いのちの風 bU15―その1
平成22年12月23日(木)発信
石黒大圓(だいえん)
【今回のテーマ】
映画「442 日系人部隊 アメリカ史上最強の陸軍」
これは第442連隊戦闘団およびハワイ100大隊という第二次世界大戦中の日系アメリカ人のみで編成された部隊の映画です。 欧州戦線に投入され枢軸国相手に勇猛に戦い、のべ死傷者数約1万という激闘を行いました。 そしてアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても有名でした。
442部隊の生き残りの80歳台の老人たちへのインタビューや当時の白黒の実写映画をまじえたすばらしい出来の映画です。
日本の真珠湾攻撃に始まった大東亜戦争により、日系人約12万人は敵性外国人として10ヶ所の強制収容所へ移送された。 大統領命令により強制収容された日系人たちは、アメリカ政府のあまりの仕打ちに怒り、傷ついていました。
アメリカ人であるにもかかわらず敵性外国人のレッテルを貼られ、人里はなれた荒野の砂漠に隔離された。 同じ敵国からの移民のドイツ人やイタリア人は隔離などされなかったのに。 完全に人種差別政策だった。 そのうえ息子たちを兵隊にとるなど、大半の日系人の親にとって理解できるわけがなかった。
日系人の息子たちは良きアメリカ人であることを証明したかった。 正義と自由は万人のものだ、と学校で習ったが、日系人は例外だった。 強制収容によって彼らは家、財産、名誉、すべてを失ってしまった。 しかし代わりに彼らがしたことは、自ら立ち上がって祖国アメリカのために戦うことだった。
日系人の若者1万6千人がアメリカ軍に志願した。 この強制収容という屈辱を打ち破るために、自らの命を代償に国家への忠誠を証明したかった。
歴史上、欧米各国と同じで劣性民族を扱う常として、日系人部隊は欧州戦線の最も激しい最前線に送られた。 イタリア、フランス、ドイツにおいて彼らは戦い続けた。 激戦に次ぐ激戦のすえ両親から学んだ大和魂で死をも恐れず突撃を繰り返した。
目の前の敵はドイツ兵だったが、真実の敵は誰だったのだろうか?
彼らはまさにサムライだった。 「GO FOR BROKE」(当たって砕けろ) 敗れるために進め。 死をもいとわないその勇敢さはアメリカ軍の中で恐れにも似た評判を呼び、100と442の名は文字どおりアメリカ全土を揺さぶった。 彼ら日系兵士の勲功を称える記念碑がロサンゼルスにある。
多くの若く尊い命を犠牲にしてまで、彼らがもぎ取らなければならなかったのは、日系アメリカ人に対する視線の変革であった。何を言っても信じてくれない「自分の国」に、流れる血でもって証明した忠誠心であった。
祖国のため、家族のため、自己の名誉のためにおのれを捧げる姿に感動すると同時に哀れを感じて、私は号泣しそうでした。
それにしても「442」とは「し、しに(死、死に)」を意味する。何という侮辱的、人種差別的な命名であることか。
「ジャップは死んでしまえ」の声が聞こえるようである。
【偏見と 戦いながら 名誉回復】
いち早く編成されたハワイ100大隊はイタリア戦線へ向かった。 そして大活躍して幸いにもローマ解放一番乗りになるはずだった。
しかし日系人部隊は後回しにされた。 後から来た白人部隊がローマ解放凱旋パレードを果たした。
どんなにか屈辱的な思いで後続部隊が凱旋する姿を見送ったことか。
黄色い猿の部隊の顔がローマ解放の先頭となる映像に乗って世界をまわることを拒絶されたのだった。
イタリアでの最後の戦いはフランスとの国境の高い山脈の防衛線だった。
2万人の白人部隊が半年間かかってできなかった、その激戦地を彼らはたった32分で陥落させた。
急な斜面を深夜に這いつくばってよじ登る奇襲作戦により、一気に敵陣地を攻略したその勇気と忍耐は賞賛された。
彼らは人種蔑視・差別とも戦いながら任務以上に戦い、アメリカ陸軍史上最高の栄誉の歴史を刻んだ。 獲得した勲章の数は兵士個々人のものを含めると優に3万個を越えた。
こうしていわれなき人種差別から名誉を回復してきた。 そしてアメリカ在住の東洋人への偏見も日系人の奮闘により徐々に薄れていったのです。
その陰でこの部隊の死傷率は驚くほど高かった。
その激闘ぶりは死傷率314%という数字が雄弁に物語っている。 もともと1300人程度であったハワイ日系2世第100大隊は、900名以上もの死傷者を出して、米本土の日系人第442連隊に編入。 その後442部隊は680名が戦死、67名不明、9486名が戦傷。
さらに普通なら死傷者が多い部隊は撤収するのが軍隊の常だった。 しかし彼らは玉砕に近い「バンザイ突撃」さえ敢えて行ない、
日系人としての誇りと祖国アメリカへの忠誠心を示していった。
フランスのブリュエールの森の中で敵中孤立したアメリカ州兵テキサス大隊の救出は2万人の米軍によって何度試みられたが失敗に終わった。 しかし442部隊は激闘のすえ4日間かかって救出した。 211人のテキサス兵を救うために、日系兵は800人以上の死傷者を出した。
この戦いはフランス人を感動させ、戦後も日系人の勇気と栄誉を称える式典が行なわれている。
(その2へつづく)