いのちの風 bS48
12月24日(土)発信 石黒大圓(だいえん)
【Eメール・アドレス】 gytkm947@ybb.ne.jp
今回のテーマ 12月のクリスマスはウソ/自堕落な浮浪者?/ノーブレス・オブラージュ
いつもありがとうございます。 今年ももう終盤です。 22日には12月にしては珍しく雪が降り少し積もりました。 昨日は釜が崎でのうどんの炊き出しに朝早く出かけ、それから枚方の「在宅ホスピスあおぞら」のクリスマスパーティーへ遅れて飛んで行き、夜は寝袋配りの予定でした。 しかし積雪の影響で寝袋が届かず中止。 皆様もお忙しくしておられることでしょう。
大圓坊主も師走で走っています。
飼い葉おけ12月では凍え死ぬ
12月25日・クリスマス。 キリスト誕生日は真っ赤なウソ。 聖書にはキリストの生まれた日付については何も書かれていない。 キリスト誕生のとき羊飼いらが野営していたことが聖書に書かれているが、当時の羊飼いは冬には野営しなかった。
そのためにキリストが生まれたのが冬の12月でないことだけは確か。 真実はこの頃は冬至の時期に当たり、日が長くなり始め暖かい太陽が増してくる。 この日は古くから寒いヨーロッパのゲルマン民族などの間では太陽の誕生日、太陽の復活の日として祝われた。
またローマ帝国ではキリスト教が国教となる前はミトラ教という多神教が国教であった。 12月25日の冬至の頃は、収穫祭、豊饒祭、太陽の復活を祝うお祭りが行なわれていました。 そのミトラ神の誕生日が12月25日だったのです。
キリスト教がローマ帝国の国教となった時に、これがキリストの誕生日に置き換えられた。 キリストの救世主メシアの名前はミトラの名前が変化して生まれたらしいです。 元の土着宗教と融合することでキリスト教はローマ帝国内で拡がりました。
古代日本はキリスト教国だったということを証明して、それによって日本での純日本的キリスト教の宣教を進めようとする「聖書と日本」という教団。 そこの講演テープを以前に聞きました。
その時に言われていたのは、イエスの誕生日は9月頃のユダヤの仮庵祭の時期。 仮庵祭とは、エジプトで奴隷であったイスラエル人の先祖が神によって解放された歴史を記念するもの。
出エジプト後に「約束の地」カナン(現在のイスラエル)を目指して旅を続けていたイスラエル人たちの、荒野(あらの)での天幕(テント)生活を再現したもの。 その時の苦労をしのんで仮庵、すなわち即席で作られた簡易な小屋を作り、その中で過ごすのです。
あるインターネットのHPによると
『聖書の中のイエスの先駆者・バプテスマのヨハネの誕生記事によると、ヨハネの父ザカリヤは祭司であった。 彼が神殿で奉仕していた時、つまり6月頃にその妻エリザベトがヨハネをみごもっている。
ルカ福音書によれば、マリアに受胎告知をした大天使ガブリエルは、続いて、マリアの従姉であるエリザベトの元にも聖なる子の誕生を告げに行った。 イエスより半年早くその子ヨハネは生まれた。
逆算すればイエスの母マリヤがみごもったのはエリザベトより遅くその半年後の12月頃。 それに妊娠期間の9ヶ月(?)を加えればイエスの誕生は9月頃、仮庵祭の時期となるのです』
100年以上の歴史のある北野カトリック教会。 何年か前に梅田・中津の阪急インターナショナルホテルの前にある、この教会のクリスマス・ミサに出ました。 ここでは月曜日の昼間に信者さんたちが大阪駅前炊き出し用のおにぎりを作ってくれています。
そのために言いにくいことなのですが、クリスマスミサがラテン語でその時に行なわれていて失望しました。 まるで今もキリスト教は西洋宗教として日本で君臨している。 ローマ帝国でも土着のミトラ神と習合して布教されたのに、何故誰も理解できないローマ帝国の国語、ラテン語を使うのか?。
キリスト教はしょせんは西洋の世界侵略のおかげで世界に広まったヨーロッパの民族宗教ではないか、と反感をますます持ったのでした。 しかしイエス自身は大好きなのですが。
野宿者も亡き英霊も戦っている
保守系の通信仲間の方から「野宿者=浮浪者を安易な同情で支援すべきでない」という批判が来ています。 この批判に回答するのに、大東亜戦争への批判と重ねて合わせて話した方がわかりやすいと思いました。
大東亜戦争に対する無理解と同じものが野宿者に対してもある。 大東亜戦争を批判し太平洋戦争というアメリカの作った言葉をそのまま使っている無知な人々。 野宿者を浮浪者と呼んでいるのと同じ精神構造です。 私はこの2つの問題について日本国民が共通にもつ偏見と戦っているつもりです。
アメリカや左巻きによって洗脳を刷り込まれ、検事的な立場からだけの論証で、あの戦争を侵略戦争として日本を非難する。 弁護士的立場からの資料を検証もせずに日本をおとしめようとしている。 左巻きのマルクス主義者が書いた批判的な歴史書ばかり読んで、保守系の歴史家が書いた弁護側のものを読もうともしない。
現地調査もせず、生き証人の証言も聞こうとしない。 私は野宿者を非難する人が、実際の野宿者の現状をその目で見たのですか、釜が崎や野宿者についての文献を読んだのですか、と問いたい。 私がいくら大東亜戦争や野宿者問題について書いても、偏見をもったままの硬い頭では理解してもらえないのでしょうか。
暖かい部屋のなかで、洗脳された偏見をもち、衣食住も十分ある方には、いくら事実を述べ伝えてもその洗脳を解くことは困難だと思い知りました。 戦争も野宿も同じ自存自衛の戦いです。
「寝袋支援は彼ら野宿者=浮浪者の自堕落な生活を助長することにつながる。 一人ひとりを拾い上げて生活保護を受けさせ住宅扶助を受けさせるべきである」ともその方はおっしゃる。 彼らは物乞いをするような浮浪者では決してありません。 生活保護を受ける方が働くこともせず国に頼って生きる、実質的な浮浪者と思います。
今年も毎週50個ほど寝袋を配っていますが、例年に比べて路上で寝ている人が少ないと感じます。 釜が崎の支援関係者に聞きましたら、どうも「65歳オヤジ狩り」が行なわれているらしい。
釜が崎の何十軒もの宿泊1000円のホテルの客が激減して存亡の危機にある。 その打開策として生活保護を受けられる65歳以上の野宿者を探し出している。 その人々に生活保護を受けさせて、毎月入ってくる生活保護費を宿泊家賃代として取る方法を考えだした。
大阪駅前の炊き出し現場にもそれらしき若者の一団が「年寄りはいませんか」と聞きに来ていました。 私たちには生活保護を必要とする人を探して救い出す仕事をする時間的な余裕はないのです。 ホテル関係者がそれをしてくれているなら、彼らにそれを任せざるを得ないのです。 高齢野宿者がそれで少なくなれれば私たちの寝袋配りの数も少なくてすみますから。
野宿者の多くは野宿しながらも、働いて何とか自立しようとしています。 お上のお世話にはならないという誇りを持っている人もいます。 彼らは働く意欲はあっても仕事がないので野宿せざるを得ない人々です。 早く仕事を見つけてやってほしい。 そのために自立支援センターに順番待ちで入居して、正規の仕事にありつけている人もいます。
毎日朝早くからアルミ缶やダンボール、雑誌集め。 また野宿者仲間からの紹介で道路歩行者数調査員、縁日の屋台の売り子、終夜の入場券や列車チケット取り番などの仕事をしています。 長く仕事がないと生活が乱れて人間としての意欲がそがれてしまいます。 長く仕事がない状態が続けば精神を病んでしまう。
野宿は自堕落が原因ではなく仕事がないことによって自堕落になるのです。 数ヶ月以内に仕事に復帰させないと死んだ目をもつ人間になってしまう。
毎日の通勤、同僚との会話、仕事での生きがい、目標をもって働き達成感を味わう、社会への貢献をしているという誇りなど。 仕事には人間の生命力を高める機能があります。 それが失われた時には人は人でなくなってします。 定年退職した人が早くボケてしますのはそれが原因しています。
「教師は労働者だ」という日教組やマルクス経済学者がいうような「仕事は労働と賃金を交換している」そんなものではないのです。
生きがいは奉仕の中で育まれ
「女性の野宿者が少ない理由は女性は努力しているが、男は自堕落であり野宿は自業自得である」ともその方は言われる。 この方は事情をご存知でない。
女性は男に比べて親戚との関わりが多く救いの手が多くある。 また飲食産業などで働ける機会が女性の方が多い。 まあ女性の野宿はレイプの危険があるため命がけである。 民生委員や行政、親切な人などが救いの手を差し伸べて救い上げている。
今、野宿をしている女性のほとんどはそのような救いの手を拒む精神を病んでいる人が多いのです。 サラ金の取立てを逃れるために妻と離婚し家族と別れ、自分1人が犠牲になって野宿になった人も多くいます。 むげに男だけが自堕落な無責任人間だとは言えません。
今の野宿者問題は政府の責任であるとする「ホームレス自立支援法」が最近できました。 日本経済の日陰にいた日雇い労働者の将来の生活に対する行政の施策が失敗していたことを認めたのです。
現在のニートやフリーターの若者も将来の野宿者予備軍です。 今は親と同居しているが、将来親を失った彼らは家や親の扶養を失い野宿生活に転落します。 この将来起こるはずの現実に早く対処しなくていけない。 救済や自立支援の準備を行政がしない限り、また高齢肉体労働者が野宿に転落したのと同じ轍を踏みます。
イギリスなどではとうの昔に野宿者に対して社会保障制度を適用させ自立させてきました。 また民間人やボランティア団体、教会、企業がホームレスに食や宿を与えて支援してきました。 その主役は中高年の女性たちです。 いつでも誰かのために働く奉仕精神を彼女たちは持っています。
そしてその奉仕活動が彼女たちに「人に必要とされているという励み」を与えて生きがいを生んでいます。 キリスト教精神の「隣人を愛する」姿勢が、中高年層に対して野宿者支援によって逆に、生きる励みを与えられています。
イギリスでは海外からの移民や文盲の人が何百万人もいて90年代には10万人以上のホームレスがいました。 国はホームレス法を作り収入や家の支援をしてきてホームレスは激減してきました。
日本はイギリスに比べて国民の質も高く野宿者の数も少ない。 それにも関わらず救済しようという積極的姿勢が民間も行政にも見られない。 イギリスの支援関係者は「日本では救済を求める人に助けが行かないのは、常に我がことの事で両手のふさがっている人々が日本にはあまりにも多いからだ」と言われます。
こんな社会では青テントが街中に続々と増え続け、弱者はあんな目に会うという絶望が社会を覆い、若者は政府や国家に対する反感を生むばかりです。 国家が何もできないなら、将来の日本を背負う若者に夢を与えるためにも、イギリスのように中年が立ち上がってこの問題に関わるべきなのです。
英霊は徳なき国を望みしか
ある方が「ノーブレス・オブラージュ」という言葉を言っておられました。 ノーブレスとは「高貴の身分」オブラージュは「義務づける」です。 「高い身分にはそれ相応の義務が伴う」という言葉です。
ヨーロッパの貴族は、豊かな暮らしと特権を持つ反面、戦いの時には衆を率いて先に立つことを義務としていました。 いざとなったら命がけ。 戦死率は庶民よりも貴族の方が高かったといいます。 転じて「上に立つ人は相当の倫理や社会的責任が求められる」という欧米諸国の基本的道徳観になりました。
選ばれた人間には大きな責任があります。 忠考・信義・節操・廉恥・礼儀を重んじる武士道に近い考え方です。
この言葉は、公のために尽くす気持ちを貫き、行動している人が評価されるという意味です。 自己中チューな発想を控え、公の意識を持ち、期待と尊敬の念を与える者としての自覚を上に立つ者には要求されているのです。
また世界は豊かな社会のリーダーとして日本に対してその義務遂行を期待しています。 しかし日本国民には世界の将来を託されているという感覚がなく、どうにでもなれという無関心が蔓延しています。 日本は徳のない国家に成り果てました。
日本は貧しい時代がずーっと続いて多くの人が貧しく自分のことで精一杯でした。 しかし日本は豊かな国、強者になったにもかかわらず未だに貧しい国、弱者の発想をしています。 勝者が弱者に手を差し伸べるのは欧米では社会的義務です。
自分たちより貧しい人々や国々を支援するのは、豊かな者として当然の社会的責任をもちます。 豊かな先進国の仲間入りを日本はすでにしているのに、まだ貧乏根性で、貧者救済の社会倫理感がまだ身についていません。
大東亜戦争では貧しい植民地を解放しよう、また人種差別を打破しようと大国日本は西洋列強と戦ったではないですか。 その自らを犠牲にしてでも貧しい人々を救おうとする犠牲的精神が今は失われています。 先進国の中で日本だけが一般人も行政も弱者救済意識が低く遅れているのです。
戦後教育の中に道徳的宗教的教育が盛り込まれず、思いやりや慈悲の精神が国民の心に育まれる機会が少なかったためです。 道端に倒れている野宿者を自堕落な人間と見なして無視する風潮が生まれたのは当然です。
私が日教組や左巻き文科省官僚を非難するのは、野宿者問題でも感じることがあったためです。
今回は保守系の先輩からの批判があって野宿者問題についてばかり書き、この方の趣旨と異なる議論をしたかも知れませんが、改めてこれに考えさせられる機会をいただいて、この先輩に感謝いたします。
縁の花 トップサイトに戻る
縁の花村 トップサイトに戻る