大河ドラマ「風林火山」 
第11話「信虎追放」 武田信虎の功績


 ついに武田信虎さんが追放されました。少し、かわいそうな気もしますが、晴信や武田家臣団、鉄の意思で、無血で、隠居せたたこと、本当に見事だと思います。

 さて、そんな武田信虎さんですが、ドラマでも、歴史でも、あまり功績というものがなく、悪評だけが有名です。後を継いだ信玄の引き立て役というのが、本意ではないでしょうが、信虎さんのお役だったのかもしれません。

 しかし、戦国時代に輝いた武田家で考えたら、武田家は、信虎、信玄、勝頼の三代で考えないといけません。北条早雲や、斉藤道山とは違って、武田信玄が、一代で、武田家を作り、あそこまで大きくしたわけではないのです。

 しかも、武田信虎も、武田勝頼と同じで、この頃、見直されています。今まで、隠されていた真実、誤解されていたことも、少しずつ分かってきたのです。ただ、それでも、武田信虎が、甲斐の民や、家臣団から、戦ばかりして、疲弊して、嫌われていたことは間違いないと思います。

 でも、功績もありました。それは、やはり、甲斐一国を統一して、信玄に渡した事だと思います。信玄は、後を継いだ時には、甲斐22万石、5千人から6千人の兵を動かすことができたのです。

 しかし、この事は、甲斐源氏として、300年ちかく治めていた伝統ある武田家なら当然だと思う人もいると思いますが、そんな事はありません。時代は下克上です。全国のどこでも、内乱が起きて、一国がずっと治まっていた国などはなかったと思います。

 それが証拠に、信虎は、甲斐一国を治める為に、いろんな戦を、甲斐国内でしています。有力な家臣達と何度も戦っているのです。その上に、家臣達は、自分の力だけでは勝てないので、家臣達で手を握ったり、今川家、北条家といった大国の支援を受けたりして戦っていました。兵の数では、信虎よりも多いという事も会ったのです。

 また歴史的に見ても、室町時代の守護大名の時から、ずっと戦国時代、信虎が活躍した頃まで続いていた家というものも、そんなに多くはありません。応仁の乱を起こした、山名氏や細川氏、斯波氏、畠山氏、赤松氏などは、もうとっくに滅んでいます。
 
これに対して、織田信長の織田家は、尾張を治めていた斯波氏の代官だったのが独立していますし、美濃の土岐氏は、斉藤道山によって乗っ取られています。こんな風に、下克上で、新しい勢力に変わったところのほうが多いのです。

それに、まだ名前が残っている信濃の小笠原氏とか、京極氏なども内乱で、一国を治めていたという力はありませんでした。信濃で言えば、村上氏、木曽氏、諏訪氏、小笠原氏を含めて、何氏で戦ったり、連合したりしていたのです。
一国を治め、守護大名から、戦国大名にうまく代われた家といえば、戦力を伸ばすことができた家は、今川家、武田家、島津家・・・程度で、あまりないのです。

だから信虎が、甲斐、一国を平定していたということは、信玄にとっては幸運でした。織田信長が、信秀の後を継いだときには、尾張の半分ぐらいで、その後、弟や叔父と戦い、今川家を、桶狭間の戦いで破って、今川家の勢力を駆逐するまで、尾張一国57万石を治められなかったのとは大きく違います。

もし、信玄が同じ立場だったら、歴史に登場するのは、大きく遅れていたかもしれません。その事は、信虎の大きな功績です。そのことに感謝して、結局、信玄が死んだ後も、信濃までで、甲斐の土地を踏めなかった、信虎のご冥福と、功績に心から感謝したいと思います。武田信虎公、甲斐一国を治め、国内の戦乱から救って頂きありがとうございます。

chibatuさん  2007年03月19日

ドラマを見たあとに解説を読んで理解が深まります。

黄桜  2007年03月19日

せひこの内容を「武田家日記コミュ」にもコピペしてください!
宜しくお願いいたします^^

だいすけ   2007年03月20日

今回の大河ドラマで信虎が晴信のことを
実は認めていたかのような描写がありましたね。

史実ではどうだったか分かりませんが、

信虎が、晴信の謀反を想定した上で、
晴信の家督継承を導いたとすると、
信虎もかなりのやり手ということになりますね。

実は他国の目を欺くために、
親子の不仲を演出していたかもしれず、
とすると今川は信虎に一杯食わされていた
ということになりますね。

本当のところは一体どうだったのか?

武田家コミュでみんなの感じたところを聞いてみたいです。

菊  2007年03月20日

chibatuさん、いつもありがとうございます。
心から感謝します。

黄桜さんありがとうございます。
分かりました。是非、掲載します。

だいすけさん、信虎が、晴信、信玄を認めていた。
それは真実だと思います。やはり、戦国時代です。恐れるから、家督を継がせたくなかったのだと思います。

でも、本当に認めたのは、追放されたからだと思います。この後、信虎は、桶狭間の戦いで、今川義元が亡くなった後、信玄の駿河攻めに協力しようとして、いろんな活動を、今川家内でして、今川家も追放され、京都に上っています。

京都から、信玄に上洛を促したり、都の情報を送っています。
信玄も、そんな信虎を心の中では許していたと思います。
途中から、わざと不仲を、演じていたかもしれませんね。
武田家コミュでみんなの意見聞きたいと思います。

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これは、はっきり言って、すごいです

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