いのちの風 bS23

6月30日(木)発信 石黒大圓(だいえん

 

 Eメール ishiguro@a1.hey-say.net

 

今回のテーマ 精神科医・V・フランクル/つらい人生にも意味がある/この世の苦しみを肯定

 

いつもありがとうございます。先日「先人に学ぶ人間学塾」で『V・E・フランクルの絶対肯定哲学(それでも人生にイエスという)』の発表を聞きました。 

 

フランクルはナチスのユダヤ人強制収容所を生き抜き「夜と霧」という、世界で歴代十指にも入るベストセラーの名著を書いたオーストリアの精神科医師です。 彼の多くの著書から人間の「苦しみの意味」や「人生とは何か」などが学べます。 

 

「いのちと出会う会」が求める「家族を失うことの意味」「死とは何か」「スピリチュア・ケア」「いのちが今ここにある意味、今この時代、この国に生きている意味は何か?」「人生は生きるに足るか」「私は誰、何者?」「私はどこから来てどこへ行くのか?」「神仏が私たちに求めているもの」などなど・・。

 

これらについて考えるのに必須の人物がフランクルと思っています。 ヘタな宗教書よりよっぽど人間洞察に優れています。 江戸・明治の日本人は論語などを含む四書五経といった心の書を常に読んでいたために近代的精神を早く身につけました。 

 

同じようにユダヤ人は旧約聖書という神の書、人間洞察の書を幼い頃から読んでいたために古来より優秀な人間が生まれ続けたのです。彼の思想の原点のはずです。 

  

発表者の資料のなかにフランクルの「人生への絶対的肯定」へと導く「意味と使命」についての要約がありました。

  

どんな時も、人生には、意味がある。 どんな人のどんな人生にも、意味がある。 この世の中にいのちある限り、あなたには満たすべき意味、実現すべき使命が、必ず与えられている。 たとえ、あなたが気づいていなくても、それはあなたの足下に常に送り届けられているのだ。 

 

この世のどこかに、あなたを必要としている「何か」があり、あなたを必要としている「誰か」がいる。 そしてその「何か」や「誰か」はあなたに発見され実現されるのをずっと待っているのだ。 

 

だから、この人生で起こるすべてのことを―たとえどんなにつらいことでも―意味あること、必要だから起こったこととして静かに受け止めよ。 その「何か」は、あなたに大切なことを気づかせてくれるメッセージを含んでいるはずだから』

 

そして、生きることから何を期待するかではなく、生きることがわたしたちに何を期待しているかを自分自身に問い直すことが大事なのです。 人は自分の人生の方から「この人生で何をするのか」と問われている。 

 

人間は生きる意味を求めて人生に問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。

 

以下はフランクルのHPの斉藤啓一著「フランクルに学ぶ」HPのフランクルの名言から引用 http://www.geocities.co.jp/Milkyway/4017/meigen/frankl.html

 

 二年前に妻を失い、以来、抑うつ状態に悩まされている高齢の開業医が診察に訪れた。 愛する者を失った孤独と喪失感に、生きる意味をなくしている様子だった。 フランクルが尋ねた。 「もしもあなたのほうが先に亡くなっていたら、どうなったでしょう? つまり、奥様の方が残されていたとしたら?」 

 

「たぶん、妻は苦しんだに違いありません」「なら、おわかりでしょう? 奥様は、その苦しみを免れることができたのです。 その苦しみから奥様を救ったのは、あなたなのですよ・・・・・」 老医師は、フランクルの手を握って静かに去っていった。           

 

 妻に先立たれ、絶望のあまり自殺を試みて入院してきた初老の男性と、フランクルは次のような対話を行っている。 「私が自殺を繰り返さないのは、妻の墓石を立てる責任があるからです」「その他には、何の責任もないのですか?」「私にとって、すべては無意味だし、空虚なのです」

 

「しかし、すでに存在しない死者のために墓石を立てるといった、現実的な有用性や目的性を越えたことに責任を感じておられるのなら、死者のために生きる責任もあるとは、感じられないのですか?」 

 

その言葉を聞いた男性は、はっと気づくものがあり、生き抜くことを決心したという。 彼の内面に、いったい何が起こったのか? この男性にとって、墓石を立てるということは、愛する妻のためだと信じていた。それは「愛の表現」であり、彼女が喜んでくれる行為であると。 しかし冷静に考えれば、彼女はもう存在しないのだから、墓石など無意味ではないのか?
  

フランクルが暗にこう指摘したとき、この男性は、ある内的知覚を経験したのである。 それは、肉体が存在しなくても、その実存的本性を感じる、ある種の確信であり直感である。 彼女は、今なおどこかで、その実存的本性として生きており、自分のことを見守っている。 

 

墓石を立てれば、彼女は喜んでくれる。肉体は存在しなくなっても、彼女への愛の表現は、決して無意味ではない。そんな感覚なのだ。 ならば、墓石を立てること以上に、彼女が喜ぶこととは、いったい何だろう? 

 

それは、生きることであろう。彼女は、自分が生きることを望むだろう。 それこそ最高の、彼女への愛情表現であろう。 それは愛するものに対する「責任」であると同時に、愛する者を喜ばせる行為、まさに「意味」そのものではないか。 こうして男性は、生きる意味と責任を自覚したのである。 

 

フランクルは、哲学者ニーチェの言葉を引用して次のようにいう。 「意味さえあれば、人間はおよそどのような苦しみにも耐えられる

 

 私が一番苦しいのは、自分が何にもまして愛した職業を、もうやれないということです」 そういって嘆く彼女(末期がんに侵された看護婦)に対して、フランクルは次のような言葉を返した。「あなたが一日に何時間働こうと、別にたいしたことではない。だれだってすぐにまねができる。 けれども、働きたいけれど働けない。 にもかかわらず絶望しない。 これは、そう簡単にまねのできる行為ではないだろう」 

  

人生という演劇においては、だれもが独自の役柄を演じなければならない。 物語の進行にとって必要な、自分にしかできない役柄を与えられているのだ。 それが「独自性」としての生きる意味であり、その意味を通して人間は、自らを越えていくのである。 

 

「あなたは、看護婦として身を捧げた幾多の病人たちに対して間違っていないだろうか?」 厳しくも優しさに満ちた言葉が、続いて投げかけられた。 

 

「病気や病弱で働く力のない人たちの人生が、あなたにはまるで無意味だとでもいうようだが、それは間違いではないだろうか? あなたがそこで絶望してしまえば、人生の意味が、まるで一日何時間働くかによって決まるかのようになってしまう。 だとしたら、あなたはすべての病人や病弱者の生きる権利も生存の資格も何ひとつ認めないことになってしまう。
  

ところが実際は、今こそ彼らの生きる意味と価値を実証する唯一のチャンスなのだ。 なぜなら今までは、単に職業上の看護をするだけで、彼らを支えるのが精一杯だったのに、今後はそれ以上のチャンスが持てるからである。 つまり、模範的な生きざまを通して彼らの生を支えるチャンスということだ」      

 

 「遅かれ早かれ人生は終わるのです。そして後には何も残りはしません」 こういって虚無的な絶望感に沈む女性患者に対し、フランクルは次のように問い返した。 「今までに、あなたが大変に尊敬するようなことを成し遂げたり、達成した人に出会ったことはありませんか?」 

 

するとかの彼女は、自分のかかりつけの医師がそうだったと返答した。 「どんなに患者の世話をし、どんなに患者のために生きたことか・・・・」 今は亡きその医師の人生こそ、真に意味のあるものだといったのである。 

 

それに対してフランクルは、逆説的な質問を彼女浴びせかけた。 「でも、その意味は、彼の人生が終わったとたんに、消え去ったのではありませんか?」 彼女は断固とした口調で答えた。 「いいえ、決してそうではありません。彼の人生が意味深いものだったという事実は、何ものも変えることができません」

「たとえば、患者のただひとりも感謝の気持ちがなくて、そのお医者さんの世話になったことを覚えていないとしたら、どうですか?」 「彼の人生の意味は残っています」「それとも、記憶力がなくなったとしたら?」「残っています」「それとも、ある日、最後の患者が死んでしまったとしたら、どうでしょうか?」 「残っています・・・・」 

 

彼女は、フランクルのソクラテス的な問答により、内的な確信(信仰心を自覚したのである。だからこそ、断言できたのだ。(以上)

 

最初に戻りますが「人間学塾」での発表内容に疑問を持ちました。 発表者はユダヤ民族への迫害、強制収容所、アンネの日記などについて説明に多くの時間を費やしました。 この世の矛盾、差別、迫害、戦争などをフランクル自身はどう感じていたのか。

 

発表者は社会的矛盾を解決することの方に力点を置いていたようでした。 彼はフランクルが主張したかったものとは逆の視点で、人間の苦しみの解決方法を訴えていたように感じました。 

 

この世には多くの苦しみがあります。 それを釈迦は感じ取って出家され悟りを開かれた。 ただこの苦を解決するために、この理不尽な世の中を改革すればいいと思われたのでしょうか。 イエスもそうでした。 革命運動家になってもいいほどの情熱はあったが、彼の関心事は内なる霊的魂の問題でした。  
  

釈迦もこの世の「苦」(思い通りにならないこと)を乗り越えるための心のあり方を示されたと思います。 この世の苦を「苦にしない」生き方を指し示されたのではないでしょうか。 決して世の中の政治、経済、制度を変えれば、この苦しみがなくなるとは考えなかった。 

 

変えても、変えてもさらに新たな苦しみが現れてくる。 心の見方、人生への見方を変えることで「苦」の世界から解脱できるとされたのではないでしょうか。 
 

フランクルも同じ立場に立っていたと私は思います。 この人生での苦しみ、この世の理不尽さを解消するために闘っても、それは一時的な解決にすぎない。 この世の矛盾をまず絶対的に肯定することから始まる。 

 

この世の苦しみにはすべて意味がある。 その苦しみを背負ってこの人生を生きることが人間に与えられている人生の意味なのだ。 つらくとも、全てのことは私に必要だから起こったのだと、すべてを自分に引き受けて生きつづけ、その意味を見つけることに私の人生の意味がある。
  

この世を作られて、また作り続けておられる神、仏は決して人間が憎くて苦しみを与え続けているのではないと思います。 その苦しみを乗り越える力を人類が身につけてより高度な生命体になるように、悲劇を横で泣きながら見続けられていると信じています。 

 

この世は全て醜く見えますが、実相は清い美しいものではないか。 神仏が作られるもので不完全なものはないと思います。 全ては清浄なり。
  

フランクルの考えの中には東洋的、仏教的なものがあるように感じます。 それは極限状況で人生を達観したら、洋の東西を問わず、そのような結論になるのか。 当時のヨーロッパでは仏教の影響が広くみられたのか。 仏教に関心があったユングの影響なのか。    

 

そしてフランクルはユダヤ人大虐殺についてどのように考えていたのか。 それはありうべからざるものだったのか。 ユダヤ民族が避けえない、彼らが背負わなくてはならない意味ある事件だったのではないでしょうか。 ホロコーストをただ否定するのではなく、その悲劇にも意味があるのだとフランクルは考えたはずです。
  

もしそうなら宗教がもつ深い内省を無視し、「宗教はアヘンだ。 すべての困難を仕方がないと宗教はあきらめさせ、肯定させる」と非難する連中の餌食に、フランクルもされるのではないかと危惧します。 

 

また社会的「苦」を取り除けば人は救われると考える今の宗教界の社会革命派にも違和感を感じます。 人の「こころ」という難しい問題を回避して、安易な現世利益、社会的矛盾糾弾へ人々を導いていいのでしょうか。 それが釈迦やイエスへの道なのでしょうか。

    いのちの風通信 縁の花支縁サイト

    縁の花 トップページに戻る

    縁の花村 トップページに戻る