風林火山 第27回 「最強の敵」 7月8日放送

 武田信玄は、戦国時代、甲斐の虎として、恐れられた名将でした。織田信長が、心から恐れた武将でした。しかし、そんな信玄も、若いときから、名将ではありませんでした。若くして、父である信虎を追放し、信虎が実現できなかった諏訪を、わずか二年で、謀略を持って、攻略したことで、名将としての片鱗をみせていましたが、まだ、名将とはいえなかったといわれているのです。

 では、そんな信玄が名将と呼べるようになったのは、いつの頃かといいますと、やはり、村上義清との上田原の戦いで、負けた時からだと思います。正式には、その後、信玄は、再び、村上義清との戦い、戸石城の戦い、「戸石崩れ」で負けていますが、やはり、上田原の戦いで、武田家の両雄といわれていた、板垣信方、甘利虎泰を亡くしたことが大きかったです。

 何故なら、この2名は、父、信虎の頃から、武田家を支え、追放した時には、自分を支持してくれた、年齢的にも、遥かに超えている重臣です。兵が、千名、二千名死ぬ敗戦よりも、二人が死ぬことのほうが、精神的にも、遥かに、若い信玄に大きな影響を与えたと思います。信玄は、この二人を、自分の心が招いた負け戦で死なせたということで、大きな教訓を得て、ますます強くなるのです。

 また、それでは、信玄は、どんな名将になったかといえば、「人は城、人は石垣、人は掘り、情けは味方、あざは敵」という有名な言葉に代表されると思います。この言葉は、武田節でも歌われて、有名ですし、信玄は、この言葉通り、本拠地、甲斐国内に、死ぬまで、城を持とうとはしませんでした。この事は、北条氏の小田原城、上杉氏の春日山城、織田信長の岐阜城、安土城を見ても、本当に不思議なことです。信玄は、家臣の団結力があれば、山国甲斐自体が、一つの巨大な大きな城になると考えていたのです。

 でも、信玄が、若い時から、そう思っていたか、どうかは分かりません。だから、今回の風林火山のドラマの中で、解釈されているように、まだ、名将になりきれていない信玄は、負け戦の恐怖から、甲斐に大きな城を造ることも考えたのかもしれないのです。

 だけど信玄は、自らが招いた上田原の合戦で、板垣信方と甘利虎泰を亡くしたことで、戦の恐怖を克服しました。それぐらい、特に、父親に疎まれていた信虎の代わりに、守役として、自分の父親代わりになっていた板垣信方の死は大きかったのです。

 しかも、信玄は、その敗戦で、「人は石垣・・・・」という名言を作りだしました。この後、信玄は、家臣の団結を重んじて、戸石崩れの後、負けることはない、真の名将になりました。

 信長のような革新性はなくても、上杉謙信のような義はなくても、信長のように、家臣に裏切られることもなく、上杉謙信のように、家臣に不義をされることもなく、最後まで武田家臣団に、御屋形様と信頼されて、戦国時代を生き抜きました。それが、あの信長に、恐怖を与えた、信玄の強さだと思います。

 けれど、それも、上田原の戦いで、板垣信方、甘利虎泰だけでなく、初鹿野伝右衛門など、七百余人もの武田家の兵達のおかげですし、負けたら、志賀城のように女、子供まで売り飛ばされるということで、必死で戦った、村上義清の兵のおかげです。本当に感謝したいと思います。そんな上田原の戦いで戦った御霊達のおかげで、名将、信玄は誕生したのです。ありがとうございます。ありがとうございます。

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これは、はっきり言って、すごいです

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