いのちの風 549 
平成20年9月1日(月)発信 石黒大圓(だいえん)

  
今回のテーマ 
ドラマ「霧の火」は反軍、反日の反戦映画/いのち以上の尊い価値を守る

 

 

いつもありがとうございます。 先週、ある生命保険会社主催の講演会「身近なデータから見た日本経済」を聞きました。 その銀行系のエコノミストによると経済が下降局面に入っているという悪い情報ばかりをマスコミは出してくる。 ところが多くの統計を精査したところでは違う結果が出ている。 今回の景気の落ち込みは短期であり、実際には年末頃には底を打って上昇に転じると予想されていました。
 
この方もマスコミは悪い報道ばかりを流すと言われていた。 私がいつも言っていますように日本のマスコミは日本人に日本への不信、不安を与えることが好きなようです。 同じことはドラマ「霧の火」の放映にも言えます。 社会的な心の秩序を崩壊へ向かわすことが左翼支配マスコミの戦略なのです。


  
【霧の火・反日・反軍・朝鮮贖罪ドラマ】


先週急に皆様にお願いしましたが、ドラマ「霧の火」はご覧になられたでしょうか。 危惧していた通りにロクでもないドラマでした。 乙女の死の扱いがわずかで、反軍、反日のイデオロギーに満ちた反戦映画。 まったくの駄作でした。

 

 

なお下記の YOUTUBE で「霧の火」全編が、今でもごらんになれます。

 

「霧の火−樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち−」
http://dramato.blog98.fc2.com/blog-entry-5837.html
  
三角のスタートボタンをクリックして、少し待ってから画面右上の
「霧の火−樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち−」の字を
クリックするとしばらくして始まります。

 

 

樺太の真岡電話交換手は12人のうち9人が死に、3人が生き残りました。 その生き残りの一人、年老いた中村瑞枝(市原悦子)と孫、香里奈(井上愛子)の会話がドラマ「霧の火」の中心の物語です。 電話交換手の乙女(戦争未亡人もいるが)9人が死に、青酸カリを皆に手渡しておきながら、瑞枝は爆風で青酸カリを飲めずに生き延び、卑怯者としての後悔が戦後ずーっと続いたという話です。

 

彼女の懺悔の物語と一応はなっていました。  しかし「いのちの大切さを伝えたい」という大きなテーマにしておきながら、内実は薄っぺらい。 特にドラマの前半はまったくの駄作。 主役の瑞枝と義父の山田という男との家族の泥仕合。 ソ連と左翼によって封印されてきた映画「氷雪の門」の方がよっぽど真実味があって、これには最初から涙がこみ上げました。

 

30年前にソ連の妨害で封印された映画。
「霧の火」の元になった映画です。
「氷雪の門」DVD
http://www.shinjo-office.com/hyosetsu.html
 

 

 

ドラマの後半には少し胸に来るものがありましたが(あとで書きます)、 全体的にこれは左翼が反戦映画として利用できるものです。 現代の感覚でつくられた反軍、反日の反戦映画です。

 

主人公の中村瑞枝の義理の父、元共産党員の朝鮮人が戦争が終わったとは言え、日本帝国主義を罵倒する演説らしきものを日本兵士たちの前でする場面など、共産党が大喜びの内容。

 

主役の義理の父が朝鮮人。 しかも瑞枝が日本帰国後に夫にした者も、別のまた朝鮮人。 左翼映画人と左翼テレビ人は朝鮮人が好きだ。 日本人に朝鮮への誤った贖罪観を植えつけたいのだろう。 映画「ホタル」では朝鮮人特攻隊員を描いて、左翼で反天皇主義者の監督はテーマをぼやかした。
 
瑞枝の母、中村カネは戦争未亡人。 樺太へ頼って移住していった相手は、かって本土で知り合ったらしい情夫で、内実は毛皮商人の冷酷な元共産党員の男。 ソ連のスパイでもあったようだ。 カネを演じる名取裕子は身寄りがない元水商売のような色っぽい女役で、結局は朝鮮人の情夫の子を宿し、最後は他の多くの避難民の人々同様に、母子ともにソ連軍の機銃照射を浴びて死ぬ。 名取のファンとしての私は、彼女にあんな妾みたいな役はさせたくなかった。

 

 

ドラマのなかで若い恋人と士官(中村獅童)が別れの握手をする。 そんなこと戦前に出来たのか? 時代考証がなっていないのではないか。 現代風に現代感覚でつくるから平和ボケのお粗末な映画になる。


そして最後のせりふが全てを台無しにしてしまった。

 

「なぜ、あの時生きようと言わなかったのか。 誰かが生きようと言えばみんなは助かったはずだ。 散華という美化の時代は終わったのだから、自由な時代のわれわれは何があっても生き延びなければならない」

 


自由は守る意志があって守られる。 生き延びるためなら、白旗を振って、命乞いをして、女を差し出して、侵略軍の意のまま、餌食になってもいいのか。 そんなこと、動物でもしない。

 

最後の最後には携帯の写真に写った亡き祖母に対して、孫の香里奈が「あれがサハリンよ」と呼びかける。 あれは「サハリン」でなく「樺太」と言うべき。 最後に樺太の名を消滅させていること事態が、この映画の謀略性を感じさせます。 見事に左翼テレビ人にやられた!

 

しかしお粗末なドラマでも、60年以上経って沖縄だけが日本での戦場ではなかった、と多くの人に知ってもらえたら、 沖縄左翼の大ウソがばれたこととになって、それはそれでよかったかも知れない。 すべては映画「氷雪の門」を封印したソ連が崩壊したから、このようなドラマが日の目を見ました。 次は日本共産党が崩壊したら、もっと面白いドラマや映画が日の目を見ることでしょう。

 

 

【いのち以上の尊い価値を守る】

 

今回のドラマで少し感動した場面について述べます。 

 

ドラマの主人公、瑞枝は電話交換所で死に切れず、外出してソ連兵に捕まり輪姦される。 そして簡易収容場所に連れて来られて義父に出会う。 義父はかって青酸カリを隠し持つ瑞江に対して「相手が好きな男と思って目をつむっていれば、露助に襲われてもすぐに事はすむ。 貞操なんて大したものじゃない。 自害などするな」と、どなった。

 

貞操や純潔といった目に見えない大切な価値よりも、目に見える命の価値の方が大切なのだ。 唯物主義者、この冷酷な共産主義者の朝鮮人、義父にとっては、それは自明のことだった。 彼の日ごろの態度のなかにスターリンを生んだ共産主義の姿が見えている。 ちなみに戦前の共産党員の多くが朝鮮人だった。

 

 

処刑場へ連れて行かれる義父を見て、彼女は立ち上がって宝石のついた指輪をソ連兵へ見せた。 その指輪をソ連兵に渡して義父を助けてもらおうと思ったのだろうか。 別れ行く義父に母の形見を手渡したかったのか。 だがソ連兵はそれを奪った。それは死んだかも知れない母の唯一の形見だった。

 

それを横で見ていた義父はソ連兵に向かってロシア語で「その子の母親の形見だ。 返せ」と詰め寄った。 それが、別れる間際にせめて、辛く当たっていた義理の娘と母に示したかった愛情だった。 しかしその行為はソ連兵にとっては敵対行為であり、死をまぬがれない犯罪だった。

 

結局、義父は処刑場に引き立てられて射殺された。 おとなしくしていればシベリア抑留ですんでいたかもしれない。 貞操や純潔には一べつもしない彼にとっても自分の子を産んでくれた大切な妻の忘れ形見を奪われたくはなかった。 奪われた後の娘のつらさが身にしみてわかっていた。 指輪はただ単に宝石がついた「物」としての価値以上のものだった。

 

 

  そこには妻の思い出、妻への愛という目に見えない大切な価値があった。 唯物主義者の彼にとっても命以上の価値あるものを選択して、自分の命は捨てた。

 

9人の交換手の乙女たちは身が汚させるという心の傷には耐えられず、自害した。 命より尊い価値あるものを守って、命を絶った。 瑞枝は命を取りとめたが、目に見えない心の傷を一生背負って生きなければならなくなった。 自分だけが生き残ったという負い目。 人生一生をかけてつぐなわなければならない罪意識。

 

 

目に見えない価値と目に見える命という価値。 どちらが大事か。 一方を失わなければならないとしたら、どちらを捨てるか。 乙女たちは命を捨てた。 しかし瑞枝は乙女たちの遺骸を見捨てて逃げて、命を取った。 そして罪におののきながら戦後を暮らした。 どちらが人にとって本当に大切なものなのか。

 

自分の命はなによりも一番大切なものなのか。  他人の命を救うために自らの命を投げ出す人もいる。 人の命がむざむざなくなるのを見るに忍びなくて、その人を助けようとして命を捨てる人がいる。 幼い子供を救うために危険をかえりみずに親が命を失うこともある。 一つの価値観、イデオロギーを、命を捨ててまで守ろうとする人もいる。

 

 

【目に見えぬ大切なものを捨てた日本】

 

命を超える大切なもの。 それを手放したとき、人は自己の尊厳さえ失うことがある。 生きる価値さえ見出せないことさえある。  義父が命を捨ててまで、彼を軽蔑していた瑞枝を守ろうとした。 自分の命を捨ててまで瑞枝がもつ尊い価値を守ろうとしたのだ。 このドラマで、ここに私は唯一感動しました。

 

祖国を失う。 我が祖国への誇りがなくなる。 他国の奴隷となる。 それを食い止めるために命を投げ出す。 特攻隊員も英霊も家族、地域の人々、祖国を守るために命を投げ出した。 

 

目には見えないが、尊い価値を取るのか、生きながらえる方がいいのか。 外国軍に占領され、占領国の言語を話させられることとなる。 それでも命の方を選んで「奴隷の平和」を手にしたいのか。

 

 

大切な心のよりどころを失っても、人は真に心の自由、平和を得られるのか。 不自由、不便を選んででも、誇りを取り戻そうとしないのか。 人の名誉、国の名誉のために人が死ぬのは馬鹿らしいのか。 「なぜ、あの時生きようと言わなかったのか。 誰かが生きようと言えばみんなは助かったはずだ。 散華という美化の時代は終わったのだから、自由な時代のわれわれは何があっても生き延びなければならない」とドラマでは最後に言っていた。

 

自由を得て、命を得て、生き延びることで、かえって瑞枝のように心の自由を失うということもある。 生きて、辱めを受けて、それでもその方がいいのか。 散華とは花と散ることだ。 人のために命を投げ出す美しさだ。 与えられて当たり前の自由、それなどいつかは失われる。 自由は自明のことではない。 自由は勝ち取って得られるものだ。

 

 

このドラマの演出家にはそこが見えていないのだ。 それが非武装中立主義者がたどる「奴隷の平和」「奴隷のまやかしの自由」なのだ。 小さな自分の命を捨てて、大いなるいのちの中に永遠に生きる。 私はその方を選びたい。

 

                                                                (完)

 

(縁の花情報)

          いのちの風通信  縁の花支縁サイト

          縁の花 トップページに戻る

          縁の花村 トップページに戻る