第23回 「河越夜戦」 6月10日放送

 北条氏康は、河越夜戦で、関東管領、上杉憲政を破りました。8千対8万の戦いでした。戦国時代に起きた有名な三大奇襲戦の一つです。織田信長が、今川義元を破った桶狭間の戦い、毛利元就が、4千の兵で、2万以上の陶晴賢と戦い、勝った厳島の戦いと並び称されているのです。すなわち、北条氏康公は、織田信長や、毛利元就程は知られていませんが、戦国時代、高く評価されている武将の一人です。

 だから北条氏康公と、武田信玄公と、上杉謙信公の関東を巡る争いを、関東三国志といいます。中国の、魏、蜀、呉の有名な三国志の日本版というわけなのです。

 ですが、その「河越夜戦」に、山本勘助が、参加したかどうかは分かりません。そんな事実は残っていないので、誰も分からないのです。

 ただ、この時期に、山本勘助が、真田幸隆と密かに会い、世話になっていた上野の長野業正から離れて、信玄の家臣になることを薦めたのは間違いありません。真田家の資料にも、山本勘助が、信玄に頼ることを薦めたという文章が残っているからです。

 そしてその事が真田家を大きく変えました。真田家といえば、皆さんの多くは、大阪城で戦った真田幸村を思い浮かべるでしょうが、その真田家も、この時に、山本勘助の説得に応じなかったら、歴史に名前は残らなかったと思います。真田家は、信玄の父親である信虎によって、信濃から追い出され、信玄によって、再び、信濃に戻されたのです。

 また、後の真田幸隆は、山本勘助に、軍略を教わり、信濃の戦いで大活躍しますし、勘助が川中島の戦いで亡くなった後も、信玄の軍師として、高坂弾正と共に、信玄を支えます。上野の侵攻でも、謀略ぶりを発揮します。信玄が亡くなった翌年まで生きていたのです。

 しかも三男の昌幸は長篠の戦で、真田家の家督を継いだ長男の信綱と次兄・昌輝を亡くすと、真田家を正式に継いで、武田勝頼を支えます。新府城も真田昌幸が造っているのです。

 でもそれだけでなく、真田昌幸は、信玄公が、「我が眼」と称して寵愛したと伝えられているほどの武将で、早くから信玄にその才能を評価され、信玄から直接、軍略を教わっています。真田昌幸は、山本勘助に教わった、父幸隆や、信玄に、軍略を直接教わった、唯一の、信玄の軍略の後継者なのです。

 そしてそんな真田昌幸は、武田家が滅亡した後も、北条氏、徳川氏との駆け引きに勝利して、大名として独立し、第一次上田合戦で、徳川を破り、関が原の戦いの前哨戦の一つ、第二次上田合戦でも、徳川を破って、家康を苦しめています。

 その後、大阪城での、豊臣と徳川の戦いの前になくなっていますが、家康は、大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねながらガタガタと手を震わせたと言われていますし、昌幸から、山本勘助、信玄に教わった、軍略を教わった息子の幸村は、見事に、大阪城の戦いでも、徳川家康を追い詰めて、後一歩というところまでいきました。家康は、死を覚悟したといいます。山本勘助、信玄の軍略の勝利だったのです。是非、その事も、皆さんに知って頂いて、これからの真田家の活躍に期待したいと思います。

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