いのちの風 bU56―その2
平成24年5月4日(金)発信
石黒大圓(だいえん)
今回のテーマ
米軍による日本兵捕虜や民間日本人の大虐殺/集団自決を生んだ「捕虜は虐殺」の恐怖
(その1からのつづき)
*「バターン・死の行進」への復讐も、すでに収容所段階から陰湿に行われていた。 フィリピンのルソン島にある第一捕虜収容所では、日本兵捕虜にはほとんど食事を与えず、一万二千人もの人たちが栄養失調で死亡している。
*捕虜だけではない。ブーゲンビル島のラバウル基地内にあった第八海軍病院は、国際法の規定によって屋根に赤十字の標識が描かれていたにもかかわらず、アメリカ軍機はこの病院を爆撃したのち、さらに銃撃まで加えて、医師、看護婦、患者ら千四百人を殺傷したのだった。
*また、沖縄戦でのアメリカ兵による住民虐殺は広く知られているところだが、この戦いに赴き撃沈された戦艦大和以下四隻の艦艇の乗組員たちは、海に投げ出されて漂流中、無抵抗な状態であるにもかかわらず、執拗な機銃掃射の凶弾に次々と撃ち殺されていった。
*オーストラリア軍も「日本兵の捕虜は取らない」をモットーにして、アメリカ兵とともにニューギニア戦線の至る所で、投降してきた日本人負傷兵を皆殺しにしたのである。
*ニューギニア近海でのビスマルク海戦では、米豪合同軍の空爆によって沈没した輸送船から脱出しボートやいかだなどで漂流している約千名の陸軍兵士に対し、米豪軍の戦闘爆撃機は銃弾を基地に補給しに戻ってまで、繰り返し機銃掃射を浴びせたのだった。
*この凄惨な虐殺の模様は飛行機に同乗した映画カメラマンによって撮影までされている。 白色人種にとって、日本人は"ハンティング"の対象でしかなかったのである。
【サイパンの 悲劇伝わり 沖縄自決】
●元陸軍大尉・田中徳祐氏の著書「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」には以下の文章がある。
「サイパン島には当時二万人の民間人がいたが、彼らの運命も悲惨を極めた。 米軍が作ったパナデルの飛行場へ三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕らわれの身となった。 幼い子供と老人は一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。
そして、無理やりトラックに積み込まれた。 積み終わったトラックから走り出した。 婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。 やがて、次のトラックも、次のトラックも走りだした。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかっていった。 この婦女子はその後一人として生還しなかった。
婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。 ガソリンがまかれ、火がつけられた。 飛び出してくる老人子供たち。 その悲鳴。「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきなさい」 あの投降勧告は一体なんだったのか。
常夏の大空をこがさんばかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。 断末魔があがる。 そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。
残虐な行為は壮絶をきわめた。 火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。 かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海に投げ込んでいる。
二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。 「ギャッ!」という悲鳴。 人間がまるで蛙のようにまたさきにされ殺されていく。 彼らはそれを大声で笑った。 不気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた」
●自由主義史観研究会代表で元東京大学教授の藤岡信勝氏によると
「戦後の日本では日本兵の捕虜が少なく死者が多いのは「生きて虜囚の辱めを受けず」として捕虜になることを無理やり禁じた「戦陣訓」のためであり、
その責任は挙げて軍国主義者だとされているが、リンドバーグ日記を読むとそうばかりではないことが分かる。
なお「戦陣訓」の成立は日清戦争で清軍が日本の捕虜に対し残酷極まりない辱めを与えたことに由来するとも言われてきた。 それに対して日本にも多少の虐殺は有ったかも知れないが、基本的には国際法を守り投降者は捕虜にした」
色々情報をお伝えしましたが、私は決して米軍および米国をいつまでも憎んでいるだけではありません。 今も親米の立場です。 そのことについては次回に書かせていただきます。
(完)
【リンクのホームページ】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
石黒大圓
541‐0056大阪市中央区久太郎町3−4−18
メールアドレス
gytkm947@ybb.ne.jp