いのちの風 bS42
11月10日(木)発信 石黒大圓(だいえん)
【Eメール・アドレス】 gytkm947@ybb.ne.jp
今回のテーマ 寝袋配り/母心/飛田遊郭/功労に報恩感謝/個の自立と家庭崩壊/役人天国
いつもありがとうございます。 寒くなってきました。 皆さんからいただく通信費で最低でも200個の寝袋が買えると思っていたのですが、虚しい皮算用。 例年に比べてカンパが少なく、このままでは寝袋配りは中断かも。
人の善意をあてにして活動をすることはあつかましいとご批判があるかもしれませんが、中断するわけにはいかない。 ほかに以前にご縁のあった方々にもお願いします。 ダメなら今年は自腹です。
先週の金曜日に二回目の寝袋配りへ出発。 行く途中夜九時前に日本橋電気商店街の前を車で通る。 商店街の南の端には三十人ほどがシャッターの前で列を作っている。 教会からの炊き出しを受け取るために並んでいるのです。 昨年それを知って寝袋を配りました。
今日は余裕がないので来週に配ろう。 車に百個は積まないと、ここの段階で寝袋がなくなってしまってほかの所へ持っていけない。 日本橋や道具屋筋周辺には百人以上がダンボールの棺おけ風寝床を作って寝ています。
母ごころ野宿者は見る夜の夢
釜が崎の山王商店街の入り口で相棒と待ち合わせて両手に五個ずつ寝袋を持つ。 寝袋から出ている紐を指に引っ掛けて二人で二十個をぶら下げて歩く。
今年は原材料が上がったために三割ほど小さくなっている。 また一般の人が災害や地震などへの準備ために買出しを始めて寝袋が不足しているらしい。 そのために例年は一人で八個くらいしか持てないのが、いつもよりたくさん運べる。それでも疲れている時や寒い時には指が引きちぎられる思いがします。
歩いている時から「それ寝袋やったらほしい」と声がかかる。 いつもの風呂屋のそばから配布開始。 すでに新しい人が来ている。 そして盗られたと言ってまたほしがる人。 「小便している、ほんのちょっとの間に盗られるんや」。 ある人は「兄ちゃん、いいことしてはるけど、それを盗んで道で三百円で売っとる奴もいるねんで。 もらったのを売る奴はおれへんけどな」と言われた。
しんどい者同志でつぶし合いをしている。 これが現実です。
ダンボール二枚だけで体を上下にはさんでサンドイッチ状になって丸くなって寝ている人がいる。 寝袋を開けて中に体を入れてあげました。
母親がはだけた毛布を子供の上に着せかけてあげる感じです。 交流分析のNP
(Nurturing Parent・ナーチュリング・ペアレント・保護的母親(看護婦的)の心)が低かったら、これは出来ないでしょう。 私はNP人間である証拠。
死に行く家族を介護してきて、また「在宅ホスピスあおぞら」での勉強会で学んで来てよけいその心がつちかわれた気がします。 苦しみを見つめるということは決してマイナス波動を受けとるということではなく、逆に人の心に慈悲の心、プラスの波動を育てるのです。 それが人間の本性、仏性といわれるものと思います。
煌々とネオンきらめく釜の夜
山王商店街の南隣には深夜も煌々と明るい電灯がともる街がある。 飛田遊郭が今もある。 一応料亭組合が経営する料亭とは公称しているが、売春宿である。 昔風の豪奢な玄関や格子窓から化粧をした女たちが見える。 仲居がビールとつまみを運んできて自由恋愛が始まった、という形式をとってお上からの取調べを逃れている。
しかし料亭組合の会館で顔に傷のある兄さんがたが、賭博をしている時があるというくらいで、その道の人々の収入源になっているはず。 黄色いランプの何かもの憂い雰囲気の花街を、若いのやら中年が連れ立って歩いている。 毎夜札束が舞う。
一歩隣の商店街では何十人もの野宿者が路上で寝ている。 野宿者の多くは昔は元気な肉体労働者だった。 昔の飛田がうるおったのは若かりし彼らがいいお客だったからだろう。 家庭も持たず男の世界だけで生きてきた。 今は年老いて働けず貯金も底をついて夜の路上で寝る。
日本の高度成長を陰で支えてくれた3Kの仕事を彼らが一手に引き受けてくれていた。 大卒の人間には想像もつかない日陰の世界で生きざるをえなかった人々の末路である。
地方出身者や肩身の狭い出生の人々が多い。 その生まれもってのつらい生い立ちから、まともな職業を選択できずに身一つで働いてきた誇りを持つ人々である。 きらびやかなこの日本の成功を、目には見えない底辺で支えてくれて来た功労者たる人々です。 真心をもってその恩恵に報恩し感謝しなくてはいけないと思う。
その飛田遊郭の隣の商店街で寝袋を十五個ほど配って、先週に配り足りなかった天王寺公園入り口へ車で向かう。 配り始めると人々がやって来て「兄ちゃん、くれるんか。 ありがとう。 あそこに女の人が寝ているから、あの人にもあげて」といろいろ人が寄ってくる。 以前にはいなかった場所で布団にくるまって寝ている姿をあちこちに見る。
女性は五人いた。 おにぎりをほしいという沖縄の顔付きをした中年女性は昨年もここにいた人で、安全を考えて毎晩公園の女子トイレで座って寝ているという。
自立して足元見れば底なしの沼
女性が外で寝ることは異常である。 そうしなくてはならなくなった本人の事情もあるだろうが、家庭や地域社会が崩壊している証拠と思う。 根本的には日本の家族制度の暖かい絆が失われているのだ。 「食足りて礼節を知る」という言い伝え。 それが日本では豊かになっても家庭が人間として生きる知恵を授ける場とならずに自己チュウを育てている。
家庭教育というものが欠けている。 外国のように毎週教会へ行かなくても、昔は人倫の道を家庭や近隣社会が子供に教えていた。 それがすばらしい日本精神として幕末に来た西洋人や戦前のアジアからも礼賛されたものだ。
それが戦後は外国の個人主義の方が優秀として無批判に取り入れ、個人の自立を求め始めた。 しかしこれは日本社会ではかえって自立した者同士の絆は希薄になってしまうことに個の独立論者は気がつかない。 学校での道徳教育や、社会での宗教的集いのない日本社会では、個人の自立は思いやりのないケダモノを生むだけである。
そのような上からの倫理的教育は押し付けだ、家族の絆は封建的だ、不要だと主張する左巻き。 そして家庭からの女性の自立やジェンダーフリーを唱える社会革命家はこの日本社会の弱体化傾向をますます進めていく。 それがこの女性野宿者の激増の姿の裏に見える気がする。
天王寺公園入り口だけで四十個も配った。 すごいことに今年はなっている。 景気は上向きといわれるが、社会の末端では不況でますます切り捨てられる人が増加しているのだろう。 それとも昨年は災害が多くて人手が要って仕事にありつけた人が多かったが、今年は少ないためか。
背中には寝袋とともに神背負う
「下の動物園の方にたくさんいるから持って行ってくれへんか」といわれてテクテク二人で二十個ぶらさげて歩く。 「動物園に誰もいなかったら、帰りにまたこんなたくさん持って帰らなあかん、指が痛いな」と思いつつ二人でしゃべりながら向かう。
杞憂だった。 動物園の入り口は寝ている人で一杯。 昨年はこんなことはなかった。 「オジサン、寝袋をタダで配っているんですけど、使ってもらえますか」とダンボールや毛布に包まっている人々に声をかけていく。 声を聞いて「要る要る」とあちこちのダンボールの中から出てくる人々。
いつも気になるのは多くの人を前にして足りなくなるということ。 助かった。 今回もまた寝ている人と同じ数を持ってきていた。 何かが憑いてると武者震いがする。 しかし帰る時に一人まだの人を発見。 ダンボールの箱の中でこの騒動に気がつかないのか、じっとしているので申し訳ないと思いながら去る。
車の所に帰って来てびっくり。 一個座席の下に隠れていた。 やはりちょうどの数を持ってきていたのです。 これは神仏が憑いてくれていると胸熱くなり感謝しつつ車で帰途につく。
公務員国をつぶして野宿者に
以下は動物園入口へ行く道で相棒と話していた内容です。 神戸で医師のお話を聞く例会があり、そこへ神戸市長選に立候補している若い無所属の候補が挨拶に来ました。 そこで聞いたひどい話です。
「神戸市に雇われている掃除婦のオバサンの年収が千二百万円、バスの運転手が千万円(バスは大阪も同じと聞いていました)。 そして神戸市の借金が全国最悪で大阪市以上とのこと」 神戸の震災で借金が増えたのは仕方がないにしても、公務員給与の優遇でますます赤字経営はひどくなる。 大阪の借金経営のひどさはバブル期に過剰投資によるもので、市役所職員の給与改善の問題とすり替えてもらっては困ると組合側や共産党候補は言っている。
何を言っているのか。 普通の民間会社なら倒産しているか、又は給料の大幅カットでボーナスもなしで何とか生き延びているのに、役人は自分の身を削ってでも市を建て直そうという意欲がない。 一度倒産でもして路上で寝るホームレスの悲哀を味わったらいいのだ。
彼らは過去の市政の責任追及に終始して自分たちの権益や人権を守れとデモを打つ。 しかも労働時間中に。
馬鹿げた左巻き役人根性である。 日本は官僚・役人の社会主義天国である。 祖国のために身を粉にして働いた明治以来の日本精神の伝統は今どこにあるのか。
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