いのちの風 bU57―その1
平成24年5月10日(木)発信
石黒大圓(だいえん)
【今回のテーマ】
「いのちの風」の発信目的/国の「いのち」/一人の「いのち」を超える「大いなるいのち」
いつもありがとうございます。 新緑の5月になりました。 今年の5月1日は妻の16回目の祥月命日で墓参りしてきました。 奈良の富雄と九条にある新旧の墓の周辺には白やピンクの皐月がきれいに咲き誇っていました。
空にはヒバリが高い声で大空に駆け上がり、近くの森ではウグイスやホトトギスも鳴いていました。
それで二句「天駆ける ヒバリ伝えよ 我が思い」 「皐月花 妻子顔寄す セピア色」
【目に見えぬ 祖国の恵み 尊けれ】
大学時代の知人から最近メールが来ました。 最近の私の通信がおかしいと。 アメリカによる日本軍の捕虜や一般市民へ虐殺の話が続いたからでしょう。 ご本人に了承の上で転載しました。
『石黒さん、この頃のあなたの通信、なんかおかしいよ。 あなたは何の目的でこの「いのちの風」を始めたの? 「命の尊さ」じゃないの? この頃の通信はそこからひどく外れているように私には感じられるのだけど。 戦争中の殺戮とか狂気はどこかの国に限ったことじゃない。
戦争は人を狂わせるのよ。 だからしたらいけないんじゃない! どこからこうした動画を入手するのか知らないけど、毎回毎回これでもか、これでもかという正視できないような残虐な動画(たとえ本物でも)をあなたの大切な通信「いのちの風」に載せるあなたの精神は大丈夫? 気を悪くしたらごめん。 でもなんか変よ!』
彼女からは「原発反対の1千万人署名への協力」のメールをいただいていましたので、私の意見を述べようと思っていました。 それで返事のメールを出しました。 それが以下です。
『「いのちの風」は確かに「いのちの尊さ」について自分の体験、野宿者支援などから学んだものを発信するつもりで立ち上げました。 しかし左翼が否定する「日本の戦争」の別の側面を教えてくれた「もう一つの戦争展」において「エルトゥールル号遭難」のビデオを見て愛国の思いが再度燃え上がりました。
共産党が政権を取れば日本は良くなると思っていた左翼の私はアメリカへ行って祖国日本に目覚めました。 しかし平成15年にこの戦争展に出会うまで、結婚、仕事、家族の死後の時期もノンポリでいました。
「私、あなた」の「いのちの尊さ」と同じように「国のいのちの尊さ」もバランスよくみるのが当たり前だと思い至りました。そして妻の死後2年目にオヤジ狩りにあって「目に見えない当たり前の恵み」にも目覚めました。
横にいる妻子、自由に動ける手足、家があり、毎日仕事があり、食事が食べられ・・・失って初めて知る有難さを知りました。 一瞬一瞬が恵みのなかで生かされている有難さを感じました。 そして一瞬一瞬、「国」の恵みのなかで生かされている有難さも感じました。
元全共闘の民主党の仙石氏や共産党など左翼は「国家とは暴力装置である」と思っています。 そうでしょうか。 国も失って初めてその「尊さ」を知るのではないでしょうか。 戦争に負けるということは国を失うことです。 祖国の言語、歴史、文化さえ否定される運命を甘んじて受けなくてはいかなかい。
日本にとっては国民統合、日本文化、伝統の象徴、である天皇陛下、皇室でさえ廃止される危険のあった敗戦でした。 それは戦争そのものより甚大な被害を日本にもたらします。 そのような国難からはかろうじてのがれられました。 しかし堕落した自民党、そしてさらに革命政権である民主党によって、いま日本は存亡の危機にあります。
異教徒を情け容赦なく殺戮する十字軍のような米軍によって日本人は殺されていきました。 これが白人相手ならこのような殺戮はなかったでしょう。 戦争に負けたらそのような被害を国民は受けるのです。 絶対に戦争に負けてはいけないのです。
一度の敗戦を経験しただけで「日本は悪い国でした」と自国を否定するような国は世界中で日本だけです。 何度も敗戦、勝利と繰り返しても自国と自国の歴史への誇りを捨て去る国は世界のどこにもありません。
日本が戦争を始めたからそんなことになった、という洗脳が戦後されてきました。 しかし戦争の原因は日本だけでしょうか。 当時の国際情勢を無視してあの「大東亜戦争」は語れません。 米中ソの国益だけを守ろうとした東京リンチ裁判による洗脳によって日本国民は黙らされています。 そんなことを最近の通信では書きたかったのです。
日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあります。 しかし今も中共、北朝鮮、ロシアは日本に向けて数多くのミサイルを向けています。 平和を愛する?周辺諸国へ向かって「平和、平和」と空念仏を唱えていたら平和はくるのでしょうか。
私たちはおのれの小さな「いのち」だけを大事に見ていていいのでしょうか。 「生活第一」「国民の幸せ」だけがすべてでしょうか。 それを保障してくれる目に見えない存在「国家」の「いのち」にも目を向けないといけないのではないか、とも私は「いのちの風」で主張しているつもりのです。
(その2へつづく)