天皇の真実 情報




復興への3万3千キロ
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           伊勢 雅臣

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4月29日の「昭和の日」を迎えるに当たり、国際派日本人養成講座136号
(H12.04.29)を再発信させていただきます。戦後復興の原点は、ここ
にあります。
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■1.石のひとつでも投げられりゃあいいんだ■

<ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひと
つでも投げられりゃあいいんだ。 ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背
の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃな
くて人間だ、ということをね。 それが生きた民主主義の教育と
いうものだよ>。

昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部
の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。

しかし、その結果は高官達の"期待"を裏切るものだった。昭和天皇は沖
縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数
165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石1つ投げられたこ
とはなかった。

イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

<日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど
衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対する
ように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安
定点をなしている>。

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わず
か1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現
人神という神話を信じているのだろうか?欧米人の常識では理解できな
いことが起こっていた。

■2.全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい■

昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月
であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。

<この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、た
いへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのか
と考へ、また退位も考えた。

しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思
ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。

ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はど
んなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく
考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げ
て計画し実行してほしい>。

御巡幸の打診を受けた占領軍総司令部は、冒頭で紹介したような魂胆も
あって、許可した。

■3.「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」■

昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。
食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備
が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。

1列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物
は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているもの
も多かった。

案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安
楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深
い親しみを感じた。

2度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲
で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った
群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こ
った。

昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切っ
て、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このよう
な光景が繰り返された。

■4.あつさつよき磐城の里の炭山に■

昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、
兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。

側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運
命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの
姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。

敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた
事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。10日間くら
ゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。

出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、
地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の
鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製
(お歌)である。

あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人をををしとぞ見


■5.浅間おろしつよき麓にかへりきて■

この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。
最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪
問された。

大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかし
ソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残っ
て、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植し
ていたのである。

天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。
昭和天皇のお顔も涙に濡れた。

浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人とふとくもあるか 

■6.老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて■

この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、広島、
岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉迎に応えられた
後、伊波野村で農作業をご覧になられた。

農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を2人とも失いました
が、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明すると、
天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。

「この度は大事な2人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命
に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを
見て、まことに心うたれるものがあった。

このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろい
ろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい」。

    老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひていそしむ
    すがたたふとしとみし

■7.ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ■

12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に
会われた。原爆で頭のはげた1人の男の子の頭を抱えるようにして、目
頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。

爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7
万の奉迎を受けられた。周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった
鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。

「このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。本日は親し
く市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒
に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ」。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしか
りけり

この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局
のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がい
ないことに、ただただ驚くばかりであった。

もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止
されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、
以後の御巡幸中止を命じた。

しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次
ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開
が許可された。

■8.子らに幸あれ■

昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5
月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、四十余名の戦災孤児
のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を2つ胸に抱きしめて
いた女の子がいた。

昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋
ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女
の子に、さらに「どこで?」。

「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引揚げの途中病
のためになくなりました。」

天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振
って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供
は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、
きっともう1度会うことができるのです。・・・」

昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫で
ながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と
言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。「お父さん」、女の子は小さな
声で昭和天皇を呼んだ。

みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸
あれ

■9.天皇陛下さまを怨んだこともありました■

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。昭和天皇
は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされた
のか」

「息子でございます。たった1人の息子でございました」声を詰まらせ
ながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天
皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇 陛下様、息子の命
はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、
長生きをしてください」

老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、 流れる涙を
そのままに、老婆を見つめておられた。

引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。「長い間
遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられ
た。1人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

「天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私
だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃること
が今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みま
せん。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります」。

この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなか
った。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておっ
た」。

シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、
いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。今回の行幸で、天
皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にし
ようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きな
がら微笑みかけられた。

■10.復興のエネルギー■

九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民
が奉迎したので、約700万人とお会いになった。

御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭
和天皇は沖縄を除く、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ
所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれし
とぞ思ふ

国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たの
もし (*なりはひ=しごと)

大日本帝国が崩壊して、初めて国民は間近に天皇を拝する機
会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す
天皇であった。

一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された
時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれ
たと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。
戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。

昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平
癒祈願所に約900万人が記帳に訪れた。四十数年前の御巡幸で
昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。

昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、
ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」
と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭
和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。


■リンク■
a. JOG(112) 国柄探訪:共感と連帯の象徴
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog112.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. ★★「天皇家の密使たち−占領と皇室」、高橋紘・鈴木邦彦、
  文春文庫、H1.3
2. ★★「天皇裕仁の昭和史、河原敏明、文芸春秋社、S58
3. ★★★「昭和天皇の御巡幸」、鈴木正男、展転社、H4.9
4. ★★★「天皇家の戦い」、加瀬英明、新潮文庫、S60.7
5. 「天皇さまが泣いてごじゃった」、調寛雅、祖国と青年、H11.4

■■■■■■■■■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
復興への3万3千キロ
「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の
声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
■転送歓迎■ No.1549 ■ H21.04.27 ■ 9,306 部 ■■■■■■■
より転載。



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