Counter

縁の花

        (魂が成長する正直な心と心のネットワーク誌)

               第152号

      昭和天皇をお育てした人々

                 ∴上田三三生先生の紹介∴

 だんじりで有名な岸和田市で、ありがとう講演会というものがありました。

 岸城神社で読書会をやっている寺田先生がやっている会ですが、すばらしい会でした。

 以前、縁の花第124号「村上和雄」で遺伝子の事を話された村上和雄の講演内容を詳しく書きましたが、毎回すばらしい先生を招いてくれて、講演を聞かせてくれるのです。

 だけど、その講演会も、寺田先生が、生涯のライフワークとして取り組んでいる、森信三先生に本腰を入れたいという事で、開催されなくなりました。

 その最後を飾る先生という事で、上田三三生先生が、わざわざ北海道から招かれたのです。

 しかし紫陽花は、上田三三生先生の事はまったく知りませんでした。

 どんな話をする先生かも知らなかったのです。

 でも紫陽花は、縁あって阪井健ニさんに送って貰った、ありがとう講演会のチラシにある、上田三三生先生が話される、「昭和天皇を育てた人々」という題名に惹かれました。

 というのも紫陽花は、河内正臣さんのおかげで、「天皇の真実」に目覚めました。

 昭和天皇が、本当に偉大な方で、日本の国、日本民族を救ってくれた事、よく分かりました。

 だけど、紫陽花は不思議だったのは、どうしてそんなに昭和天皇は偉大だったのかという事です。

 河内正臣さんは、その理由を、生まれながらにして天皇になれる立場と、育てられる皇室の環境、帝王学の為だと話してくれましたが、それがどういうものか知りたかったのです。

 昭和天皇に、どんな人達が縁を持って、育てられたのか興味があったのです。

 それで講演会には、是非行きたいと思ったのです。

 しかし当日は、祭日でしたが、紫陽花は仕事の関係上、どうしても講演会場にいけませんでした。

 本来なら、上田三三生先生との縁は、生まれる事はなかったのです。

 でもチラシをよくみたら、上田三三生先生の住所が載っており、紫陽花は、今までに書いた、縁の花、150号「日本・原爆開発の真実」、144号「日月神示の最後の一厘」、133号「天皇の真実」と一緒に、お手紙を書いて送らせて頂きました。

 返事は頂けないと思いながらも、昭和天皇を育てられた人が、どういった人なのか知りたいので、講演内容のカセットでもあれば、送って頂けないかとむしのいい事をお願いしたのです。

 そうすると、何と、すぐに上田三三生先生から、ご返事を頂きました。

 上田三三生先生は、お手紙と別な所でお話をされた「昭和天皇をお育てした人々」のカセットテープとレジメ、歴史と人物に学ぶという小冊子を送ってくれたのです。

 それで紫陽花は、小冊子の最後にある略歴をみて、上田三三生先生は、教育関係で活躍された先生で、水戸光圀や上杉鷹山、中江藤樹、(孝は徳のもと)、塙保己一(はなわほきいち)(盲目の大学者)などの歴史上に知られた人物や、知られていないけど、偉大なの事をした人を、丁寧に何十人も紹介している方だという事を知りました。

 そんなすばらしい活動をされている人なのかと好印象を持ったのです。

 是非、皆さんもそんな上田三三生先生が話す、昭和天皇のお話を聞いて下さい。

 

                ∴「昭和天皇の御聖徳」∴

 上田三三生先生のお話は、最初、河内正臣さんと同じように、昭和天皇が、日本の国、日本民族を救ってくれたのだという話から始まりました。

 まだまだそんな事さえ、日本人の多くの人に知られていませんが、太平洋戦争の末期、昭和天皇が、自分の身の保身に入って、終戦の御聖断という見事な決断をしなければ、日本民族は、滅亡した可能性は高かったからです。

 それを上田三三生先生は、陸軍は最後の一兵まで戦うと本気で考えており、終戦の御聖断がないままに、米国が九州や四国、本州に上陸し、沖縄のような民間人を巻き込み、多くの人が亡くなるような悲惨な戦いが起こったら、日本民族は滅亡していたという事でお話してくれました。

 何故なら戦争で亡くなる人達の数は、B−29の本土爆撃だけではすまないぐらい、何十倍と増え、おそらく日本の国が再び蘇る事を、米国なので世界は許されなかったと考えられるからです。

 五島勉さんや河内正臣さんは、その事をもっと過激に、原爆も広島と長崎だけでなくて、日本の主要な大都市に何十発も落としただろうし、戦後世界は、命懸けで戦う異性人、日本民族に恐れを頂いて、決して日本が再び、世界の表舞台に立つ事を許そうとはしなかったと推測できるといっています。

 米国に住んでいたインデアンやオーストラリアの原住民のように、日本民族も滅亡されられていたかもしれないのです。

 だけどそんな日本の国に始まって以来の危機は、昭和天皇が終戦の御聖断をして、国民にラジオで終戦を宣言した事で終わりました。

 日本民族は、それを聞くと、天皇の命を守って、一切の抵抗を止めたからです。

 天皇によって、日本民族は救われたといっても、いいすぎではないのです。

 しかし残念ながら、日本人の中には、そんな昭和天皇を批判する人はいます。

 昭和天皇が倒れた頃、特に昭和天皇の戦争責任を言い出す人がいたそうですが、上田三三生先生は、それを少し怒りを持っていいました。

 紫陽花は全然知れませんでしたが、長崎市長の本島などは、昭和天皇の戦争責任について、昭和天皇が話せないのをいい事に、全国で講演活動をしていたそうですが、本当に悲しい事だといっていました。

だけどそんな本島も亡くなっていますし、今、あまり昭和天皇の戦争責任を訴える人もいません。

 どうやら昭和天皇の事を非難している人は、天から排除されているのか、今は、真実を伝えている人しか残っていない感じですが、上田三三生先生は、そんな事を何となく教えてくれたのです。

 と同時に、上田三三生先生は、本島が言わなくても、戦争責任を一番感じているのは、昭和天皇自身だという事を教えてくれました。

 日本人で一番、太平洋戦争の責任を起した責任を痛感し、心から悔いているのは昭和天皇だというのです。

 何故ならそれを上田三三生先生は、昭和天皇が、終戦の時に読んだ歌、二つの御製を聞かしてくれる事で証明してくれました。

「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」

「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」

 この二つの御製の意味を、上田三三生先生は、「自分の身はどうなっても構わない、これ以上、国民を苦しめるのは忍びないので、だから終戦の決断を下した。無条件降伏であるポッダム宣言を受け入れることで、連合軍からどんな事を命令されるかは分からないけど、自分が一心で受け止めて、自分は処刑されても国民を救いたい」というのが昭和天皇の御心だと解説してくれたのです。

 また上田三三生先生は、他にも昭和天皇が読んだ「海の外の陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり」の御製の意味も「海外で終戦を迎えて、いつ帰って来られるかも分からない兵士達の身の上を思って、ただ健康でいてくれよ。安全でいてくれよと願っている」という昭和天皇のお気持ちを聞かしてくれました。

 昭和天皇が、戦争責任を十分に感じていると証明してくれたのです。

 しかも昭和天皇は、御製だけでなく、実際に戦争責任を取ろうとして、具体的な行動を取っています。

 それが有名なマッカーサー元帥との会見です。

 この会見で、上田三三先先生は、昭和天皇はマッカーサーとの会話の内容を漏らさない約束でなので、一言も誰にも言わずにお隠れになりましたが、「私は日本の戦争遂行に伴ういかなる事にも、また事件にも、全責任を取ります。又私は日本の名においてなされたすべての軍指揮官や軍人、政治家の行為においても直接全責任を取ります。その事で私自身の運命について貴下の判断がどのようなものでも自分には問題ではない。全責任を取ります」という事を言っています。

 戦争責任を取るつもりだったのです。

 その上に、皇室の全財産目録を持参しており、これで国民を飢えから救って欲しいと頼んでいます。

 それでマッカッサー元帥は、念入りに事前に調べて戦争責任がないはずの天皇が責任を取るという態度に打たれて、我は神をみたという言葉をいったというのは、河内正臣さんですが、とにかく感激して、天皇のお見送りをしています。

 自分はお迎えもお見送りも絶対にしないと断言していたマッカーサー元帥が、その後、天皇を心から尊敬するようになったのです。

 と同時に、昭和天皇は、国民に対しても、直接、責任を取っています。

 それが全国御巡幸です。

 この御巡幸は、昭和21年から29年の8年8ヶ月、のべ165日行われていますが、昭和天皇が、敗戦で傷ついている国民を直接励ましたいという事で始められています。

 占領軍は、そんな昭和天皇の全国御巡幸に対して、どこの君主でも敗戦した後は、総スカンを食らっているので、懺悔のような事をしても、石をぶつけられるのが関の山だろうと許したといいます。

 昭和天皇は、国民の誰かに殺される事も覚悟して、まったく無防御の中で、国民に直接会ったのです。

 しかしその結果は、占領軍を慌てさせました。

 国民はそんな昭和天皇をどこでも熱狂的に迎えると、日の丸の日章旗を上げ君が代を歌います。

 各地区にある共産党の本部の幹部達でさえ、昭和天皇を心から歓迎したというのです。

 ですからその結果に驚いた占領軍は、御巡幸に対して、一時、御退位の問題や東京裁判の結果を持ち出して、中止させたとさえいいます。

 結局、昭和天皇は、そんな占領軍の妨害もものともせずに、警備の自信がないという沖縄を除いた、全国で御巡幸をすると、国民を励ましているのです。

 しかもその御巡幸は、今では想像できないぐらい、大変だったそうです。

 上田三三先先生はそんなエピソードを何個か話してくれました。

 千葉県では泊まる所もなく、列車で仮眠したり、学校の教室に茣蓙を引いて、寝たりした事もあったそうです。

 その上に、御巡幸では真っ先に遺族や引揚者、戦災に会い、自決した阿南大将の未亡人などには、側近のものにわざわざ電話して来るようにいっています。

満州から引き上げた開拓団の人達が、長野県の浅間山の麓で、再び開拓する仕事についたと知ったら、2キロも山道を歩いて、励ましています。

国民は、そんな昭和天皇の姿に励まされ、新しい道を見つけると、日本の国を再び復活させました。

河内正臣さんは、昭和天皇の命懸けの御巡幸で、国民にやる気を与え、今日の経済大国、日本の道をつけたといいますが、紫陽花もそうかもしれないと思います。

天皇の存在は、オリンピックなどでも比較にならないぐらい、日本にとって経済面からみても貴重なものだと思うのです。

ですから紫陽花は、日本民族は、昭和天皇に救われたといえますし、昭和天皇を、そんな名君にお育てしたすばらしい方のおかげで救われたともいえると思います。

そんな人達に心から感謝したいのです。

      ∴「川村純義さん、足立たかさん、乃木希典大将」∴

 昭和天皇は、明治34年4月29日に御降誕しています。

 大正天皇が、まだ皇太子の時で、神武天皇の生まれ変わりだといわれている、明治天皇にとってはお孫さんになります。

 この時の国民の喜びは、一体どんなものだったのかは想像できませんが、物凄かったと思います。

 昭和天皇は、今の時代では考えられないくらい日本国民に心から祝福されていたのです。

 またお名前は、知らない人は多いと思いますが、「迪宮裕仁」(みちのみやひろひと)で、名前の御命令者は、明治天皇です。

 明治天皇は、この名前を一言でいえば「広く大きな心で国を治め、人類全体の為努力するように」との願いを込めてつけられたそうです。

 でも上田三三生先生の話は、それだけでは終わらずに、この名前の意味を本当に丁寧に教えてくれました。

 特に仁という漢字は、125代続いている天皇が、60代の頃から今もずっと必ず付けている字で、儒教の教えでは知恵、人徳、勇気の三つを持つという意味があり、天皇家の3種の神器に繋がるそうです。

 知恵が鏡、人徳が玉、勇気が剣を示すなんていう面白い事を教えてくれたのです。

 そしてそんな名前を貰った昭和天皇は、生まれるとすぐに他の家に預けられています。

 天皇家では、父親と母親が直接育てるのではなく、信頼できる家臣に任せる方が、子供の成長の為になると考えて、そうしていたそうですが、昭和天皇は生まれてすぐに、「生まれるのが男子でも女子でも自分の孫だと思って養育して欲しい」と川村純義中将の家に預けられました。

 大正天皇や明治天皇のたっての願いという事で、西郷隆盛の従兄弟にあたる薩摩出身の軍人さんの家に任されたというのです。

 しかし残念ながら、川村純義中将は明治37年7月にお亡くなりになっているので、昭和天皇が、川村家にいたのは、3歳の時まででした。

 川村純義さんは、昭和天皇に対して、御養育方針として、1、心身の健康が第一である。2、天性をまげない(生まれつきの性格を曲げない)3、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養う。(臣下の持つ長所を尊ぶ)4、難事に耐える習慣をつける。5、わがまま気ままな癖を絶対につけない。

という5つをあげて、取り組んでいただけに残念だったと思います。

 上田三三生先生は、ある時、昭和天皇が、嫌いなものがあって、食事を食べようとしなかった時に、すべてのお膳を引いて、泣いて謝るまで食べさせなかったエピソードを聞かせてくれました。

 川村純義中将は、5のわがまま気ままな癖を絶対につけないという事を実践し、昭和天皇を育てていたのです。

 また、川村純義中将が亡くなった後、とても川村家では、昭和天皇をお育て出来ないという事で、皇室に戻られた昭和天皇をお育てしたのは足立たかさんという女性の方になります。

 足立たかさんは札幌生まれの女性で、東京府立女子師範学校を卒業すると、東京府立女子師範学校の付属幼稚圏で保母さんのお仕事をされており、文部大臣も勤めた菊池大麓の子供を教育していたのを縁に、菊池大麓さんに、「この女性なら大任」を果せるだろうと目をつけられていたのです。

 それで菊地大麓の推薦で、宮内庁が動き、木戸孝正という方が、足立たかさんに熱心に懇願したというのです。

 ですがこれは、上田三三生先生もいっていましたが、本当に凄い事です。

 薩摩や長州が強かった時代に、札幌生まれの女性が、昭和天皇を育てる役、皇孫殿下保育係になる事自体、明治政府の柔軟さを感じされずにおれません。

 昭和天皇を育てる事に、明治政府は、本当に真剣だったのです。

 そしてその明治政府の選択は正解でした。

 足立たかさんは、毎日、昭和天皇が寝る時には、いろんな物語を聞かせてあげるぐらい優しく、しかる時には厳しくしかったそうです。

 後に昭和天皇から、たかは本当に私の母親のようだったといわれるのです。

 だけど足立たかさんの事で、やはり有名なエピソードは、昭和天皇が16歳ぐらいになるまでの11年間勤めた後、大正4年に鈴木貫太郎、海軍次官の後妻に入った事です。

 鈴木貫太郎は、昭和天皇の願いで、終戦時首相になっていますが、昭和11年のニ・ニ六事件の時には、侍従長をしており、血気に走った青年軍人に襲われ、瀕死の重傷を負っています。

 その時に夫を必死で庇って、自ら撃たれようとしたのがたかさんです。

 そんなたかさんの決死の覚悟で、さすがに襲った青年軍人達も、止めをさせずに、鈴木貫太郎さんは命を助かっていますが、もし死んでいたら、終戦の時、首相として、昭和天皇の為に活躍できていません。

 紫陽花は、この事にも不思議な縁を感じますが、夫の為に、自分を捨てる事ができる、たかさんに育てられた昭和天皇だからこそ、終戦と時に、国民の為に命を捨てられたと思うのです。

 と同時に、そんな天皇の教育を任されたのが、日露戦争で旅順を落とした第3軍を率いた乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将です。

 乃木大将は、軍人としての能力は、高かったのかどうかは疑問ですが、明治天皇からの信頼が厚かったのは知られています。

 明治天皇は、変えたら乃木は死ぬといって、絶対に旅順攻撃の指揮官を、変えようとはしなかったのです。

 だから明治天皇は、旅順の攻撃で息子を二人も亡くして、子供がいなくなった乃木希典が、寂しかろうという事で、明治40年に学習院長に抜擢すると、皇孫殿下の訓育にあたらされています。

 昭和天皇は、5歳の頃から、乃木希典院長の御教育方針の元で育てられているのです。

またその方針は、1、御健康第一。2、御宣しからむ御行状は御矯正申上ぐるに御遠慮は要らず。(よくない事をした時には、改めさせる)3、御成績については御斟酌然るべからざること。(学力が悪いものもちゃんとそのまま報告する。学習院のすべての教授にも徹底させた)4、御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべし。5、御質素にお育てすべし。6、将来陸海の軍務につかせられるべきにつき、其の御指導に注意すること。(天皇は一面、軍人であるから注意する)の6つになります。

乃木希典院長は、この6つの方針を大切にすると、軍人の持つ生真面目な性格で、昭和天皇を育てています。

 上田三三生先生によると、ある時、昭和天皇が安立たかさんに、着物に穴があいているものを着るのは恥じだけど、継をあてたものを着る事は恥じでないといって、着物や靴下に、継をあてさせ、「院長閣下がこれでいいんだというのだから、これでいいんだ。いいんだ」と嬉しそうにいった話や、昭和天皇が乃木院長に偶然会った時に、どうやって学校に来ていますかと聞かれ「晴れの時は歩いて、雨の時は馬車で学校に行く」と答えたら「雨の時も外套を着て、歩いて行くように」といわれ、それを実行したという話も聞かせてくれました

昭和天皇は、質素に暮らさないといけないという乃木希典の教えを守って、死ぬまで質素な暮らしをされたのです。

しかしそんな乃木希典も、昭和天皇が12歳の時に亡くなっています。

明治天皇が崩御された時に、妻と二人で殉死しているからです。

でも乃木院長は、最後まで昭和天皇の事を気にかけていました。

殉死する前に昭和天皇に拝謁すると、「今は分からなくても、いつか分かる時が来ますからお読みください」と「中朝事実」という本を献上しています。

その時に、昭和天皇はわずか12歳ながらも、何かただならないものを感じて、「院長はどこかに行くのですか」と聞いたそうですが、そんな悲しいお別れもしています。

昭和天皇は、乃木希典夫婦の殉死という現実を受け止めさせられたのです。

だけど、乃木希典院長は居なくなっても、乃木希典院長が、昭和天皇の将来をずっと考えていた構想は、ずっと生きていました。

新しい人にバトンタッチされたのです。

 

 

         ∴「小笠原長生・東郷平八郎・杉浦重剛」∴

 乃木希典さんが、殉死された後、跡を任されたのは小笠原長生という方でした。

 小笠原長生は、幕府の老中を務める家柄で、時代が時代なら、小藩ながらも、肥前の国の大名の一人になる人でした。

 乃木希典院長は、そんな小笠原長生を見込むと、学習院に招き、昭和天皇の教育を託しています。

学習院の小等科は、昭和天皇も、他の学生と同じように、勉強するのがいいだろうが、中等科からは、生徒の中から特別に選んだ学友と、一緒に勉強させるのがいいという、乃木希典が作成した御学問所の構想を、充実に実施しようとしたのです。

 またそんな御学問所の構想を成功させる為に、御学問所の総裁に選んだ人物は、日露戦争の日本海海戦で見事にバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎大将でした。

 東郷平八郎大将は、一説には大したことが無く、参謀の秋山  が、すべての作戦を考えたから、圧勝できたともいいますが、運は、もの凄く強い人です。

 紫陽花は、個人的に、この東郷平八郎大将には、頭がいいとかいうものではなく、何か、もっと言葉で表現できないものを持っている方だと思います。

 一言でいえば、つかみ所がないのです。

 だけど乃木希典院長は、そんな東郷平八郎の事を理解できるのか、殉死する前に、忠誠心、徳望の高さ、統率力、国民の信望、という基準からいっても、昭和天皇をお育てできるのは海軍の英雄、東郷平八郎しかいないといって選んでいました。

 だから東郷平八郎大将は、そんな殉死した乃木希典の気持ちに打たれて、御学問所の総裁についています。

 明治政府は、昭和天皇の教育に、それ程真剣でしたし、紫陽花は、昭和天皇が、東郷平八郎から学んだ事は大きかったと何となく感じるのです。

 しかも明治政府は、昭和天皇が勉強するすべての学問に関して、日本で当時一流の学者を集めてされています。

 5人の選ばれた生徒と、昭和天皇は、特別な教室で勉強しているのです。

 でもここで、問題だったのは、御学問所でも、もっとも力をいれようとした倫理を教える人物がなかなかいなかったという事です。

 昭和天皇の教育に対して、倫理を重要視した東郷平八郎はやはり凄い人ですが、倫理は、人格面でもすばらしい人でないといけないという事で、気にいった人物がいなかったのです。

 そしてその中で、東郷平八郎達は、杉浦重剛という、日本中学の校長をしていた意外な人物を選んでいます。

 東大卒などの有名な人物よりも、杉浦重剛という人物を高く評価したのです。

 紫陽花はその事だけでも、明治政府は、今の日本の時代に比べても、柔軟性があったのかと心底思いましたが、杉浦重剛は、自分を昭和天皇の倫理御進講の役という話にびっくりしながらも、最後には命懸けで受け入れています。

 昭和天皇の事を書いた、専用の日記さえ書き始める事になるのです。

 と同時に、紫陽花が感激したのは、上田三三生先生が話してくれた倫理の授業の内容です。

 詳しい事は分かりませんが、日章旗、国、兵、神社、米、刀、鏡、相撲、富士山などの項目を選んでこれらは一体何かという事で、一つずつ1時間かけて、講義したといいます。

 しかも、その講義には、東郷平八郎や、昭和天皇の産みの母である人も、必ず一緒に聞いていたといいます。

 昭和天皇は、杉浦重剛が必死で考えたそんな倫理の勉強を聞きながら、天皇としてのすばらしいお心をお持ちになったのです。

 しかしここで、紫陽花が、杉浦重剛の事で、感動したのは、次に上田三三生先生が話してくれた話です。

 というのも杉浦重剛は、昭和天皇だけでなく、良子女王殿下、後に皇后様になる香淳皇后様にも御進講され、お二人の婚約が決まった時は、本当に喜ばれたそうです。

 杉浦重剛には、香淳皇后が、昭和天皇にふさわしい事が良く分かっていたのです。

 でもその婚約は、明治政府の実力者、山縣有朋の反対で壊れそうになりました。

 山縣有朋は、香淳皇后様が、島津家の血を持っている事で、ライバル薩摩の力が強くなる事を警戒したのか、島津家に、色盲の気があるといって、強烈に反対したのです。

 それで杉浦重剛は、二人の御成婚ができるように、陰から動きます。

 学習院の職を辞めて、自由な身になると、親友である頭山満(アジアの慈父)と一緒に、一端天皇の口から嫁に貰うといったものをひっくり返すような事を、信義をずっと守ってきた天皇家がしてはいけないと反対し、ついに山縣有朋を謹慎処分にします。

 頭山満は、孫文や蒋介石、チャンドラボーズなどの海外の革命家をかくまっている国士で、部下の中には、命を怖れない猛者がいます。

 杉浦重剛は、そんな頭山満と組むと、科学的に色盲は遺伝子とは関係ない事も証明し、長州一の実力者、山縣有朋もとうとう手を引きました。

 これ以上反対すると、命がないと判断したのです。

 ですから、婚約は中止にならず、昭和天皇は、皆様もご存知の香淳皇后様と結婚され、大成功しました。

 香淳皇后は、辛い時も昭和天皇を支え、杉浦重剛の願い通りの夫婦になりました。

 杉浦重剛は、学問の倫理だけでなく、正しい信念は、必ず実現するという生きた倫理を、昭和天皇に身を持って教えたのです。

 と同時に、その事を昭和天皇は、決して忘れる事はありませんでした。

 昭和19年に頭山満が死んだ時には、無位無冠で何の地位もない頭山満の葬式に、天皇陛下から勅使がつかわされ、お花一対、祭祀料を賜りました。

 側近は前例のない事だといったそうですが、昭和天皇が、前例がなくてもいいのだといったそうです。

 昭和天皇は、杉浦重剛や頭山満に対する恩をずっと忘れなかったのです。

 そして上田三三先先生は、他にも、昭和天皇に、憲法を教え、大日本国憲法と一緒に殉死した、法学博士清水澄(しみずとおる)など、まだまだ昭和天皇をお育てした人の事を話したがっていましたが、時間の関係上、そこで終わりました。

 最後に、昭和天皇の御一生は、仁愛・一視同仁・日月私照なし・王道・先神事後他事と上手にまとめられると、話を終えました。

 紫陽花は、川村純義中将から始まって、清水澄さんまで、昭和天皇を立派に育てようとした多くの人の縁があって、日本が救われた事を改めて知りました。

 昭和天皇は、昭和初期という激しい時代に、明治、大正の時代と風土に生きた人達に厳しく育てられたこそ、終戦から戦後の舵取りを見事にできたと確信が持てたのです。

 心から感謝したいと思います。

  では皆さん何事も一緒に一緒に

 

平成14年1月6日

                  「天皇の真実」 縁の花支縁サイト

            縁の花トップページに戻る

                  縁の花村トップページに戻る