「菊」の日記  
          2007年10月号

                 
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2007年11月01日

                     

菊の顔写真を、少し官能的に変更しました

ミクシイで掲載している菊の顔写真を変更しました。
プラットホームでしているバーチャルオフィスは、従来の菊の実際の顔写真です。

ピンクの菊は、変わりませんが、従来の菊の花の写真ではなくて、少し、官能的な写真です。

マイミクのジャスミンさんから送って頂きました。
ジャスミンさんが持っている菊の花のすてきな着物の柄を撮って頂いたものです。

ピンクのキクとブルーの菊が、絡み合っています。
少し官能的で気に入りました。
これからいろんな人のご縁が、結ばれる気をします。

この写真をずっと、菊の顔写真にするか、どうかは、分かりませんが、しばらくは菊の顔にしたいと思います。
よろしくお願いします。
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2007年10月26日
三国時代同盟のその後について
(武田・今川・北条・上杉・織田・豊臣・伊達・島津・・・・)  戦国時代同盟作成


  しかし、そんな三国同盟も、6年後の1560年、今川義元公が、桶狭間の戦いで、敗れたことで、おかしくなりました。跡を継いだ、嫡男、氏真は、武将としての力が乏しく、とても、今川家を守ることができませんでした。三河の徳川家康は、自立して、今川領、遠江を狙っています。信玄が、そんな情勢で、徳川家康と組んで、駿河を手に入れる決心をしました。

それで、1568年、武田軍が、駿河に侵攻して、今川家を滅亡させたことで、三国同盟は完全に終りました。成立してから、12年後の事でした。だけど、その為に、信玄は、嫡男、義信を自刀させています。その後、武田家は、北条家とも、戦うことになりました。徳川、北条、上杉と争うことになって、苦しい戦いをしなくてはいけなくなったのです。

だから、三国同盟を破棄することが、信玄にとってよかったのか、どうかは、今も分かりません。少なくても、駿河を手にするのであれば、徳川との約束を守って、遠江に侵攻するべきではありませんでした。信玄公も、過ちをしているのです。

 でも、それはすべて過去のことです。菊は、三国同盟がなくなった後、今川家が滅亡し、武田家と北条家が、激しく戦った過去も、その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下を取ったことで、霊界で仲直りして、今は、新しい三国同盟が結ばれていると信じています。

 何故なら、その後、武田家は、織田家に滅亡していますし、北条家も、豊臣家に滅ぼされています。戦国大名としては、存続していないのです。ただ、それでも、三家とも、江戸時代も、高家として家を存続することはできました。家系を守ることは出来たのです。

 だから、もう恨みはないと思います。今川義元公も、氏真では、どちらにしても、家を滅ぼしたことは、よく分かっていたと思うのです。ですから、三人の御霊は、善徳寺で会って、率直に話をして、三国同盟を結んだように、霊界であって、話し合って、和解していると思います。

菊としては、信玄公の御霊は、素直に、今川義元公御霊や、寿桂尼の御霊、北条氏康公の御霊に、頭を下げて詫びて、許しを乞うていると思いますし、三人の御霊も、許してくれたと思います。それだけの器量を持った人達だと信じたいのです。

いえ、それは、今川、武田、北条だけでなく、戦国時代に戦ったもの同士ということで、上杉、織田、毛利などとも仲直りしていると信じたいです。

 だって、今は、戦国時代ではありません。平成の時代です。しかも、下手をしたら、人類が全滅する可能性が高いです。戦国時代とは比較にならない、人類全体の存亡の危機です。そんな時に、争っていても仕方がないです。今は、戦国同盟を結んで、多くの戦国時代活躍した御霊さんが、力を合わせて、戦のない世界を実現させる為に、協力して頂くことが大切だと思いますし、きっとそうしていると思います。

 だから、前世、武田勝頼の魂の一部を持たせて頂いている菊のお役としては、それを、この世で表現することだと思います。そうすれば、目に見えない糸で、どんどんご縁を結んでくれて、力を貸して頂けると確信しているのです。菊なりのお役果たしたいと思います。

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2007年10月26日
第40回「三国同盟」 10月7日放送

 武田、今川、北条の三国同盟が結ばれました。教科書にも載る有名な事実です。武田家には、信濃で上杉謙信という強敵がいます。北条家も、関東で、上杉謙信と戦わないといけません。そんな両家、武田家と北条家が手を結ぶには、北条家と敵対関係である、今川家の了解が必要です。

そのためには、今川家も、北条家と争うことは止めて、同盟を結んで頂くことが必要です。そうすれば、今川家も、尾張の織田家とだけ戦うことに専念できて、上洛の道も、開くことができます。武田家の視点でみれば、ざっとそうなります。

 また、それは、今川家や、北条家の視点でみても、殆ど同じです。お互いに、敵がいる三国にとって、三国同盟は、大きな意義があります。三国同盟があれば、背後の敵を心配することなく、正面の敵だけに集中していたらいいのです。今から考えれば、子供でも分かる理屈です。

 しかし、そんな三国同盟ですが、なかなか誕生しませんでした。一度、敵対関係になって、争うことになると、なかなか手のひらを返して、得だから、戦はしない、同盟を結ぶということにはなりません。三国同盟も、簡単に誕生しなかったのです。

 それが、誕生したのは、皮肉にも戦でした。北条氏康が、駿河の今川の領地、河東地方に久しぶりに攻めて来た事が大きかったです。これで、今川義元は、慌てて、織田家との戦いを中止して、駿河に戻ってきました。武田も、同盟を結んでいる今川義元の依頼で、駿河に来ました。三人の武将が、駿河に集まったのです。

 そして、そんな三家をうまくまとめたのは、今川義元の軍師、雪斎だといわれています。雪斎が、三人の武将が、駿河に集まっている好機を捉え、うまく三国同盟に結びつけたのです。

 ですが、何故、北条氏が、この時期に、駿河に侵攻したかは、はっきりとは分かっていません。駿河の河東地方は、河越の野戦の前に、今川義元との和議によって、取られたまま、奪回はしようとはしなかったからです。北条氏康は、関東に、目を向けていて、駿河の今川家を攻める必要性がなかったからです。

 なのに、北条氏康が、攻めてきました。今川とは、河越の野戦の後、三方輪という講和ができていて、それ以降、戦はしていません。暗黙の了解があった感じなのに、北条氏康は、それをあえて破っているのです。

 菊は、それをさせたのは、武田家、信玄ではなかったと思います。信玄が、山本勘助か、誰かの献策で、北条氏康に根回しして、駿河を攻めさせたのです。それで、今川義元も、同盟の必要性を痛感して、雪斎の勧めで、三国同盟を決断したと思うのです。

 だから、もし、それが、真実だったら、三国同盟の真の立案者は、武田家ということになりますが、真相はどうでしょうか。ただ、この三国同盟は、今川義元、北条氏康と言う二人の英雄がいないと存在しませんでした。今川義元も、北条氏康も、ちゃんと時局が、分かるすばらしい人物だったのです。その事は、忘れないで欲しいと思います。

2007年10月25日
第42回 「軍師と軍神」 10月21日放送 
山本勘助の妻にありがとうございます


 山本勘助が、山本家を存続させる決心をしました。風林火山のドラマでは、鬼美濃こと、原虎胤の娘、リツを養生にする決心をしたのです。菊自身、それは、本当なのか、どうかは分かりませんが、山本勘助が、山本家を存続させる決心をしてくれたことは、本当によかったと思います。

 何故なら、このまま、山本家が、存続しなかったら、山本勘助の名は、この世に残らなかった可能性があるからです。山本勘助の名前は、甲陽軍鑑のおかげで、江戸時代までは、有名でしたが、明治になってからは、その存在自身、否定されていました。甲陽軍鑑以外の、武田家の資料には、山本勘助の名前が、一つもなかったからです。

 しかし、それは、戦後、信玄が、信濃の武将に、山本勘助という使者を派遣したという文面が発見されたことや、今までずっとひっそりと隠れていた山本家の屋敷や、山本勘助の墓が、見つかったことで、覆りました。山本家が、あったことが、大きな証拠になったのです。

 だから、菊は、山本勘助の子孫、山本家の御霊さん達にも、深く感謝しています。山本勘助は、もうすぐ、第四回目の川中島の戦いで亡くなることになるので、リツが、山本勘助と一緒に暮らした期間は、非常に短かったことになります。その後、当主がいなくなった山本家に、いろんな苦労があったのではないかと思います。特に、山本家は、その後、ずっと歴史に登場していません。

 徳川家康が、甲斐、信濃を領地にした時も、武士として、召抱えられていません。詳しい事は分かりませんが、多分、何人もの百姓を抱えた、有力な庄屋の道を選んだのだと思います。山本勘助の残した領地、八百貫文、(八千石)は、ものすごくいきたのです。本当に、よかったと思います。

 しかし、一つだけ、菊が、残念なことはあります。それは、風林火山のドラマでは、リツは、山本勘助の妻でなく、養女だということです。菊としては、やはり、まだ幼いといっても、原虎胤の娘さんには、山本勘助の妻にしてあげたかったです。

 というのも、山本勘助に、妻や養女がいたかは、よく分かっていません。でも、今川家で、仕官を探していた時は、独身だったはずです。それが、信玄の元で、山本勘助は、山本家を持つことができました。しかも、養子かもしれませんが、長篠の戦で亡くなっていますが、山本勘蔵という子供が、いたことは分かっています。
その事で考えても、信玄は、高齢で、片目、びっこを引いている、普通なら、女性が、寄り付かない山本勘助に、山本家を存続できるように、本当に暖かい気配りで、若い、綺麗な、しっかりした、ちゃんと身分もはっきりした、家臣の娘を、妻として与えたのではないかと思うのです。それが、今、山本家があることで、良く分かるのです。

 そして、山本勘助も、ドラマと同じように、主君、信玄に、心から尽くす為に、家族、妻や子供を、最初は持とうとはしませんでしたが、主君の命令ということで、結婚する事に、しぶしぶなったと思います。それが、板垣信方の娘とか、原虎胤の娘とか、いろんな説がありますが、菊としては、山本勘助は、甲斐に来てから、妻にも恵まれて、とても幸せだと思いますし、山本勘助は、軍師として生きる為に、妻子は持たなかったとは思いたくないです。菊は、山本勘助には、本当に幸せなまま、川中島で、戦死して欲しいのです。是非、皆さんと、一緒に、山本勘助の幸福を願いたいと思います。



  


2007年10月25日

菊の顔写真 ピンク、赤の菊に変更しています

今まで親しんできた、黄色い、大輪の菊の花、ミクシイでは、菊の顔にしていましたが、ピンクの大輪の菊の花の写真に変えました。理由は、花言葉にあります。

菊自身、菊の花の、花言葉調べたつもりでしたが、黄色い、菊の花言葉は、深く意識していませんでした。でも、今度、ジャスミンさんに、教えて頂いて考えてしまいました。

というのも、菊(黄)の花言葉は、「わずかな愛・やぶれた恋・高潔 」だそうです。
わずかな愛、やぶれた恋では困ります。それで、いろいろ考えましたが、ジャスミンさんの勧めで、ピンク、赤の菊の花にしました。

菊(赤)の花言葉は、「私は愛しています・愛・真の愛 」です。いろいろ調べましたが、これが一番、いいと思います。ということで、菊の顔写真、ピンク、赤の菊の大輪の花に変更しました。よろしくお願いします。

菊(きく) Chrysanthemum morifolium Ramat. var. sinense Makino

キク科

 菊は久しく香り豊かに黄色く咲く意味である久々、香薫、黄花草が由来とされています。菊の字は、けまりの鞠からといわれています。中国では、旧暦の九月九日を重陽と言って、菊花酒を飲んで邪気を払うという行事があります。

 西洋では、死者のための花とされています。死者の思い出や追憶として万聖節(11月1日)に使われるそうです。

 俳諧では、秋の季語です。菊の歌は万葉集には無く、古今集には詠われています。

 菊にまつわる話については、「花物語」を参照して下さい。

菊全般の花言葉は、清浄・高潔・私を信じて下さい・女性的な愛情・破れた恋・真の愛・逆境の中でも元気
    所縁の日は、10/1・10/14・11/3・12/9(いずれも誕生花としてOK)
菊(黄)の花言葉は、わずかな愛・やぶれた恋・高潔
    所縁の日は、10/12・11/3(いずれも誕生花としてOK)
菊(紫紅)の花言葉は、愛
     所縁の日は、12/13(誕生花としてOK)
菊(白)の花言葉は、真実
    所縁の日は、10/14・11/23(いずれも誕生花としてOK)
菊(薄紫)の花言葉は、直感・霊感
      所縁の日は、12/9(誕生花としての記述なし)
菊(紅白)の花言葉は、インスピレ−ション
      所縁の日は、12/9(誕生花としての記述なし
菊(赤)の花言葉は、私は愛しています・愛・真の愛
     所縁の日は、10/1・11/27・12/13(12/13を除いて誕生花としてOK)
菊(濃色)の花言葉は、私を信頼してください
菊(咲分け)の花言葉は、霊感・霊視
菊(ポンポン咲き)の花言葉は、うれしい夢
菊(日本)の花言葉は、女性の愛情
菊(イエローシューズ)の花言葉は、強運の持ち主
菊(金風車)の花言葉は、気高い笑み
菊(精興の誠)の花言葉は、透んだ心
菊(セイサム)の花言葉は、猪突猛進
菊(セイナナ)の花言葉は、あなたを思う
菊(精の山)の花言葉は、妖精の気分
菊(セラニー)の花言葉は、貴方を愛する
菊(千代風車)の花言葉は、不老長寿
菊(バレンシア)の花言葉は、勝利への執念
菊(レグラ)の花言葉は、思慮深い


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2007年10月25日
井沢元彦さんの「英傑の日本史シリーズ」
風林火山編  山本勘助


井沢元彦さんの本 英傑の日本史シリーズ」風林火山編を紹介しました。菊は、今、時々、この本を読みながら武田家の済度をさせて頂いています。この本では、山本勘助から始まって、合計、39人の武田家の武将が登場しました。その中には、高坂弾正、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春という武田家の四重臣のエピソードも紹介されていますが、それだけでなく、菊の知らない人物もいます。

この本を、何気なく開けながら、そのページで書かれている武将の事を思いながら、その武将にありがとうございますの感謝の波動や、冥福を祈ってあげること、菊の武田家済度です。これからも、菊のバイブル書の一つにして、続けたいと思います。

また、この本は、内容を見ても、本当にすばらしいです。菊自身、知っていることも多く書かれていますが、知らないことや、ハットすることも書かれています。是非、武田好きの皆さんには、推薦したいと思います。

そしてその中で、菊が、一つ、本当にハットしたのは、山本勘助のことでした。山本勘助は、甲陽軍鑑では、信玄の軍師として活躍したと書かれていますが、他に、山本勘助の名前が出てくる、武田家の資料がないので、架空説、本当は、実在しなかったのではないかと、研究者の間で、ずっと思われていたことは、有名な話です。近年、NHKの大河ドラマ「天と地」で、上杉謙信、武田信玄が、放送された時に、そのテレビを見た視聴の方から、山本菅助と、信玄が書いた文章が出てきたことで、その説は消えましたが、山本勘助は、軍師ではなく、ただの足軽大将、使い走りだった、山本勘助軽輩説が唱えられていたのです。

しかも甲陽軍鑑は、高坂弾正を書いたものを、甥の春日惣次郎が補訂し、武田家の家臣の子孫である、小幡景憲という人物が、江戸時代完成させたものなので、小幡景憲という人物が、大幅に書き換えたといえば言えます。菊自身、山本勘助軽輩説、否定はできないと思っていたのです。

しかし、井沢元彦さんは、そんな説を一掃してくれました。小幡景憲が、甲陽軍鑑を書いたのは、江戸時代の初期で、武田家が滅亡しても、信玄、勝頼に仕えた、その分家筋や、旧家臣は、まだ、たくさん生きていたというのです。

だから、この時期に、小幡景憲が、存在もしなかった山本勘助を登場させたり、ただの家臣だった山本勘助を、軍師として活躍させたりしたら、武田家の家臣が、黙っているはずがないと言うのです。それが、真実だから、武田家の家臣も、その事を聞いているから、甲陽軍鑑が、世間に広がるのを、当然のように認めたというのです。

これには菊自身も、納得しました。その通りだと思います。井沢元彦さんは、多くの武田家の研究者が、いろいろくだらないことを言っていたのを、一発で否定してくれたのです。これには、信玄、山本勘助と一緒に、生きていた武田家の御霊達も、祝杯をあげたと思います。本当に、井沢元彦先生ありがとうございますです。


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2007年10月25日
井沢元彦さんの「英傑の日本史シリーズ」
風林火山編紹介


井沢元彦さんが、「英傑の日本史シリーズ」風林火山編という本を書いています。発行は、角川学芸出版、定価は、1500円です。

菊は、全然知らなかったのですが、この本は、「夕刊フジ」に掲載(2007年1月5日―6月30日)の「井沢元彦の再発掘人物日本史 風林火山」に書かれていたものを、単行本化したものです。井沢元彦さんは、他にも、「英傑の日本史」 新撰組・幕末編、源平争乱編、信長、秀吉、家康編と書いていますが、菊は知らなかったのです。でも、難波の本屋さんで、たまたまこの本を見つけて、これは何か、武田家の御霊さんのご縁だと感じて、即座に買ったのです。

何故なら、井沢元彦さんが、作家としてデビューした頃、信玄と山本勘助を主人公とした、野望という小説を書いたことは、以前、紹介させて頂きました。菊が、今まで、ご縁を持ってきた、信玄関係の本の中では、一番すばらしいものでした。山本勘助と、信玄の関係を見事に表現されていて、この人は、天才だと菊は思ったのです。

しかも井沢元彦さんは、1992年から週刊ポストで、「逆説の日本史」を書いていますが、本当にすばらしいです。縄文時代から始めて、ずっと、今まで教わってきた日本史を、鋭い視点で捉えて、新しい真実を書いてくれていますが、菊は、それで、歴史に埋もれた事実が分かって、多くの御霊が、救われていると直感しています。本当に、すごいお役を、井沢元彦さんは、どこまで意識しているかは分かりませんがしているのです。本当にすごい人です。

また、そんな「英傑の日本史」風林火山編、すばらしいです。菊が、まず、感動したのは、武田家通の菊でも、知らない武将、夜襲の名手多田満頼とか、ドケチなトラブルメーカー曲淵小左衛門、人斬りマニアの今福浄閑といった人物の事までも、詳しく書いてくれていることです。きっと、武田家の為に、亡くなった御霊さんも大喜びだと思います。その上に、この本では、菊の知らなかった情報も、たくさん書かれています。

特に、最後にあった、「その後の武田家」では、武田遺臣で、徳川に使え、大名になっていた内藤帯刀という人物が、武田家の血統を絶やしてはならじと、なんと一七歳の娘を、七0歳の武田信正の妻にしたそうです。その二人の間には、男子が生まれ、その子が、旗本として採用され、後に、高家(将軍家儀典係)となり、この高家武田家の子孫は、現在も健在であると書いていましたが、その事は知りませんでした。


というのも、菊自身、武田家が滅亡した後も、次男、龍宝の子孫は、徳川家の元で、保護され、特に、徳川家の2にもなった大久保長安の元で、武田信道も大切にされていたのが、家康が、死んだ後、大久保長安は失脚して、それに連座する形で、武田家信道も、伊豆大島に流され、苦労して、やっと子供の、武田信正が、恩赦で許されたことは知っていました。

でも、まさか、武田の遺臣、内藤が、十七歳の自分の娘を、七十の信正にと嫁がせたことは知りませんでした。そんな武田遺臣の人達の支えで、今も武田家が続いていることを改めて認識できました。すばらしい本です。きっと、これを多くの人が、無意識で、読むことで、武田家の御霊が救われていると思います。済度の本なのです。是非、皆さんも、ご縁があれば、読んで欲しいと思います。

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2007年10月20日
大河ドラマ「姫の死」 10月14日放送

歴史的に見ても、信長の妹、お市の方や、その娘、淀の方と同じように、一つの時代を作ったという、戦国時代の美人の一人に数えられる程の有名で、天皇家と同じように、日本の神話から始まる、由緒ある家柄で、気高い高貴な女性、諏訪御料人、由布姫がなくなりました。菊が、前世、武田勝頼の魂を一部持つのであれば、菊のお母さんになる人です。心から、ご冥福をお祈りします。

またドラマで、由布姫が言った諏訪大明神の導きで、再び、転生されること、心から願いたいと思います。いえ、女性として、転生されたこと、おめでとうございす。今、菊とも、ご縁があります。^^

しかしそんな由布姫は、武田勝頼が、まだ幼い時に亡くなっています。それで、武田勝頼自身、そんなに、母の記憶はなかったといわれています。ましてや、菊自身、前世の記憶は、まったく何もありません。

だから、菊自身、正直言って「姫の死」のシーンを見ても、特別に、何かを思い出したとか、何かを感じたということはありません。それは、皆さんに、知って欲しいと思います。ごめんなさい。

ただ、由布姫は、今までの武田信玄や、風林火山のドラマや小説では、父親を殺した武田信玄公と激しい恋愛をしていたと書かれていました。由布姫は、信玄を憎みながらも、心から愛していたという風に描かれていますが、そんな事はないと思います。

菊自身気、由布姫は、信玄公を許しましたが、愛してはいなかった。心の中では憎んでいた。そんな感じではなかったと思います。二人は、愛し合うというところまで、行かなかった気がします。もし、信玄が、諏訪を侵略して、父である諏訪頼重を殺すことがなかったら、二人は、愛し合うこともできたかもしれませんが、その事は、二人の間から、消えることはなかった気がします。

それで、由布姫は、美人薄命といいますが、あんなに若くして亡くなったと思います。これだけは、誰もが認める事実なのです。若くして亡くなったことが、由布姫が、幸せでなかったことを証明していると思います。


ですから、由布姫は、病気だったのか、新たな説である、精神の病による、諏訪湖で、入水自殺したのかは、はっきりとは分かりませんが、一言言えるのは、ストレス、心の病が、由布姫の若い命を奪ったと思いますし、由布姫は、武田家では、ずっと孤独だったのだと思います。

だけど信玄公や、武田家の人々が、そんな由布姫の為に、努力したことは間違いないです。信玄公は、罪滅ぼしの意味もあって、優しくしたと思いますし、愛そうともしたと思います。正室の三条夫人も、信玄公の母、大井夫人も、優しく、心遣いしました。諏訪家や、武田家の家臣団も、心を砕きました。これが、菊が、武田家の記憶がある、前世の武田仲間の人から聞いた話です。その思いは、由布姫にも通じて、由布姫を、武田家を、憎みながらも、武田を許して、勝頼を生んでくれたのだと思います。

そして今、そんな中で、生まれた武田勝頼の魂を持っている菊が、母である由布姫の御霊に伝えたいことは、最後まで、心配してくれた武田勝頼の将来、この子には、不幸になって欲しくないといってくれた願いは、結果的には叶えられませんでした。兄である義信公の代わりに、信玄公の跡継ぎなりましたが、武田家をまとめられず、家臣に裏切られて、最後は、天目山で、妻や子供と一緒に、自害しているからです。残念ですが、不幸だったと思います。

しかも、武田勝頼は、諏訪家の出だということで、甲斐の武田家臣団からは、侮られていたといいます。きっと、自分は、何故、武田家から、本当に受けいられないのだろうかと、思ったこともあったと思います。

でも、菊は、その記憶はまったくなく、今は、前世、武田勝頼の魂を一部、持っているかもしれないことに誇りを持っています。その時の、記憶はありませんが、何故か自慢です。武田家の当主として、勝頼公として生きられたことで、きっと楽しいことも一杯あったと思います。あの信長、家康と戦ったのです。武家としては、本望だったと思います。

だから、菊は、今、母である由布姫の魂に言いたいことは、武田勝頼として、生んで頂いてありがとうございますということです。心から感謝したいと思います。お母さん、諏訪御料人、武田勝頼を、この世に誕生させて頂いてありがとうございます


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2007年10月20日

縁の花 第246号「白山菊理姫と和泉国(黄泉の国)済度」が誕生しています。

縁の花 第246号「白山菊理姫と和泉国(黄泉の国)済度」が誕生しています。菊が何故、菊という名前になったのか、大阪の南部地方、泉大津市の助松に住んでいるのか、その不思議なご縁について書かせて頂きました。

また、そんな菊が、白山菊理姫神として、今後、地元の和泉で、やっていきたい活動も書いています。是非、よろしかったら、菊の地元に来て下さい。一緒に、和泉の神々や、御霊さんに、いろんな波動を送らせて頂きたいと思います。

 縁の花 第246号「白山菊理姫と和泉国(黄泉の国)済度」
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2007年10月18日

和泉国、黄泉の国済度は、
菊のロマンの一つです。


   和泉国、黄泉の国済度について、いろいろ書いてしまいました。これは、菊のロマンの一つです。ただ、これは、菊が、いくらしたいと思っても、一人でしても意味はありません。もし、参加してくれる人が現れなかったら、この企画は、神々、御霊さんからは、支持を受けないということで実施することはないです。いつまでも、菊の思いの一つとして、心の中に残したいのです。

ただし、菊自身、これからは、できるだけ、ご縁があったら、和泉市の観光地、一人で行って、どんなところか、見たいと思いますし、助松から、曽根神社、池上曽根史跡遺跡公園、黒鳥山公園のルートは、仕事の行き帰りに行って、お祈りや、「一緒に一緒」の波動を送りたいと思います。それだけは、菊のお役として、ずっと続けたいのです。

だけど、やっぱり一人でしていても、面白くないです。たった一人でも、菊のロマンに、付き合ってあげようという奇特な人がいたら、是非、メール下さい。たった一人でも、菊は、喜んでしたいと思います。

何故なら、御霊さんに波動を届けるのに、人数は関係がありません。日本の神話の世界では、いざなぎさんといざなみさんが、登場しますが、二人で、日本の国は誕生しました。たった二人でも、すごい波動は送れるし、人数は、かえって少ないほうがいいです。菊としては、少ないほうがいいですし、正直、そんなに多くの人が集まるとも思っていないのです。

だから、この和泉国、黄泉の済度は、暇なお時間がある人が、和泉市の観光で、一度しようかという感覚で結構です。それで、何が、起きるかは、菊自身も、正直分かりません。でも、本当に、神々が喜んでくれたら、何かのお知らせ、ご褒美があると思います。それを参加してくれた人と、楽しみにしたいのです。

また、食事は、和泉市で、どこかおいしいところに行くか、菊が、いつも行っている芋膳さんで、したいと思いますが、芋膳さんは、安いので、しっかり食べたいと思います。何故なら、芋膳さんは、ごはんが、130円で、食べ放題です。いくらおかわりしてもいいです。しかも、めしやさんなので、自分の好きなおかずを選んで、食べることができます。それで、500円もあれば、十分、食べることが出来るのです。

だから、菊自身、和泉中央駅から、自転車で、5分の距離にあるので、職場の帰り、すぐに寄って、おなか一杯食べています。ごはんも、3杯も食べています。朝は、食べず、昼は、ご飯とつけものと味噌汁だけで、夕食は、和食を一杯食べるという、一食ダイエットしているので、おなかが空いて仕方ないです。それで、芋膳さんのお世話になっているのですが、菊は、食べる時は、御霊さんと一緒に食べるという意識で、食べています。

これもついつい、おいしくて、自分一人で食べてしまいますが、この世には、食べ物が食べられなくて、一度は、おなか一杯食べて、死にたかったという思いの御霊さんは、たくさん存在します。それは、日本で言えば、わずか、60年前の、戦前の日本では、そうでしたし、今も、世界では、たくさんいます。そんな御霊さんに意識を向けて、一緒に一緒に食べたら、その波動は、御霊さんに届きます。食事の済度なのです。

しかも、その時に満腹になれば、最高の波動を届けることができます。大東亜戦争でも、南方の島々、ガダルカナル島などでは、多くの兵が餓死で死んでいますし、戦国時代でも、兵糧攻めで、多くの兵が、戦の為に、食べたいものが食べられずに、亡くなっています。そんな御霊には、おなか一杯という波動を送ってあげるだけでも、とても満足して頂けるのです。

だから、帰りにも、是非、黒鳥山公園にある慰霊塔や、助松神社の慰霊碑に行って、そんなおなか一杯の波動を、参加して頂いた人と、一緒に一緒に届けたいと思います。そうする事で、御霊さんだけでなく、神々も、喜んでくれて、御霊さんが、成仏できるように、お力を貸してくれると思うのです。それを、地元の泉大津市、和泉市で、ご縁のある人達としたいです。昔、和泉の国の中心にあった、和泉市、日本の神話では、黄泉の国、死者の国と思われていたかもしれないところで、菊は、どこまでできるか分かりませんが、今世、できるだけの事はしたいのです。

ということで、皆さん、菊のロマンに一度だけでも、何かを感じて、付き合ってあげようという人がいれば、メール下さい。どんな遠方の方でも、構いません。日程を調整して、心を込めて、和泉市を案内したいと思いますし、二、三日、あるのであれば、泉州や大阪の観光も、お礼もかねてしたいと思います。

でも、菊としては、これをご縁に、是非、和泉市、泉大津市などの泉州にいるご近所さん、菊にメール頂きたいと願っています。菊は、この和泉国、黄泉の国、済度を通して、泉大津市、和泉市というご近所さんとのご縁を持ちたいと願っているからです。

だってやはり、ご近所さんは、近いので、菊としては、ものすごくありがたいです。今まで、なかなか、泉大津市、和泉市の人と、ご縁が持てることを願って、終りたいと思います。よろしくお願いします
それでは、縁の花 第246号「白山菊理姫と和泉国(死者の国)済度」読んで頂いてありがとうございます。

2007年10月18日

和泉の国、黄泉の国、
一緒に一緒に済度しませんか2

池上曽根史跡遺跡公園を歩いた後は、近くの、大阪府立弥生文化博物館を、ご案内します。この大阪府立弥生文化博物館は、池上曽根遺跡が、発見されたことで、建てられた博物館です。中には、池上曽根遺跡の資料があります。菊は、ここを、ご縁のある皆さんと、一緒に見ながら、弥生に生きていたご先祖様や、今も存在している弥生の御霊さんに、意識を向けたいと思います。弥生の人達を、今の人が見たら、どう思えるか、知って頂くだけでも意味があると思います。それで、弥生時代の御霊さんが、霊界に帰ること、成仏することを願いたいのです。

ただ、そうは言っても、正直に言えば、大阪府立弥生文化博物館自体は、そんな面白いところでありません。菊自身、あまり入ったことありませんが、いつも、人は、そんなにいません。大阪府立の建物だから、存在できるのだと思います。だから地元の人間としては、寂しいかぎりですが、やはりここは、お金が、ある程度必要でも、外せないと思います。是非、一緒に行って欲しいと思います。

また、その後は、菊が、会社に自転車で走っているルートを通りながら、黒鳥山公園にご案内したいと思います。というのも、菊は、会社の帰りは、どんなに遅くても、自転車で、坂を登って、黒鳥山公園にある、大きな慰霊塔や、天皇の碑、小さな慰霊塔にお参りしています。それで、何かのご利益があったとか、何か、御霊を感じたという事も、一度もないのですが、それでもずっと続けています。菊の職場が、和泉市であるかぎり、続けるつもりです。

何故なら、御霊を願うと言っても、やはり形がないとなかなかできません。菊自身、形がなくても、御霊には、毎日、日々の活動で、波動を届けること、済度することは出来ると思っていますが、それでも形があるほうが、やりやすいです。だから、常に、帰りに、慰霊塔や、天皇の碑にお参りしていますが、その時に、食事しておなか一杯だったら、そのおなか一杯の波動を届けたり、今日、食べたものはおいしかったねと言っていますし、つねに、一緒に、一緒にさせて下さいとか、ありがとうございますの波動を届けています。

ただし、この事は、菊自身、正直なかなかできません。本当にまだまだいい加減ですが、それでもしたいと思います。少しは、多くの御霊さんに、真心が伝わると思うのです。

また、その後ですが、実は、菊自身、他の和泉市の観光地ですが、一度も行った事がありません。ただ、ホームページで調べたら、和泉市は、泉大津市とは違って、観光地としても、いろんなところがあります。

それをざっと紹介しますと、泉井上神社、熊野詣小栗街道、西福寺、信太の森ふるさと館、蔭凉寺、葛葉稲荷神社、いずみの国歴史館、和泉市久保惣記念美術館、松尾寺、阿弥陀寺、施福寺などがあります。

菊は、ここを、できるだけ参りたいと思います。そのために、車は用意しますし、別になくて、自転車や、歩きでも面白いと思います。和泉市内と、泉大津市なので、そんなに時間は、かかりません。お金も、そんなに掛かりません。是非、参加してくれる人がいたら、和泉市巡りのルートを考えておきます。それで、何回か、行くことができたら、結構、和泉市の観光にも詳しくなると思うのです。

ただし、ここで、菊がご理解して欲しいのは、あくまでも、これは観光ではないということです。目的は、和泉市を巡ることで、和泉の国、泉州の済度をすることです。黄泉の国、死者の霊や、神々に愛の波動を送ることです。その事を、是非、ご縁のある人と一緒に一緒に、したいのです。そうする事で、菊は、初めて、今まで、泉大津市、和泉市に生まれた意味も持たせて頂けますし、神々に恩返しもできると考えているのです。
  
だから、和泉の国めぐりに参加して下さる人には、是非、その時だけは、神々や、御霊さんの代表だと思って、ご参加して欲しいのです。何故なら、御霊さん達は、肉体がないので、この世界を堪能することはできません。でも、参加したくれた人の、背景につくことはできます。

それで、いろんな観光地を巡って、今の世界を見せてあげることや、一緒に歩いてあげることは、とてもとても大切なことです。菊は、そんな済度をしたいのです。しかも、この和泉の国、めぐりには、いろんな神々もご参加くれると、菊は確信しています。だって、神々も、やはり肉体がない以上、この世を体験することは出来ません。今の、和泉市を、人と一緒に、時には楽しみたいと思うのです。是非、ご参加お願いしたいと思います。

2007年10月18日

和泉の国、黄泉の国、
一緒に一緒に済度しませんか1


 菊が菊理姫で、和泉市の隣の、泉大津市に住んでいること、皆さんに、ご紹介してきました。皆さんにも、これで、何とか分かって頂けたと思います。と言って、正直言って、菊自身、自分が、菊理姫だとは思っていませんが、長年、捜し求めていた、菊が、何故、大阪の泉大津市で生まれ、泉大津市助松町に住み、和泉市のテクノステージで、働いているのか、その答えは、頂けた気がします。

 また、たぶん、その答えは、後、二、三年したら、新しいものが出てくるかもしれませんが、今は、この答えでいいと思います。菊は、現在の菊理姫役、精一杯果たしたいと思います。それで、いろいろ考えました。菊は、今、自分に、何ができるのか、考えたのです。いえ、何を、今の自分が、何がしたいのか、考えたのです。

それで、菊は、一つ、ご縁のある、関心を持ってくれた人とは、和泉の国、黄泉の国済度をしたいと思います。それで、菊なりに、何かの活動を、実践したいと思うのです。

 ただ、そんなに難しく考える必要ありません。菊が、ご縁のある人としたいのは、和泉の国をご案内することだからです。それを、具体的に言えば、まずは、泉大津市にある、助松神社をお参りすることスタートしたいと思います。

何故なら、この助松神社は、北助松駅から、歩いて1分もかからない距離にありますが、菊が、今住んでいるところの氏神様になります。それで、菊は、ここもよく、電車を利用する時にはお参りしています。助松神社の中には、慰霊する大きな磐もありますし、八幡の神々も、末社の中で奉っています。菊自身も、お参りしている時に、不思議なことを経験しています。

だから、ここからスタートして、その後、菊が仕事の行き、帰りにお参りしている、岩谷家の両親の氏神にもなる、曽根神社をご案内します。この曽根神社の末社には、何と菊理姫の白山神社が奉っていますし、大きな木もあります。ここを、一緒にお参りして頂くのです。

そしてその後、曽根神社の隣にある弥生時代の遺跡、池上曽根史跡公園を案内します。というのも、池上曽根史跡公園には、昔、弥生時代の遺跡がありました。しかも、この池上曽根史跡公園は、弥生時代、大阪府和泉市池上町を中心に南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる池上曽根遺跡は、総面積60万m2もの規模をもつ大遺跡です。弥生時代の全期間(2300〜1800年前)を通じて営まれた、わが国屈指の環濠集落(周囲を溝で囲んだ集落)と言われています。

その上に、この池上曽根史跡公園には、復元された大きな建物と井戸があります。これも、発見された当時、弥生時代のイメージを塗りかえるたいへんな発見となったそうですが、それを、和泉市が、復元しています。是非、この建物を見て欲しいと思うのです。

また、池上曽根史跡公園を、ご縁のある人と歩きながら、菊は、弥生時代、今から、2300年前から1800年まで、ずっと生きていた人達の事を思って頂きたいと思います。その人達は、日本のご先祖様になります。そんなご先祖様に、この地で、ありがとうございますの波動や、「一緒に一緒に」の波動を届けたいと思います。

そうする事で、菊は、弥生時代に生きていた人達にも、過去を越えて、何かの波動が、届くと思いますし、池上曽根史跡公園にいる弥生時代の御霊さんにも、届くと確信しています。きっと、菊理姫さんが、そうしてくれると確信しているのです。


 
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2007年10月18日

プラットホーム空(くう)03 
10月、11月の例会


 いつもありがとうございます。 プラットホーム空(くう)03の、10月の例会と11月の例会のご案内です。
 11月は、久しぶりに、日曜日に開催します。
 メンバーの方は、お間違いないようにお願いします。
 また、メンバーでない方も、菊とご縁のある方は、一回は、無料で、ゲスト参加して頂けます。

 今、プラットホームは、少しずつですが、ユビキタス社会に向けて、歩いています。セカンドライフというインターネット上の世界に入って、もう土地も購入しました。こういったことは、ご縁がないと、なかなか分からない世界です。
 是非、関心のある人は、遊びに来て下さいね。
 待っています。ただ、事前に、ご連絡だけはして下さいね。


10月例会のご案内
【日 時】
2007年10月19日(金)午後3:00〜5:00 
【場 所】ホーミーアスカ住環研所
 〒537−0012大阪市東成区大今里3−16−19イーズ
今里2階205号室
電話      06−6977−6768
http://www.geocities.jp/ennohana/yumenopuraxtokuu3/KAIJOT...


アクセスは・・・
【連絡先】
空3の会員の方は不参加の場合のみ、ご連絡ください。
岩谷正
ennohana@ybb.ne.jp

11月例会のご案内
【日 時】
2007年11月18日(日)午後3:00〜5:00 
【場 所】ホーミーアスカ住環研所
 〒537−0012大阪市東成区大今里3−16−19イーズ
今里2階205号室
電話      06−6977−6768

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2007年10月13日
菊が、菊理姫神として、
和泉、黄泉の国でさせて頂いていること????


 菊が、神話に出てくる菊理姫神のお役があって、それで、和泉国、黄泉の国の中心である、和泉市の近くに生まれたかもしれないと、今まで書いてきました。それを皆さんが、納得してくれるか、どうかは分かりませんが、菊は、それを信じたいです。

 何故なら、助松という土地には、氏神になる助松神社というものがあって、泉大津市では、一番の北側で、海岸にできるだけ近い土地になります。ここをもう少し海に向かって走ったら、高速の湾岸線にぶつかります。海にも近いのです。

 だから菊は、二、三回、場所を移動する話もありましたが、全部、潰れて、この4年間、ずっと、通勤の行き、帰りは、助松という終着点から、和泉中央駅までは自転車で走り、バスで、テクノステージという山まで、通勤していることになります。自然に、何も意識もしないまま、導かれていたのです。

 しかも、最初は、第二阪和線を走り、穴田というところから、和泉府中、和泉中央と、大きな道路を走っていた菊は、いつの間にか、曽根神社にお参りして、池上曽根遺跡のある公園を横切り、行きは、黒鳥山公園のある慰霊塔を見ながら、お祈りするだけですが、帰りは、黒鳥山公園を登って、慰霊塔や天皇の石塚などにお参りしています。通勤の時は、いつの間にか、必ず、するように、今から考えたら導かれていたのです。

 その上に、菊自身、どこまでできているかは、とても疑問ですが、菊は、一応、通勤の行き返り、済度しています。背景の御霊さんと一緒に自転車に乗って、はあ、はあ言っています。御霊さんのことを思って、御霊さんが、霊界に帰ることを願って、そのお手伝いをしています。この世を作った、大宇宙を創造した天に、背景の御霊が救われることを、願うというお役をさせて頂いているのです。そんな済度を、今まで、まったく気がつきませんでしたが、和泉市で、和泉の国、黄泉の国でしていたことになるのです。

 だから菊は、その事を、ジャスミンさんが、菊ちゃんは、菊理姫神だよと教えて頂いたことで、悟ることができて本当に驚いてしまいました。菊は、菊理姫神として、そんな能力があるのです。いえ、それをしないといけない使命があるのです。正直、どこまでできるか自信はありませんが、精一杯、愛する御霊の為にもして、「一緒に一緒」という波動や『ありがとうございます』「霊界に帰ろうね」「救わせて下さい」という波動を届けたいと思います。

 また、そんな菊の実際のお仕事は、ある物流センターで、泉州全域に、いろんな商品を届ける仕事です。それは、主に食料品ですが、菊は、それを、物流センターから、各地域に振分けしているのです。だから、菊は、その時にも、食べ物やお酒、水などに対しては、今度、生まれてくるときは、人間になってねという願いや、商品が届く、泉州の人達に、その背景の御霊さんに、ありがとうございますや救われてねという波動を届けています。そんな済度をしているのです。

 ただし、これは、皆さんに自慢できるものではありません。仕事をしながら、何かをしながら、御霊さんを意識することは、ものすごく難しく、菊は殆どできていないですし、実際にできていなかったからです。

 でも、菊は、菊理姫神だということを信じることにしたので、もっと努力したいと思います。一つ、気合を入れて、和泉の国済度、黄泉の国、死者達に対して、日頃の生活、通勤したり、仕事したりすることで、しっかり済度したいと思います。

 だって菊は、菊理姫神に目覚めました。ただ、和泉市のテクノステージで、商品を、泉州地域に振り分けるお仕事、単なる肉体労働が、本当は、霊界からみたら、とんでもないお仕事、和泉の国、泉州全域に、光、救いの波動を届けさせて頂いていることが、やっと自覚できたのです。ありがとうございます。


2007年10月13日
和泉は黄泉の国??????
菊の住んでいる助松のこと、少し書かせて頂きました。でも、何故泉大津市に、菊は生まれた時からずっとご縁があるのかは分かりませんでした。だけど、もう少し視野を拡げて、お隣の和泉市まで、見た時、菊には少し分かってきました。よく考えたら、泉大津市の隣に和泉市があったのです。

 しかも、菊は、もう4年ぐらいになると思いますが、岸和田にあった職場が、移動して、和泉市のテクノステージというところで働いています。毎朝、自転車で、40分以上も、かけて、助松から、曽根神社、池上曽根遺跡、黒鳥山公園を経由して、お参りや、お祈りしながら、和泉中央駅まで走っています。そこで、職場のバスで、和泉市が、山を削って、作ったテクノステージまで、通勤しているのです。

 その上、和泉市と泉大津市は、電話番号も、何故か同じ0725です。これが、本当に不思議なのですが、大阪の場合、大阪市は、06ですが、後は、貝塚市、池田市、泉佐野市などの他の市は、072になっているのに、和泉市と泉大津市だけは、0725になっています。それで、一つに括られているのです。

 だから、菊自身、菊は、泉大津市だけでなく、和泉市とも土地のご縁があると考えるようにしました。二つの市は、合併の話もありましたが、泉大津市の財政難が酷く、断られたそうですが、将来、合併する可能性も非常に高いです。その時に、名前が、新しくなる可能性もありますが、菊としては、泉大津市と和泉市は、一つで、菊は、二つの市に跨ってご縁があると考えることにしたのです。

 また、菊が、和泉市ともご縁があると思うと、少し意味が見えてきました。というのも、昔、泉州地方、大阪の南部地方は、和泉の国と呼ばれていました。大阪は、摂津と河内と和泉の3つに分かれていたのが、明治になってから、大阪にまとめられていたのです。

 だから和泉市は、その和泉の国の名前を頂いています。泉州は、堺、高石、和泉、泉大津、岸和田、貝塚、泉佐野、泉南、阪南の各市、忠岡、熊取、田尻、岬の各町の9市4町で構成されていますが、現在の大阪府和泉市府中町に和泉国の国府があった事から、和泉市が、市名に採用しているそうですが、菊は、その和泉と深いご縁があったのです。これも、本当に不思議だと思います。

 しかも、和泉国ですが、別名、黄泉の国といわれています。この黄泉の国は、死者の国と呼ばれていたそうです。日本の神話である、いざなぎが、亡くなった妻、いざなみに会いにいった国が、黄泉の国ですが、それが、和泉だったといわれているのです。

 しかし、それはいろんな説があって、確かなことは分かりません。出雲の事だという説もあれば、和泉の南にある、和歌山の熊野が、黄泉の国だという説もあります。インターネットで調べましたが、はっきりしたことは分かりませんでした。黄泉の水溜りを和泉というという説もあるのですが、何とも言えないのです。是非、詳しくご存知の方は、菊に教えて下さい。


 だけど、菊としては、昔、和泉は、黄泉の国だと教わったことがあって、それを信じていました。和泉は、黄泉の国、祖霊を鎮める黄泉の国だと思っているのです。ですから、菊が、今、通勤の行き、帰りに、黄泉の国である和泉市を横断していることも、大きな意味、魂の計画があったということになります。菊が、改名したことによって、菊理姫神、白山菊理姫神ではないかという事ともここに繋がりました。見事に繋がったのです。

 だって、菊は、神話の時代、この和泉、黄泉の国で、いざなぎといざなみが、争っている二人の仲を、とりもつお役、死者と生きている人との、ご縁を結ぶお役をしていたということになるからです。それで、今、菊は、泉大津市、和泉市に生まれてきたということになるのです。


2007年10月12日

助松という土地

また、そんな菊は、初めて、自分が住んでいる助松という土地に関心持ちました。もしかしたら、助松という土地にも、菊の同志がいるのではないかと考えたのです。だって、泉大津市からは、大阪市や八尾市は、遠いですが、地元の助松なら、自転車で十分に、ご縁が持てます。そうすれば、菊としても、とても助かります。何とか、地元に、菊と同じような波動を持っている人いないかなと思ったのです。

でも、残念ながらいません。菊に、ご近所さんで、そんな魂の同志はいないのです。けれど、菊自身も、助松と言う土地も、高安ほどでは、何か意味がある土地だということは分かってきました。歴史を調べましたが、これといったことはありませんが、不思議なご縁はあったのです。

何故なら、字で考えても、助は、力を貸す、助けるという意味がありますが、救助となれば、天皇の真実の河内正臣の好きな言葉、平和憲法の九条(救助)になりますし、松には、武田家の菊姫の姉である松姫がいます。これは少しこじつけだと言われたら、そうかもしれませんが、菊は、いろんなものを助けさせて頂くお役、力をお貸しするお役がある気がするのです。

しかも、今は、残念ながら、会えませんが、長野県で住んでいる前世、武田勝頼である菊の母になる諏訪の姫、諏訪御料人であるリサさんの友人の森さんという女性が、助松団地で住んでいました。その森さんは、写真家で、アフリカで、取材旅行に行っていた時に、亡くなったそうですが、長野のリサさんを通して、助松に繋がって、驚いたことがあったのです。

その上に、今年になってから知り合った、「山元加津子 1/4の奇跡〜本当だから〜」の映画を作った、映画監督、ふ〜ちゃんさんも、昔、助松に住んでいたという事もしりました。その時に、北助松駅のちかくに、今は、潰れましたが、菊一堂という食事ができるという店があったという話になって、菊は、そこで、大学の頃、バイトしていたことを話して、大いに盛り上がったことがありました。

菊は、その時に、同じ土地に住んでいたという事だけで、ご縁が、短時間で深まることを経験しましたが、助松という土地にも少しは、天のお役がある予感がしました。同じ泉大津市でも、他のところで、こんな土地のご縁を頂いたのは、ホーミーアスカの松岡さんしかいません。きっと、助松と言う土地にも、何かの意味があると確信しているのです。


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2007年10月12日

いずみ苑のある高安という土地

実は、菊が、地元の泉大津とのご縁を考えるようになったのは、縁の花村と同じ村長で、cocoさんとのご縁が大きかったです。というのも、cocoさんは、八尾市の高安にあるいずみ苑というすてきな大正時代に建てられた建物で、月一回、第2土曜日に、茶会をしたり、いろんな展示会をしたり、音楽、落語などの催しをしたりしているのですが、ご縁を何回か、持たせて頂いて、菊が驚いたのは、cocoさんの周りには、たくさんのご近所さんがいて、支えているということです。

 それが、マントラさんや卑弥呼さんや、縁喜之華の田中さんなど、本当にたくさんの人がいます。いずみ苑には、地元の八尾市に住んでいる人が、驚く程多かったのです。しかも、その中には、いずみ苑から、歩いて、10分という距離にいる人も、何人かいて、いずみ苑をしっかり支えていました。その上に、菊の知っている人で、キャロットさんも高安駅を、利用していて、cocoさんにご紹介しましたが、菊は、高安というところは、一体、どんな場所なのかと心底驚きました。

 何故なら、菊の常識では、菊やcocoさんや、マントラさん、卑弥呼さんなどの怪しい人は、そんなにいません。菊やcocoさんの波動が合う人は、大阪全体で考えたら、たくさんいても、一つの市で考えたら、そんなにいません。現に、縁の花という、縁づくりの仕事をしている菊でも、泉大津市で、ご縁のある人は、三人だけで、今も続いているのは、ホーミーアスカ住環研のアスカさんだけです。

それが、いずみ苑のある高安だけでも、何人もいますし、八尾市だけでも、cocoさんなら、何十人かは紹介してくれると思います。これは、一体なんだろうと思いました。本当は、泉大津でも、菊が知らないだけで、たくさんいるのか、それとも高安というところには、意識の高い人達が、何人も使命を持って生まれて来ているのか、どちらかだと思ったのです。それぐらい、高安と言う土地は、いずみ苑という場は、すごいところなのです。

それで、菊なりに高安と言う土地を調べて、高安という土地は、歴史があることを知りました。「高安古墳群」とよばれている古墳がありますし、飛鳥時代、蘇我氏方に付いた、cocoさんと関係のある聖徳太子が、戦勝祈願のため、高安の秦河勝に教興寺を建立させたといわれているそうです。それに、唐と新羅の連合軍に、朝鮮半島の白村江の戦いで負けた日本は、唐が攻めてくることを恐れた天智天皇は、瀬戸内海から大和まで、山城を設けました。それが長門城・屋島城・鬼ノ城・高安城・三尾城などですが、高安も入っています。外国から、日本を守る拠点の土地だったのです。



2007年10月12日

菊の住んでいるところは泉大津市です

菊は、今、大阪府の泉大津市に住んでいます。この泉大津市にある小松町で誕生し、小学校二年の頃に、泉大津市○○町に、引越ししましたが、ずっと、泉大津市でした。
 しかも、社会人になってからも、南海電車、北助松駅から、徒歩5分のハイツをローンで、安く購入して、今も住んでいます。独身なので気楽に暮らしています。当分、引っ越すつもりはないのです。

 しかし、何故、菊が、泉大津市で生まれたかは、ずっと疑問でした。菊自身の魂が、選択したことは分かっていますが、その意味は分かりませんでした。というのも、泉大津市は、大阪の南側、泉州地方で、歴史のある堺市とだんじりで有名な岸和田市の間にある小さな市ですが、あまり、皆さんに分かって貰える市ではありません。毛布は、全国の98パーセントを生産しているので、毛布の町ということになりますが、たぶん、大阪以外の人には分からないと思います。有名な企業とか、観光の場所もないのです。

 いえ、残念ですが、大阪の人でも、泉大津市といっても分からないという事も多いと思います。よく、泉大津市と行ってもわからないです。正直言って、大阪でも、少し田舎なのです。

 ただ、そういっても、泉大津は、和歌山にちかいという程は遠くありません。関西空港のある泉佐野市よりも、遥かに、大阪に近いです。大阪の南と呼ばれている難波駅からは、電車で40分から50分で来ることも出来ます。遠くから来る人でも、新幹線の止まる、新大阪駅からでも、1時間20分程度です。それが、菊の故郷、泉大津市なのです。

 けれど、菊は、どうしてここに生まれ、育ち、今も、住んでいるかは分かりませんでした。ずっと生まれ、育った泉大津市なので、愛着はありますが、どうしても住みたいということではなかったのです。ただ、今は、両親も、自転車で10分もかからない距離にいるので、離れるつもりはありませんが、何となく、泉大津市からは、社会人になっても、離れることはできなかったのです。天が、そうしたのです。きっと、泉大津に、ここに住んでいる意味があるのだと思います。

 でも、その意味が分かりませんでした。済度で考えたら、金沢ですし、前世、武田家のご縁で考えたら、山梨県か、長野県です。それが、大阪だと動きが取れません。せめて、もっとちかくなかったら、いくことは出来ないのです。

ただ、それでは、まったくの意味がないかといえば、そんな事はありません。菊が、駅長をしているプラットホームで考えたら大阪に生まれたことは、本当にありがたいです。だって水口先生も大阪なので、全国駅長会議も、大阪であるので、何とか参加できます。これが、他のところに住んでいたら、難しいと思います。

 それに、大阪は、都会なので、情報も早いですし、たくさんの人が住んでいます。この大阪だから、知り合えた、ご縁を持てたという人も、たくさんいます。菊は、大阪で、生まれて来て、よかったと心から感謝しているのです。

 けれど、それは大阪で生まれてきたことであって、泉大津市に生まれてきたことではありません。大阪の人と知り合う為だったら、泉大津市よりも、もっと北の大阪市に住む方が、便利です。菊は、何故、大阪でも、少し不便な泉大津市に何故、生まれ、育ち、今も住んでいるのか、その意味がずっと分からなかったのです。


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2007年10月06日

菊理姫神(くくりひめ)紹介2

でも、菊が、やはり注目するのは、菊理姫神は、黄泉の国から逃げ出してきた伊邪那岐命とそれを追ってきた伊邪那美命の言い争いを調停したということです。インターネットの記事を再び引用すると、『この場合、伊邪那美命はあの世の代表者であり、伊邪那岐命はこの世の代表者ともいえる。そして、菊理姫神の基本的な立場は伊邪那岐命の側にあるわけだが、とにかく仲介役として両者の言葉を聞き、調和をはかる菊理姫神の姿は、神と人間、あるいはこの世とあの世の間に立って託宣を受ける巫女の霊能を連想させる。「ククリ」の名は、縁をつなぐという意味で付けられたようである。その根源はここにあったというわけだ。』
 
『さらに、この神については、次のような姿も考えられている。日本の民俗信仰では、山は祖先の霊が宿る他界であると考えられてきた。だから山の神はすなわち祖先の霊であり、生活を守ってくれる神でもあった。巫女の役割はその祖先の霊の託宣を聞くことである。つまり祖先の霊=死者の霊との交信。民間でそういう役割を果たす霊能力を持った女性といえばイタコである。イタコというのは、山の神に使える巫女が俗化して、もっぱら死者の霊との交信を生業とすることによって、庶民生活のひだの中に入り込んだ姿にほかならない。死者の国と深く関係する菊理姫神は、いわばイタコの先祖のようなものである。』
とあります。

正直言って、まだまだよくは分かりません。だけど、ジャスミンさんの言うように、霊界に帰れずに、この世を彷徨っている多くの御霊さんとご縁を持って、一緒に一緒に、この世を楽しみ、感謝の波動を届け、あの世に帰るお手伝いをする菊とは、本当にご縁のある神様だと思います。菊理姫神が、カタカムナと何かのご縁があることも、本名が岩谷で、磐と、ご縁がある菊にとっては、何かのご縁を感じるのです。

しかも別なインターネットの情報では、『黄泉の国の入り口(黄泉比良坂─よもつひらさかで追いつかれ、伊邪那岐命と伊邪那美命二人は口げんかになった。でも菊理媛神の言葉で、仲直りした。そんなことから、縁結びの神とされる。』

『ただし、菊理はその場面にしか登場しないので、どんな神なのかよくわからない。
いろいろな説があるみたいだ。死者の世界「黄泉の国」。
「きくり」は地獄からやってきた…と思われる。ただし「黄泉の国」は「地獄」とは違うものらしい。』
『「くくり」は辞書に…
くくり【括り】
1 ひもなどでくくること。 2 最後のまとめ。しめくくり。結末。 3 袋の口をしばること。また、しばるひも。というような意味がある。』とあります。

 菊は、菊理姫神が、菊の理想の縁結びの神様であること、くくりというのが、最後のまとめという意味があることを知って、ますます好きになりました。

 ただ、だからと言って、菊が、この時点で言えば、菊理姫神とは、とてもいえません。でも、菊が、菊と名乗っているお役の一つに、菊理姫神の役があると強く思いたいです。そうすれば、菊理姫神も喜んでくれて、お力を貸してくれると思います。

 菊は、そうする事で、菊がやっている済度のお仕事もお手伝いして貰え、この世に彷徨っている亡くなった死者の霊達、御霊と、今生きている人達との縁結びして、今世で、それを締め括りたいと思います。

 ということで、菊は、時々は、菊理姫神になりたいと思います。菊理姫神さんにも、背景にツイて頂いて、今のお役をもっともっとしたいと思います。是非、ご支縁お願いします。

2007年10月06日

菊理姫神(くくりひめ)紹介1

それで早速、菊理姫神についてインターネットで調べました。それで分かったことは、菊理姫神は、確かに、ジャスミンさんの言う通り、一度だけ神話に登場する神様です。

 それを引用させて頂くと、皆さんも、聞いたことのある話になります。妻である、伊邪那美命を亡くした伊邪那岐命が、黄泉の国に行って、伊邪那美命を連れ戻そうとしましたが、伊邪那美命の身に蛆がたかり、八雷神が化生した姿を見て、驚いて逃げ帰ろうとした時の話です。

『伊邪那岐命が驚いて逃げ帰ろうとすると、伊邪那美命は恥をかかされたことを恨んで、黄泉国の軍隊や八雷神を差し向けて追ってきた。最後には伊邪那美命自身が夫の後を追って黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)という黄泉の国と現世との境目でついに追いついた。この二柱の神は、ここで激しい言い争いを展開する。』
 
『そこに現れたのが黄泉の国に通じる道の番人である黄泉守道者(ヨモツモリミチヒト)と菊理姫神であった。 菊理姫神は、両者の言い分をよく聞いたうえでうまくその場を収め、黄泉平坂を千引岩(チビキノイワ)で塞いだ。二神はその岩越しに、「あなたの国の人を一日に千人絞め殺しますよ」「ならばわしは一日に千五百の産屋を立てよう」と言い合って別れた。これは人間の寿命が定まったという神話でもあり、伊邪那美命はこのときから死の国の神、人間の寿命を司る神ともなった。結局、伊邪那岐命はなんとか無事に黄泉の国を脱出することができたわけである』

 神話で登場する菊理姫神は、ここだけです。だから、菊理姫神については、まだまだ良く分かっていませんが、神様としては、結構有名になっています。というのも、再び、神ターネットの記事を引用させて頂くと

『菊理姫神は、神話でたいした活躍をしていなくても、有力な地方神であって、一般の信仰のなかでは大変なパワーを発揮している神だからです。この菊理姫神もそんな神の代表例で、実際にこの神は全国2717社を数える白山信仰の神として知られる日本でも有数の霊威神となっているそうです。』

『しかも菊理姫神は、加賀(石川県)の霊峰白山を御神体とする白山比売神社の祭神で、古来、人々から「いのちの親神」と崇敬されてきた女神です。一説に白山神は大山祗神ではないかともいわれるように、菊理姫神はその本源として山の神の神格を持っている。山は神霊の宿るところ。山は水源であり、その水泊だって水田を潤し穀物を実らせる。それ故に農業の守護神としてそのパワーを発揮する神ということになる。これが有力な神としてこの神が広く信仰される大きな背景としてあるわけだが、機能的に見れば他の山の神に共通するものであって、この神の個性といえるものではない。

それよりも、死者の霊を呼び出して憑依させて口寄せするイタコの先祖のような神というところに、神秘的な個性が感じられる。』とあります。菊自身、よく分かりませんが、全国2717社を数える白山信仰の神というのだから、諏訪神社や八幡神社に負けない、日本でも有数のすごい神様になるのです。

2007年10月06日

菊は、菊理姫神(くくりひめ)????

 そんな菊に、新たな名前のご縁が、つい最近誕生しました。それが、菊理姫神で、くくりひめと呼びます。菊が、この菊理姫神という存在を知ったのは、カタカムナのご縁で、ある祭主のご自宅に行った時の事でした。

 その祭主の家には、芦屋、西宮に3500年以上も住んでいた、カタカムナ人が残していた磐石、磐座をたくさんあったのですが、すごいのは、玄関の大きな窓から、ある大きな磐石が見えるようになっていて、そこに神殿を置いて、奉っていたことです。

 菊は、それに興味を持って、奉っている神様の名前を見たら、確か、菊理姫神と書いていたと記憶しています。それで、同じ名前の菊なので、どんな神様だろうと漠然と思ったのです。

 でもそのときの菊は、その菊理姫神については、深くは考えませんでした。後で、詳しく調べようとは思わなかったのです。

 しかし、縁の花村の読者のあるジャスミンさんから、菊さんは、もしかしたら、菊理姫神ではないですかと言うメールを頂いて、驚いてしまいました。そのメールの内容を少し引用させて頂きますと、

『「カタカムナ文献云々に「六甲山麓にある菊理媛のほこらの前で・・・・。」
あ〜、菊ちゃんが言ってたのは、このことだと理解しました。
菊理姫は全国2717社を数える白山信仰の神で、別名白山媛命ともいいます。

では、なぜ、岩谷正ことあじさいが、菊に改名する運びになったのか、それは、貴方が菊理媛さんだからです。
先日は、私の感性が冗談も交えてメールしたのに、菊ちゃんは何も反応してくれなくて、でも、本日、私の感性の鋭さを証明する文献を見つけました。

「ククリ」の名は、縁をつなぐという意味でつけられたようです。ほらほら菊ちゃんのしたいこと、してることでしょ。
既にご存じでしょうけど、貴方の居住していらっしゃる黄泉の国でのできごと、
いざなみさんと、それを追いかけてきたいざなぎさんの言い争いを調停したのが、菊理媛さんというわけです。

さらにすごいよ!いざなみはあの世の代表者であり、いざなぎはこの世の代表者という見方をすると、
菊ちゃんの基本的な立場は、仲介役として両者の言葉を聞き、調和を図ることです。
』という内容のメールでした。

 これには、菊もびっくりです。しかも、どうして、そう思ったのかと聞いたら、普段は、まったく見なくなった、江本勝さんの波動シリーズの本を読んでいたら、菊理姫神のことを書いている記事が目に入って、そう思ったということです。何か、不思議なご縁に導かれているのです。

2007年10月06日
菊の名前の不思議なご縁

 菊の名前に変更した時から、菊に不思議なご縁がおきました。まず、菊が、それを感じたのは、命名日でした。名前を早速変更するのに、9月1日から始めようとしたら、ミクシイのマイミクさんに、9月9日は、重陽の節句、菊の節句の日なので、その日にしたらというアドバイス頂きました。それで、すぐにインターネットで調べて、9月9日、菊の節句の日に改名する事にしました。

 昔、宮中では、9月9日に、天皇が、臣下の人達と、お酒に菊の花を入れたものを飲みながら、天皇の長寿を願ったそうです。新しい菊の名前にとって、これ程、ふさわしい名前はないと思います。でも、これも、8月の中頃に名前が、変更する事が決まったからです。これが、7月であったら、菊は、名前の変更9月9日まで待たなかったと思いますし、9月9日を越えたら、話になりません。

 9月9日と言う日に改名するのは、不思議な数字で決められていた。決まっていたことだったと、菊は、その時に確信持ったのです。だけど、その反面、菊という名前は、大変でした。やはり、天皇家に関わる名前です。強烈なプレッシャーが出てきました。名前が、重たくなってきたのです。

 それで、一時、菊と紫陽花にしたのですが、皆さんに励まされ、恩師の原裕一郎先生に、叱咤激励されて、すぐに再び、菊にしました。顔写真は、黄色い、大輪の菊の花にして、それからは、もう二度と変更していないのです。

 また、そんな菊の名前にしてから、菊に不思議なご縁が生まれ始めました。まず、驚いたのは、前世、武田勝頼の姪になる魂をもった人から、メールを頂けたことです。これは、今から考えたら、笑話ですが、武田信玄公には、お菊と呼ばれている六女がいました。

 菊自身、そんな前世の妹を意識して、菊という名前にした訳ではなかったのですが、姪の女性は、菊と名乗ったことで、武田家の菊姫と名乗っているある霊媒師の人と勘違いしてメールくれました。最初は、何故菊姫が、縁の花というものを書いているのですかという抗議のメールだったのです。

 でも、その誤解は解けて、菊は、かわいい前世、武田家の姪とのご縁を持つことが出来ました。姪は、叔父上というかわいいメールをたくさんくれるのです。しかも、このご縁は、菊に改名しなかったら、生まれなかったご縁かも知れません。菊は、改名したことで、一つのご縁が生まれたのです。

 その上に、前世のお菊は、武田勝頼とは腹違いの妹になりますが、武田勝頼の縁で、上杉家の上杉景勝に嫁いでいます。信玄公は、本願寺、一向衆との絆を深める為に、伊勢長島の顕証寺顕忍との婚約を決めていましたが、信玄公は亡くなった後、信長包囲網は崩壊し、勝頼は、本願寺から救援を要請されても、伊勢、長島の一向衆を助けることはできませんでした。お菊の婚約者を見捨ててしまったのです。

 でもその後、上杉謙信がなくなった後の御館の乱の勝利した上杉景勝の正室に、お菊を嫁がせています。お菊は、武田家が滅亡した後も、上杉景勝に大切にされて、子供には恵まれませんでしたが、上杉家の人達に愛されて、幸せに暮らしています。その菊姫の名前、菊をつけることになりました。

 その事が、前世、武田家のご縁に、どの程度意味あるかは分かりませんが、何か、大きな意味あると思います。前世、武田家のご縁は、菊と名乗った後、大きく動き出した気がするのです。だから、菊は、菊という名前を大切にしています。何か、前世、武田家の人達の願いもある気がしているのです。

2007年10月06日

菊に改名した理由

 菊という名前は、2005年9月9日、重陽の節句、菊の節句の日に、今までの紫陽花から、菊という名前に変わりました。この直接のきっかけは、恩師の「なんでんかんでん村」の原裕一郎先生です。

 忘れもしません。あれは、2005年8月の頃でした。大阪のわさびと言う名前の居酒屋で、原裕一郎先生を囲む会、何人かのご縁の人達とお酒を飲んでいる時に、紫陽花という名前を、エネルギーが弱いので、変更することを勧めて頂きました。

 恩師の原先生いわく、紫陽花は、梅雨の花、雨が良く似合う花なので、エネルギー的には弱い。女性をイメージさせる花だというのです。

 しかもその場にいた人で、紫陽花の花のエネルギーをオーリングテストをして、それを証明してくれました。タンポポ、桜、ひまわりという名前と、紫陽花の花の名前で、比べたら、確かに紫陽花の花のエネルギーは弱かったです。右手の指で作った輪が、簡単に開くのです。

 これには正直、菊は参りました。菊自身が、紫陽花という名前で、オーリングしても、強いのか、開くことはないので、改名する必要ないといえば、言えたのですが、他の人からみたら、紫陽花という名前が弱いのであれば、考えものでした。どうしても、紫陽花と言う花は、梅雨の花、女性的な花と言うイメージがあるので、弱くなるのです、菊は、花の中でも、エネルギーの強い花、弱い花ということがあること、初めて知ったのです。

 それで思い切って、改名する事にしました。何故なら、縁の花は、ホームページを公開することで、皆さんからエネルギーを一杯頂いています。それが、紫陽花の花では、皆さんから貰うエネルギーが弱いのであれば、いえ、皆さんのエネルギーをとっているのであれば、素直に恩師のいうように改名しようと思いました。恩師の原先生も、本当に、熱心で言ってくれるので、何かあると感じたのです。

 しかし、それでは、問題は、新しい名前は、何にするかということですが、菊自身、縁の花をしている以上、花の名前以外の名前にするつもりはありませんでした。あくまでも、花の名前には拘れていたのです。

 それで、原先生に、桜、タンポポ、ひまわりとエネルギーの高い花、教えて頂きましたが、菊は、天皇家の紋所、キクの花以外、選ぶつもりありませんでした。天皇家、日本の国の為に、何かをしたいと常に考えている菊としては、恐れ多いことですが、改名するなら、天皇家の花にしたいと思いました。それで、原先生にキクの花は、どうかと尋ねたら、それは非常にいいと言って頂きました。

 キクの花は、天皇家の花で、男系しか天皇になれないことでも分かるように、男性の花ですし、言霊で言っても、聞く、効く、利く、・・・・という意味があります。君は、人の話をまったく聞かないので、良く聞くように、キク(菊)という名前にしなさいと教えて頂きました。

 そうすれば、効き目がある、薬が効く、役にたつ、利益が得られるというふうにもなると教わりました。他にも、起句、聴く、訊く、麹、鞠、掬という意味がありますが、言霊で考えても、菊という名前は、いいので、それでいこうということになったのです。

2007年10月06日

天皇の真実新情報

日本国新総理大臣 ・福田康夫様の御尊父  
故・福田赳夫先生先生(元首相)の大悲願を明かす! 

福田康夫さんが、日本国、第91代日本国総理になりました。9と1という数霊で定められた首相です。菊自身、まさか、福田康夫さんが、この時期に、首相になるとは夢にも思っていませんでした。親子二代で首相になったのも初めてだと思います。皆さんも、きっと驚いたと思います。

 何故なら、菊は、福田康夫さんは、年齢的に考えても、高齢ですし、首相候補として騒がれたこともありましたが、もう出番はないと思っていました。安倍首相が、あんなに短命で終らなかったら、たぶん首相にはなれなかったと思います。 天が、福田康夫さんを首相にしたと思います。

 また、その中で、福田康夫さんが、首相になったことに、縁の花村の中で、一番、心から喜んでいる人物がいます。天皇の真実の河内正臣先生です。
 河内正臣先生は、福田康夫さんのお父さんである福田赳夫元首相とも親交がありました。
 熱心に天皇の真実を送られ、ご返事も頂いています。 そのお子さんが、首相になったことも天命でしょう。

それで、例のごとく、今、張り切っています。今度こそという思いで一杯でしょう。
 是非、福田康夫首相に、天皇の真実が伝わり、日本国民に、それが公開され、日本国の真に目覚めて、発光することを心からお祈りしたいと思います。 皆さんも、お力お貸し下さい。

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2007年10月06日

職場の人と、食事会に参加しました。

 今日、職場の人達と、食事会をしました。毎年、一回、職場から5千円の援助が出ます。それと組合からの援助、千円で、六千円での食事会です。

 その担当が、今年は、菊でした。素質サプリメントでみれば、N-1、赤ちゃんの性格の人に、幹事をさせたらいけないのですが、当番なので仕方ありませんでした。抜けているところも多かったですが、何とか、無事に終りました。ほっとしています。

 また、この食事会ですが、不思議なご縁もありました。菊が、企画した場所は、貝塚市の夢一喜という店でした。菊は、全然知りませんでしたが、地元では有名なお店です。衆議院議員の中山太郎氏も、よく来るそうです。

 実は、その夢一喜の相談役の十場さんという方と、つい最近、済度のご縁で、知り合い、確か、泉州で、立派なお店の経営のお手伝いをしているという話を聞いていて、それで、電話で聞いてみたのが、始まりでした。

 十場さんは、菊からのお電話をとても喜んでくれて、早速、店を見て下さいということで、翌日、夢一喜さんを見学して、夢一喜の社長さんや、店長さんを紹介して頂きました。それで、菊は、食事会の場所、夢一喜さんに決めました。

夢一喜
http://yumeikki.co.jp/pro/index.php

 肉料理のステーキがメインのお店でしたが、ロースハムやあらびきウインナー、ベーコンなどは、ドイツ国際食肉加工品コンテストで、金、銀、銅を取っているすばらしいお店です。レストランの近くには、工房があって、手作りで作っています。

 しかも場所的にも岸和田に近く、多くの職場の人からみれば、とても便利な距離にありますし、何よりも、お店の庭がすばらしく、店内には、グランドピアノを置いていて、とてもすばらしい雰囲気のお店です。この泉州の中では、本当に高級なお店なのです。
  
 その上に、十場さんが、菊の顔をたてて、できるだけの事はさせて頂くと、力強く言ってくれました。これは、今回、こちらで、食事会をすることは、決められていることだと思いました。すべてお任せする事にしたのです。

 そして食事会を、10月5日、金曜日、11時半からしたのですが、無事に成功しました。出して頂いた料理も、本当に豪華な料理で、特に、ステーキは、菊が今まで食べた中で、一番おいしかったです。鉄板の上で、焼いたのですが、なかなかのものでした。ロースハムもおいしかったです。

 その上に、十場さんも、11時には来てくれましたし、夢一喜の社長さんも、顔を見せてくれました。菊自身も、縁の花の小冊子、3冊セット、社長さんに手渡しすることが出来ました。本当に、人のご縁は不思議です。


 また、今まで、職場の人に、見せたことのない菊の一面を知って頂き、縁の花のホームページに関心を持って頂ける人も現れました。実際に見て頂けるかは分かりませんが、何かのお役は果たせたと思います。

 ということで、夢一喜さんのところの料理、デジカメで取っているので、皆さんにご披露します。是非、泉州の人は、一度、夢一喜さんに行かれること、お勧めします。

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2007年10月04日

第36回 「宿命の女」9月9日放送

 小山田信有が側室にしていた、笠原清繁の夫人、美瑠姫に殺されました。寝首をかかれたのです。しかし、実際に、そんな事実があったのか、どうかは分かっていません。小山田の信有が、志賀城三千の首と言われている、信玄公が、もっとも敵に対して残酷なことをした時に、その代表となるのが、志賀城の城主だった、笠原清繁の夫人を、家臣である小山田信有に妾にしたことです。

 この時に、信玄公は、降伏した志賀城の兵は、奴隷として金山に働かせ、捕らえた女、子供は、甲斐で、親族に金銭で売ろうとしましたが、あまりに高額なので、身請けができず、殆どが、人買いに売買されたといいます。その悲劇の代表が、笠原清繁の夫人なのです。これは歴史的に事実です。

 でも、小山田信有が、美瑠姫に実際に残されたのか、どうかは分かっていません。インターネットで調べたかぎりでは、戸石城攻めで負傷して、その後、何年かして死んだということになっているからです。けれど、もし、実際にあったとしても、それは消されていたと思います。ドラマで、信繁公が言っていたように、そんな不名誉なことは、武田家や、小山田家でも隠したことだからです。

 だから、真実だったかもしれませんし、そんなうわさは、長くあったと思います。後に、江戸時代に編纂された『甲斐国志』には悲運に涙に暮れた笠原清繁夫人の哀話が残されているといいますが、菊にはよく分からないのです。後に作られた話かも知れません。

 しかし、結構、この話は、武田家小説では、よく出てくる話で、内容は違いますが、小山田信有は、武田家を恨む、側室である笠原清繁に殺されたと書かれているのです。

 ただ、菊としては、そんな事実があったか、なかったかは、別として、妾にされた笠原清繁夫人の事を思うと、ご冥福を心から祈りたいと思います。夫を殺された武田家の武将に妾にされたこと、ずっと悔しかったと思います。

 でも、その反面、ドラマでも、表現されていたように、笠原清繁夫人は、小山田信有に愛されて、ある意味では好きになっていたとも思います。だって、どんなに敵であったとしても、男と女です。相手が、本気で、自分を愛し、睦み合っていたら、愛情も生まれます。笠原清繁夫人、美瑠姫は、小山田信有を愛していたと思います。

 しかしここで菊が言いたいのは、御霊さんの心です。志賀城で、並べられた三千の首や、志賀城で殺されたり、奴隷や、人買いに売られたりして、武田家をずっと恨んで亡くなった志賀城の御霊さんたちの思いです。そんな御霊さん達は、自分達を代表する、生きている人達、笠原清繁夫人などに憑くことになるのです。武田家の恨みを訴え、復讐するように囁くようになるのです。

 でも、それでも笠原清繁夫人の気持ちが、小山田信有の愛に向いていた時は、いいです。そんな御霊の囁きを受け付けないからです。だけど、ドラマであったように、偽って、笠原清繁の子を、小山田信有の子として育てていたのが、天命か、何かで、なくなって、そのことがきっかけで、小山田信有に対する信頼が崩れたら、もう駄目です。昔の憎しみが出てきて抑えられなくなります。突然、豹変するのです。

 菊は、今回の宿命の女を見て、そう思いました。最後に、美瑠姫は、愛する小山田信有を殺してしまった自分の宿命を呪って、自害する事になりましたが、まさしく恨みを持っている御霊さん達が、仕向けたのだと思います。美瑠姫は、ある意味で、多くの御霊に乗っ取られて、気がついたら、小山田信有を殺してしまっていたのです。

 これが、菊なりの御霊から見た、小山田信有が死んだことに対する解釈ですが、皆さんは、どうですか。是非、ご感想を下さい。と同時に、どんなに愛しあっても、美貌に惹かれても、男女のご縁は、背景に憎しみを抱えている人とは、ご縁を持つべきではないと思います。親がライバル同士とか、戦っていたというのであれば、あくまでも、友好を目的でご縁を持つべきです。やはり信玄と由布姫、小山田信有と、笠原清繁夫人の関係は、間違っていたと思います。その事を強く念じながら、笠原清繁夫人や、志賀城で、武田家を恨んでいる御霊の冥福を祈らせて頂きたいと思います。


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2007年10月04日

第37回「母の遺言」9月16日放送

 信玄公の母、大井夫人がなくなりました。信玄公が、名将になれたのは、大井夫人の教育がよかったからだと言われています。歴史で見れば、教育ママのモデルの一人で、賢夫人の一人に上げられます。

 しかも信玄公も、大井夫人には終生頭が上がらなかったと言いますし、上田原の戦いでは、破れた信玄公に、帰国するようにお手紙で勧めているものも、歴史の真実として残されています。慎んで、大井夫人のご冥福お祈りしたいと思います。
 
 また、風林火山のドラマで、大井夫人は、信玄公は、名将にはなれても、父親になれないということを言っていますが、これは、菊自身も驚いてしまいました。今までになかった解釈です。

 何故なら、信玄公は、「人は石垣、人は堀」という言葉で分かるように、極めて家臣を大切にしながら、その能力を十分に活用したことで知られています。家臣は、御屋形様と言って、心から崇拝していましたし、信頼していたのです。その上に、信玄公が、子煩悩だった事も知られています。特に、娘に対しては甘く、子煩悩ぶりを発揮しています。いろんな文献も残されているのです。

 だから、信玄公が、父親になれなかったということは、今まで、どんな作家や、歴史学者も考えなかったことだと思いますし、菊自身も考えもしませんでした。むしろ、信玄公は、父親の信虎公が、嫡男である自分よりも、弟である信繁公を愛していたことに反発して、自分は、絶対に、そんな事はしないと誓っていたといいます。長男の義信を溺愛することがあっても、信玄公が信虎公と同じように、義信をないがしにするなんて考えられないのです。

でも、歴史は皮肉にも、因果応報、父親を追放した信玄公に対して、今度は、長男の義信が、自分を追放しようとして、謀反を計画し、それを発覚すると、義信を幽閉して、最後は、死なせてしまうという運命を与えます。信玄が、自害させたのか、義信が、自ら伊の命を絶ったのかは分かりませんが、義信を死なせたことは間違いありません。信玄公にも、武田家にとっても、大きな打撃になったのです。

しかしその理由は、信虎の反発から、息子を甘やかせすぎて、育てたからとか、もう一つ、武将としての力量が乏しくと思われていました。義信公は、わがままで、世の中の動きを分からなかった武将と描かれているのです。

それで、父親の信玄公が、義信公の実家、今川家に侵攻する事に対して、あくまでも反対して、従おうとはせず、自らの命を消すことになったと思われていました。菊自身も、やはり兄、義信公に、そういった一面あったと思います。少なくても、義信公の行動で、守役の飯部虎昌を筆頭に、多くの家臣がなくなる事になったのですから、この事は、反省しないといけないと思います。

でも、武田家の御霊さん、大井夫人の御霊さんが、この風林火山のドラマを通して、名将になれても、立派な父親になれなかった信玄公のことを伝えたいのであれば、その事も真剣に受け入れたいと思います。

何故なら、一説には、信玄公は、由布姫の息子、勝頼をかわいがりすぎて、義信公を疎んじて、親子の絆を悪くしたといわれていますが、そんな事はなかったとしても、父親には、いろんな面ではなれなかったのでしょう。それが証拠に、勝頼に対しても、死後の事を考えて、正式に跡目にしようとはしてくれませんでした。前世、勝頼としては、それは辛かったです。

ということで、父親になれなかった信玄公、菊は、そういった考えがあることも受け入れます。風林火山のドラマを通して、武田家の御霊さが、教えてくれた気がします。いえ、何よりも、この事は、信玄公の御霊が、反省して、多くの武田家の御霊や、現在の人に、伝えてくれたメッセージのような気がします。これは信玄公の御霊の遺言でもある気がするのですが、皆さんは、どうですか。これからの風林火山、そんな視点で、皆さんと一緒に見させて頂きたいと思います。
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2007年10月04日
第38回「村上討伐」9月23日放送

村上義清が、領地である北信から、越後の上杉謙信を頼って出ました。信玄公を二度も破っているのにです。戦では負けていないのに、いつの間にか、追い詰められ、最後は、兵が集まらず、戦うこともできないまま、北信を逃れたのです。とても悔しかっただろうと思います。

またそんな村上義清ですが、信玄公を二度も破っています。信玄公が、負け戦を経験するのは、この二度の戦いだけです。信玄を唯一破った男。それも二度も破った男。その称号は、絶対に忘れてはいけないと思います。村上義清は、老将ながら、大した男だったのです。

しかし、そんな村上義清ですが、上杉家に逃れてからは、上杉家の家臣になり、そんなに大きくは活躍していません。それで歴史上では忘れられています。でも、インターネットで調べたら、信玄公がなくなる五ヶ月前に、越後の根知城で病死しているそうです。

だけど、その思いは、嫡男、国清が、御館の乱で活躍して、景勝から山浦景国と名乗ることが許された後、武田家が滅亡した時に、一時叶うことになります。武田家が滅亡した後、海津城は、上杉家のものになり、山浦景国が城主となって、父の旧領を回復しているのです。菊自身、とてもよかったと思います。

ただ、ここで、菊が言いたいのは、信玄公と村上義清ですが、どちらが武将として優れていたといえば、結果的に勝利した信玄公が、優れていたとはいえないということです。いえ、もし、村上義清が、甲斐の武田家に生まれて、領主として活躍できたら、もしかしたら、信玄以上の名将になっていたかもしれないのです。

何故なら、村上義清が、武田家に負けたのは、信玄との知恵比べに負けたのではなく、武田家の金山、金に負けたことが大きかったからです。村上義清自身も、悔しまぎれに、自分は、武田家の金に負けたと言ったそうですが、的を得た言葉だと思います。甲斐一国を支配し、信濃の諏訪、小県、伊奈などの信濃の一部を得た武田家と、北信地方を押さえていただけの村上義清では、経済力が違いすぎました。特に、武田家の金山のような、お金を持てなかったことは、武将としては、ハンディが大きすぎたのです。

でも、村上義清や、真田幸隆、上杉憲政を最後まで支えた忠臣、長野業正に、武田家と同じ領地や金山が与えていたら、天が、そんな定めに、つけていたら、歴史は違って、信玄公は、敗れて家臣になったり、追放されていたりしたかも知れません。歴史が逆転して、名前が、残せなかったのかもしれないのです。その事は、声を大にして、信濃の領地回復を念願として、最後まで戦った村上義清や、多くの名将になれなかった武将の事を願いながら、皆さんにお知らせしたいと思います。


2007年10月04日

第39回「川中島!竜虎激突」 9月30日放送

 いよいよ川中島の戦いが始まりました。越後の龍、上杉謙信と、甲斐の虎、武田信玄の戦いです、川中島の戦いと言ったら、上杉謙信と武田信玄の一騎討ちが、有名ですが、戦は、一回だけでありません。はっきりと分かっているだけで、五回戦われています。

 その内、武田信玄公と上杉謙信の一騎討ちは、四回目の戦いで、歴史に残る激戦でした。この時に、信玄公の弟、信繁公や、山本勘助など、多くの武田家の有力な家臣が亡くなっています。上杉家の有力な家臣は、この戦いで亡くなっているわけではないので、武田家にとっては、実に大きな痛手になりました。戦地から逃げたのは、上杉軍なので、戦いは、武田軍の勝利といえますが、山本勘助、武田家の副将、信繁公を亡くしたことは、後々大きな痛手になりました。信玄公が病死で亡くなった後も、信繁公が生きていたらと、前世、武田勝頼の魂を持つ、菊としては、今でも思わずにはいられないのです。

 また、そんな川中島の戦いですが、激しく戦ったのは、この四回目の戦いだけで、後は、前哨戦、小競り合いの戦いもあっても、両者ががっぷり四つに組んだことはありませんでした。信玄は、上杉謙信が、領地ではなく、自分の首を狙っていることを承知していて、あえて、本格的な戦いは避けていたのです。

 しかし、信玄公は、上杉謙信公と、直接、川中島で戦おうとしなくても、影で、戦略で常に戦っていました。上杉謙信公が、川中島に来たら、あえて戦いを避けて、領地を占領されても我慢して、上杉謙信公が撤退したら、再び川中島を支配するという戦略を選んだのです。

 しかも上杉謙信との戦いを有利にする為に、共に戦う北条家と手を結ぶ為に、有名な武田、今川、北条の三国同盟を結んだりしましたし、上杉家の家臣に手を伸ばして、越後に内応させました。常に、川中島の戦いが、始まる前に、上杉謙信公を苦しめました。越後の隣の、越中では、一向衆とも手を結んで、越後を封じ込めることに成功したのです。

 だから川中島の戦いは、戦略の信玄、戦術の謙信と言えます。常に、戦略で戦っていた信玄公が有利だったのです。でも、上杉謙信にも戦略がなかったわけではありません。上杉謙信に、天にお任せという戦略がありました。関東管領になったのも、その一つですし、二度も上洛したのも、その一つです。

特に、上杉憲政から、関東管領職を得られたのは、賛否両論ありますが、この時期の謙信公にとって大きかったです。関東で、大軍を動かす地位を得られた為に、信玄公は、川中島で、正面から戦わないといけない立場に追い遣られたのです。是非、そんな視点で、これからの戦いを楽しんで頂けたらと思いますし、菊も、背景にいる多くの御霊さんと、お酒でも飲みながら、大河ドラマ「風林火山」を楽しみたいと思います。

人が、生まれながら持っている性格や運勢が
簡単に分かります。
はっきり言って、これはすごいです。
          

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