キリシタン・バテレンに狙われた織田信長
植民地といえば、日本も植民地として狙われた危機がありました。
最も脅威を与えたのは織田信長であったという説があります。
戦国時代の末期、織田信長は尾張から始まって、破竹の勢いで全国平定に向かっていました。
武田信玄が没したのちは、それに一層拍車がかかり、安土城を築いたのちは京都をも窺うようになっていました。その時、日本は二つの勢力に分断されていました。
ここで織田信長について前もって述べておかなければならないことがありますが、それは信長の残虐非道ぶりといわれるものです。
比叡山延暦寺の焼き打ち、長篠の一向一揆壊滅、石山本願寺滅亡などです。
これらのことはなぜ行われたのでしょうか?信長の性格の中にその原因を見出すべきでしょうか?この時代は既にキリシタン・バテレンが日本に続々と登場してきていました。
信長はフロイスに代表されるようにキリシタン・バテレンと強く結び付いていました。
信長が彼らを利用し、武器弾薬の材料である硝石を得たいと考えていたように、キリシタン・バテレンも信長を利用していたのはほぼ間違いないでしょう。
すなわち、信長が首尾よく日本の覇者となったならば、キリシタン・バテレンは信長を倒すことによって日本を植民地化することが可能であったと思われます。
信長に仏教の仏像は偶像であり、一向一揆の人々はその偶像に取りつかれた狂信者であると教えたのは恐らく彼らだったのではないでしょうか?
悪魔の力によって狂信している彼らを滅ぼすことは、神の意志であると教えたと考えられます。もちろん、信長はそれを信じていたわけではないでしょうが。
しかし、全国平定のための論理的解決にはなったと思われます。
織田信長とキリシタン・バテレンに相対したのは天皇を中心とした京都の勢力、さらにはそこから多くの利益を得ていた堺の貿易商人たち、今日でいえば財界とでもいいましょうか。そして戦国大名の中から信長亡きあとに夢を馳せる者たちであったろうと思われます。
おそらく後者の中から信長暗殺の実行犯として明智光秀が選ばれたのでしょう。そしてその明智光秀のバックに徳川家康がいたものと考えられます。
「本能寺の変」が天正10年(1582年)6月2日に起こります。
天王山の戦いで明智光秀が豊臣秀吉に敗れたのは6月13日でした。
そしてその近くの小栗栖(おぐりす)の竹やぶで光秀は農民たちによって殺されたと伝えられています。本当にここで殺されたのでしょうか?
光秀が殺されたといわれる小栗栖は光秀の領地に近く、光秀の領民たちは主君に対して非常に愛着を感じていたといわれています。現に小栗栖の竹やぶの近くには播山(はたやま)という農家ばかりがありますが、彼らは「光秀はここでは死んでいない」と言っています。
光秀が殺されたといわれる場所から約200メートル北に法淋寺というお寺があり、光秀はここにかくまわれ、闇の中に一時身を潜伏させたといわれています。
これが現地で聞くことのできる言い伝えです。
明智光秀は本能寺の変の数日後、自らの盟友である細川幽斉に援助を頼みました。共に戦おうではないかと手紙を送ったのです。しかし、細川幽斉は思案の末その申し出を断っています。その手紙は今でも残っています。
光秀が生きていたとすれば、彼はその後どうなったのでしょうか?
岐阜県には江戸時代を通じて光秀の位牌を守り続けているという光秀の子孫がいるといいます。さらに京都比叡山の松禅寺に慶長20年(1615年)「奉寄進
願光秀」という光秀寄進の石燈篭が残っています。
天正10年に亡くなったはずの光秀が、33年後の慶長20年に石燈篭を寄進したということは、光秀は比叡山に逃れ、僧となって身を隠していたかもしれないという推測ができます。
のちに光秀は南光坊天海(天海僧正)となって徳川家を助けたといわれますが、それは正しいかもしれません。
小栗栖の竹やぶで殺されたといわれる光秀は、多分、影武者だったのかもしれません。(つづく)