いのちの風 特別号
平成20年9月16日(火)発信 石黒大圓(だいえん)


今回のテーマ 
「日本捕虜志」人の心のともし火は消えず



いつもありがとうございます。 最近インターネットの愛国保守のメーリングリストで知った感動的な「日本捕虜志」をご紹介します。 

日本の国民的作家、長谷川伸氏をご存知ですか。「瞼の母」(番場の忠太郎)「一本刀土俵入」「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」などの股旅物で有名な大衆文学の雄といわれた作家です。 彼の作品のなかに少し異質な「日本捕虜志」という作品があります。 この作品は昭和三十一年第四回菊池寛賞を受賞しました。 


戦後アメリカ占領軍は日本の国民に対して、いかに日本軍は捕虜に対して残虐な行為をしたかと宣伝工作を行いました。 この理不尽な宣伝に対して長谷川伸は義憤を感じて、この「日本捕虜志」を書き、占領軍司令部に抗議をしたのです。 

彼は日本人のなかにあった「人への情け」が戦争のなかでも失われていなかったことを「日本捕虜志」に書きました。 そして日本人の名誉回復を期してアメリカ占領軍に訴え、無言の抵抗を試みたのです。 


日本人には古来より弱者への哀れみのまなざしがありました。 長谷川伸の股旅物や人情ものの小説にそれが読み取れます。 彼の小説やこの「日本捕虜志」は、日本人のDNAの底にある、その忘れられつつある貴重な魂を思い出させてくれます。 

彼は日本人を愛し、日本人の良さを忘れるな、誇りを捨てるな、と訴えています。 日本人に見捨てられつつある宝を失うなとの警鐘がこの「日本捕虜志」にはあります。 


この本は占領下で米軍に従順に従っていた日本国民には無視され、結局彼が自費出版しました。 そのために今はほとんど手に入ることができません。 幸いインターネットでそのなかの一文を探すことが出来ましたので、転載させていただきます。 

ここには戦時中なれど、敵味方を超えた心温まる情景が浮かび上がってきます。 テレビドラマ「霧の火」に出てきた「青酸カリ」の話も出てきます。 非常に長い文章ですが、お読みいただけたらありがたいです。



『心の灯火は消えず』「日本捕虜志」長谷川伸

日本が降伏した直後シンガポールに二木可南子という20歳になる女性がいた。 東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とシンガポールの医薬部隊に配属された。 可南子さんの父、二木忠亮はイギリスのロンドンで個人経営の商店を営んでいた。 可南子さんはロンドンで生まれ、ロンドンで育った。 可南子さんの母がロンドンで亡くなったので、父は娘を連れて日本に帰った。

やがて戦争が始まり、父は徴用され、大尉相当官の英語通訳を命ぜられ、マレイ半島の攻略軍に配属された。 可南子さんも徴用されたが、父のいるシンガポールへと条件をつけたのが、聞き入れられて医薬部隊に配属されたのである。

医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と薬剤の中佐と主計少佐など6人いた。 そして徴用の技術者が600人いた。 女性は可南子さんのほかに3人。 いずれも英語が書けてタイプが打てた。 ことに可南子さんの英語は格調が高かった。


部隊としては接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも4人の女性に残留してほしかった。 しかし接収に来るイギリス人がすべて敬虔で紳士的とは限らない。 結局一人ひとり説得することとし、可南子さんには軍医官が当たった。

軍医官は勇気を奮ってこう言った。 「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」 「喜んで残留いたします。」 軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんはそう答えた。


「え?」 「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」 「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」 可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていた。 「ええ、ですから残留を喜びます。 父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。

父は消息が絶える少し前に言いました。 『父と子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね、 もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。 いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』と。」



「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。 お願いします。」 「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき、父が突然そう言いました。」 「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのですか。

二木さん、もう一つ、人すべてが善意を持ってはいない。忌まわしい心を持つものもあるのです。 僕は、いや僕たちはあなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために死にます。 これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」

「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」 襟の下からチラリと見えたのは青酸カリでした。 軍医官が唇をかみ締めて嗚咽を耐えたが、ついに咳を一つした。 それは咳ではなく押し殺したしのび泣きだった。 「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。・・・」


【誇り高く 凛と咲きにし 大和なでしこ】

9月1日キング・エドワード病院にイギリスのハリス軍医中佐一行がやってきた。 4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見ていた。 戦車隊に先行し、イギリスの武装兵300人ほどがやってきた。 ハリス中佐と老紳士が印象的だった。 老紳士は医学博士グリーン氏だった。彼は穏やかなまなざしで言った。

「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。
日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。 皆さんはそうさせてくれますか・・・」と、にこっと笑った。


ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見された。 グリーン博士は激しく怒った。 「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。 私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい。」 可南子さんは、軍医の意を受けて弁明をした。 芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟の数々、新田義貞が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼を切り妖魔をはらった刀などの伝説の数々を。

日本の言葉で昼行灯という言葉がある。これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいう。 一方マレイ人の言葉では、白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいう。 人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずとユーモアを交えて可南子さんは説いた。

苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうにした。 時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞いた。 グリーン博士はロンドン生まれだった。 可南子が席につくと、グリーン博士は言った。 「発見された日本刀は直ちに捨てます。 日本刀を捨てたものの追求はやりません。」



軍医たちは語った。 「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。 あいつが上村美保江さんに失礼なことを言ったのさ。 すると彼女は『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。 後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうだ。そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」

「それはね二木さんが教えたんだ。 降伏直後三人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。 だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。 でもね、イギリスの将校がグリーン博士を訪ねたとき、その3人は階段で会えば、どうぞ先にと譲るけど二木さんは決して譲らないね。 

僕は何度も見ているよ。 あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。 国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね。」



なお、グリーン博士がかくも寛大だったのは。 1942年イギリス軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士も捕虜になった。 監獄はひどかったが、やがて日本軍が敵と味方を一つに見て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞いた。

そしてたびたび監獄に来て私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈りものをしてくれた何人かの日本人がいた。 自分たちが生き延びたのはこのお蔭で、いつの日か報いたいと語り合っていたのである。

『わたしはチャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。 わたしはこれに答えなければならない。』と。」 雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、カンニング博士がくるという噂がたった。
グリーン博士は、捕虜の傷心に気がついてこう言った。



「後任のカンニング博士は立派な人物です。 カンニング博士が来られたら、わたしはここにいなくてもいいのですが、皆さんの前途を見届けてからロンドンに帰りましょう。」

医学官たちそして可南子さんは驚いた。 帰還を見届けるといっても、いつになるか分らない。 2年後か、3年後か。 グリーン博士の更迭に心配したみんなの心が変った。 ぜひ任務が解け次第、ロンドンにお帰りください、私たちはあなたに毎月手紙を書きますからと。 「そう言っていただけるのは感謝します」 とグリーンは承諾しなかった。



【神の如く 捕虜に尽くしし 日本兵】

ある日、カンニング博士が着任した。 残留60人の日本人の名簿を博士に提出した。 前日、可南子さんがタイプしたものである。 グリーン博士がその名簿を読み上げた。 「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」 「おう、フタキ。フタキですね。 グリーン博士!」 「そうです。カンニング博士」

「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」 まもなく二木可南子さんが呼ばれてこの部屋に入ってきた。 カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視した。 「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」と可南子さんは毅然として答えた。

「あっ、おかけください。 ぶしつけに見つめて大変失礼しました。 私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。 でも見出しえませんでした。 あなたの家は日本のどちらですか?」


「東京です」 「東京にはフタキという姓は多いのですか?」 「珍しがるほど少なくはありません。」 「タダスケ・フタキを知りませんか?」 可南子さんの心は胸打ったが、声に変化はいささかもありません。

「私の父です。」 「おう」 「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」 「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です。」

「父です、確かに。」 可南子さんの頬が赤く染まった。 「あなたはあの人の娘か。」 「父をご存じですか?」 「忘れるものですか。」 「父は生きていますか?」 「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」 カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります。」とささやいた。



カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていた。 200名の捕虜はそこから連れ出されてタイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされた。 その時の捕虜係通訳が二木だった。

二木は捕虜の辛苦をます生活の中で献身的につくした。 病人やけが人、衰弱者があるごとに、二木はできるかぎりのことを尽くした。 捕虜たちは二木を神の使徒ではないかと噂しあった。 二木は長期間捕虜達と一緒だったが、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知らなかった。


カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会したが一向にわからなかった。 グリーン博士は約束を守って、任務が終了しても日本の捕虜の前途を確認するためシンガポールにとどまっていたが、あるときやってきて 「この雨季が終わったら、皆さんの帰還に私が祝福の手を振る時がきますよ」と告げた。

すざましい雨が通り過ぎた後、2月中旬、カンニング博士が広いホールに飛び出してきて 「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」と言った。 可南子さんが姿を見せると 「カナコ、お父さんは生きていたよ。 妻から電話で知らせてきた。 グリーン博士も電話で知らせてくれた。」 そのとき、可南子さんは深く微笑んだ。


後でカンニング博士はその微笑を東洋の神秘の花とたたえたそうである。「カナコ、お父様はフィリピンにいた。 アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」  これを聞いて可南子さんの眼に涙があふれてきた。 可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。

たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり
            りんと気高く たじろぎもせず

                        (残りは次の「いのちの風」551に)

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