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NHK大河ドラマ 「風林火山」記念 一年武田日記

                            荻原常陸介昌勝
2007年02月11日
風林火山のドラマ 荻原常陸介昌勝


 風林火山のドラマの功績の一つに、荻原昌勝の名前が出たことだったと思います。
 恥ずかしながら、菊自身、武田家の家臣に、荻原昌勝という人物がいたなんてまったく知りませんでした。
 武田家の24武将とか、残念ながら、後世の人達の判断で、24武将には入れなくても、活躍してくれた武将、大半は知っているつもりでした。

 しかし、荻原昌勝という名前は知りませんでした。
 風林火山のドラマの中で、信玄の父、信虎が、「荻原昌勝がいなくなってから、この陣営もつまらなくなった」とか、信玄の母、太井夫人が「荻原昌勝がいなくなってから、信虎はおかしくなった。荻原昌勝は、信虎の軍師、影の存在だったのです」なんていう言葉を聞いて、一体荻原昌勝とは、どんな人物だったのと、関心持ったのです。

 それでインターネットで検索して調べました。ちゃんと出てきました。結構有名な人物でした。菊は、武田家と言っても、信玄、勝頼の事には詳しくても、信虎に関しては、あまり関心ありませんでした。少し反省です。

 また、荻原昌勝、なかなかの人物でした。信虎の武芸指南役で、弓矢を教えた人物だったそうですが、信虎の甲斐統一の軍師役を務めたそうです。
しかも信玄とも、深いご縁があります。

信玄が、誕生した時、武田家は風前の灯でした。戦争の真っ最中で、信玄は、躑躅ケ崎の館ではなく、詰めの城、要害山城でうぶ声を上げたといわれています。信玄が誕生した1521年11月3日の頃です。

今川の将、福島正成が1万5千の大軍で甲斐に乱入した際だったのです。その時、2千余の武田勢は飯田河原で、これを迎え撃って昌勝の知恵で撃破したと言われています。昌勝は、なかなかの策士で、このときに、合図の小旗を考え出し、台地にかがり火をたいて、人形を擬装兵として敵の目をくらまし、武田家を大勝利に導いたといわれているのです。

普通なら、1万5千対2千勝てるはずがありません。本当に、1万5千もの兵がいたのかは大きな疑問ですが、武田家よりも、多かったのは間違いないと思います。この時に負けたら、信玄は生まれてすぐに死んでいるのです。

その上に、荻原昌勝は、信玄が少年の頃、弓矢を教え、合戦の状況を聞かせ、戦いの作法を教えたそうです。武術指南役だったのです。
その荻原昌勝は、信玄が12歳の時、70歳で亡くなったそうですが、インターネットで調べても、いろんな説があってよく分かっていません。

風林火山のドラマで言っていたように、合戦で死んだかもしれないし、そうでないのかも知れません。でも、武田家が、信虎の時代の功績は、一番です。もし、荻原昌勝が、もっと長生きしたら、信玄との親子の対立をなくし、信玄ではなく、弟、信繁を擁立しようとした信虎を諌めた可能性あったと思います。

その事は、多くの武田家の御霊と一緒に思い、荻原昌勝の活躍に感謝したいと思います。荻原昌勝ありがとうございますです。

人が生まれた時に、持っている性格や運勢が分かります。
これは、はっきり言って、すごいです

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