武田四重臣 山縣昌景

山縣昌景は、信玄子飼いの武将で、知略に富み、猛将としても有名でした。あの徳川家康も、三方ヶ原の戦いでは、大いに破って恐れさせています。兜から、鎧、槍まで、すべて赤で統一していて、「赤供え」としても有名で、武田家では、先陣を常に、していたのです。

しかもこれも不思議なご縁ですが、9月23日の大河ドラマ、風林火山を見た人なら分かると思いますが、信玄公は、飯富昌景と、春日源五郎、後の高坂弾正を、使い番から、武将に抜擢したシーンがありました。その青年将校である飯富昌景が、後の山縣昌景になるのです。

また、その事は、今世、武田信玄公の魂を持っている、済度で信玄公役をしているIさんは、ご存知なかったので、菊が、説明したら、昨日の大河に出ていた人物ということで分かってくれました。Iさんは、歴史が好きですが、今世は、戦国時代とか、太平洋戦争の頃は、嫌いで、関心がなかったそうです。それで、菊が、ご説明役しましたが、前日の風林火山のドラマのおかげで、一言で分かって頂けたのです。これも、すべて必然だと思います。

では、次に、そんな飯富昌景が、何故、山縣昌景になったかですが、それは、飯富昌景の兄、飯富虎昌との縁によります。飯富虎昌は、風林火山の番組を見ている人なら分かると思いますが、信玄の嫡男、後の義信の守役として活躍しています。武田勝頼を擁護する山本勘助とは、何度も、対決しているので覚えている人も多いと思います。

しかし、そんな飯富虎昌は、今川義元が、桶狭間の戦いで亡くなった後、駿河侵攻を考える信玄と、嫁の里である駿河、今川家を守ろうとする義信の対立で苦しむことになります。あくまでも、義信は、父である信玄の意見に従おうとせず、信玄がやったことと同じように、今度は、父、信玄を、甲斐から追放しようとするのです。

でも、そんな企ては、無謀でした。武田家臣が、見事に結束して、クーデターを成功させた信虎の時とは、大きく事情が違います。武田家臣団が、信玄追放に賛成するはずがないのです。

 だけど、飯富虎昌が、いくら説得しても、義信は従おうとはしませんでした。そんな中で、陰謀自体が、発覚しました。それで、飯富虎昌は、義信公を守る為に、自分が、企てたこととしました。それで、信玄に、処刑されました。飯富虎昌は、それで、義信公を忌めようとしたのです。

 だけど、その願いは、義信公には伝わりませんでした。義信公は、最後まで、駿河侵攻に反対して、自刀しているのです。でも、信玄は、そんな飯富虎昌の気持ちは分かっていました。そんな飯富虎昌の家督は、全部、弟の飯富昌景が継ぐことになりました。飯富虎昌は、その事を考えて、弟の飯富昌景に、自分の謀反を、信玄に通報させたと言われているのです。

 だから、信玄は、そんな飯富虎昌や飯富昌景の兄弟に対して、恩義を感じていて、飯富昌景を重く用いました。謀反を起した飯富という名前は、まずいので、源氏の名家、山縣の名字を与えて、高坂、馬場、内藤と同じ、四重臣として、絶大な信頼をおきました。武田家臣団は、そんな山縣昌景の存在に、当然の事として、異論は挟まなかったといわれているのです。

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