いのちの風 bU15―その2
平成22年12月23日(木)発信
石黒大圓(だいえん)
【今回のテーマ】
映画「442 日系人部隊 アメリカ史上最強の陸軍」
(その1からのつづき)
高地の上からドイツ軍は、次々に登ってくる442部隊を次々に機関銃で銃撃し兵は次々に倒れていった。
しかも砲弾で炸裂する木々の鋭い木片が兵隊の体を刺し貫いた。 その絶望的な戦いを「バンザイ突撃」を次々に敢行して攻略したのです。
この戦いはまさに膨大な死傷者を出しながらも不可能な戦いを征した日露戦争での203高地の激闘に比すことができる。
奇襲作戦やバンザイ突撃は不思議なことに海をへだてた日本軍も敢行していた。 そして日本軍は世界最強の軍隊として連合軍に恐れられた。 この日本人魂のDNAというのは環境がかわっても受け継がれている。 だから白人にはできない事が日本人にはできたのです。
この作戦後にダールキスト少将が閲兵した。 この時わずかしか集合しなかった442連隊を見て「部隊全員を整列させろといったはずだ!」と不機嫌かつ乱暴な言い方をした。 その言い草に連隊長代理ミラー中佐は少将を睨みつけて「目の前に並ぶ兵が全員です」と答えた。
集まったわずかな兵以外はすべて死んだか、病院へ搬送されていた。 それを聞いて将軍は絶句した。
【442 彼らのおかげで 今がある】
帰国後も「人を殺した、殺される」という悪夢にうなされる日々が続いた。
戦争による精神的後遺症(心的外傷後ストレス障害、PTSD)とも彼らは戦後、戦ってきた。
これによって人生を失った人々もいた。
しかし大部分の日系人帰還者が精神的におかしくならずにすんだのは、地獄のような辛い時にでも楽しいこと、善いことに気持ちを向けていたからだ、と精神科の医師が言っていました。
当時の純粋な日系人の心には家族への深い思い入れがあって、その団欒の温かさをいつも求めていたので地獄の中でも、その楽しい思いが彼らの心にはかなり強く残ったのではないか。
また日本人のDNAの中には逆境の時に発揮されるプラス思考や武士道精神、大和魂があるから強かったのではないか、戦後の復興のすごさもこれと思います。
名誉、恥、辛抱、努力など、親が身をもって教えた日本的価値観によって育てられた日系人が見せた勇気と忍耐。
日本民族のDNAは国が違っても引き継がれていた。 このDNAを今こそ日本人の魂から引っ張りだして日本再興に向けたいものです。
しかし名誉を与えられた戦争のことを元日系人部隊の人々は多くを語らない。
「多くの人を殺して何が英雄か。 先に死んだ友こそ英雄である」と語っている。
息子が父親に戦場に行くと言ったら「ばか者!」と言われると思ったが、父は「がんばって戦って来い」と励ました言葉に、私の胸はかきむしられました。
当時の首相、東條英機は日系人に手紙を送り「日系人はあくまでもアメリカ人。 君たちは祖国アメリカのために戦え、私たちは日本のために戦う」と励ました。
三国同盟を結んだ松岡洋右もアメリカでの講演で同じように語った。 ともに武士道の極みです。
戦後日本人が食料飢餓で3分の1が餓死に直面していた時に、トルーマン大統領は「日本に食料を補給すべし」と命令を発した。 442部隊がいなかったら欧州戦線で白人兵士はなお100万人の犠牲を強いられたであろう。
彼ら100万人の命を救ってくれた恩人だった、という思いが「日本人を救え」という感情にアメリカ人を突き動かせたのです。
戦後の日本国民はその多くの若き日系2世たちのしかばねの上に生かされてきたことを知らない。 我々はその日本人同胞が与えてくれた恩義を終生忘れてはいけないと思う。
一方朝鮮・韓国の在日の人々は差別に対して忍従して、良き行動で身の潔白を晴らそうという気が少なかった。 弱者や被害者として抗議の声を上げて権利を主張しようとする。 それに対して日本人は外国のように弾圧するどころか、逆にその声に利用された。
言挙げしない民族として、言論で日本人は戦おうとしなかった。 言い負かされて今の惨状がある。