いのちと出会う会」に付属して「遺族の分かち合いの会」も作りたい、とあの時思いました。 しかし元気な発言の多い私では、遺族の心のケアをするには手に余ると思い直しました。
それで以前から知っていました「大阪生と死を考える会」の遺族会や「あすに」という遺族会を代わりに紹介していくつもりです。
外国では病院が遺族の心のケアをするシステムをもっています。 日本の病院では患者が亡くなったら患者の家族はもう用は無いと考えるのでしょうか。 患者の遺族の心の苦しみを治すのも病院の役割と思うのですが。
患者の魂のケアをする必要さえ感じていない病院が多いから、家族の方も放って置かれるのです。
ましてや遺族の魂の癒しなど考えません。 病院は体のケアはするが、心のケアをする所とは考えていないからです。
「死は敗北。 患者が死んだら魂は無くなってしまって終わり」と考える唯物思想の医療体制だからです。 先日通信に載せました
国民が自ら立ちて国直し
先日のビハーラ僧のように、宗教者も患者や家族の魂のケアを積極的にしない。 遺族は1人、悶々とするばかりです。 本来は寺がそのような役割を担うべきなのです。
その寺も寺自身の安寧にのみ心が向かい社会的な行動ができていません。 聖徳太子が悲田院や施薬院などを建てられて社会活動をされたのも、仏教が自己研鑽だけの宗教ではないと宣言されたも同然です。
日本の歴史の中には貧者救済などの社会的行動をする仏教僧を聖者と見る伝統があります。 またキリスト教には「貧しく小さくされた人々」救済の伝統があります。
本来これは仏教のものでした。 イエスがこれを取り入れて実践したのです。 イエスに一番近い思想を受け継いでいたのがネストリウス派の景教です。 カトリックから迫害されてシルクロードを東に布教しながら、日本にたどり着いたこの景教から聖徳太子は困窮者救済を学ばれたのです。
私たちは聖徳太子やイエスの意志を受け継いで社会的活動をする仏教徒として、この日本を仏国土にする責任を仏や先祖、亡き人々から託されていると信じます。
社会活動を、政府や国家批判の道具にしようとしているサヨクから奪還して、一人一人の国民がこの国を築いていくのだ、という気概を持って「美しい日本」建設に邁進すべきと信じます。
「あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」と故ケネディ大統領は就任演説で言いました。
国家や誰をもあてにせず遺族が支えあって自らの癒しの場を作ればいいのです。 病院や寺、国が何もしないのなら国民や遺族がそれを自らの手で作っていけばいいのです。
それが国民自身が手塩にかけて築く民主主義国家としてのありようです。 人権や権利を振り回して国家や行政に詰め寄る、甘ったれた勢力とは一線を引くべきなのです。
生と死の境をのぞきここに来た
先日應典院でのシンポジウムで神宮寺の住職、高橋卓志氏が言われました。 「私は戦場カメラマンの岡村昭彦氏の追っかけをしていました。 彼が生と死を分かつ戦場の現場を撮り続けていて、行き着いたところはホスピスだったのです。
世界のホスピスでの生と死の「いのちの境」の取材にたどり着いたのです。 そしてホスピスの最初は、行き倒れの人々の世話をする施設でした。
私は今、廃れている浅間温泉街を、老人や末期患者などのケア・タウンとしてよみがえらせようとしています。 彼らにとっての人生の終末期を輝かせて終わっていただきたいと思っています」
貧窮者や孤児の世話をしていた聖徳太子の悲田院はまさに日本のホスピスだったのです。 50回記念会でお話をされた谷先生はホスピスを作る志を胸に抱いて横浜から来られました。 そして入佐さんは釜が崎で行き倒れになる野宿者を救い取っておられます。
そして「いのちと出会う会」は「在宅ホスピスあおぞら」を母体として生まれ、50回も続けてきました。 すべてがつながっていて感動しました。
この胸にあふれる思い声に出す
大阪駅前の炊き出しから深夜帰ってきたら、我が家のシャッター前に年老いた野宿者が寝ていました。 また商店街で寝る野宿者が増えてきた気がします。
災害被災地での労働力が不要になってきたのでしょうか。 若い元気のいいのが地方から戻ってきたら、市内にいる年老いた者は仕事からまたアブレます。 家にあった墓参りの供物のクッキーや飲料、そしておにぎりを握って渡しました。
「釜が崎から流れてきた」と言っていました。 目が白内障なのか白くなっていて野宿者を差別する人からは、石でも投げられそうな気の毒な姿でした。 何の因果か、無残です。
韓国人の親友が先週末に再来日して土曜日に一緒に墓参りへ行って、墓をきれいに拭いてくれました。 また次の日曜日にはカレーの炊き出しへ2人で参加。 珍しくここ2ヶ月続けて行くことになりました。
先月は福井幹さんが炊き出し現場で横笛を吹くというので1人で参加。 今までギターを弾ける仲間と一緒に、炊き出しの列の前で時々歌謡曲や童謡などを歌っていました。
福井さんの前座をやろうと言われ、1人大声を張り上げて歌ったのです。 しかし2人とも自制が効かず長く歌いすぎ、福井さんの出番が少なくなってしまって大失敗。
それでも福井さんの横笛の音色に、周りに集まった人々は聞きほれていました。
今月は手伝いの人が少なくて、我々2人だけでも参加してもらって助かったと言われました。 炊き出しへのボランティアは生半可な気持ちで参加してはいけない、と厳しく言う人もいるようです。
しかし私は1回でもいいから参加して、このような世界がこの世に存在すると知ってもらうだけでもいいのではないか、と気軽に思っているのですが。
「繁栄の裏にはいつもつらい思いで暮らさざるを得ない人々が必ずいるのです」と入佐さんに岩村医師がいったそうです。 そのような人のそばに寄り添って共感できる感性が育てられたら、1回だけのボランティアでもいいのではないかと思っています。
今回はカレーを手渡す役割をしました。 「お待たせしました。 召し上がってください」と1人1人にずーっと声を掛けつづけました。 食べさせてやるではなく、食べていただくのです。
肉体労働で荒れたふとい浅黒い手で受け取る人々。 私と同じ団塊の世代の人々のなかで悪いクジを引いた人々が1000人も並んでいます。 それに比べてなんと恵まれている私であることか。
それを考えると久しぶりに胸が熱くなりました。 妻子を亡くして以来、共振する心がいつも胸に迫ってくるようになりました。 それが今の私の原動力です。 また自分の生死など夢のまた夢。
いつでもお迎えが来てくれてもいい、という死生観になれました。 だから強くなれたのです。 これも妻子のおかげです。 あの炊き出しの現場にも妻子は来てくれていたと思います。
同行3人。 妻の母も同じ思いで日々2人に声掛けて生活しているようです。