産業革命に乗り遅れた国は植民地になった

ヨーロッパ諸国およびアメリカや日本の産業革命はイギリスよりはるかに遅れました。世界ではじめて産業革命に成功したイギリスが、タービンの技術をヨーロッパやアメリカに技術移転したのは約100年後でした。

技術移転の相手先は価値観を同じくする白人であり、キリスト教国家に限りました。当時の価値観は人種と宗教だったようです。

 

その結果、技術移転をしてもらった国は産業革命によって工業化が進み、生産業が発展し、急速に工業社会に変わっていきます。

 

しかし、技術移転をしてもらえなかった国は、産業革命に乗り遅れました。

乗り遅れたばかりではありません。いち早く産業革命に成功し、富国強兵を図った国から次々に植民地化されて行きました。

 

植民地とは何の見返りもなく、他国から移住した民族に税金を召し上げられてしまう国と思えば分かりやすいと思います。植民地化された国はあたかも奴隷国家になったような状態でした。

 

ヨーロッパ大陸の南、地中海を挟んでアフリカ大陸があります。

黒い大陸といわれるアフリカは、ほとんど植民地になり、奴隷にされてしまいました。

 

マダガスカル島、中近東地域の国々、インド、セイロン、カンボジア、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ボルネオ、フィリッピンなど東南アジアの諸国、オーストラリア、ニュージランド、ニュー-ギニア、ソロモン諸島、そして大陸中国も1842年アヘン戦争の終了をもってイギリスの植民地になってしまいました。

このように産業革命に乗り遅れた国はほとんど植民地にされ永い間苦しむことになります。

 

現在の先進国といわれる国は、知能・知識水準が高く、教育によって時代を変えるようなすごい道具を発明したか、あるいは宗教や人種による価値観が同じであったために技術移転をしてもらったか、もしくは世界の時代の流れ、すなわち社会変化に早く気づき、植民地化を恐れた活動家がいて対応することによって工業化を進め、産業革命に成功し、早く農耕社会から工業社会に転換できた国です。

 

現在、発展途上国といわれる国は、残念ながら産業革命に取り残された結果、富国強兵ができず、惨めな植民地となり、永い間苦しむ結果となりました。

農耕社会から工業社会に変わった、これが産業革命といわれる「第二の波」です。

 

 

日本はなぜ植民地にならなかったか?

理由は大きく分けて二つあります。

一つは活動家(志士)がいたということです。

明治維新前夜、黒船が来たことに驚いて立ち上がった青年がいました。

土佐藩の坂本龍馬です。彼は当時18歳でした。龍馬が通っていた千葉道場で知り合った中岡新太郎らと一緒に何かをしなければならないと思ったのです。

 

そんな折、攘夷にかぶれた幕臣がいました。

その幕臣を切り殺さなければならない時をうかがっていたところ、ミイラ取りがミイラになって、逆に「君たちのような若者が目覚めて、時代が大きく変わることをみんなに伝えなければならないのだ」と説得され、それによって坂本龍馬は志士となり活躍することになったのです。

 

明治維新は何も坂本龍馬一人でやったわけではありませんが、当時の古い封建体制を直すためには薩長連合なくしてなかったはずです。

この薩長連合がやれたのも、早く産業革命を成し遂げなくてはならないという熱い思いが、龍馬という一人の青年にあったからにほかなりません。

 

要するに1853年、黒船が来た時、坂本龍馬と同じように熱い思いを持った多くの志士たちがいました。多くといっても歴史に名前を残したのはわずか70余名にすぎません。

 

長州藩の松下村塾で学んだ高杉晋作も志士の一人です。

高杉晋作は毛利貞弘の小姓となって出府し(幕府のある江戸へ出ること)、長州藩を代表して朝議(朝廷の行う会議)を攘夷(外国人を撃ち払って国内に入れないこと)に決定させることに尽力しました。

 

この頃、高杉晋作は純然たる尊王攘夷論者でしたが、藩命によって1862年、幕府の船に便乗してヨーロッパに行く途中、上海に上陸し、当時イギリスの植民地だった上海の様子を見るに及んで、攘夷より討幕へと彼の思想は変わっていきました。

 

63年、長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃し、藩をあげて対外戦に及ぶと、晋作は身分、職業、家格に関わらず、奇兵隊を組織し、翌64年、四国連合艦隊の来襲で、敗戦に狼狽する藩庁に代わって連合艦隊との和議に当たりました。

 

第一回の長州征伐で、上層保守派が幕府に屈するのを見て、藩内戦を起こして藩の権力を握り、第二回征長の役には奇兵隊を率いて幕府軍と戦い、勝利を収めましたが、その後病没します。奇兵隊がのちの日本軍隊の基礎になります。

 

岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)1867年、後藤象二郎や坂本龍馬が組織した海援隊の留守役となり、翌68年の鳥羽伏見の戦いのときは大坂に移って、土佐商会に入り、土佐藩の兵站部を引き受けます。

 

1871年、廃藩置県(明治4年)の直前、土佐商会の経営を任され、廃藩に際して岩崎弥太郎の私的企業になり73年に三菱商会と改称します。

 

弥太郎は運も良かったが、何よりも時代の変化を読み取り、常に時流に乗って対応した点を見習うべきでしょう。

 

このほか、島津藩 主島津斉彬、佐賀藩主 鍋島閑叟らは藩独自で工業化を推進していったし、吉田松陰の松下村塾からは多くの志士たちを輩出しています。

 

明治維新前夜、日本の植民地化を恐れ、活動家となったその多くは若者でした。

その若者たちが志士となって燃えた結果、日本は見事に農耕社会から工業社会へ転換し、産業革命に成功することができました。今の日本にとってもこのような志士が必要です。

 

ここでいう現代の志士というのはどんな人たちを言うのでしょうか?

それは先ず、いま急速な勢いで時代が変わり、その変化はこれまでの変化とは異なり、明治維新に匹敵するとも劣らないほどの、まだ誰も経験したことのない時代変化であることを知ることから始める必要があります。

 

そして近代、すなわち近代工業社会は崩壊し、工業社会で発達した経済システム(資本主義社会)はその役割を終了し、今世紀中にパワーシフトが起こり、工業社会の財閥に代わり、情報社会(デジタル時代)では新しく智閥(心と心のネットワーク)が誕生するという事実を知ることです。

 

もしそうであるなら、情報社会はメロウソサエティ(高度円熟理想社会)でなければなりません。

歴史に学び、グラスルーツ・デモクラシー(草の根市民による民主的運動)の精神によって智閥創り活動をしなければなりません。

 

工業社会に取り残されないようにしてください。時代変化についていけなかったら企業も個人も没落することを知っていただきたいと思います。

「はらはらテレビ」は智閥創りを推進しています。(つづく)

 

間もなくデジタル時代が到来しますが、あなたは対応するために何か手を打っていますか?大丈夫だという確信はお持ちでしょうか?